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『ど根性ガエルの娘』15話、感想文②

はい、じゃあ前回エントリにもたくさんコメント頂きまして、そのあと自分でも順繰り順繰りさんざ考えまして、自分でも何に怒ってるんかよくわからんかったやつが何だったのかやっとこさだいたいわかったのでそれを書きます。

 

さて、人間には他人の気持ちがわかりません。

そのうえ、自分と他人は、育ってきた環境が違うから「自分の中ではこうなんだからこいつもきっとそうだろう」という憶測もまるで当てになりません。

生理痛で苦しむ女性に「そんなの大したことないだろ、俺はお腹痛くても動けるぞ」なんて僕は言えません。

親とうまくいってない人に「親を敬え、俺も親とは喧嘩もしたけど今は仲良しだ」なんて僕は言えません。

ならばどうするか。

相手の言うことを真に受けて「そうなんだ」と思うしかありません。相手の自己申告を自分のなかで勝手に忖度するんじゃなくて、相手の言ったことをそのまま「そうなんだ」と尊重するのが大事なのかなと僕は思っています。

身体が痛いという人には「そうなんだ」と思うし、悲しいという人には「そうなんだ」と思う。決して「そんなの痛いうちに入らない」とか「他のみんなも悲しい思いをしてるけど泣かないのになんだお前だけ」なんて言いたくない。

 

なので、作者が「再生の物語」と銘打っているのなら僕は「そうなんだ」と思って読みます。全くの創作ならいざ知らず、これは事実をもとにした当事者の手によって書かれた実録エッセイです。それを穿った見方で読むのって、なかなか表に出しにくい話をせっかく描いてくれている作者に申し訳なくないですか?

例えば「本当は今でも根に持ってるんじゃないの?再生の物語とか言ってるけど本当は全然許せてなんかいないんじゃないの?」とか考えるのって、それはそれですごい失礼じゃないかと思うんですよ。

自分も毒親持ちだったら「そんな簡単に許せるもんかな?私は許してないけど」とかふつうに思えるのかもしれません。ただ、僕はそんな経験ないんですよ。経験もなくて何もわからない僕が勝手な憶測で「これいい話風に書いてるだけで未だに恨んでるだろ」って言うのって、端的にものすごく失礼じゃないですか? 本人が「再生の物語」と言ってるのに、外野の何もわかってない僕が「本当かな~?」なんて言えるわけないじゃないですか。

過去のエピソードがどんどんえげつなくなっていて不穏な空気になってたとしても、本人が「再生の物語」と言って始めてるのを信じればこそ「色々大変だったんだろうが本人なりに消化できたからこそ描けてるのだろう、本人がそう言っているのを知りもしない俺が疑うのもおかしな話だ」と僕は考えていました。

それで、15話です。

ぶっちゃけ、僕だってハゲックス読者だし、どんだけえげつないエピソードが出てきたところでそれにショックを受けたりしないし、父親のあかんさを告発するのも別に悪いこととも思わんし、そんな自分のことを「キレイなものしか見たくない」みたいな人間とは全然思わんのですけども。

じゃあ俺は何が気に食わなかったのか。

それは、この漫画を「再生の物語」だと思って読んでいた自分が「毒親の問題を矮小化して感動コンテンツとして消費することを望む読者」であると言われたような気がしたからです。

いや、ちょっと待って? 俺はそんなの別に望んでない。今でも許せない話ですよって言ってくれれば「そんなことないでしょ、なんだかんだ言って世界にただ一人の親なんだから」なんて言うわけもなく「そうなんだ、そりゃ簡単には許せないよね」と思いながらふつうに話を読んでいたはずです。

作者であるあなたが「再生の物語」と言ったから、「本人がそういうなら余計な詮索も野暮なので、そうなんだと思って読むのがいいのかな」と思って読んでいたのが僕です。

毒親持ちならこの展開に「やっぱりね」と思えるのかもしれませんが、僕が事前にこの展開を予想するのはそれこそせっかく苦難を乗り越えて気持ちの整理がついた作者の心に土足で踏み込んで下衆の勘繰りをする行為だったかもしれないわけで、そんな失礼なことできませんよ。

