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恋愛市場、水槽と見るか、大海原と見るか。

なんか恋愛論とか非モテ論とか男女論とかを全部混ぜた闇鍋みたいな話題がインターネットでにわかに盛り上がってるようで、まあ盛り上がってるのはいつものことなんだろうけど俺の視界に最近よく入ってきてたのでなんか思いついたことを書く。

あのー、ハリガネムシって知ってます?ハリガネムシ。カマキリに寄生する寄生虫なんですけど、ハリガネムシに寄生されたカマキリは仕組みよくわからんのですけどハリガネムシに行動を操られてしまうんですよ。カマキリは本来陸でやっていく生き物であるはずなのに、ハリガネムシに操られてなぜか水辺に近づいていって入水自殺をしてしまうんですよ。で、カマキリが溺れ死んだあとにハリガネムシはカマキリから脱出していつものように水辺で産卵をして子孫を残す。なにそれ怖っ。

で、このハリガネムシハコフグバージョンっていうのが存在してですね、人間の頭部に寄生してその人間の行動を操るっていうすごい怖いハコフグがいるんですけど、そのハコフグがいつだったかこんな話をしていました。

メジナという小さなお魚さんは広い海では集団で仲良く生活をしているのですが、狭い水槽に閉じ込めてしまうと1匹を仲間はずれにしていじめを始めてしまう。その1匹を水槽から取り出してもまた別の1匹がいじめのターゲットになってしまう。結局、窮屈な環境では誰しもがそういう意地悪をしてしまうものだけど、そこから解き放たれてしまえば、気の合う奴と気の合う話をすればいいだけだし、誰かをいじめる必要なんか誰にもないし、意外と良いもんだから水槽の中でどうすればいいか考えるのではなく、広い海に出てみよう。

めちゃめちゃ意訳というか単なるうろ覚えなんですけど、なんかそんなようなことを寄生型のハコフグが言っててですね、まーそうだね、いいこと言ってるねーと思ったことを覚えています。

で、掲題に戻ってくるわけですが、今回は恋愛の話題なので、まあとりあえず「恋愛市場」と書きましたが、それに限らず、何にも限らず何であれ、我々の今立っている場所、今の人生の地点、それを水槽の中と見るか大海原と見るか、これは究極的には主観的な問題に過ぎず、本人の気の持ちようだよな、という話をしたいなーと思っています。

小学校、中学校、高校、ここらへんはかなり水槽だったなーてのは自身の人生を振り返ってもそういう実感を伴う。そういえばスクールカーストって言葉最近見なくなりましたね。今はなんか別の言葉に置き換わってるんでしょうか?インドのカースト制をスラング的に用いることがポリコレ的にアレみたいな話なんでしょうか?僕にはわかりません。が、まあ振り返るにそれは確実にそこにあった。そんなことなかったって感じる人たちはきっとラッキーな水槽に入っていたんだろう。星の巡りと前世で徳を積んだ自分に感謝しよう。まあしかし、実際として、たまたま同じような時期に今生に産まれ落ちてたまたま同じ学区内に住んでるだけの連中をロット番号ごとにダンボールに詰めるノリでひとつの学校ないし教室に押し込むなんてのは水槽以外の何者でもないし、そんななかで諍いが起こったりヒエラルキーが出来上がったり時にはイジメが起こったりなんてのはそりゃあ当たり前だ。当たり前というのは「そうあるべきだ」という話ではなくて、現状どうしてもそうなっちゃってて改善の余地が今後もあるねって話だ。

その先はどうだろう?専門学校、大学、そして会社、ここらへんは水槽だろうか、大海原だろうか。ここらへんから気の持ちようになってくる気はする。自分がなんらかに所属したところでそれはあくまで自分の人生の一部であって、何も自分のアイデンティティをそこにまるまる預ける必要はない。預けるメリットがない。もちろん小学校中学校高校のなかの閉ざされた人間関係についてもそのように割り切っている人間というのも少なくないだろう。

