←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

3歳児の息子が射幸心に取り憑かれる瞬間を目撃した

あのー、息子がおかげさまで3歳になりまして。よその子は早い言いますけど自分の子も早いやんけ言うてますけどもね。この前まで寝返りも満足にでけん思ってたもんが最近は毎日跳んだり跳ねたり挙句に人語まで操るようになってきててね、すげえはっきりとした口調で「お父さん!お母さん!」て言うから言われるたびに「なんやこいつなんぞ鬼退治でも行くんか」思いますよね。「おじいさん!おばあさん!僕は人々を苦しめる悪い鬼どもの両手両足の全爪を剥ぐ旅に出ようと思います!」の「おじいさん!おばあさん!」のテンションで「お父さん!お母さん!」って言うんでね、そのままその後に鬼退治に行くことを宣言するんちゃうかな思って、「お父さん!お母さん!僕は我々とは異なる肌の色を持つ鬼という種の両手両足の全爪を全個体から剥ぐ旅に出ようと思いますので、大義名分となる日本一と書いたのぼりを、手をつけずに僕名義の口座に貯金してくれている祖父母からのお年玉を元手に発注してください!!」って言い出すんちゃうかなくらいのハキハキした感じで「お父さん!お母さん!」言うんでね、よその子は早いけど自分の子も早いなー言うてますけどもね、レイシストに育たないようにいろいろ考えなあかんね思ってますけども。

ほんで3歳になったんでね、なんやかやプレゼントなんか買い与えたわけですけどね、その中の一つにね、今話題の藤井二冠も幼少期に買い与えられてたよーみたいな感じで話題にもなってた、なんかボールを転がす道を作るおもちゃみたいなのが世の中たくさんあるんですわ。藤井二冠が買い与えられてたのは、なんか木で出来たすげー高いやつだった思うんですけど、うちで買ったんはなんかプラスチックのね、スロープやらなんやらがたくさん100個くらい入っててね、それを組み合わせてボールがうまく転がっていくようなコースを作ろうねーみたいなおもちゃ。なんか今流行りのね、プログラミング的思考ってやつですね、プログラミング的思考、つまりあれですよね、上司とかに「これできる?」て言われた時に「技術的には可能です(現実的とは言ってない)」って強く言い切る胆力、要件や仕様がすげえフワフワしてる「こういうの作って欲しいんだけど作るとしたらいつまでにできそう?」に対して決していつまでとは言わずに「まあ、どこまでやるかですよね」と即答する胆力、つまりそういう胆力全般のことをプログラミング的思考って言うらしいんですけど、嫌われる勇気かな!?プログラミング的思考って要するに嫌われる勇気のことなのかな!?

まあ僕は人生の中で週刊少年ジャンプのみ履修してるド文系なんでよくわかんないんですけど、このボールを走らせるコースを自分で組み立てるおもちゃでプログラミング的思考が育まれるよって言われてるらしいんですよ。なんでこんなもので物怖じしない胆力が育まれるのか学のない僕にはよくわからないんで眉唾なんですけど、まあ胆力は育たないにしてもね、さまざまなパーツを組み合わせてボールの進むルートをコントロールしようとしてたらね、得たい結果から逆算しながらそれを実現することができるかもしれない手段となる数多もの選択肢を組み合わせてここに実際にボールを転がしたらどういう挙動になるだろうかという未来を考えながら物事を組み立てていく力くらいは養われるんじゃないかなーと思って、そういうおもちゃを買い与えたんですよ。

