仕事の出先の町で昼飯を食おうとそば屋に入った。カウンターで値段相応の安っぽいほとんど衣で海老はオマケみたいな天そばを口の中にかきこんでいると隣の席に前歯のない小柄なおっさんがどかっと座って、かけそばとカレーライスを頼んだ。一目見て思い出した。俺はこのおっさんを知っている。そうともこの町は、かつて俺が日雇いの棚卸しのバイトをしていた、その事務所が立つ町だった。
棚卸し代行、店舗の閉店と共に店に入り翌日の営業時間までに売場とバックヤードとにあるすべての商品の個数を数え切る、そんな途方も無い作業をクライアントに代わってやってのける、そんな仕事だ。企業がわざわざ棚卸しをしたい時期というのはゴールデンウィークがどこも混むのと同じ理屈である一定期間に集中するので閑散期と繁忙期が極端に分かれる。だいたいは夏と冬だ。
繁忙期はまさに猫の手を借りたいので人海戦術で日雇いの条件で労働者を雇いまくる。「ものを数える」なんてのは小学校を出てりゃ誰でもできる。だから、人は問わない。とにかく応募してきた奴はほぼほぼ全員雇う。本当に使い物にならないやつはシフトに入れなきゃいいだけだ。だから色々な人間がどかっとその事務所に集結する。
自分がシフトで割り当てられた今日棚卸しにかかる店の閉店時間にも寄るが、日雇いの連中は19時とか21時とか22時30分とかに事務所にやってきてはユニフォームに着替え、ハイエースに詰め込まれ、現場に向かう。蛍の光が流れる店内に入店するところから彼らの仕事は始まる。チーム単位で担当するエリアを分担して、とにかく客がいなくなったら端から端まで片っ端に陳列されている商品の数を数え始める。空調は無情にもオフにされるので、夏は暑く、冬は寒い。商品は棚卸し代行の連中より大事にされているので、当然冷凍食品はキンキンに冷凍されており、軍手を装着してかじかむ手を押さえつけながら数える。バックヤードの冷凍倉庫で歯を鳴らしながら在庫を数える。ユニフォームは半袖と長袖があって、夏でも長袖は持って歩けと言われる。必要な時があるからだ。その言いつけを守らなかった奴がホームセンターで自分の身長と同じくらいの高さのトタンの束に半袖のまま頭を突っ込んでトタンの枚数を数えていたら腕をトタンで切って鮮やかに出血するなんてイベントが夏の繁忙期には必ず一度は発生する。繁忙期だと会社は一晩にいくつもの案件を引き受けている。人は常に足りていない。タイムリミットは翌日の開店時間によって決まる。何はともあれ夜明けまでに全てを数え切らなくてはならない。常に極限状態で現場は当たり前のようにいつもピリピリしており、鈍臭いやつは容赦なく怒鳴りつけられる。進捗に余裕がある店舗は、その中の一部の人間が別の同じその晩に仕事を受けている厳しい店舗へ運ばれるべく再びハイエースに詰め込まれる。そうやってその日の案件を、すべて開店前に数え切って、在庫の数をまとめた報告書を納品できたら棚卸し代行業者の勝ち。できなかったり数字にズレがある報告書を納品してしまったら負け。そんなミッションに山のような日雇い労働者を従えて立ち向かう、そんな仕事だ。
想像の通りめちゃめちゃにキツイ仕事だが、それでも深夜手当はつくしなんだかんだ時給で見れば割にはいいので色々な人間が集まってくる。10年前の俺もそんな人間の一人である。10年前である。ハイエースのなかでモバゲーやってる奴の割合も喫煙者の割合も共に7割はあったんじゃないかと思う。10年前と言えどもやで!
僕もあなたも、もちろん話の筋など忘れてはいない。件の歯のないおっさんも勿論、僕と時を同じくして、そこで日雇いのバイトをしていて、時たま同じ現場に入り一緒に並んでホームセンターでバラ売りのネジやワッシャーを数えた、そんな間柄でございます。
ハイエースは当然誰かが運転しなくてはならない。歯のないおっさんはドライバー役に名乗りを上げていたのでほかの日雇いが移動時間は時給が4分の1になるなか、おっさんは移動時間も正規の時給が発生する。おっさんはそのことをえぐいくらいいつも自慢していた。
ある時、俺がおっさんの運転するハイエースの助手席に乗った時、おっさんは僕にセブンスターを吹かしながら語りかけた。俺もその時はセブンスターを吸っていた。
「ズイショくん、今、何歳や?22?ええなー、若いってええなー、俺なんかもう32や。大阪に出てきたらなんかあるやろ思って岡山から出てきたけどなんもないわ。なんもないまま32になって、この仕事や。ええな、若いってええなー、なんでもできるやん。彼女とかおるの?おんねや、ええな〜〜。俺なんか風俗でしか女抱いたことないよ。そのまま俺はもう32や。もうなんも、でけへんわ。若いってええな。大事にしいや、ほんま羨ましいで、ほんま。」
歯のないおっさんは、ニヤニヤしながらぶつぶつとつぶやいていた。運転はめちゃめちゃ荒かった。
そのおっさんが、10年の月日を経て、俺の横に、今、いるのである。ユニフォームを着て。
時間は間もなく12時というところ、仕事上がりだろうか。社員が采配をゴリゴリにミスった場合、これくらいの時間に事務所に戻ってやっと退勤なんてことはザラにある。残業手当もついて、美味いと捉えることもできるが、この時間までかかるような案件は大抵地獄である。おっさんはうまそうに値段相応のカレーと、値段相応の蕎麦を交互に頬張っている。俺に気づいているような素振りは一切ない。
繁忙期は一年のうちごく僅かだ。閑散期は当然、優秀な人間が、つまり要領よくミスなく数えられる人間が優先してシフトを割り当てられる。閑散期にそのおっさんを見たことはない。そしてまた猫の手も借りたい繁忙期がやってくるとそのおっさんはニヤニヤしながら俺の前に現れた。