すべては気の持ちようだ。

勿論、どこまで歳を取っても水槽の中こそが自分にとって居心地がいいからという理由で、自分と自分の周辺の他人とをまるでひとつの水槽のなかにいるかのように振る舞う人間というのも多く存在する。そういうやつは出来る限り相手にしないのが一番だ。つまらない奴と付き合うのは短い人生の無駄遣いだ。閉ざされた関係性のなかで自分の優位を確認して、自分の生の充実を片目を瞑って肯定する、そんな程度の知れた輩の自慰に付き合ってやる筋合いはない。職場はどうしても生活の中で付き合わされる時間が長いもんだから、水槽のような息苦しさを感じるし、その水槽のなかでイキイキしてる連中を疎ましく感じることもあるだろうが、向こうさんに都合の良い水槽の中のルールをわざわざこっちが内面化してやる道理なんざない。明日も今日と同じように寝て起きて飯を食うために水槽の中にいる時間がどうしても必要であったとしても、俺が今いるのは大海原のど真ん中。生活の糧のために已む無く寝て起きたら水槽に向かっていたとしても、それは結局だだっ広い大海原のどこで寝て起きるかという話に過ぎないと俺は考えている。

大人になっても「ここは水槽だ」と思って生きようとする人間は、まぁやっぱそれなりに多い。教室の中でお互いを攻撃し合う学生の下品なノリの延長のまま人生を全うしたい奴らってのがいて、それはそいつらにとってそれが一番居心地がいいからだから、それがこっちにとってはいい迷惑なのはさておいたとしても彼らの合理性を考えるとそういうやつが出てくるのは仕方ない。しかし、世の中全部をそんな狭い狭い水槽のように捉えて生きるのは俺の主観に反するしつまらないし何より俺に得がない。端的に言うと付き合ってられないわけです。

自分がいる、今・ここは水槽ではない。大海原である。この確信を持って生きることが何より大事というのが自分の信条ではあるのですが、あ、今、ここから信条と新庄をかけてビッグボスの話に繋げるの思いついたんですが、始めたら1000字くらいやっちゃうのでやめときますが、勿論その信条を持ち続けることは言うはやすし、相方の嫁はカレンとはよく言ったもので、容易なものではありません。かつての僕は、その自分に必要な確信的な感覚を維持するために若い頃はずいぶんインターネットに助けられたものです。生活を続けていくうえで居座るより仕方ない水槽に身を置きながら、それでも俺は何のルールもなければお約束も存在しない大海原に身を置いているんだという実感を持つ。インターネットはそんな心待ちをナップサックに引っ掛けて歩きたい俺の背中を随分と押してくれたものです。世の中いろんな奴がいて、各々に色々なことを考えていて、各々にてめえなりの折り合いをつけながら生きている。インターネットで触れるテキストのひとつひとつはどこかの誰かの真に迫ったコンチキショーメで、そのたくさんのコンチキショーメを浴びることで俺がいる今・ここは大海原のど真ん中だと確信できて、今日もコンチキショーメと言える俺があったわけです。

昔話になってしまいましたが、それに比べて今のインターネットどう?あんま良くないよ今のインターネット。全然つまんない。俺なるべくインターネット見ないようにしてるもん。もう、海老蔵アメブロしか見てないもん。今日も水しか飲んでないのかなーつって。今回、水がテーマなので海老蔵ゲスト出演です。

かつての僕が触れて憧れたインターネットは、たとえ生活は水槽の中に身を置く時間が生活のなかの多くを占めていたとしても、自分はあくまで大海原にいる、そんな実感を教えてくれる存在でした。しかし今のインターネットはどうでしょう、殊更に水槽を意識させる、そのための言論をぶん回すそんなインターネットになってしまってるような、そんな機運をずっと感じています。

ここらへんから唐突に恋愛市場の話にシフトしていきますが、興味深いのは水槽の中で虐げられる側、いわゆる非モテ属性の方々ですら、それらの言説を積極的に摂取して同調して、水槽の中に自らを閉じ込めているところです。自らと周辺の環境を水槽と定義して、その中で甘い汁を啜ろうとする浅ましい馬鹿どもがそのように振る舞うのは一定の合理性があるのですが、水槽の中では息苦しい割りを食わされる人たちが、そのような論調を受け入れて嘆き節をかますというのはもったいないなぁというのが詰まるところの所感です。

僕の、友人知人を見てると、恋愛をしたい奴は恋愛してますよ。したくない奴はもちろんしなくていいししてないけど、したい奴は勝手にしてますよ。何かしらの事情やコンプレックスを抱えていようとも、そんなものは水槽の中で植え付けられたものに過ぎないと割り切って、大海原に出てますよ。マッチングアプリは結局ステータス勝負ってインターネットで嘆いてる人を見かけても、実際にリアルでカネもないし見目も大して加点にならないようなやつらがマッチングアプリで気の合う誰かと出会ってパートナーになってるの、よく見かけます。パートナーを作れて一人前とか全く思わないし、大海原を進む人はそれが一人で進もうがパートナーと進もうがいずれにせよ同じ大海原を行く人としてリスペクトすることに変わりはない。ただしそれでも、インターネットの極端な言説に触れることなく大海原を誰かと共に人生を歩みたいと思った人たちが、マッチングアプリで出会って「はじめましてよろしくおねがいします」からパートナーシップを築いた結果を見聞きしていると、インターネットで「どうせ年収や見た目で判断される」みたいなこと言ってる人たちがいるのはあんまり良くないよな〜と思ったりする。

