料理するというと、大抵、「好きなんですね!」「何が得意なんですか?」という反応。べつに好きでもなく生活に必要だからしてるだけだし、あくまで「趣味の料理」じゃなく「生活の料理」なので、特別得意なものなんてなく最低限何でも作る。
— Yoichi Tsutsumino (@tutumino) 2016, 1月 4
なんかツイッター眺めてたら家事や育児に積極的に参加してる男性がこんなこと言ってて何か書こうかなと思ったんですけど、もうまず俺のこの導入この言い方をこのツイッターの人が見た時にお気に召されるかどうかもよくわかんねえなと思って。「家事や育児に積極的に参加してる男性」って言い方が人によってはセーフじゃない可能性もあるよなと思って、そこで「積極的も何も男性が家事や育児に参加するのは当たり前のことじゃないですかあんた何言ってんですか」とか言われるかもわからんなと思って、それ言われちゃったら俺はもう「ですよね失礼しやした!」って言った後におどけて見せて御機嫌を取るしかないよね。寄り目でカズダンス踊るしかないよね。
言ってることはわかるんですよ、たぶん「別に男が料理という家事領域を担うのなんて珍しいこっちゃねえだろ、男が料理するって言っただけで勝手な想像してるんじゃねえよ。日曜日に家族サービスとか言ってどや顔で外食より金かかってるパエリアとか作ってfacebookにアップして皿洗いは全部奥さんに任せてる的なやつだと思ってんだろてめえ」みたいなそういうことですよねたぶん。「最近そば打ち始めたんです的な受け答えをお前は期待してるのかもしれねえけどそういうのじゃねえから」みたいなことですよねたぶん。それはわかるんですよ、人間毎日飯食わないとお腹と背中がひっついちゃうからね、趣味とかじゃなくて日常的に料理する男だってそりゃ当たり前にいるはずだよね、それくらいわかってくれよ。ごもっともです。自分にとっては普通のことをさも特別みたいに扱われたり、そいつの中での普通に押し込められてやってることの詳細を勝手に忖度して話を進められるのイラッとすることって生きててたくさんありますよね。僕もうっかり「ブログやってます」とか言うとやっぱアメブロみたいなもん勝手に想像されますから。それで僕も馬鹿正直に「平気で5000字くらいの改行ない文章を書いてアップしてます」って言っても引かれるだけなんわかってますから「空とか撮ってアップしてます」言うてますけどね、お前ガラケーしか持ってねえだろっていう。粗っらい画素数で空なんか撮ってお前にとって空とは何なんだよ、逆に空撮らない人以上にお前は空に愛着ないだろって話になりかねませんけども。
「男女問わず料理することなんて別に珍しいこっちゃねえ普通のことだよね」
そうです、その通り。でも逆にお前こんだけ前置きで理解を示すってことはズイショお前この後文句言うんだろ?何か言いたいからグダグダ前口上並べてんだろ? 英語で言うところのザッツライトですよね~。いや、完全に僕の繊細チンピラですよ。言われてみれば今の僕は完全にズボンを腰で履いてるし眉毛もほぼ無い、学ランの下には赤いTシャツを直に着ています。お前が繊細チンピラなだけだろと言われたらぐうの音も出ません。それでもちょっと言わせてとなるのは、冒頭のツイートを受けたこんなツイートも見かけたからです。
私も聞かれる度に困るけど、日常的に料理する人にとって「得意料理は?」の質問って答えようがない。料理って毎日やってれば「切る・火を通す・味付ける」の基本スキルはどれも同程度に上達するから、ほとんどの家庭料理がある程度作れるし、そうなるとあえて「これ得意」ってものがない状態になる。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016, 1月 4