で、まあ、今はまだ3歳なんでね、息子が自力でそういうのを組み立てるのはまだ先かなーってことで僕がコースを作ってやってって遊び方になるわけなんですけども。

これがまー面白くて。俺が。

急カーブとかスロープとか、あと風車が回るカーブとか、ボールがジャンプする滑り台とか色んなパーツがあってね、パーツ全体の総数は100個くらいって決まってるので、その制限の中でいかに複雑でエキサイティングなコースを作るかってのがすげえ面白いの。高さがあった方が燃えるし、高さを作るにはパーツを積み上げる必要があるし、パーツを積み上げるにしてもその全てのパーツが「高さを積み上げる」だけではなくて「ボールの通り道」としての役割もきっちり果たさせてやりたいなーて思うからそうすると全体の構想をやっぱ最初に考えなくちゃならなくて、そういうこと考えながらパーツを組み立てていって「最終的にはボールを入れるスタートは何個で、この道を通るのはあのスタートから入ってくるボールで」みたいなことを考えながらやっていくのが超楽しいの。時には「あ、そっか!この組み立て方だとボールがこっちに逃げちゃうから思い通りに動かない!」みたいな気づきと反省も交えながら完成させたものを息子がキャッキャ言いながら遊んでくれたら本当に嬉しくてね、これでもう少し息子が大きくなったらこのコース作りの過程も一緒にやれるようになって、そうなったらめちゃめちゃ楽しいだろうなーと思って。もうそれだけで十分だよね、プログラミング的思考なんて身につかなくてもいい、それができればもうそれで十分だよなーなんて思いながら俺が楽しんで遊んでるんですけどもね。

ほんで、毎回コンセプトを持ってコースを作っていくなかで思いついたのでね、ボールが二手に分岐するパーツが二つあるんですよ。線路の切り替えスイッチみたいな感じで、ボールが一つ通るたびにスイッチして、一つ目のボールはAルート、次のボールはBルート、そしてまた次のボールはAルートっていう、そういう分岐が作れるパーツが二つあってね、これをうまく使ったら「ボールを入れる穴は一つだけ。そこから分岐があって、その一方のルートのその先には更に分岐があって、ボールを4つ入れたらそのうち3つは同じゴールに辿り着くんだけど残りの一つはスロープを超えて滑り台からジャンプしてめちゃめちゃエキサイティングなルートを経由して別のゴールに辿り着く」みたいなやつ作れるな思って。こりゃ息子も喜ぶぞ思って作ったったんですよ。

ほんで出来上がりを息子に与えてみたらね、これがもう息子も大興奮。ワーキャー騒ぎながらボールを次々にスタート地点に放り込んでいく。で、たまに、特別ルートに入るボールが出たら更に大興奮。ギャーギャー騒ぎながらボールの行く末を見守ってる。あー、楽しんでるなー作ってよかったなー思いながらそれを眺めてたら、まーそこからが長い。全然飽きない。どんだけお前やるねん言うくらいずーっとボールを投下し続けてる。3/4のボールが辿り着くゴールのボールを掬いあげてまた再投下し続けて1/4のゴールに全てのボールが辿り着いたらワーキャー騒いで、また全てのボールを再投下し始める。1/4の確率で発生する特別演出にはしゃぎながら一心不乱にボールの行く末を見守っている。それを何回か繰り返すうちになんか息子はだんだんイライラしてきて、ついには3/4のルートに入ったボールを奇声あげながら叩き出してゴールに辿り着く前にボールをルート遮って取り出してまたスタートから再投下してるちょっと待てこれパチカスやんけ!!!!!

こいつめちゃめちゃ射幸心煽られてるやんけ!!!

1/4で発生する高揚感に取り憑かれて頭おかしなってるやんけ!!!

あかんあかんこんなもんあかんぞ、パチカスやんけ、そう考えたら合点がいったわこいつ完全に台バンしとるぞ。よう見たらこいつなんか途中からめちゃめちゃチェーンスモーカーみたいな目つきしとるがな。あかんあかんあかん、お父さんとんでもないもん作ってもうた、とんだモンスター作ってもうた、クソ無法地帯YouTubeからすらも締め出されつつあるクソ人間破壊遊具作ってもうた、なんの気なしに作ったもんがこいつ初めての廃課金体験しとるわ。えらいこっちゃ。

言うてね、とりあえずヤバイ思って速攻バラシたったんですけどね。いやーびっくりした。人間怖〜。人間愚か〜。この3歳児人間やんけ、パチカスのおっさんみたいな挙動、3歳児もめちゃめちゃするやん。完全に三つ子の魂百までやんけ、こんなもんにヒートアップしてしまう人間の愚かさ怖いし利益のためにこれに人生を破壊される人間がいることをしながら商業展開し続ける資本主義怖〜っ!

