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『ゆとりですがなにか』めちゃめちゃ面白かった

とりあえず吉岡里帆がアホか言うくらいかわいいのね。こんなかわいい娘が目の前に立ってたら人間は一分間黙ってるの医学的に不可能だろ目を合わせたら脳内でなんとかっていう物質が分泌されて強制的に「かわいい……」って溜め息をつくように呟いちゃうから人間は吉岡里帆の前で一分間黙り続けるの不可能だろってくらいかわいい。今回の悦子先生役で完全に俺の中で一緒に肉を食うなら松岡茉優、魚を食うなら吉岡里帆っていう赤ワイン・白ワインのノリで今めちゃめちゃかわいい女優ランキングのツートップ二大巨頭に躍り出ました。

それで『ゆとりですがなにか』を最終話まで見届けたわけなんですけど、最初は全然期待してなかったしなんなら2話3話くらいの段階では「来週見たあたりで切りそうだなぁ」とか思いながら観てたくらいなんですけどなんか気付いたら最終回までガッツリ観てしまっていた。それも「途中からドンドン面白くなってきた!」って感じでもなくてそれは常に2週分くらいは消化できてない録画が残ってる感じからも明らかで最終回10話が放送される前の日にやっと8話見るくらいでしたから、それはもうなんとなくダラダラと観てたんですけど最終回が終わってみれば「あれ、もう終わっちゃうの?もう来週からは坂間・山路・まりぶの三人には会えないの?」ってなんだか猛烈に寂しくなってしまった。普段僕は割と「どう着地するのか」みたいなことを考えながらドラマとかアニメを見るタイプでいつも「良い最終回だった!ありがとう!」ってな調子で気持よく終わる人間なので「もしかしてこれがなんとかロスっていうやつか……」と困惑すらしている。

最初はなんかとりあえず『ゆとりですがなにか』と銘打っては見たものの無理やり「ゆとり」ってキーワード捩じ込んできてるだけであんまゆとりとか関係ないよねこの話、単純にアラサーっていうお年ごろのおセンチな感じを描いてるだけでゆとり世代ってキーワードを盛り込んでいる意味ないよね、って思って懐疑的というか何だかなぁと思ってたんだけどそういうツッコミこそが実はこの物語の肝というか大テーマだったんだよね。終わってみれば「ゆとり世代」だからって十把一絡げにする必要はないしできるはずもないし生まれた世代がどうだからとか関係なく人間誰でも駄目なところの一つや二つはあるし、それは「ゆとり世代」に限った話ではなくどの世代の人間にも言えることでっていう多様性の物語だったんだなと回を追う毎に思えてきた。

そのうえでなぜこの作品のタイトルが『ゆとりですがなにか』でなくてはならなかったのか。それは「ゆとり」という名づけそれ自体には意味がなかったとしても・自分が「ゆとり」らしい生き方なんかしないにしても(そもそもそんな生き方あるのか怪しい)、社会の中で生きていく中で人はある時、社会というものは親から子へ子から孫へというような形で自分より下の世代に何かを受け渡していくことで成り立っているのだという意味で、「世代」というものを強烈に意識せざるをえないからだ。例えばそれを初めて痛感するのがアラサーという年代だったりする。「世代」というものをただの迷惑で無用なレッテルとしか思えなかった「ゆとり世代」が初めてそういう意味での「世代」について考える。下の世代に何がしてやれるだろうかと考え、今まで散々押し付けられてきただけの「ゆとり世代」という言葉じゃなしに、主体的に自分の「世代」の社会的役割というものを意識する。上の世代から受け取ったもの押し付けられたもの、そのどれをまた下の世代にも渡してやりたいか、どれは自分たちの世代で終わりにしてしまいたいか。そういうことを考えながら(あるいは足がかりにしながら)同時に自身の幸福の形も模索していこうというのが『ゆとりですがなにか』という物語であり、言い換えればこれは上の世代に対しての「あなたに比べりゃ小僧かもしれませんが小僧なりに色々考えてますがなにか」であり、下の世代に対する「ダメなりにお前らより大人ですがなにか」なのだ。そしてそういう風に考えながら生きているのもまたゆとり世代に限った話ではない。