何故か逆の「これは苦手(よく失敗する料理)」ってものや「これ作るの好き」はあるんだけど、そもそも家庭料理って、メニュー名の付いた料理よりも、名無し料理の方がザラだから「これが得意料理」ってのは本当に意識しない。だからその質問する人って「この人は日常的に料理しないのかな?」と思う。
— 桜島ニニコ (@sakurajimanini) 2016, 1月 5
ここで告白すると、僕は料理一切しない人間なんですよ。掃除洗濯食後の皿洗いは基本的に僕がやってるんで割と家事分担はできてる方なんじゃねえかなと思いたいんですけど(まぁ掃除機のかけ方が甘いと言われることもありますがみたいなエクスキューズを挟みだすとキリがないので割愛しますが)料理だけはどうにも苦手意識が強くてねぇ。一人暮らしの時もインスタントラーメンとかやきそばとかパスタ茹でて出来あいのソースかけるとかあと炊いた米に納豆とラー油ぶっかけて食ったりとか、そういう猿でもできることしかやってねえですから。あとはそうね、餃子のタネを皮に包むのはできるね。昔からそれはさんざんやったから。タネ作ることも焼くこともできねえけど、タネを皮に包むことにかけては自信があるね。言っとくけどこれはたぶんあるあるネタですから。「男が料理できないのを開き直って自慢するんじゃねえ」と言われようがなんだろうが、餃子のタネを皮に包むのだけできるっていう謎の自信、これは伝わる奴には伝わるあるあるネタだから。そこを譲る気は絶対にない。
だって料理って失敗がダイレクトに一日の満足度の低下に直結するじゃない。だって失敗しても食わなくちゃならんでしょ。不味いもん食いたくねえじゃん。嫁さんが作ったら美味くできるんだからその方がいいじゃん。そういうわけでケツに火がつかないと料理ってのは一番修練に臨むのにハードル高いなとは思うんですよね。今は嫁さんがいつも同じ時間に台所に立てる環境だからいいかなっていう。環境が変わってケツに火がついてそれこそ俺が料理しない限りお腹と背中がひっつくような環境になれば背に腹は変えられねえから頑張るんじゃねえのと俺は俺に勝手に踝を合わせて期待してるんですけどね。今の、一文にケツと背と腹が出てきたからもう一声欲しいなと思って足しましたけど「踝を合わせる」なんて慣用句存在しないですけどね。俺一人ならわけわからんもん不味そうな顔で食ってりゃいいですけど、嫁にも食わせにゃにゃらんとなればマトモなもん食わせたいってなるので俺もまーなんか頑張るんじゃねえの?その時になれば。っていう。その他人に食わすのがまたプレッシャーなのでケツに火がつくまでやりたくないんですけど。逆に言えば今はそのプレッシャーを嫁に押しつけてるって言い方にはなっちゃうんですけどね。そこはね、「お前に感謝!」ですよ、「毎日ごはん作ってくれるお前に感謝!」。「お前に感謝!」って言っときゃJ-POPの文脈ではオールオッケーって聞いたんですけどインターネットはどうですか。どうなんですか。
そんなわけで「普通に料理をしない人」の側からこのツイートを読むと、ちょっぴりね、ちょっぴりだけど無駄に殴られた感があるわけですよ。さすがに僕は「得意料理は?」なんて間の抜けた質問はしませんけどね。それが間の抜けた質問であることはなんとなくわかるから。本読まない奴が「趣味は読書です」って言ってる奴に「へぇ、どんなん読むん?」って質問して例えば「カフカが好きです」って返事が返ってきて「へぇ、知らんわ。おもろいん?」って質問重ねるのはちょっと間が抜けてるじゃないですか。もういいから、そっとしといてくれってなるじゃないですか。たぶんそれと似たような感じなんだろうなってのがわかるので「得意料理は?」とは言いませんけどね。「俺、全然せえへんわ~」みたいな話も普段はしませんけどね。餃子から「お前に感謝!」までの下り超長かったじゃねえかって? ブログは例外に決まってるだろこの野郎! 普段は「空撮ってます」しか言えねえからブログに言いたいこと書いてるんだよ!! 察せ!!