いやほんまね、些細なエピソードからこの3歳児の小僧のね、これからの長い人生のどこかしこに隠れてる落とし穴のその一端、見ましたね。

世界怖〜、人間の浅はかさ怖〜!!

こんな感じで、人間はあかんものにハマるんやね、運と確率に依存してパチカスになるかもわからんしガチャ廃課金勢になるかもしれんし、欲しいのは高揚感やからね、累計プレイ時間がものを言うゲームで四六時中いつ見てもログインしてる廃人MMO勢になるかもしれんし、この俺の息子もそういう人の高揚感を刺激する悪魔にいつ取り憑かれるかわからんもんやね。もうあかんわ、プログラミング的思考なんか要らん、こんなおもちゃ怖すぎる怖すぎて怖すぎる、息子にはそんなんなって欲しくないからね。インスタントな高揚感に取り憑かれて時間や金を無駄にする人間には育って欲しくないから怖い怖い怖い、これはもうアレやな、運もプレイ時間も関係ない、己の腕と技量だけが試される弾幕縦シューやらせるしかないね。もうこうなったら成人なるまでは怒首領蜂だけやらせとこ。怒首領蜂さえプレイさせとけば、世界で頼れるのは自分の力量だけ、射幸心なんかにうつつを抜かさない、己の腕一本の研鑽を至上とする立派なプログラミング的思考を持った人間に育つはずや〜〜。

以上です。

藤井聡太にはしゃぐ白鳥士郎、世界陸上の織田裕二っぽい

藤井聡太すげえなぁ、俺が物心ついた時には羽生善治はすでに化け物として頂点に君臨してたけど、羽生善治がそこに至るまでの軌跡とその過程で「なんじゃこの化け物は」と唖然としながらも魅せられていく世の中の興奮がどんなもんだったのかを俺は藤井聡太を通してこれから体験することになるんだなぁ、ってすげえワクワクする中で『りゅうおうのおしごと!!』っていう将棋を題材にしたラノベを書いてる作家さんがいるんだが、まあこれがなんかちょっとノリがきつい。きついのである。きついとしか言いようがない。なんか、きついのだ。なんでもその作家さんは高校生くらいの年齢で竜王のタイトルを獲得した棋士を主人公にしてるらしくそれで作品を書き始めた当初は「そんな無茶な設定があるか」と叩かれたりもしたそうで、それならまあ大変辛い思いもしたことなのだろう。しかしその荒唐無稽だと言われた設定を現実のものにしてしまう藤井聡太の活躍に強い思い入れを持つことは無理からぬことなのかもしれないが、そのテンションが、そんな彼の事情なぞ知ったこっちゃない俺からするときついのである。もちろん彼は将棋に対する敬意もしっかりと持ち合わせていて一人の将棋ファンとして新たなスターの誕生を我が事のように喜んでいるだけなのはわかるのだが、その我が事具合がちょっと距離感おかしく見えてきついのだ。これは彼が悪い、彼は行動を変えるべきだという話ではなく、ただ俺にとってきつい、というだけの話なので彼は何も悪くないし俺の問題なのでとりあえず俺は彼のTwitterをブロックしたわけだがしかしそれだけでは対処としては全く不十分に足りず藤井聡太についてのネット記事を漁ろうとすると彼の気色ばんだ変に熱っぽい変なテンションの筆致に出会い頭の交通事故でぶつかることはどうも避けられないようで「これもしかして藤井聡太が八冠取るまでそしてそのあともずっと続くやつなのかよ」と暗澹たる気分なのである。