僕はそういうわけで、この物語をずっと作者の言うことを鵜呑みにして「再生の物語」だと思っていたわけです。それを望むとか望まないとかじゃなくて、作者本人が言ってることを否定しちゃいけないと思ったから。

そこで突然言われたような気がしたんです、「あなたは毒親持ちのことを何もわかってない、ひどすぎる話はひくのでほどほどにセンセーショナルなエピソードを望み、色々あったけど今は幸せ!というストーリーを欲しがる、私のことなんか何もわかってない人なんですよね」と。自意識過剰だと言われようが、だってそう思ったんだもん。

いや、それは違うよ、たしかに俺はだって自分がそうじゃないから、毒親持ちの気持ちはわからないかもしれない。けど、僕は、ただ他人事として毒親の話をなんだかんだ最後はハッピーエンドのコンテンツとして消費したい人ではないですよ。

あなたが「再生の物語」と言って連載を始めたから「そうなんだ、きっと色々大変だったとは思うけど、本人がそう言ってるんだから、再生の物語として描けるまでに至ったんだと思うしかないよね、いいや本当は再生なんかできてないはずだって言える立場に俺はないもん」と思って読んでいただけです。

 

もちろん、今でも自分のなかで解決なんてできてないこと、状況が変わって本当のことを書こうと思ったこと、それらは全く悪いことではないと思います。

 

ただ、なんでそのついでに、作者が本当のことを言えなかったから結果的についてしまった「再生の物語」という嘘を信じた読者を(僕なんですけど)、感動のストーリーを求めるだけで毒親持ちの苦しみには実際は何の興味もない人呼ばわりしなくてはならなかったのか。

僕はその点だけ、全くなにひとつ納得することができません。

経験してないやつは理解しようと努力したところで「どうせ経験してないやつは何もわかっちゃいないから」って馬鹿にされるのが関の山なのでしょうか。それってなんかけっこう、巡り巡ってみんなしんどくなっちゃわない?と思うんですけど。どうなんでしょう。

 

ずっと言いたかった本当のことを言えてよかったですね、とは素直に思っています。以上です。

『ど根性ガエルの娘』15話、感想文

メモです(あの時どういう気持ちだったかを振り返るためのメモであって、つまりは今後気持ちが変わる可能性はあるかもなぁという予防線も兼ねてるやつですね)。

 

これ、一応これまでの流れも一通り読んで知ってて、そのうえで話題の最新話読んだんですけど。

まぁこういうやり方もあるだろう、とは思った。

けど、俺がこれを積極的に支持したいかって考えると(それは、大したこと無くって、またかけがえのない一票であるのだろう)、僕はちょっとこのやり方は支持出来ないと思った。

漫画から「わたしはこんなにひどいことされてたんだから、後ろから刺しても構わないですよね?」と言われてるような気がした。

それに対しては「後ろから刺すことはどうなんでしょうね、僕には断言できません。なのでごめんなさい、こっちを見ないで、自分の意思で一人で黙って、後ろから刺してください。一人で刺すぶんには、それはあなたの自由だ」と思った。そして、そうして黙って刺した後であれば「刺すのだって仕方ないよ、だって彼女はこんなに辛かったんだから」と僕だって言えたかもしれないのに。

刺す前に「せーので前に押してね、そしたら私が刺すから」とか「後で聞かれたら『ぶつかっただけです』って言ってね」と目配せされてしまうと、それにYESとは言えない。描いた本人は「そんなつもりじゃなかった」と言うかもしれない。本人がそう言うならたぶんそうなんだろう。しかし、僕がどう受け取ってどういう顔を向けるかは僕の自由だろう。ならばやっぱり僕は微妙な笑顔で、YESじゃない顔をする。

だって僕は、作者であるあなたに騙されたのだから。「騙されたくらい何だ。私はもっと辛かった。騙されたショックを私のしんどさに変換しろ」と言われてるようで、僕は「うっ」となってしまった。

こんなことしなくたって、大変な目に合ったんなら合ったと言ってくれれば、いくらでも「そうなんだそりゃ大変だったね」と思うことはできたのに。こういう同情票の最大化みたいなことをされると同情できるものもできなくなってしまう。この際、同情ってやつがいいもんなのか悪いもんなのかもよくわからないけれど、そのうえでどうしたって、僕は本当は同情したかった人にできなかった。