もともと親から子へと手渡される祝福とか呪いだとかってテーマは演劇ではもっぱら好まれるテーマでクドカンの師匠と言っていいのかわからないけど松尾スズキなんかもよく取り上げるテーマではあるんだけど、クドカンはそういう血がどうだとか運命がどうだとかみたいなプリミティブな感覚じゃなしにもっと現実問題として我々は下の世代に何かしらの申し送りをしなくてはならないという感覚、そういう上の世代の助力があってあの眩しすぎて今はもう正確には思い出すことも出来ない「青春」というものがまるで一回目みたいに(いや、当然その世代にとっては一回目なのだけど)色褪せることなく再生産されていくんだ再生産され続けなくてはならない再生産され続ける世界であって欲しいみたいな感覚を持っているような気がする。いや、よく考えたら俺、テレビっ子を始めてまだ日が浅いもんでクドカンの脚本してるドラマってほっとんど観てないけどね。『池袋ウエストゲートパーク』も『木更津キャッツアイ』も観てない、『あまちゃん』すら観てない、『タイガー&ドラゴン』はところどころは観てた気がするけど全話ちゃんと観てるか覚えてない時点でノーカンだろって考えたら映画や芝居は結構観てるんだけどドラマは『ごめんね!青春』しか観てなかったわ~くらいの感じなんですけど。

そして申し送りをする世代、社会的役割を意識しなくてはならない世代というところでいうと分人化と言っていいのかわからないけど、人間は社会で生きてると複数のキャラを自分の中で演じ分けなくてはならないみたいなのもテーマの一つだったのかなぁとかも考えた。坂間とまりぶが自分のことばっかりで社会的役割をうまく全うできなくて大変なところで、逆に社会的役割を全うすることを優先した結果自分のことがイマイチわからなくなってしまってる山路と茜がなんだかんだと意気投合するのもすごく自然なことに思える。山岸みたいなそういうキャラというものを変に意識してしまってわけわからんなってる登場人物がいたりもするけれど、だから安易に自分の本性から目を背けて演じることに徹したってうまくいきっこないって考えれば山岸の抱える問題と山路や茜が内心抱えていた苦悩には本質的にどれほどの差があるのだろうかと考えると僕にはなかなか難しい。人に迷惑をかけるか自分自身を苦しめるかという違いがあるだけでそれはそんなに違わないんじゃないだろうか。

ツイッターで誰かが「父の不在の物語」と捉えると『ゆとりですがなにか』はぐっと見通しがよくなるみたいなことを言っているのを見かけたけど、なるほどその通りだと思った。それで、もっと具体的にこの物語において「父の不在」とは何を意味していて、「父の不在」がどのような形で問題となっているのだろうと考えてみると、それは端的に「今の時代は殺す親すらいない」ということなのかもしれないと思った。世代から世代へと何かしらを受け渡していくのが社会だとは言ってみたものの、時代の状況はどんどん変わっていってるし、親の常識と僕らの常識は少し違う、全然違う。親の過ごした青春と僕らの過ごした青春も少し違う、全然違う。そんななかで親の言ったことを鵜呑みにしてハイそうですかと全てを受け取ったところでそれはきっと呪いにしかならない。だからある意味で子は親をどこかで殺さなくてはならないし、やがて我々も下の世代に殺されなくてはならない。「殺されてやる」ということが下の世代を「肯定してやる」ということにもなるし、親を殺すことで子は自分を自分で肯定してやれるようになるみたいな側面が少なくともかつては一般的なあり方であったように思う。殺すにも値しなかった親が殺す価値のある親にやっとなってくれてそれを殺すことで自身も本当の意味での父親になることができたみたいなのがまりぶ君の物語だったのかなとも思う。しかし、そういう意味で親殺しを達成できたのはまりぶ君だけだ。坂間くんの父親は既に一話の時点でいないし、山路の父親は影も形もない。通過儀礼としての親殺しは現代でも勿論機能しないではないけれど、最早そんなに万能なロールモデルでもないのかもしれない。それは結局、ある価値観を否定して新たな一つの価値観を「正しい」と信じて生きること自体がそもそももう流行らないってことなのかなぁなどと考えた。上の世代はうるさいし下の世代もどんどん突き上げてくるし、彼らの対立項としてしか僕らの世代は存在できないということはどうしようもない事実ではあるけれど、彼らとこれからの時代やっていくべきことというのは殺し殺されなんてシンプルなものじゃなくてもっと違う形であるべきなんじゃないか、世代によって見えるものは違えども違うからこそ上から下へとただ一方向に流れていくんじゃなしにもっと相互に与え合わなくちゃならない、だからこそ父親が実質不在の状況でも自分から人に与えてやれるもの自分に必要で誰かから受け取りたいものを自分を見つめながら考えていかなくてはならない。そういう物語なのかなとも思った。この段落の言っていることはだいぶ前のめりってるので今後もちょっと考えてみなくてはならんと思う。