しかし繰り返すにこれは俺の問題なのでただ俺はそれを受け入れるしかないわけだが、受け入れるしかないからこそ、なんなのだこのきつい感じはと考えるわけだが、まあ一言でいうと関係ないじゃん。本質的に全然関係ないじゃん。「現実がフィクションを追い抜いていく」と言われても、それはだって君、君は紙に「この人、高校生で竜王になりましたー、ってことでひとつよろしく」って書いただけのことじゃん。俺は、現実に存在する、俺には逆立ちしても何一つわからんすげえ頭の良い軒並みに化け物みたいな人間どもが人生を捧げて鎬を削り合う将棋という全員化け物世界の中に現れた藤井聡太を見てすげえなって思ってるだけだから、「俺の考えた化け物よりすごい化け物が現実に出てきました」って言われても「いや、君の話してないんだけど」としか思わないのである。まあ彼がはしゃぐ気持ちはわからんではないし、まあなんかとりあえずこれを契機に将棋がもっと盛り上がればいいなと考える人たちが彼の声を率先して拾いに行く事情もわかるんだけど、なんか俺としては本質的には関係ないじゃんと思ってきついのである。

で、気付いたんだが、彼は要するに世界陸上織田裕二なのである。俺は陸上にはこれっぽっちの興味もないので、シラフであのテンションではしゃげる織田裕二すげえな面白えなとしか思ってなかったのだが、やっぱアレ嫌いな人は嫌いだし、まあ嫌いな人にも色々いるんだろうがたしかに陸上にそれなりに思い入れがある人だったらあの織田裕二はかなりムカつくのかもしれないな、と思う。考えると世の中そういうことがきっとたくさんあるのだろうな。

そういえば、いいともが終わったあたりからタモリは神みたいな雰囲気が世の中の主流になってきたような気がするが、それはまあ後釜のバイキングが本当に害毒の塊みたいな番組なので「毒にも薬にもならない『いいとも』は実は素晴らしかったんだな」みたいになるのもまあわかるものの、ちょっと前のタモリはいつもやる気のない大して面白くもないおじさんみたいな見方も強く、好きなアーティストのパフォーマンスを見たいのでMステは見るもののタモリの気怠いトークには常に文句を言う人たちというのは一定層存在していたなと思うし、そういうものなんだろう。

たとえば坂本龍馬はとてもファンの多い歴史上の人物であるが、坂本龍馬のファンが全員武田鉄矢のファンであるはずはないわけで、武田鉄矢も好き嫌いがすっぱり分かれるタイプの人間なのできっと世の中には坂本龍馬がたまらなく大好きで武田鉄矢は普通に嫌いな人というのも世の中にきっとたくさんいるはずで、そういう人たちからするとテレビ番組で坂本龍馬特集なんかをやった時にゲストに武田鉄矢が出てきた時というのは本当にもう膝から崩れ落ちるような気持ちになるのだろう。

そういえばこち亀のアニメ化が決まって声優がラサール石井に決まった時も当時の時点で既に彼の人間性があまり好きじゃなかったので若干イラッとしたしTwitterが普及した近年では更にラサール石井ラサール石井らしさが広く知られるようになったわけだが2016年にラサール石井主演でこち亀が舞台化した時のイラッとした感じはひとしおだった。

あと、内村光良全然好きじゃないから子供の頃から大好きだった紅白歌合戦が最近きつい。

きっとこんな感覚を誰しもが何かしらに抱えて生きているのだろう。そんな話をちょっとTwitterでしたら、野球大好きなんだけど中居正広が好きじゃない、というリプライが来て笑ってしまった。

ただハリウッド映画を愛してるだけなのに、いいともにハリウッド俳優が出てきた時になんか知らんけど戸田奈津子がついてきてなんなら戸田奈津子がいじられてスポットを浴びるみたいなのも、たぶん本当にハリウッドスターが好きな人からするとかなりイラッとするんじゃないかなとも思う。