いつも思うのは、例えば今回で言えば毒親とかがキーワードになると思うのだけど、僕はそのキーワードを抱えて生きてる人間には属さないだろう。しかしだからって、聖人君子ではないのだ、当たり前だ。気に食わないもんは気に食わねえ。毒親持ちの人たちは、気に食わないもんを気に食わないと言えずに辛かったのかもしれない。だからって、そういう人の言うことやることを俺が全部許容して笑顔で「今まで大変だったね、よく自分の好きにできたね」なんて言わなくちゃならない義理はない。気に食わないもんは気に食わない。それをお互い言う。それが対等でしょ。

 

なんか、出版社が変わって、イッコ目の出版社では自由に描けなかったみたいなことはあったっぽいのかな、実際のところはよくわからないけれども。しかし、それはそっちの都合だし、読者と作者の関係においてはそんなの知ったこっちゃないはずだし、もうよくわからないんだよね。

なんか、こう、メタ的なトリックのアレでしょ? 前話までは「描かされてた」っていう、どんでん返しなわけでしょ? じゃあ、その「描かされてた」ってさ、誰が描かされてたの? 誰に描かされてたの? 描かされてた責任の所在は全部描かせた方にあるの? そこ考えるとよくわかんなくて気持ち悪りいんだよな。

「実は描かされてました」っていう15話を描くために14話まで描くのって、それって表現者としてほんとうに描かされてたのか? それを「描かされた」って断言してしまうのって、シンプルにずるくないか? 描こうと思って描いたものを「描くしかなかったんだ」っていうの、すごくずるくないか? 「描くしかなかった」という気持ちは本当なのかもしれない、本当なのだろう、けれど、その気持ちを信じるしかないように促される俺の心持ちって読者としてすごい窮屈に感じるのだけれどどうなんだ。

「これはあくまで漫画で、エンターテイメントなんで」と言われるとそうなのかなと思うのだけれど、これをエンターテイメントとして受け取ってしまった僕は、この物語の続きに思いを馳せる僕は、そごく醜い気がする。同情してるようでワクワクしてる第三者になるのも気持ち悪くてなんだか楽しめないのだ。ワクワクされるのが向こうの本位だとしてもだ。「形はどうあれ喜んでもらえるならば」みたいなのって、ともすれば投げやりな態度じゃんと思う。他人のそれを咎めることはできないけれど、それに両手をあげて賛同することもやっぱりできない。

 

毒親というキーワードをきっかけに「なんだこれ?なんだこれ?」って思うしかなかった生きにくさが解明されて解体されてみたいな最近の風潮は、俺はとても良いことだと思う。けどやっぱその一方で、「親のせいなもんで」で片付けられちゃこっちは堪んないよって考えたくなる機会はあったりするわけで、それの最上級に位置するのがこの漫画なのかなと思った。こんな漫画描くな、こんなやり方間違ってるとも言い切れないよ、言い切れないけれども。なんかこの15話を「描かされた」って言い切る感じ、なんか釈然としないなぁと思った。良い大人が、ましてや表現者が、親や圧力に描かされたことを、「仕方ないよね描かされたんだもの」って言うのはどうなの?(本人は「自分の意思で描いたんだ」って言うかもしれない、けど僕は勝手に「本当にそうか?」と思う。それが健全な書く人と読む人の関係で、それが家庭環境の違いによって「いや、そういう解釈はおかしい、彼女は大変だったんだから」とかなるのはそれもおかしいだろと思う)。悩ましいメタという題材としては素直に面白いと思ってるからこんなエントリが書けているのだけども。悩ましい。

ここらへんの話を考えるのはすごい難しい。もうなんかめんどくさいからタイムマシンで誰か俺の親父とおふくろに「息子をしこたま殴れ。色んなものをぬか漬けにして、そのうえでしこたま頭を殴れ」とか指示してくれと思う。そうすればよっぽどフェアだ。この世にフェアはないもんだから、何事も大変だ。以上です。