犬「わん!」
わ~察してくれてありがとな~、犬~。ほんにお前だけよ。俺にはもうほんにお前だけよ、犬~。あと、あけましておめでとうな~犬~。
引用したお二方のツイートは別個に見れば特に何も思うところない普通のツイートなんですけど、その二つを結び付けて考えると合わせ技一本で微妙な気持ちになるんですよ。いや、俺が勝手に結び付けてるだけで、勝手に俺が引用したお二方が口裏合わせてスタンス統一する必要なんてあるはずもないので正確には合わせ技一本でも何でもないんですけどね。僕が勝手にそこを結び付けて「痛い痛い痛い!」って騒いでるだけですから。僕が誰にも頼まれてないのに左足首と右足首をそれぞれ別の馬にロープで括りつけて股を裂かれて「痛い痛い痛い!」って言ってるだけですから。で、悪い金持ちが完全に俺の股が裂けた時に俺の男根が左脚の付け根と右脚の付け根のどっちについてくるか賭けてやがりますから。
つまり何が言いたいかというと「普通に料理する男だって別にいるだろ、そういう奴もいるってことを普通に認識しとけよ」って話とその先の「普通に料理していたらわかるはずのことがわからないなんてあなたは普通じゃないんですね」って話にはだいぶ距離があるよなってことです。別にこのエントリで取り上げているツイートがいずれも後者を意味してるって話ではないんです。ただ、ずいぶん距離があるにも関わらずこの二つのどちらのことを自分は言いたいのかを強く意識しないとどちらとも取れる言い方になりがちかもしれませんねって話です。
本を読む読まないなんて自由じゃないですか、読みたい奴は読みゃいいし読まない奴は読まなきゃいい。お互い好きにしてりゃいいけど、本読まない奴に「それおもろいん?」と言われてそれに「完全に本読んでない奴の質問だな」というのは、関係性や文脈や言い方によっては明らかに角が立ちますよね。何かしらの価値観が見え隠れしていますよね。別に角を立てるなとも思わないんですけどね、角を立てる気で言ってるならいいけどどうなの?ってところが僕の気にかかるわけです。もっと極端なことを言えば「本を読みたいから俺は本を好きに読むのでそっとしといてくれ」って主張と「本を読まない奴は馬鹿だ全員もっと本を読め」という主張では当たり前に受け容れられ方が全然変わってきます。特に家族の在り方だとか個人の生き方だとか、そういう文脈においては両方の主張が必要で両輪として進めていくべきものであろうことは理解しています。他人とは異なる自分の在り様を多様性のひとつとして当たり前に認めさせることとそれを実現するために凝り固まった常識をアップデートしていくこと、両方大事です。ただ、これをごっちゃにしてしまうと結局自分の在り様こそが「普通」の在るべき形で他人の在り様こそが「普通」ではない間違った形なんだっていう間の抜けた主張にすり替わってしまうんじゃねえかって危惧があるわけです。もちろん否定されるべき悪しき「普通」ってのも世の中たくさんあると思うんですけど、どこまで踏みつけにしていいものかってのは極めて慎重でありたいもんですね。また、「普通」っていうのは椅子取りゲームみたいに取って代わるもんじゃなくて、どんどん椅子の数を増やしていく方向で進むもんなんじゃねえのとも思うわけです。
そういうところで言えば、家族の役割分担として一方が料理を一切しない家庭があったってうまいこと回ってるなら別にそれ自体は問題視するべきものでもないだろうし、であれば料理をしない奴ならではの馬鹿みたいな質問をする奴が世の中にいたってそれも大した問題じゃねえ普通のこったろうと僕個人は思うんですけども。繰り返すに、それを否定して「男も絶対料理できるべきだそれが当たり前だろ」って言いたいならそれはそれでいいんですよ、そういうつもりなんですね了解です、となるだけだから。ただ、自分でもどういうつもりかよくわからんままに何となく何かを強く表明してしまうことってあるよね。自分がどうありたいかって関心ばかりに気が向くとそういう時もあるかもね。多様性を認めようって話がしたいのか、自分と対立する考えを「普通じゃねえ」に押し込もうって話がしたいのか、よくよく考えたいっすね。って話です。
犬は、ボルゾイです。以上です。