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旬の食べ物

やたらめったらにいちいち感傷的な文章を書く、何について語らせても魔法みたいに辛気臭くなるラサさんという人がいる。ある日、彼が、そういえばスイカを食べる機会がないなぁみたいなことをツイッターでまさにつぶやいていたのを見かけたので、私は無意味にスイカを食べることを強く勧めた。私は「なんでそこに執着するの?」というようなところで無意味に頑なになるのをなぜかすごく面白いことだと思っていて、例えば人が鼻歌を歌っていると突然に「今のBメロをもう一回歌ってくれ」と懇願し、そんなに強く言われると大抵の人はなんだか気味が悪くて恥ずかしいような気もしてきて断ろうとしてくるのだが私はそれに諦めることなく粘り強く交渉を続け、必要とあらば土下座でもする。意味は特にない。そのいつもの調子で私はラサさんに「スイカ超おいしいよ!」とお前に言われるまでもなく知ってる内容を言ってスイカを激推しし、そしてラサさんはあっさりとスイカを食べる決心を固めた。やんわり断られたところに「絶対スイカ食べた方がいい」と15回くらい連続でリプライするつもりでいた私は少々がっかりしたが、スイカを食べると言われてしまった手前、もう私にはどうにもできない。せめてもの腹いせにと感想文4000字くらい書いてくれと言ったがそちらも心地よく快諾されてしまったため、もう私には立つ瀬がなく、こうなってしまっては私としても9月になっても一向にラサさんからスイカについての言及がない可能性に賭けるほかない。私が15回にも及ぶ糞うざいリプライを彼に送りつけるにはもうその道しか残されていないのだ。しかし、そんな一縷の望みを抱く私を嘲笑うかの如く、スイカについて4000文字書かれた文章はアップされてしまった。

示唆に富んだ内容であるため、詳細については各自原文にあたって頂ければと思うが、彼のスイカを食べたにあたっての文章は最後、「すいかを食べてなくても、すいかを食べてもわびしい気持ちになってしまうのはもったいない性格だなあ、とも思う。」という一文で結ばれている。しかし私は独善的な人間なのでわびしい気持ちになったという彼の言葉を見てもなお、「ああ、いいことをしたなぁ」という気分になっていた。私は極力自分の過去の振る舞いをいいことに分類していく所存だ。私の生きやすさが問題だ。あと、一人暮らしで一玉買うのはやりすぎだと思った。

私ももともと一人暮らしをしている期間がそれなりに長くあった人間なのだが、当時の私はほとんどコンビニのあらびきポークフランクとポテトチップスとビール以外を口にすることがなかった。それでもそれなりに元気で毎日飛んだり跳ねたりも出来たので人体すごいなぁと思って深くは考えずにいた。それで、結婚して以降は妻が料理を作ってくれるようになったので人間らしいものを食べる機会は増えていくのだが、それまで私は食べ物には旬があるということをあんまりわかっていなかった。あるらしいとは聞いていたが、ほんとにあるんだーという感じだ。冬になると白菜が安くてうまいとかあんまり知らなかった。果物の旬とかも、これは未だにあんまり知らない。それでも、ポテトチップスの新じゃがと秋味のビールで秋を察知することしかできなかった昔に比べれば、徐々にではあるが食うという行為を通して季節を感じられる機会は増えたのかなと思う。そこはもう役割分担で私は他の家事を頑張るんでという言い訳で自分がキッチンに立つことはほとんどないのだけれど、妻が油断するといっつも同じ献立を作っちゃうーみたいなことを言うので、食いたいものを言うくらいはできるぞと思って、ツイッターで料理の話題なんかを見かけると「これ食いたい」という意思表示でリツイートしたりしている。私のツイッターは妻の監視下にあるのだ。なので私は妻にこれ今度作ってという意思表示でツイッターで飯の話をする。すべてはズイショ家の食卓のためであるので、ゆめゆめ飯テロなどと自意識過剰なことは言わぬようフォロワー各位に関してはあい頼んだ。それで、季節というものを昔よりかはいくらか意識するようになって例えば今年の春は菜の花を食べるようにもなった。あれがなかなかほのかな苦味がビールと合って酒のつまみにちょうどいいのだ。来年以降も毎年食べて、そのうちには菜の花を待つついでに春を待てるようになりたい。夏はスイカを食うし、昨日はサンマを食べた。秋のサンマはやっぱりうまいというよりかは、サンマを食うと秋だなぁという感じに俺の身体を仕上げたい。冬になればカンパチなんかがうまいし、俺の一番好きなフルーツである八朔なんかも出てくる。八朔は俺の一番好きなフルーツだが、一人暮らしをしている数年の間、自分で買って一人で食べたことはただの一度もないので、それはやはり、食とか旬というものが自分の中ではとても些細などうでもいい事柄であるということだ。果たしてそうだろうか。きっとそうではない。なんというか向き不向きの問題なのだと思う。人が買ってきてくれなければ食べないということは所詮その程度の好きなのか、俺は大してそこまで好きなわけではないのだと勝手に割りきっていたのだが、結局そこにあるのは向き不向きなのだなと、最近はそういう食を嗜む人に触れる機会も増えてそう考えられるようになってきた。食べた時に幸福感を得られるただそれだけでは、そのような幸福感のあるものを食べられるようにはならないのだ。そこにはもっとある種の貪欲さというか、計画性というか、中長期的な目線が必要で、そういう素質を持てるか持てないかはもう完全に個人差で、人それぞれで、つまり役割分担である。そういうことをやれるやつが「そろそろサンマがうまいぞ」とか言うべきであり、俺はそれに従うばかりだ。俺にはそれがどうにもできない。9月になってまた一枚カレンダーを捲った時に上手にそういうことを考えることが出来ない。こればっかりは自力ではどうにもならない。だから私はせめてもの思いで洗濯物を干したり畳んだり食器を洗ったりもしている。私に旬を知る力はない。

松本人志が過去に作ったビジュアルバムというコントビデオがあり、その中に『古賀』という話がある。板尾創路が演じる古賀という男は著しく共感能力に欠ける男で、人と円滑なコミュニケーションを取ることができず、それを苦にも思っていないキャラクターだ。古賀は友人数人でスカイダイビングに行く。そして、飛んだらすぐ帰る。他のメンバーにそれを伝えるでもなく、さっさと帰ってしまう。そうして古賀が行方不明になったものだから、他の一同は大慌て。古賀の死も覚悟したわけで、事実はわからぬまま、「古賀がどこにもいない」という情報を両親に届けるべく古賀の家を参った。そこに現れたのは古賀。なんの変哲もないいつもどおりの古賀だ。古賀の不可解とも言える口頭に呆れる一同を前にしても古賀は悪びれる様子もなく「いやだって、その後メシ行くとか言うてなかったし」と語る。互いの話は平行線のまま終わるが、最後にひとつだけオチがある。スカイダイビングでのミス(と本人が思っているかは知らないが)をしてから少し、落ち込んでいた古賀のもとに一本の電話が届く。それを受けて古賀は「スキューバ?行く行く~」と返す。そのリアリティがなんか僕はとても良いと思う。以上です。

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