「おー、ズイショ、久しぶりやな、俺久しぶりすぎて分からへんわ、このマシーンの使い方教えろや。間違ったデータの削除ってどうすんねやっけ?」
当時、何度も何度も定期的に繰り返したやり取りだ。
それはそうだろう、おっさんが俺のことを覚えていないのも当然だ。彼はこの10年、あの場所で多くの人とすれ違い続けているのだろう。ましてや俺は、その中のごくごく一人で、そのうえ俺は10年の歳月を経ておっさんになってふつうの会社勤めでジャケパンスタイルでオフィスのカードキーを首からぶら下げていて、当時の現場にいた頃の面影などそりゃあまあ全然ない。結婚してからは10kgは太った。かたやおっさんはあの頃のまま、歯がないまんま、あの頃のまんまのユニフォームを着て、あの頃のまんまニヤニヤしていた。ヒントにあまりに差がありすぎる。おっさんが俺に気づかないのは100%当たり前のことで、俺はおっさんにとって思い出されるに値する人間でも全くないのだろう。
俺は最後に残ったそばつゆを啜りながら逡巡していたが、結局おっさんに話しかけることもなく、足早に店を後にした。えいやと話しかけたところで、何を喋ればいいものやら全くわからなかったのだし。
そうしてオフィスに戻るべく歩き出した俺の脳髄に、この10年という月日が一気に去来した。俺のこの10年は、おっさんが言うような、なんでもできる10年ではなかった。もっと何かできるんじゃないかと思っていた夢は夢のままで、結局はふつうの会社員に落ち着いて、10年前は特に望んでもいなかった妻と子供にも恵まれて、今はそれなりに満ち足りていると思いつつも、ひとり酒を飲みながら顎膝を立てたくなる夜もある。それはいい。それはいいが、俺がこのように変わっていった10年という歳月を、俺はあの歯のないおっさんの目撃によって、秒速五センチメートルで、瞬く間に思いを馳せるに至ったのである。
おっさんにはおっさんの10年があったのだろう。その10年は俺には想像することもできない。別に10年ずっと、あそこで働き続けていたとも限らない。あの時おっさんは「俺なんかもうなんもでけへんわ」とニヤニヤしながら言っていた。本当にそうだったのだろうか。おっさんの10年にはおっさんなりの10年が色々あって、なんやかんやあって、戻り着いてしまった今だったのかもしれないし。聞けばわかる話だった。でも俺にそれを聞くことはできなかった。
蛍の光に始まる棚卸し代行は調子が良ければ早く終わりすぎる。事務所に戻る時間が3時30分とか。そんな時、始発が動き出すまでの時間を事務所の近所の朝までやってる居酒屋で時間を潰そうなんてこともままあった。日雇いには本当に色々な人がいた。話せる奴も往々にいた。
身体を壊して店長を退くしかなく、身体を治したものの、次の満足できる仕事はなかなか見つからず、つなぎで日雇いをやっていた30代後半のシェフ。
ええとこのボンボンで有名大学に通っていながらも、幼馴染の彼女を孕ませてしまい20で親に勘当されて結婚して、昼も夜も働く子持ちの同い年。
薄給ながらうっかり双子を授かり、将来に備えてダブルワークする30歳。
自営業で50までやってきたが、不景気で経営が傾きそれでも娘を大学に通わせるために夜は日雇いで働くおっさん。
彼らと始発が動き始めるまで酒を飲み今日の稼ぎが無に帰るなと笑っていたそういう時代が、俺にはあったんだということが忽ちに思い出された。
あれから10年の歳月が流れ、俺はあの時とはそこそこに違う感じの人生を歩んでおり、そして俺は、じゃああいつらは今何してるんだろうそれを知りたい、と強く強く思った。彼らが生きるということにうんざりまではせずに、笑いながら生きていることを強く強く願った。それを確認する術はもうどこにもない。とある歯の抜けたおっさんを見かけて唐突に芽生えた、俺の感傷だ。
今、彼らは何をしてるのだろう、と知りたがる欲望は、つまりは彼らに会いたいという欲望だ。
歯のないおっさんと飲みに行ったことはなかった。なんなら何度か断った。そうして俺が10年越しに出会ったのは、他の誰でもなく、この歯のないおっさんだった。これがいいことなのか悪いことなのかはよくわからない。いや、いいことでも悪いことでもないのだろう。それでもおっさんに出会ってかつてを今のように我がごとになった今、おっさんをキッカケに思い出した当時俺が尊敬できた色々な事情を抱えた色々な人々、この日この場所で出会った相手がユニフォームを着た彼らじゃなくて良かったとは思ってしまう。
僕が今しているこの話は、すごく底意地の悪い、人を馬鹿にしているような話なのかもしれないことは重々承知している。それでも、この10年を、僕のじゃない、僕だけのじゃない、ただただ10年というこの日本とか地球とかの10年という月日を、俺は今日強く強く抱きしめたんだと思って、俺はまた眠りにつくのだ。抱きしめさせられたのだ、あの前歯がないおっさんに、と思いながら。
始発前の一瞬パグかと思うくらいでかいネズミが壁際を駆け抜ける居酒屋で、みんなで酒を飲んで、お会計を頼んでレジに行くと足元に千円札が落ちていて、「落ちてたで」とおばちゃんにその千円を拾って手渡すと、「にいちゃん得したな」と会計が千円安くなって、それをまたみんなで笑って店を後にして、みんなが家に帰って行った。その家路の果ての途中が今なんだと思って、僕はまだ最果てに向かう道半ばなのだと思った。