誤解されたくないので、「あなたがそうしたいのであれば」というエクスキューズは挟みたい。結婚できて一人前、セックスする相手ができて一人前とか、そんなことは思わない。そんな価値観クソ喰らえとしか思わんのだが、あなたの主観がパートナーを希求していて、そしてそれが叶わない現状があったとして、それが叶わない理由を他所に探して求めるのはやめようよって感じ。

今、あなたがいる場所が、水槽なのか大海原なのか、それを決めるのはあなたに他ならないし、あなたが自分の意思でそれを決めたなら、それにケチをつける奴はハリガネムシに他ならない。そんな奴らに踊らされて、まんまと溺れてはいけない。大海原のうえで、じゃぶじゃぶと地に足をつけて生きるより仕方ない。目の前に立っているのは人間で、社会なんかどこにもない。

 

以上です。

 

子は親に関白宣言を謳ってくれない

間もなく5歳になる息子がいる。

生まれた時は3000gあるかないかだったのが今では15kgとか16kgとかだかで、目に入れても痛くないか試そうとしてももうまるで全然入らない。入るわけがない。目に入れるとしたらまず足からかなと息子の足を俺の目に近づけてみたところで、踵を俺のまつげでくすぐられた息子がけたけたと笑うばかりだ。つまり、目に入らないからと言っても、まるで可愛くないわけでもない。息子が笑うと嬉しい。

生まれてからこっちまでのあいだ、ほとんど運動神経が犬にも到底及ばないしょぼい犬くらいのもんだと思っていた息子も、さすがに5歳が近づいてくるとようよう立派な社会的動物に成長しているように感じる。つまりは猿には到底運動神経が及ばない猿程度には色々考えるようになっている。それはかつての俺であり、彼はこの先、かつての俺と同じように社会の中でえっちらおっちらどうにかどさどさ回ってどうにか生き長らえようとするホモ・サピエンスへと成長していくのだろう。

この春から幼稚園の年中組になった息子が、先日初めて、人間関係に関するネガティブな話題を口にした。別にそれほど深刻な話題でもなく「同じクラスの誰々君が好きじゃない」と口にしただとか、そのレベルの話だ。しかしそれは、この前まで犬ころと変わらずに見えた彼と、ちょっとした猿にしか見えなかった彼とは違う、社会的動物の第一歩を踏み出したその発露であり、親にとっては一大事である。また同時に、それが息子本人にとっての一大事であることも、かつて犬ころ同然であり猿同然に過ぎなかった時代があって今ここにいる俺も、親としてではなく俺個人として知っている。

俺は幼稚園も含む広い意味での学校教育(集団教育?)のなかで繰り出される「みんな友達なんだから仲良くしましょうね」という謎の妄言と、馬鹿ほど喧嘩をしていた性質である。甲本ヒロトがどこかのインタビューか何かで言っていた話で、なんとなくの要約にはなってしまうのだが「山手線で同じ車両に乗り合わせた人たちと仲良く友達になりましょうね、そんなん無理じゃん。でも喧嘩もしないじゃん。学校ってのはそういうことを練習ところじゃない?」みたいな、そんな話を小耳に挟んだのも随分大人になってからだ。この甲本ヒロトの話はなかなか耳が痛く、幼稚園から中学くらいまでの僕は「みんな友達なんだから仲良くしましょうね」みたいな大人から押し付けられる言葉を真に受けてそしてそれに反発しすぎて、随分損をした。無駄な諍いを同じクラスメイトとも教師ともしたし、いわゆるスクールカーストのマウントの取り合いにも「腐心した」と恥じる気持ちと共に告白してもそこに嘘がない。殴って殴られて突っかけてすっ転んで誤解されて疎まれて、誰かを悪者にしたり、誰かに悪者にされたり、人気者になったり爪弾きにされたり、まあ高校まではそういうことをずーっと繰り返していたなと自身を振り返るしかない。それから、もちろん相手は選ぶけれども自分の未熟を省みて人に頭を下げて、人に好意というか「お前と仲良くやりたい、お前という人間を尊敬している」を素直に伝えるようになったりとか、そういうふうにして教室とか山手線の車両みたいな同じ箱に閉じ込められていなくても時たまに連絡を取り合って楽しく話せる時間を作れるような友人ができるようになるのは、大学生になって社会人になってというそれなりに先の話だ。