ぐるナイグルメチキンレースゴチになりますをこよなく愛する人の中には江角マキコがレギュラーになった時に相当頭を抱えた人もいたことだろうし、矢口真里がワンピース大好き芸人枠に収まって主題歌まで獲得したことに落胆した人は枚挙に暇がないだろう。菅原小春、24時間テレビ秋元康とコラボするのかよ。わさビーフの新デザインをキングコング西野が手掛けたことに落胆するわさビーフファンもいるだろうし、いろんな人のコンピレーションアルバムにすぐに参加する井上陽水奥田民生に「もうお前はいいよ」と思う人たち。すーっぐ、全部、自分の「節(ブシ)」にするじゃん。いや、コンピレーションアルバムって確かにそういう趣旨かもしんないけど、お前の「節(ブシ)」はもうわかったからもういいよ、その一枠、もっと若手に譲ったってよ。お前の「節(ブシ)」がすごいのはもうわかったからさ〜。

世界はすべてが自分の思い通りになることは決してなく、私たちの「好き」は大きな流れの中でちょっと私にとっては苦手な人気者をも巻き込みながらムーブメントになっていく。それにちょっと乗り切れない時もあるけれど、それでも私たちは「好き」も「嫌い」も抱き締めて生きていくしかないのであろう。

ところで、さかなクン嫌いな魚好きって存在するのかな?さかなクン嫌いな魚好きがいたらDMください。

以上です。

「無理が通れば道理引っ込む」恐れがある以上は断定口調の放言は炎上し続ける

 

外出自粛ムードの2020年日本のお盆に大変インスタントな話題を提供して、実は人間の脳の中には顔と名前を見た瞬間に「こいつなんの人だったかあんま覚えてないけどとりあえずお前はもう一言も喋ってくれるな」という思い出し方になるような記憶の残り方になる海馬のぶぶんが人間にはあるんですけど、多くの人の脳のそのぶぶんの海馬に顔と名前を刻まれたおじさんがこの夏にいたみたいです。

そしてその後の弁明はこんな感じらしいです。

 

で、めんどくさいんで、この炎上の詳細自体はみなさん概ね把握してる前提で話を進めますけど、というか個別の案件として詳細に語る必要もないほどにありふれた炎上案件だと思うんですけど。

色々な炎上案件が日々立ち上っては消え、いわゆる炎上で燃やされた側がどうこうなってしまったりなんだったりって話も多い昨今なので一緒くたに語られることも多いんですけど、やっぱ今回みたいな「断定口調の放言」による炎上は、たとえば明らかな誹謗中傷とか芸能人が文春砲なんかをきっかけに叩かれるのとかとはまたちょっと違うこういう部分もあるんですよ、っていうことを思って書き始めました。

 

SNSでアテンションを高めるテクニックとして「断定口調で」「言い切り型で」「強い言葉で」自分のオピニオンを発信しましょうみたいなのは、まぁぶっちゃけ10年前は言い過ぎかもだけどずーっと長らく言われてきてるわけです。

まぁ普通の考え方、というとズルいんですかね、僕の感覚でいうとでもそれって不誠実な態度じゃないの?と思うわけです。だって色々な人の様々な事情を加味して言えばそんなに簡単にズバッと言いきれることってそんなにあるはずがないんです。そこに何か議論の争点になるべき課題や問題点があったとしてもね、それが存在していることには何かしらの事情はあるんでしょうし、本当に議論を進めて改善していきたいのであればこそ、とりあえず強い言葉でアジテーションをぶちかますなんてのはどうなんだろうなと思うわけです。

そんな感じで10年かそこら前はそういう強い言葉を使う人は一部にいつつも、そうじゃないよねーって感じでやってる人もたくさんいたし、そういう風に今後も続いていくんだろうなーと思っていたわけです。

が、なんかいざそこから10年だかが経ってみると、どうも「この強い言葉を使う」っていうのはなんらかのオピニオンを発信してアテンションを集めたい人たちにとっては思っていた以上に常套手段として当たり前に普通に使われる手法として定着してしまいましたね。「こうでも言わなきゃ伝わらないんだ」というマイノリティ側の文脈がポピュラーになったのも大きな要因の一つでしょう。

 