と、まぁ考えたいことはま~色々あるけれども本当に登場人物がみんないちいち魅力的でね。最初に書いたけど来週からもう会えないのが本当に寂しい。安藤サクラもすごかったけどね、いや一文前に魅力的って書いたけどそういう意味では安藤サクラ演じる茜は僕一番無理なタイプでしたけどね、すごい精度で一番無理だったね。ただ、おる!こういう女、おる!っていう完成度は凄まじかった。おい、ちょっとそこのお前!おるぞ!こういう奴、なんぼでもおる!そこらへんちょっとお前探して連れて来い!おるから!ちょっと街歩いたらなんぼでもおるから!絶対おるからちょっと探して連れて来い!って勢いでめっちゃおる感じすごかったですね。松坂桃李も、僕もともと彼の出てる作品を見たことがあんまなくって、正直顔だけの人なのかなと思って舐めてたんですけど、たまたま見た『エイプリルフールズ』で「あれ、こいつもしかしてものすごく演技できるのでは……?」という気がしてきて、今回のドラマでもう完全に見くびってましたすいませんをしました。柳楽優弥コメディリリーフとしてかなり高いところでまとまってて、後半の泣かせのシーンも最高で。ていうか普通に素通りできそうなストーリー上でもちゃんと意味のある掛け合いですらないセリフを役者単独の持ってき方で笑える仕上がりにしてるシーンが本当に多くて、僕はなんかそういうの観てるだけで楽しい気持ちになるので最高だった。あんまり全10話何してたのか、そんなに色々やってたっけって感じですらあるんですけど、それでも今となっては大変名残惜しい、不思議なドラマでした。以上です。

親指シフト一ヶ月やってみた結果

親指シフトの習得を決意してから早一月が経ちました。

今どれくらい打ててるかの測り方が何がいいんかよくわからんかったんですが、とりあえずe-typingを目安にすることにしてます。

 

まずローマ字打ちの現状速度がこちら。

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なんか今週のお題が「元気が出る言葉」ということでやたらとポジティブな言葉を立て続けに打ち込むことを強要されて、死んだラーメン屋店長の幽霊に取り憑かれたみたいな感覚が味わえます。現状すべての作業を親指シフトで行っているため久々のローマ字打ち入力でしたがさすがに違和感が半端無く以前より少し精度が落ちてしまったような気もしますが一分間の打鍵回数を指す指標WPMは362、ざっくり単純計算で分速180文字くらい打てるんですね僕。前なんか違うので測定した時よりもっと打てる勘定になってるのはたぶん例文のひとつひとつが長いからかな~とか思いました。つまり次に打ち込むべきテキストを認識してから一文字目を打つまでの初動にラグがあるわけですね。

 