 

なので、「同じクラスの誰々君が好きじゃない」みたいなことを言う息子に俺から言えることは思いの外見つからなかった。

 

歯を磨かねば虫歯になるし、食べ物の好き嫌いはできることならしない方がいい。風呂には毎日入った方がいいし、机に向かって読み書きを練習する習慣はないよりもあった方が良い。100%間違いないことはあるし、そういうことを教えて躾けることは容易い。しかし、そこに留まらない社会的な生き物に俺の息子はいよいよなっていくのだな、ということを感じるばかりであった。

不仲のそいつと何があったのか、ふんわり聞いてみたもののふんわりだけあって多くは聞けなかったが、まあなんか仲違いになるエピソードがあったのだろう。できるだけふんわり話しやすいトーンで聞いてみたが、彼もあまり話したくなさそうだったので、まあいいかと思った。何より俺もそんな5歳児同士がどういう喧嘩をしたとかマジでどうでもいいし。彼にとってそれが一大事であることはわかるけど、傍から見たらどうでもいいどこにでもある些細な出来事であるんだろうと思うし。

なので俺は、よくわからんけど、「一回喧嘩したら二度と仲直りしちゃいけないわけではないから、向こうが遊ぼーって言ってた時に嫌じゃなかったら遊んでもいいし、もし自分から言いたかったら遊ぼーって言ってもいいんだよ。嫌なら遊ぼーを断ってもいいし、遊ぼーって言わなくてもいいと思うよ」と言った。

キリストが生まれただか死んだかが西暦の区切りらしいけど、それより前も後もずっと「みんな仲良く」とか「みんな誠実に」と喚き続けてそれをやり尽くしてのこの2022年、俺もお前らも、この悲惨な有様だ。人間関係について俺が人に教えられることはとてもとても少ない。俺が子供の頃から教えられてきたことも何もかも嘘ばっかりだ。自分の都合や立場を避けて考えれば、自分の子供に限らず自分より下の年齢の奴らに俺が胸を張って教えてやれることなんて一握の砂からこぼれ落ちるほんの一粒くらいなんだろう。だから教えられることはほとんどないことを恥じながら、手前の見栄のために間違ったことを偉そうに大人ぶって教えることもいけないと思う。

ここまで心掛けたところで笑えるほど答えはない。いっそ答えがあれば良いのにな、とも思う。その答えを誰かが教えてくれればどんなにラクだろうか。

お前を親にもらう前に言っておきたいことがある。

そんな風に言ってくれれば、どんなにラクだろうか。

だけどそんなことは子供は言ってくれないから子供に何を言うべきかはわからないし、まあもっと言えば恋人も配偶者も友人も会社の同僚も部下も上司も、誰もそんな宣言してくれないし、だから自分で考えるしかないんだなーと思う。

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと言うけれど、ならば自分を賢者と思わない愚者にできることは、愚直に目の前の人間の今に自分の今で寄り添うことで明日を考えて、相手の今を邪魔しないことしかないんじゃないかなと思う。

 

以上です。

 

批評をするうえで心がけたいこと

作品を馬鹿にするだけの批評が面白く感じられることはそりゃまぁある

でもそれってたぶん本当はそんなに面白くない

批判的な腐す批評はカウンターとしてならあった方がいいだろうなと思う

俺も「世の中的にはみんな大絶賛だけど俺は全然納得いってないけどね、つまんなかった」みたいなことはたまによく言う

でもただのつまんない映画を批判してアテンションを集めるのはつまらないと思う

俺が批評したい時は常に他の奴らのアテンションが気に食わない時だ

ただの面白い映画をめちゃめちゃすげーって騒いで盛り上がるノリも商業的には必要なのかもだがつまらないことも多い

コンテンツを面白がる層は「党派性とかじゃなくて、面白いものは面白い!面白くないものは面白くない!」てノリでいたいんだと思うけど全然できてないと思う

SNSには一人でカーテン締めて膝を抱えて暗灯りのなかブラウン管で映画を観てつまんねーなおもしれーなと考えてたことを忘れてた奴らが多すぎる

おわり