構造としては赤信号みんなで渡れば怖くないに近いんですかね。赤信号を渡るのを面倒だなーって思ってる人が少なくないこと自体は、まぁ僕も知るところではあるんですよ。誰か一人が赤信号を渡ったら「そうだよな!赤信号ちょっとくらい渡ってもいいよな!」って思って一緒に渡っちゃう人がいるってのは、みんな知ってるし自分にもそういうところあるよな、誰にでもそういうところあるよな、ってのはみんなそれなりに承知しているところなんだと思います。

これを応用してとにかく同意見の人たちに強い後押しに賛同してもらうために「こうだよな!俺はこう言い切るぜ!」ってぶちかまして、それを「そうだそうだ!」ってRTしたりいいねしたり賛同意見を寄せたりする人がいる。

もちろんこの例えは主観によるもので人によって「明らかに渡るべきではない赤信号」だったり「本当はこっちが青いのに信号無視をするやつらのせいで渡れない青信号」だったり姿を変えるのでしょうが、ともあれ「強い言葉」が「みんなで渡れば怖くない」の呼び水となるこの構造自体はまぁみんな理解してるところだと思うんですよね。

で、これを放っておくとどうなるか、無反応・ノーリアクションはカウントされず、目に見えて現れる賛同だけがその発言に対する客観的な評価を表す指標となり、そこで「ポジティブな意見が多かった」となればその意見が正当なものとして罷り通ってしまうかもしれない。

まさに人によっては「無理が通れば道理引っ込む」みたいな状態になりかねないという懸念が発生するわけです。

そうなったら、まぁその強い意見に対して「私は違うと思う」人は、そう表明せざるをえないですよね。

 

なんかよくわからんけど突然綱引きに巻き込まれたみたいなもんなんじゃないかなと思います。

「赤勝て白勝て、赤が勝ったら旅館の料理は廃棄前提のフードロスを考えるべき社会にとって良くない存在だ、そーら赤勝て白勝てみなみな綱を引け」

みたいなそんな状態にいきなり巻き込まれたらみんなとりあえず自分の引きたい方の綱を満身の力を込めて引くしかないと思うんですよね。サッカーのゴールポストを運ぶ作業だったら「俺がわざわざ走って加勢に行かなくてもまぁあんだけいりゃ運べるだろ」とかわかるかもしれませんけど、たまたまタイムラインに流れてきたみんながたくさんRTしたりリプライしたりしてる1ツイートが、今どっちが優勢の旗色かなんてゴールポストに殺到している人の数があまりに大勢すぎて実際のところはよくわかりませんから。「そんなにみんなで寄ってたかって殴らないでも」とこのような炎上を見ていて思う人からすると「ちょっと見たらこの人がただただ怒られてるだけなのはわかるでしょ」と思うかもしれませんけど、まぁでもとりあえず人は綱を引くんじゃないかなーと思うんですよね。だって自分が引かないせいで負けて、「無理が通れば道理引っ込む」みたいな状態になってしまったら目も当てられないじゃないですか。

そういう理由で人は目の前の炎上に一言なにかを言ってしまうんだろうなぁと思いますし、こういう構造自体はたとえば不倫がバレただとか七味を無駄遣いしたとか他のタイプの炎上にも言えるようなことなかもしれませんけど、もともと外に発信するつもりで強い言葉を用いたせいで起こった炎上案件についてはもうそれだけで人の「無理が通られてこいらの道理が引っこまされてしまったら嫌だ」という気持ちをも狙って引き起こしてるわけなんで、もう何も言い訳はできませんし、被害者ヅラはできませんし、テクニックとしてそれを使っておきながら「ちょっと言い方を間違えただけです」なんて弁明も罷り通りませんし、自分なりの道理を押し通して相手の道理を引っ込ませるやり方を好んで使った人間がまともな議論をする相手として見做されるのはなかなか今後も難しいんじゃないかなーと思いました。

 

「じゃあそんななかで、炎上を見る側としてはどう考えるべきなの?」という話題は今日は一旦置いといて「なんかインターネットってそういうふうにできているよね」というお話でした。

 

以上です。