小説『夫のちんぽが入らない』感想文

 これは、もう読んだ人も、まだ読んでない人も、等しく「何言ってんだこいつ」と思って頂いて差し支えないのですが、僕のこの読後感を形容するならばと考えて最初に思いついたのは十三の齢にTHE BLUE HEARTSの『チェインギャング』を初めて聴いた時のあの感じ。俺が何にむかついて、俺が何を恐ろしいと思ってて、俺がどうして自分のことが嫌いなのか、俺が何かにむかついてることも俺が明日を恐ろしいと思ってることも俺が自分が嫌いなことも、せっかくずっと何一つ知らんぷりができていたのにいきなり理由まで含めて全てをいっぺんに知ってしまった気になった、『チェインギャング』を聴いた時のあの感じ。その感じを思い出して僕は、十三の齢の僕と三十の齢の僕が同一人物である可能性を肌感覚で理解して思わず後ろを振り返る。

 僕が顔を向けている方が前ならば後ろはなんだ?

 突然男が一人、舞台に現れたかと思ったらうんこうんこと連呼する。

 そういう風に始まるのが野田秀樹の戯曲『農業少女』の冒頭なんですけれども、それは本当に何気なくそのままにまだ明るい場内に、みんな油断して一緒に観劇にやってきた隣の席の友人と談笑しているすきに藪から棒に始まるものだから、みんなうんこうんこと連呼されてはなんだかにやにやとしてしまうのだけれども、そこで男は言うのだ。

 とりあえず笑うのが正解なのだろうと悠長に構える客席を嘲笑うように言う。

「今、うんこと聞いて心のなかでクスクスと笑った方は子供です。大人はうんこで笑いません」

 実はこの男、有機肥料・つまりうんこを用いた農業の可能性を模索する、至って真面目な大人だったのだ。うんこで笑うのが子供、うんこを真面目に考えるのが大人なのです。

 さて、そこで今回紹介するのが『農業少女』初演でこのうんこうんこと連呼する大人を演じた松尾スズキが帯に推薦文を寄せて発売された小説『夫のちんぽが入らない』です。なかなかにパンチの利いたタイトルです。そういう本が出るんだよってことはネットで事前に知っていた僕ですが、今日書店で実際に面陳列してるのを見た時にはなかなかに面食らいました。そりゃ店舗の事情や都合にも寄るだろうとは思うんですけど、また面陳列の左右に並んでる他の本とのギャップがもう僕なんか面白くって鼻水出ましたけど、その両隣の本の名前挙げるのは我慢しますけども、だってそういう他をdisるみたいな言い方をして少しでも『夫のちんぽが入らない』が誰かの悪印象を受けてしまっては申し訳が立ちませんから。

 このトチ狂ったタイトルは誰だって売る方だって重々承知なはずです、トチ狂ってるってことは。だって僕、レジに持ってったら店員さんバーコードを擦るやいなやアズスーンアズで何も言わずにカバーを掛けてくれたからね。そんなコンビニで買うコンドームみたいな扱いを受ける文芸書なかなかないですよ。ほんとなんかちょっと、中学生の時に野中くんが、飼い犬のマチコがどっかの飼い犬だか野良犬だかと交尾してるのを黙ってそのまま見てて、後日おれたちはその話を野中くんから聞かされて「交尾をやめさせようともせずに見過ごして、マチコが妊娠したら俺は親に怒られるのかな」って言うからとりあえず妊娠してるかどうか確認しなきゃ駄目だってなってチャリを30分くらい漕いで学区外のドラッグストアにみんなで行ったんだよね。それで一番大柄で相対的には一番中学生には見えない大塚くんが中学生以外誰が着るんだよみたいな糞ダサいパーカーで妊娠検査薬を買ったのね。お金は野中くんだけどね。俺らは面白がってるだけだから割り勘なんかしねえ。大塚くん胸に「P」って書いてたけど、何の「P」だったのかはもう誰にもわからないですけど、その時の電光石火で妊娠検査薬を紙袋にしまわれるあの感じ、あの感じを俺は思い出したんだよ、『夫のちんぽが入らない』をレジに持ってった時に。ちなみに人間用の妊娠検査薬が犬にも効くのかは未だによくわからない。

 うんこと聞いて笑うのは子供です。大人はうんこを真面目に考えます。

 松尾スズキが作中でそんなことを言っていたように、大人がわざわざ金を賭けて何かやるっていうのはシャレじゃぁありません。どんなにふざけているように見えたとしても、そうふざけてるんだと思うのは子供であって、大人は商業出版なればこそ金がかかればこそ仕事であればこそ、常に本気で大真面目です。

