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「無理が通れば道理引っ込む」恐れがある以上は断定口調の放言は炎上し続ける

 

外出自粛ムードの2020年日本のお盆に大変インスタントな話題を提供して、実は人間の脳の中には顔と名前を見た瞬間に「こいつなんの人だったかあんま覚えてないけどとりあえずお前はもう一言も喋ってくれるな」という思い出し方になるような記憶の残り方になる海馬のぶぶんが人間にはあるんですけど、多くの人の脳のそのぶぶんの海馬に顔と名前を刻まれたおじさんがこの夏にいたみたいです。

そしてその後の弁明はこんな感じらしいです。

 

で、めんどくさいんで、この炎上の詳細自体はみなさん概ね把握してる前提で話を進めますけど、というか個別の案件として詳細に語る必要もないほどにありふれた炎上案件だと思うんですけど。

色々な炎上案件が日々立ち上っては消え、いわゆる炎上で燃やされた側がどうこうなってしまったりなんだったりって話も多い昨今なので一緒くたに語られることも多いんですけど、やっぱ今回みたいな「断定口調の放言」による炎上は、たとえば明らかな誹謗中傷とか芸能人が文春砲なんかをきっかけに叩かれるのとかとはまたちょっと違うこういう部分もあるんですよ、っていうことを思って書き始めました。

 

SNSでアテンションを高めるテクニックとして「断定口調で」「言い切り型で」「強い言葉で」自分のオピニオンを発信しましょうみたいなのは、まぁぶっちゃけ10年前は言い過ぎかもだけどずーっと長らく言われてきてるわけです。

まぁ普通の考え方、というとズルいんですかね、僕の感覚でいうとでもそれって不誠実な態度じゃないの?と思うわけです。だって色々な人の様々な事情を加味して言えばそんなに簡単にズバッと言いきれることってそんなにあるはずがないんです。そこに何か議論の争点になるべき課題や問題点があったとしてもね、それが存在していることには何かしらの事情はあるんでしょうし、本当に議論を進めて改善していきたいのであればこそ、とりあえず強い言葉でアジテーションをぶちかますなんてのはどうなんだろうなと思うわけです。

そんな感じで10年かそこら前はそういう強い言葉を使う人は一部にいつつも、そうじゃないよねーって感じでやってる人もたくさんいたし、そういう風に今後も続いていくんだろうなーと思っていたわけです。

が、なんかいざそこから10年だかが経ってみると、どうも「この強い言葉を使う」っていうのはなんらかのオピニオンを発信してアテンションを集めたい人たちにとっては思っていた以上に常套手段として当たり前に普通に使われる手法として定着してしまいましたね。「こうでも言わなきゃ伝わらないんだ」というマイノリティ側の文脈がポピュラーになったのも大きな要因の一つでしょう。

 

構造としては赤信号みんなで渡れば怖くないに近いんですかね。赤信号を渡るのを面倒だなーって思ってる人が少なくないこと自体は、まぁ僕も知るところではあるんですよ。誰か一人が赤信号を渡ったら「そうだよな!赤信号ちょっとくらい渡ってもいいよな!」って思って一緒に渡っちゃう人がいるってのは、みんな知ってるし自分にもそういうところあるよな、誰にでもそういうところあるよな、ってのはみんなそれなりに承知しているところなんだと思います。

これを応用してとにかく同意見の人たちに強い後押しに賛同してもらうために「こうだよな!俺はこう言い切るぜ!」ってぶちかまして、それを「そうだそうだ!」ってRTしたりいいねしたり賛同意見を寄せたりする人がいる。

もちろんこの例えは主観によるもので人によって「明らかに渡るべきではない赤信号」だったり「本当はこっちが青いのに信号無視をするやつらのせいで渡れない青信号」だったり姿を変えるのでしょうが、ともあれ「強い言葉」が「みんなで渡れば怖くない」の呼び水となるこの構造自体はまぁみんな理解してるところだと思うんですよね。

で、これを放っておくとどうなるか、無反応・ノーリアクションはカウントされず、目に見えて現れる賛同だけがその発言に対する客観的な評価を表す指標となり、そこで「ポジティブな意見が多かった」となればその意見が正当なものとして罷り通ってしまうかもしれない。

