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寄稿したものの喋り足りなかったので榎本俊二の凄さを喋ります

LIGブログさんで漫画チャンネルというものが始まったらしくて、それで「ねー、一緒に書こー?」て誘われたので「えー、いーよー?」って言いました。幼稚園児の結婚の約束みたいで非常にかわいらしいですね。実際はおっさん二人がメールでやりとりしてるだけなんですけどね。

それでとりあえず一本書き上げたのが先日公開されたところで、もう親も親戚も大喜び、村を上げてのお祭りですよ。「遂におらが村からLIGへ寄稿するライターが出たぞ!」つって盆と正月がいっぺんに来たような大騒ぎ。電車で帰ったらもうホームに村人総出のお迎えが溢れてて村にある小中高の吹奏楽部が合同で演奏して出迎えてくれて、色紙やらなんやらで装飾された軽トラの荷台に乗せられて実家に向かうまでの道中もすごい人だかりでやっと着いたと思ったら食べきれないほどのご馳走が待っててね。それで日も暮れてやっと宴も一段落して、うちは父親を早くに亡くして僕もずいぶん長いこと東京でぷらぷらして心配かけてましたから、もうすっかりおばあちゃんになった母親が一人いるだけなんですけどLIGの編集の人がお風呂でちっちゃくなった母ちゃんの背中流してくれてね。そこで母ちゃんがLIGの編集の人に言うんですよ、「うちの息子のこと、見捨てんといてね」つって。この段落なぜか途中から完全に『蒲田行進曲』のヤスが小夏連れて実家帰るシーンを文字起こししてるだけになってますけどね。それでさっき見たらこんなコメントがついてたわけですよ。

榎本俊二『斬り介とジョニー四百九十九人斬り』現実離れした圧倒的リアリティ—

「漫画でしか辿り着けないリアリティ」についてもう少し掘り下げて欲しかった。自分もこの漫画を読んで、「これ漫画じゃなきゃできないよな」と思ったので。

2015/12/04 01:36

いやー、まーね、言い訳じゃないですけどちょっと言わせてくださいよ。だってあいつらひどいんだぜ、意味がわかる日本語で書けとか言ってくんの。あと文字数もあんまり書きすぎるなって言ってくんの。いや、正確には別に言われてないんだけどね、結構自由にやらせてもらってますけどやっぱ僕だってちゃんとやろうとは思うわけじゃないですか。改行ゼロで1万字とか送りつけてやっぱ銀ちゃんのところに戻るみたいな心変わりされても辛いじゃないですか、なので一応こっちで自制してやってるとどうしても痒いところに手が届かないと言いますかあんまややこしいこと言えないみたいな回り道してられないみたいなのあるじゃないですか。いやこれは真っこと自分の筆力の未熟ゆえなんですけれども、大体一記事が2000字くらいを目安にしてんのかな、これ下手しぃこっちのブログだったらまだ話が始まってない可能性あるくらいですからね。この文章も今で既に1200字くらいいってますからね。蒲田行進曲の下り絶対要らなかっただろって話なんですけど。まぁ、そういう慣れないいつもと違う環境でも面白いものが書けるよう頑張りますので、どうぞ今後も御贔屓頂けましたら幸いでございます。

で、まぁそれはいいとして、そうだよねぇ、あの漫画は「漫画じゃなきゃできない」よね。俺もそう思う。で、それは何でだろうみたいなんは僕も一応考えたりはしていて、それは向こうじゃとても書けない程度にはまとまりがないんだけれども、じゃあまあ折角だしこっちで書くか、っていう目的でテキストエディタ立ち上げて書き始めたのが今あなたが読んでいるこれです。

まぁでも大前提としては四の五の言わずにいっぺん読めって話なんですけどね、本当に超面白いから。読んで唸ったうえでこのエントリを読めって話なんですよ。体感5秒くらいで読めるから。

斬り介とジョニー四百九十九人斬り (KCデラックス アフタヌーン)

斬り介とジョニー四百九十九人斬り (KCデラックス アフタヌーン)

 

この榎本俊二という漫画家、僕ほんと大好きで、もう漫画家という括りで好きなわけじゃなくて「発想の飛ばし方」とか「思考の捻じり方」についての師匠として勝手に尊敬してるみたいな感じなんですけど。一番好きで一番繰り返し読んでるのはやっぱデビュー作の『ゴールデンラッキー』で、4コマ漫画なんですけどもうほんとすごすぎて意味がわからんの。読んでると頭が馬鹿になってくるんですよ。だいたい30分くらい読むと九九を忘れ始めますね、最初七の段からうまく言えなくなって2時間くらい経ったあたりではもう二の段と五の段以外わからなくなってます。

もし無理矢理に分類するならば不条理ギャグみたいなジャンルに該当するんだろうとは思うんですけど、たぶん氏のやり方っていうのは真逆でむしろ条理をすごく大事にしてる芸風だなと僕は思うんですね。荒唐無稽な設定が1コマ目から突然ババーンと出てきてなんじゃこりゃってなるんですけど、その1コマ目で提示された無茶苦茶な世界にはその無茶苦茶な世界なりの厳格で整然としたルールとかお約束とか常識とか棒釣り法則がちゃんと存在していてそこから逸脱したことは基本的に起こらないんですね。「そんな世界でこんなことがあれば当然そうなるであろう」ってこっとしか起こらない。それは我々の生きる現実世界の尺度で考えると本当に支離滅裂で狂気すら感じることもしばしばなんですが、読んでいるこちらとしてはどのような条理に基づきそんなことになってしまったのかを半分ばかり理解できてしまっているので、そこでもう一つ脳が捻じれますよね。見るからにありえないものをありえるものとして処理しようとしている自らのポンコツ脳に対して僕らは壊れかけのテレビをぶっ叩くがごとくツッコミを入れるほかなくそんなことをやってると当然ダメージを受けた脳細胞が死にます。脳細胞が死ぬと楽しくて気持ちいい。榎本俊二の面白さとはそこらへんになってくるのではないかと思います。