それで続いて親指シフトでやった結果がこちら。

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もちろん何回かやってはいるんですけどミスゼロ出せたんでそれを貼ります。ミスしようが知ったこっちゃねえのノリでやるとWPM140とか150とか出たりもしましたが、現状の正しい実力としてはWPM130くらいと見ておくのが妥当なのではないでしょうか。

 

出題されるテキストはランダムで全く同じではないんですがまぁたぶん大体同じ文字数ボリュームくらいなんだろうと考えると入力時間のところを見ると分かる通り今で大体ローマ字入力の3分の2くらいのスピードで打てているのだなという感じになります。とは言っても1分間で1ツイートを完成させられるくらいの速度なので、まぁメール作ったりとかチャットとかしてても困るというほどではないくらいの感覚ではあります。

気になる「指が喋るという」感覚ですが現状皆無です。というか、むしろローマ字入力の時の方がそれに近しい感覚があったとすら言えます。ローマ字入力の方が素早く打ち込めるんだから当たり前といえば当たり前。今でも文章を書こうとした時に起こる億劫感はローマ字入力を行っていた時と比べると半端無く(というか、ローマ字入力の時はそういうのほぼ皆無だった)、親指シフトやめたいなと思いながら仕方なく打ち込んでいるのが現状です。たぶん段階でいうとまだ亀の甲羅背負って牛乳配達してるあたりでしょうか。

 

こちらのエントリでも述べている通り、親指シフトは習得に要するコストが半端無くローマ字入力の利便性の高さをむしろ痛感しているありさまでよっぽどモノ好きの馬鹿以外にはこれちょっととてもオススメできる代物ではありません。文章を書くという行為を今後生涯猿のように続けていく予定のある人以外には全く必要ないでしょう。君は死ぬまで一生涯使えるディズニーリゾート永久フリーパスポート2,790,000円(通常の年パスを30年間買い続けるのと同じ金額)があったとして果たして買うかという話に似ています。僕は買ってしまいました。親指シフトに手を出すというのはそういうことです。しかも僕は今はまだ親指シフトでは気持よく文章を打つことが叶わない段階なので「カリブの海賊」と「空飛ぶダンボ」以外のアトラクションには入れないみたいな状況です。いつになったら「プーさんのハニーハント」とかにも入れるようになるのかは全くの不明です。これを聞いてなお親指シフトに興味がある方のみ習得を志してください。

とは言ってもじゃあ親指シフトなんて覚える価値一切ないのかというと全然そんなことなく、自身まだまだここから全然速くなるぞという可能性自体はもちろん大いに感じています。考えようですがたぶん僕の我流3本指しか使わないローマ字入力コラッタレベル95くらいに相当しているのではないかと考えます。対して今の僕の親指シフトはたぶんハクリューレベル31くらい。コラッタレベル95と戦わせたらどうなるかは言わずもがなですが、このハクリューを今後大事に育て続けたらどうなるかというのもまた、言わずもがなです。ただしこのハクリュー経験値稼いでも稼いでもなかなかレベルは上がらないしカイリューに進化するのレベルなんぼなのかも全然わからんし、まぁ先は相当覚悟しているという感じです。指が喋り出したらまた報告申し上げます。

なお、初代ポケモンのノリを想定して喋ってるので「コラッタは厳しいですけどラッタこういう技覚えさせてこういうアイテム持たしてこういう戦略でいけば結構戦えますよ」みたいな糞リプは要りません。まずコラッタつってんだろうが。以上です。

京都宇治観光感想文(1年ぶり2回目)

▼前回はこちら。

▼前回も大層良い町だと感じたが、また足を運び再確認した。やはり宇治はいい。すごくいい。ぶっちゃけリモートワークみたいな働き方ができるなら今すぐにでも住みたいくらいだ。何がどうというわけでもないんだが、毎日でも散歩できるような、そういう良さがある。宇治川の輝く水面がそう思わせるのだろうか、太陽ひとつ取ってみてもただ闇雲に照りつけるんじゃなしに、この町をより魅力的に見せようと一役買って出てやろうと意気込んでるような、そんな風にも見えてくる。空は高く、風は頬を撫でて、緑は揺れて、なんだか何もかもがいちいちわざとらしくやわらかい。ただし住んでるのは所詮京都人なので大概感じ悪い。しかし、それも些細な問題だと思えるほどに、宇治はいい。