 そのうえでのタイトルが『夫のちんぽが入らない』。これはちょっとタダゴトじゃありません。緊急事態です。エマージェンシーです。よっぽど何かが何かにガチッとパイルダーオンでもしていないと、こんな状況になるはずがありません。

 特設サイトを見てもわかる通り、『夫のちんぽが入らない』というタイトルで書籍を出すことの大人じゃない感じ、みんな重々承知しています。そのうえで『夫のちんぽが入らない』というタイトルでこの本を出さなくてはならないという大人の一体感もこの特設サイトから滲み出ているのは見ての通りで、僕もこのブログエントリを書くことでもしかするとこのカウパー臭い血判状の末端にでもその名を連ねることができているのかもしれません。

 しかし、実際に本書を読み終えてみると、この一連のプロモーション、ちょっとアンフェアではないかという気も、僕にはしてしまうのです。あまりにネタバレしてなさすぎなのではないか。『夫のちんぽが入らない』というパワーワードにかまけて、この本がいったいなんなのか、あまりに伝えなさすぎなのではないかという危惧のようなものも感じたりはしたのです。

 そういうわけなので、少しネタバレというか。核心には触れないまでもちんぽ以外にどんな要素が含まれているかに触れます。それを読みたくない人は回れ右。というか、ここまで読んで回れ右するやつは買って読むってことだろうから買って読め。

 

 直接、その話題をずっとしているのかというとそんなこともなくて、夫のちんぽが入らない話は字数で言えばそんなに多くもありません。僕だって四六時中ちんぽを何かしらの穴に入れて毎日を過ごしているわけでは全然ないのと同じように、この本の大半もちんぽ以外のこと、それは自分以外は自分じゃなくて世界は他人ばかりだということ、そのなかでたとえば職業を通じてだとかなんらかの方法で自分の成長を感じたいこと、それが叶わった時なんでもいいから人に必要とされたいと思ってしまうこと、それで満たされるんならみんなそうしてるということ、とにかくまぁ僕らにとって身近で身につまされる億劫なあれこれが、面白半分の真顔で迫ってくるのが本書です。ギャグだと思って手を出すときっとけっこう疲れる。

 そんな、ともすれば出来の悪い走馬灯、「あの時ああすればもっと」の集合体。著者40年分の雑多なエピソードを「夫のちんぽが入らない」という事実が貫き、幹となることで、それはひとつの物語となる(貫きはするけど入ってはいない)。

 上を向いて歩こう。涙がこぼれないように。

 昔の人気者がそんなことを言っていたらしいが、泣きたい夜だってある。そんな時、俺は、どうしたって下を向かなくてはならないのだろうか。

 なんか偉そうにぐだぐだよくわからない感想を書いているけれど、読んでてけっこう僕は、泣けてしまった。僕はそうして流した涙に近いそれを、どうやら僕は知っている。

 実のところ僕も作者の人と同じまあまあ田舎の出身で、言うてもこだまさんの田舎に比べたら全然かわいいもんで、僕が高校生になった頃、町にユニクロ吉野家がいっぺんにやってきた時は、盆と正月がいっぺんにやってきたような大騒ぎでした。来るだけ全然マシではあるもののそんな程度には田舎の人間だからこそ、こだまさんの言う田舎がどれくらいの田舎なのか、僕の地元を外様の田舎とした時に外様ではなく譜代のガチの田舎がどんなもんなのかをなんとなく想像することはできる。ここまで余談。そして僕は僕でなんやかやあって、やがて大阪に居を移す。それからこうして今も大阪にいる。そうして生きてるなかで泣きたい夜も、そりゃあある。