そして、その榎本俊二の基本戦術を100ページもの長編にまるまる適用してやってのけてしまったのが『斬り介とジョニー』なわけですよ。とりあえずザックリ言うと「主人公2人が呆れるほど強い」だけの漫画なんですけど、その強さもただ出鱈目に強いんじゃなくて「どう強いのか?」「どこまでできるのか?」って部分については恐らく説明いっさいないものの厳密に決まった状態で描かれてるんだと思うんです。必殺技も奥の手もパワーアップも無く、終始一貫して同じ「強さ」で戦ってるだけなんです。その「強さ」を持った奴が戦ったらどんなことが起こるのか? 前方から大群が押し寄せてきたらどうなるか? 相手が一列になって逃げ出したらどうなるか? 囲まれたらどうなるか? 逆にこっちが挟み撃ちにした時はどうなるか? 巨漢の敵が来たらどうなるか? そういうのを一つ一つ淡々と描いていって「まぁ、この二人の強さなら当然そうなるよね」って描写が続いていくだけなのです。これだけで最高に気持ちいい。物理法則的にはありえないことを脳が「まあ、そりゃこうなるよね」と処理する。最高に気持ちいい。

で、まあ、そこらへんがざっくりとした概要になるとは思うんですけど、じゃあこれが「漫画じゃなきゃできない」ように思えるのは何でだろうね。これはちょっと俺にもまだまだ手に余る。うまく喋れるか自信がないけどとりあえずやるだけやってみます。漫画という表現の強みの一つとして、やっぱ作品内時間を伸び縮みさせるにあたっての融通がやたらに利くって点があると思うんですよね、ある一瞬をめっちゃ長く描くこともできるし、逆に長い時間を一コマに納めることもできる。もちろんこれは映画でも小説でも演劇でも厳密に言えばどの表現手段でもやってやれないことはないんだけども、どうしてもその表現に触れているこっち側の生の時間感覚との兼ね合いがあるので漫画に比べてもうひとつ融通が利かない気がする。幅が狭いと言いますか。『斬り介とジョニー』では取り分け「速さ」を表現するにあたってこの漫画の有利を存分に使い、「これ漫画じゃなきゃできねえだろう」と思わせる凄味を出しているんじゃないかなと感じます。

例えば1コマで刀を構えた斬り介が逃げ惑う野武士の横を駆け抜けて二十人以上の首をズババーッと刎ねてるシーンがあったりするわけですよ。もう実際に見てくれとしか言い様がないんですけど、これは実写で再現するの無理だろーって思うわけです。いや、やってやれないことはないんでしょうけど、この斬り介がやった離れ業を実写でアクターにやらせること自体は出来ると思うんですけどそれは文字通り技<ワザ>として描かれてしまうと思うんですよ。想像することもできます、グワッと斬って、ワッとスローモーションになって無数の首が宙を舞って次の瞬間また高速に戻ってみたいなの想像はできますよ。文字起こししてみたら実写キャシャーンっぽいな。いや、俺キャシャーンのアクションシーン結構好きよ。でもそれじゃあ違うんだよな、映画で超スピードを描こうとしても結局油断するとめっちゃ速いという「能力」の描写になってしまう。斬り介とジョニーはそうじゃない、「能力」とかじゃなくてただめっちゃ速いだけで、めっちゃ速い奴が普通にいつもどおり戦っているだけなんだ。ここらへんうまい言い方がわからずムズ痒いんですけど大事なのはきっとそこらへんなんです。「速さ」を描くのと「その速さが当たり前にありえる世界」を描くのは全然違うことなんですよ。また、それを描いたとして面白いか面白くないかってのも結構微妙な話で、斬り介とジョニーが作中でやってた殺陣を忠実にアニメ化なり実写化なりしたとして、じゃあそれが面白いのかみたいなことにもなってくる気がする。なんだろう、先に述べた話と重複してきますが、榎本俊二の凄さは彼が描いた漫画とそれを処理しようとする我々の脳との共犯関係であったりするわけです。その共犯関係を、小説と結ぶ可能性も映画と結ぶ可能性ももちろん我々の脳は孕んでいるわけですけれども、それが同じ罪であってもそれを犯すまでの過程は漫画と、小説と、映画と、演劇と、ではやっぱり全然違ってくると思うんです。そういうことだと思うんです。

というわけで強引にまとめますが、なるほど、僕が元記事で連呼していた「リアリティ」とは一体なんだったのかというと、「表現と受け手の脳が結ぶ共犯関係」のことだったのねということで、僕はうまい言い回しを一つ思いつき大変満足です。なので、ブコメの要望に応えたことになってるのかはまるでわかりませんが、今日のところはここらで切り上げます。LIGブログさんへの寄稿は、たぶん今後しばらく続けていくつもりでおりますので、そちらも併せて引き続きよろしくお願い申し上げます。以上です。