▼まず黄檗という駅で降りて評判のパン屋に向かった。

▼おお、一介のパン屋がブクマ14もついてる(2016年6月17日段階)。本当に有名なんだな。このお店の二重ドアの間のスペースに空調がないことは既に別のエントリで述べた通りである。これを読んでいる方の中には、なぜこのようなそれらしいのどかな日記且つ紛いなりにも観光の参考になるやもしれぬお役立ち情報を多少なり含むエントリを差し置いておっちゃんの一言に延々難癖をつけているだけの糞記事なんかを優先して書くのだと思われるかもしれないが、これはもう仕方がない。今回なんて言うてもこうしてちゃんとした備忘録も書いとこうって気が向いたからまだマシで、以前に一泊二日で伊勢に行った時なんか変なおっさんがいた話書いてそれっきりだからね。もう今更治りっこないのである。

▼30分ほど並んで見事パンを買い遂せた後はいい感じの野っ原を探してそこでパンをもぐもぐとした。パンは嫁さん曰くものすごくおいしいとのことであった。僕はあまりパンが好きではなく、というか、パンに多くを求めないタイプで、腹を膨らませる間に合わせで食べるもの以上にパンのことを気にかけたことがない。ので普通においしかったけどそれ以上のことはよくわからなかった。200円だかする菓子パンを3つほど平らげたが、僕はこういう時ただ「パンよりもびっくりドンキーの方がおいしいな」と考えるのが常である。これはもう仕方がない。今更治りっこないのである。一方専らのパン好きである嫁は大絶賛していたので、そうかおいしいんだなと思った。パンの味の良し悪しは嫁がジャッジするので僕はお日様がぽかぽかなことなどを考えながら呑気にぱくつけばいいのだ。それがズイショ家の役割分担である。嫁さんが満足そうなのでわざわざ並んだ甲斐があってよかった。

▼それで黄檗での用事は一旦これだけだったので駅に向かっててくてく歩いていると、このパン屋は最近移転したばかりであったようでたまたま旧店舗の前を通りかかった。旧店舗のすぐ横にはいかにもこじんまりとした昔ながらの個人商店があり、特に買いたいものもなかったので立ち寄ることもなかったが、ここにあのパン屋があった時はパンを買うついでにここでパンを食べながら飲もうとリボンシトロンやスコールを買っていくお客さんもたくさんいたんだろうななどと想像した。そういういかにもリボンシトロンやスコールを売ってそうな商店だったのである。

▼ひと駅乗って三室戸寺へ向かう。あじさいの名所だそうで、ちょうど見頃であった。

三室戸寺 : あじさい園

▼別にいいんだけど、はてなブログはリンク先によってカードが使えたり使えなかったりで若干気持ち悪い。ズイショさんいい加減な性格に見えてこういうの結構気になるタイプなのだ。むしろ気にし始めると生活に支障が出るレベルで病的に気にするので日頃は極力何でもいい加減に考えるよう心がけているのである。

▼ズイショ家のデートは神社仏閣に出向くことが非常に多いのだがその中で得た知見として、神社仏閣は商売っ気丸出しのところの方がなんだかんだ面白い。厳かさなどももちろん加点になるのだが単純に儲かってんな金かけてんなと思わせるところの方が何かと見どころがあって楽しませてくれる。儲かってんのにはなんだかんだそれなりの理由があるわけだ。なので初めて訪れた土地で神社仏閣を巡るのであればホームページがしっかりしてるところを狙った方がいい。歯医者を探す時と同じである。ただし歯医者の場合はインプラントをゴリゴリに推してるところはガチの拝金主義なので信用してはならないみたいな偏見が俺の中にある。