 そんな夜に、僕は空を見上げるのだ。だって人が多すぎるこっちが眩しすぎるから、星なんてひとつも見当たらない都会の夜空を僕は見る。

 手垢のついた話で、高いところにのぼって夜の街を見下ろし、「あの灯りのひとつひとつに生活があるんだよ」なんて言うらしいけど、僕はそういうの全然わからない。むしろウォーリーが寄り目になっても気付けないようにどこか一つの灯りのひとつが消えても気づけないだろう景色に嫌気がさす。けど、星のない夜空は違う。特に僕が大阪に移り住んで最初に暮らしたその場所は、空港にそこそこに近い場所で、いつだって飛行機が飛んでいた。星ひとつない夜空に飛行機がチカチカと発する赤い光源が、僕の目に飛び込んだ。そしていつからかそれを見上げる僕の目より涙がこぼれ落ちるようになった。それが悲しい涙なのか、嬉しい涙なのか、僕にもさっぱりわからなかった。

 そこにあるのは絶望的な距離だ。あのチカチカと光る飛行機にはきっと多くの人が乗っていて、きっとどこかに向かってるんだ。それはもう確定事項で、よっぽどのことがない限り、彼らはどこかにいってしまう。それが僕にとって嬉しいのか悲しいのかもさっぱりわからない。どこかに行く彼らが羨ましいのか何なのかもわからない。自分がどこに行きたいのかもわからない。ここにいたいのかもわからない。かと言ってどこに行きたいというのでもない。わからないけど、靴を履いて、地べたを足の指で掴んで、僕は飛行機を見上げている。そのことに僕はもうどうしようもなく泣けてしまう。そんなどうしようもない夜があるのだ。

 『夫のちんぽが入らない』を読んでいる最中に僕が流した涙は、きっとそれに類した涙だったのだろうなと思って、僕はとりあえず今日明日のコンディションを整えようとしている。その先のことはわからない。ともすれば、変な罪悪感を覚えてしまうような話ですらある。僕なりの最低限を僕が望むことが、誰かを傷つけてしまうのかもしれない。そういう嫌なことを考えさせられる本でももちろんある。それでも。それでもだ。きっと僕がこの本を、作者こだまさんのことを思い出そうとする時、ジャリジャリッと思い出すのはやっぱあの飛行機のチカチカで、上を向いてたって泣けるんだっていうそこらへんのことだと思うので、俺は読んでよかったなぁと思うし、俺も誰かにとってのそういう飛行機みたいな存在になりたいなと思った。

 たぶんこの本が書店に並んでるってことは、作者であるこだまさんが何かしらの飛行機に乗って、赤い何かをチカチカさせながら色んな人の上空を通り過ぎていってるところで、僕は隣にいる誰のこともどうしようもなくわからなくて、想像するほかないのだと思う。この本はインターネットがなかったらたぶん出版されていなかった本なのだろうとは思う。けど、「ネット発!!」みたいなことはあんまり言いたくない。ただ、僕達は自分の知覚する自分の生を引き受けるより仕方ない。ほかのことは想像するほかない。世界のことも、隣人のことも、愛する人のことも。その想像の助力に、書くとか読むとかいう行為があるのであれば、そんな福音はないだろう。そんなことを、頭上を見上げながら想像できる本だと思った。

夫のちんぽが入らない

夫のちんぽが入らない

 

『夫のちんぽが入らない』。実に変なタイトルの本だ。別にそんな話をしているばかりの本ではないのだけれど。読み終えた人ならわかるのかもしれない。我々が「ルーブル美術館」という単語を目にすると無意識からモナリザの微笑が連想されるように、読後こだまさんの半生に思いを馳せようとした時自然に、こだまさんの暴力的で実体験的な比喩の影響を受けて赤子のガッツポーズのように屹立するちんぽが想起されて、そのちんぽはシン・ゴジラのラストみたいにカチコチになっていて、それを見て何を受け取るかは自由ですよという感じは庵野と同じで。

 この本が、キキキンとジャンボジェットみたいに数多の人の頭上を駆け抜けて、誰に何を思わせて、今後、何がどうなるのか皆目検討がつかない。でも僕もやっぱこの馬鹿げたタイトルの本を一人でも多くの人に読んで欲しいと思ってしまった一人であり、だからこんなブログエントリを書いている。みんな読みましょう。読んだら感想を書きましょう。それがどうなってどうなるのかはわからない。しょせん何事もどうなるかはわからないということがどういうことなのかは本書を読めばよくよくわかるだろう。それ以上のことはなんともわからない。実写化するなら主演・門脇麦かなということくらいしかわからない。しかし、本当に良い本読んだなという感慨だけが残る。ありがとうございました。以上です。