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現在進行形の出来事をブログで語る、語り部の負うリスクについて

身バレがどうのとかそういう話はありません。

個人が個人の思ったことを好きに書き散らせる現在のインターネットという文化を僕は大変に好ましく思っており、今のところは書く人としても読む人としても楽しく満喫させていただいており、楽しいものの楽しいだけで筋斗雲に乗れる目処は遠ざかる一方ですがそれはインターネットしてなかったら乗れてたんかいと言われるとそんなこともないのでもうそれは仕方がない。

人が「なぜ書くのか」という問いに対して挙げるポピュラーな動機としてただ今赤丸急上昇中の「妖怪のせい」を抑えてイの一番に数えられるのが「自分の考えていることを整理するため」みたいなやつでありますが、そりゃあ確かに自分の考えている内容を整理することは人生にとって大変有益になりえますものの何せシチめんどくさい。昔であれば、シチめんどくさかろうと書くほかない者だけが夜中に一人でミカン箱の前に座りこみ黙々と筆を進めていたわけですが(なんで昔=貧乏やねん)、幸か不幸か現代におきましてはワールドワイドウェブというビルゲイツでも黒タートルネックおじさんでもないパッとググって見ても具体的にどこの誰が作ったものなのかはよくわからない大発明により、我々は「誰かが読んでくれている」というインセンティブを獲得し、本来孤独でシチめんどくさい作業である「書く」という振る舞いをかつてよりは遥かに低いハードルでチャレンジすることが出来るようになっとるわけです。

かくしてそのような現状において、僕が常々抱いている疑念とは、果たして「誰かが読んでくれている」という状況下において紡がれる言葉は、どれだけ本当に「自分の考えていること」なのだろうかということであります。

これは僕の個人的な考えになるのですが、「書く」ということは本質的に大変罪深い行為であり、それはこの銀河ギリギリぶっちぎりのすごい解像度である尊い尊い現実の、レプリカをでっちあげてしまう行為にほかなりません。例えば僕は今まさに産み落とされた赤子が生まれて初めてこの世界の空気を震わせたその瞬間をきっと「オギャー」と記述しますが、実際に赤子が僕の鼓膜まで届けたその空気の震えは「オギャー」よりずっとずっと尊い。それを「オギャー」の一言で片付けてしまうことは、とても罪深いことだと僕は思うのです。そしてそれはきっと何を書くにつけてもそうで、大なり小なりに私たちは書くたびに私たちの生が在る瞬間瞬間を冒涜しているのでしょう。だからそもそも「書く」なんて行為はまるで愚かだと僕が思っているということもなく、何故なら私たち人間は「書く」という行為の愚かさ以上に「忘れてしまう」という愚かさを性質として備えてしまっているからです。忘れないためにも私たちは書かなくてはならない。忘れてしまうのも書くのも同様に愚かであるが、書くほうが幾分マシなのでせめて書いておいた方がいい。というのが、まぁ僕の見解になります。

で、ここからが本題なんですけれどもブログでもツイッターでもLINEでも何でもいいんですけど、第三者の目に触れるという前提で「自分の考えを整理するために」とか「忘れないために」とかのために文章を書くのって実はすげー難しくないですか?って話なんですよね。ひょんなことからどかどかっと「実際に読んでる人」が増えてしまうはてなブログなんてサービスにおいてはなおさらだと思うんですよね。油断すると先に挙げた二項目の目的を「読んだ人に楽しんでもらいたい」という気持ちがあっさり追い抜いてしまうというケースもザラに見かけます。そういう状況下で書かれた文章というものは、そもそもが罪深いレプリカであるとしてもどれだけ出来の悪いレプリカなのだろうかということを僕はしばしば考えてしまうのです。

「書く」という行為はきっと、本来的には走り書きを押しピンで壁に留めるような行為なのでしょう。そして翌朝目を覚ました貴方はその壁に留められた走り書きを見て、それが出来の悪いレプリカだとも思わずに「私は昨日こんなことを考えていたんだな」と確認して、扉の外に出るわけです。そこに書かれた言葉は、本当に貴方の思ったままの言葉か。誰かを楽しませるために書かれた心にもない言葉か。一度押しピンで留めてしまった私には全く判別がつかないのだ。例えばそれは、本当は「好きなんだ」と言いたかった言葉がなんだか気恥ずかしくて「お前の母ちゃん出べそ」になってしまったように、本当に自分がリラックスできるお部屋の状態とお客様をお招きしても差し支えないように整理整頓された部屋の状態とが全く異なるように、「これが私なんだ」と思うに全く値しないそんな言葉であるのかもしれない。そんなことは夢にも思わず、貴方はその壁に留められた言葉を「私の言葉だ」と思い、そんな私として一日を生き、その一日をまた出鱈目に綴るのかもしれない。

そんなホラーを僕は怖いなと思うし、実際にちょくちょく目の当たりにもしている。

まぁ、んじゃ結局書いたほうがいいのか書かないほうがいいのかどうすりゃいいんだって話になるけど結局そこらへんは程度問題で、一概に書くなとは言っても仕方がないし、それじゃあせめてその話は押しピンで留めるにはまだ早いんじゃないの、何も決着がついてもいないのに今感じていることを「私の言葉だ」と叩きつけることないんじゃないのとか、明日壁に留められたそれを読んで私が今日よりもっと良い明日を生きれるようなそんな言葉を今日の私は綴れるだろうかとか、そういうことを考えながらやっていくしかないんでしょうけどね。勿論「書く」という行為自体は本来有益な行為であるわけで、自分の考えを整理するためなら構わないのだけれども、どういうわけかそれを第三者の目に触れる場所で書こうとなると途端におかしくなりがちで、それはつまり押しピンで言葉を留めるのは私自身だとしても、その押しピンを私に手渡すのは私ではない誰かなのかもしれない。

というようなことを常日頃考えながらインターネットで文章を書いたり読んだりしているので、この人面白いけどちょっと今危ないかもなとか、ほら言わんこっちゃないとか、気付いたらいなくなっちゃったなとか、そういうことを思いながら寂しい気持ちになったり、筋斗雲を突き抜けて地面に激突したり、自分も気をつけなきゃなと思ったり、あーだこーだやっております。

だから僕だってさ今現在ほんとのところ、体長8mくらいの怪鳥に読んで字の如く鷲掴みにされて攫われて、どこだかの寂れた教会の屋根のてっぺんの尖ったところに襟首引っ掛けられて完全にはやにえにされた状態で、寒空の下そんな危機迫った状況にあることはおくびにも出さず、全然関係ないこんなどうでもいい話を鼻水すすりながらiPhoneで記述しているわけです。そういう怪鳥に初めて遭遇した一部始終については、すべてが終わってから語るもんだと、そう心に決めてるわけです。今おでん食べたらきっとめちゃめちゃ美味しいんだろうな。とほほ。以上です。