▼しっぽを撫でるとご利益があるという蛇の石像やそれと類似したコンセプトの兎の石像やら牛の石像などがあった。みんなご利益欲しさに(遊ぶ金欲しさみたいに言うな)わしゃわしゃと群がっては撫で回しており、僕はだいぶ以前に亡くなった飼い犬が生前親戚の家に行くと小さな従兄弟たちに構われすぎて疲れてグッタリしていたのを思い出した。石像にはそういうことがないので心置きなく撫で回すことができる。これらの石像がいつ頃に作られたのかは知らないが一体これまでどれだけの人に撫で回されてきたのであろう、触れるとご利益があるとされる部分は他の部分に比べて色味が黒みがかっており艶やかな光沢も見受けられる。毎日毎日撫でられ続けていれば当然そうなるわけだ。僕はこういうの見ると割りにぐっと来る。この場所は今僕が訪れたこの瞬間だけではなく、ここはずっとそういう場所でこれからもずっとそういう場所なのだという当たり前のことにぐっと来る。観光客が帰ったらiPadをいじり出す裸族なんかとは違って、この場所はいつだって、片時も嘘偽りなくずっと、そういう場所で在り続けてきたのだ。由緒ある土地でこのような長きに渡る人の往来の痕跡を見るにつけ、僕はいつもそういうことを考えてしまう。そういうことを思えばこそ、吊革触りたくないのと同じ理論で俺は石像には触らないのであった。

▼境内の片隅には大きな鐘があって、参拝客が衝いて鳴らせるようになっているのでずっとゴンゴン言っていてまた風情があって良い。せっかくだし我々も一つ衝いておくかと列に並んだが、よく見ると一衝き100円だった。1000円払ったら16ビートで10回衝いていいのかなぁと考えたがたくさんの人が並んでいたのでそんなことしたら連コイン感覚でしばかれるのかもしれないとも思った。鐘は衝いたら鳴った。

▼そんな感じで境内を一通りぐるりとするといよいよあじさい庭園である。あじさいは事前に聞いていた通りたくさん咲いていた。僕はアホなので「たくさんだぞ」と言われるとかなりたくさんあることを想像するし「でかいぞ」と言われるとかなりでかいのだろうと想像するため、実際を見ても大体「まぁ想像通りだな」みたいな感想で終わってしまう。これまでで僕の想像を上回ったものと言えば想像よりもたくさん鳥居があった伏見稲荷大社と、想像よりもでかかった奈良の大仏くらいのものだ。

▼とは言っても実際には別につまらぬケチをつけて白けるでもなあじさい庭園もそこそこに楽しむことができた。まぁ俺はあまり花を愛でる味わいみたいなものをあまり解さない男ではあるのであくまでそこそこではあるものの、嫁は元来から花を愛する女であじさいは中でも割りに好む花だそうで随分満足気だったので何よりだった。あじさいはこれまであまりしっかりと眺めたことがなく、俺はそういう時なんでも「たぶん北海道にはなかったのだろう」と考えて片付けるのだが俺に興味がなかったから記憶にないだけで流石にあじさいくらい北海道にだってあるだろうという気もする。今の私に真実を明らかにすべくちゃちゃっとググる意思は毛頭ないので、誰かググった人がいたらツイッターか何かで教えてください。それで、初めて見たあじさいであったが(初めてって言い切った)、色合いは豊かでなかなか良かった。何より香りがあまりしないのがいやに鼻が利くせいで花のあるところに行くといつも泣かされる自分にはありがたかった。

三室戸寺を後にした我々はそこから更に電車でひと駅下り、終点宇治に到着した。改札を出たすぐのところで大学生だかなんだかが簡易机の上に紙コップを並べ何かしらのアンケートをへの強力を募っていた。聞けば軟水と硬水の飲み比べをして欲しいとのことだった。宇治は水のおいしさも売りのようである。紙コップを二つ渡され飲み比べるとなるほど宇治の軟水の方が喉を通った後の口の中が気持ちまろやかで口当たりが良い。さすが改札出た直後でいきなり猛アピールしてくるだけのことはある。俺はパンの味はわからないがこれで結構味の良し悪しがわかる男なのだ、というのは本人の弁であるが、以前嫁と二人で誰それが勧めていたので試しに遊んでみたお茶の当てっこでは自信満々に答えて絶対満点パーフェクトだと思ったら全部外れていた。話を戻すと、飲み比べた紙コップの中身は正確には水ではなく軟水硬水それぞれで作った抹茶だったのだが、これからせっかくうまいお茶を飲みに行くんだから水でよかったのに~と思った。

▼京阪宇治線はこの宇治を舞台にした吹奏楽部を題材にしたアニメ『響け!ユーフォニアム』と絶賛コラボ中であり、僕は作品そのものやストーリー・世界観に感銘を受けることはあってもキャラクターに入れあげることは元来あまりない質なのだけれども、このアニメの主人公・黄前久美子ちゃんだけは自分でも意味がわからないくらい大好きでかわいすぎてやばいんですが宇治駅改札出てすぐのところにある黄前ちゃんの(ほぼ)等身大パネルをまじまじと見るのを忘れてしまった。軟水硬水の人たちに気を取られてすっかり失念してしまっていたのだ。3分はまじまじと見ていられるほど熱を上げているので結果的には忘れてよかったのかもしれない。

▼前回立ち寄った蕎麦屋で今回も昼食を摂る予定であったが我々が到着した12時半時点で店頭で順番を待っているお客さんのぶんを除き、既に麺が尽きて終わってしまっていた。前回は平日に来ていたためそんなりありつけていたが、土日に来てみればやはりそれだけ人気のお店なのである。次はもっと早い時間に来るか平日を使って訪れようと思う。ここのそばは兎角絶品で僕は食べ終わって店を出たあとも15分くらい「うまかったうまかった」と騒ぎ続けていたほどである。ちなみにそばはズイショさんの「いちばんすきなたべもの」です。当然会計を済ます際にも店員の人に「ごちそうさまです!すごいおいしかったです!」と興奮気味に伝えたが、「お前に言われんでもうちのそばがおいしいことくらいわかってるわ」と言わんばかりのうすいリアクションだったので「あ、そういえばここ京都だったわ」と思い出したものである。それでも俺は次行った時も塩対応しか返ってこないとわかっていても元気よくおいしかったを伝えることでしょう。つまり、それくらい、美ん味い。

▼しかたがないのでパン食ってそこまで腹が空いているでもなし、構いやしないやと食事のことは置いて、これまた前回も世話になっているお茶の老舗かんばやしへ。

▼前回ここで生まれて初めてガチの抹茶というものを口にしてその素晴らしさに感動して後日、家でも茶を点てられるよう入門セットを買ったほどである。その後しばらく茶を点てるのブームは続いたがぶっちゃけ手間暇がかかるのでその頻度は月日と共に落ちていき今ではすっかり最後に立てたのいつだっけという人類の営みの75%は大体そういう結末に落ち着くよねという有様となっていた。そういうわけなので初心に帰る意味も含めてまたこうして立ち寄ったわけである。それで飲むわけだけど、もちろんお抹茶自体も家で使ってるのより上等なやつではあるんだろうけど、もう全然違うのね。俺が家で自分で点てて飲んでたのとは全く別の飲み物って感じ。はぁ、そりゃ飽きますわあって感じ。だってこれに感銘を受けてこれを飲みたくて始めたんだから、これには全然及ばない大したことない茶ばっか自分で点てて飲んでりゃそりゃモチベーション保てませんよ。そういうわけで学んだのは何かに継続的に取り組むには理想とするイメージを常に持ち続けることだよね、時にそれは一人で維持するには難しかったりするから外部から与えられる刺激という形でもいいから、忘れかけたらどうにかして再確認するってことだよね。まぁ別に毎回ここじゃなくてもちゃんとしたお店でちゃんと点てられた茶を飲むってのが、家で茶を点て続けるための一番に手っ取り早い方法なのだろう。あとはやっぱ一回茶の体験教室みたいなの行った方がいいな。今、YouTubeのみを拠り所に茶ぁ点ててるからな。ガス使う刀鍛冶くらい信用できない。

▼ここで再び黄檗へと舞い戻る。次に向かうのは黄檗萬福寺禅宗のお寺である。

▼ここに来た目的はこれまた嫁の希望である座禅体験である。それで、このままその感想を書いても別によかったのだけれど、書こうと思えば結構書くことがありそうなのと、これじゃない文体で書いた方が面白く書けるような気がするのでこのエントリでは割愛する。

▼座禅体験以外の話で言うと、萬福寺は総本山というだけあって、結構広いお寺だったのだけど、ここは仏像が色々あって禅宗のお寺の傾向なのだろうか、あまり仏像に馴染みのない人が想像するようないかにもな仏像を考えて訪れてしまったら面食らうようなコミカルでファンキーなキャラデザの仏像が目白押しでとてもおもしろかった。仏像は色々観に行ってるけど、ここに限らず実は結構砕けてるようなお前これ面白いと思って作ってんだろと言いたくなるような仏像というのはたくさんあって、考えてみればアメコミも少年ジャンプもない時代に作られてる奴らである。現代において我々がアメコミやジャンプに求めているようなエンタメ性を仏像が引き受けていたとしてもそれは真っこと自然なことであるわけだ。そういう面白みがあるなら興味があるが、どこ行ったらいいかよくわからんという人には、今回は行ってないけど同じく宇治にある平等院鳳凰堂か、京都にある三十三間堂あたりをオススメしたい。

▼座禅体験を終えた我々は、あとは歩いて駅まで戻り電車に揺られて帰路に着くわけだが、この黄檗という町は、びゅんびゅんとツバメが飛び交う町だった。至るところで巣が作られているのを見かける。これまでもどこか訪れた先の土地でツバメを目にすることはないでもなかったが、これほど多くのツバメたちが在る町というのは初めてのような気がする。これは本当に北海道ではツバメなんか見たことなかった気がする。そうだ、僕はこれを見て「ああ、いいところだなぁ」と思ったのだった。こんなところで暮らしてみたいなぁと思ったのだ。巣を拵えるツバメを見つけては、初夏の到来を実感する。そんな生活をしている人も世の中にはいるのだなぁということを知った僕は、なんだかそれがとても贅沢なことに思えて羨ましく感じてしまったのだった。

▼いつも外に出かける時はこんな調子で、嫁が行きたいところを見つけてきては僕はただそこについていく。放っておくと何日だってテレビとパソコンの前から動かないでいられる男である。しかし外に出ればそれなりに何かを感じて何かを思うことができる。ついてくる度に僕は「へ~そうなんだぁ、感じたり思ったりするんだ~」と自分に感心している。たまには自分に感心してみるのも大事なことなので、だからたまには出掛けてみるのがいいのだろう。しかし僕は一人で出掛けるのはどうしても苦手で億劫で、いざ歩いてみても一人では何を見てもなんてことなく見えてしまうのでそういう意味では一緒に歩く人がいるということには随分助かっている。帰り、他の用事もあって立ち寄ったショッピングモールで、嫁はどこで覚えたのかは知らないが「楽しかった一日の終わりにピアスを買うとそれをつける度に楽しかったことを思い出せる」と言ってピアスを買っていた。

▼あとなんかこういう文体で綴ってるとあたかも僕が寡黙な穏やかな表情で見知らぬ町の空気を肌で感じながら思索に耽って歩く叙情豊かなナイスガイであるように見えるかもしれないが道中嫁を笑わせようと四六時中間断なく喋っているし油断すると歌ったりもする。以上です。