まさに人によっては「無理が通れば道理引っ込む」みたいな状態になりかねないという懸念が発生するわけです。

そうなったら、まぁその強い意見に対して「私は違うと思う」人は、そう表明せざるをえないですよね。

 

なんかよくわからんけど突然綱引きに巻き込まれたみたいなもんなんじゃないかなと思います。

「赤勝て白勝て、赤が勝ったら旅館の料理は廃棄前提のフードロスを考えるべき社会にとって良くない存在だ、そーら赤勝て白勝てみなみな綱を引け」

みたいなそんな状態にいきなり巻き込まれたらみんなとりあえず自分の引きたい方の綱を満身の力を込めて引くしかないと思うんですよね。サッカーのゴールポストを運ぶ作業だったら「俺がわざわざ走って加勢に行かなくてもまぁあんだけいりゃ運べるだろ」とかわかるかもしれませんけど、たまたまタイムラインに流れてきたみんながたくさんRTしたりリプライしたりしてる1ツイートが、今どっちが優勢の旗色かなんてゴールポストに殺到している人の数があまりに大勢すぎて実際のところはよくわかりませんから。「そんなにみんなで寄ってたかって殴らないでも」とこのような炎上を見ていて思う人からすると「ちょっと見たらこの人がただただ怒られてるだけなのはわかるでしょ」と思うかもしれませんけど、まぁでもとりあえず人は綱を引くんじゃないかなーと思うんですよね。だって自分が引かないせいで負けて、「無理が通れば道理引っ込む」みたいな状態になってしまったら目も当てられないじゃないですか。

そういう理由で人は目の前の炎上に一言なにかを言ってしまうんだろうなぁと思いますし、こういう構造自体はたとえば不倫がバレただとか七味を無駄遣いしたとか他のタイプの炎上にも言えるようなことなかもしれませんけど、もともと外に発信するつもりで強い言葉を用いたせいで起こった炎上案件についてはもうそれだけで人の「無理が通られてこいらの道理が引っこまされてしまったら嫌だ」という気持ちをも狙って引き起こしてるわけなんで、もう何も言い訳はできませんし、被害者ヅラはできませんし、テクニックとしてそれを使っておきながら「ちょっと言い方を間違えただけです」なんて弁明も罷り通りませんし、自分なりの道理を押し通して相手の道理を引っ込ませるやり方を好んで使った人間がまともな議論をする相手として見做されるのはなかなか今後も難しいんじゃないかなーと思いました。

 

「じゃあそんななかで、炎上を見る側としてはどう考えるべきなの?」という話題は今日は一旦置いといて「なんかインターネットってそういうふうにできているよね」というお話でした。

 

以上です。

もう「グラフでわかりやすく表現」は資格にしません?騙しに使う馬鹿が多すぎ

こういう昨今なので、腹立つ話が本当に多い毎日ですけど、俺こういうの腹立つんだよなー、ほんと一番嫌いかも知れん。

あんまわかってない人を騙すのって、本当にすごく簡単なんですよ。別にグラフに限らずですけど、別に僕だってあんまわかってない人を騙すことなんてやろうと思えばそれなりできるだろうなと思いますよ。でもそれはやっちゃダメだよねーの精神で多くの人は生きてるわけじゃないですか。できるけどやらない。

そんな中で、できちゃうからやっちゃう奴にのさばられると本当にどうしようもないんですよ。だって、できちゃうんだから。あんまわかってない人は馬鹿ほどたくさんいて、騙眩かそうと思ったらなんぼでも騙眩かせる人なんてゴマンといるわけですから。こっちは矜恃でやらないってしてるのに、それを好き勝手騙眩かそうって矜恃も何もない馬鹿にやられちゃったらマトモな側はどうしたって勝ち目ないんですよ。

矜恃もない馬鹿があんまわかってない人を騙眩かそうとインパクトのあるグラフを使ったら、それに対しては正攻法ではどうしたって勝てないんですって。だってインパクトの多い方にみんな飛びついちゃうんだから。本当に勝ち目がないんです。耳目を引く、派手でインパクトのある嘘グラフを訂正しようとしたところで、そっちはそんなに拡散されないんですから、なぜなら地味だから。

これいい加減なんとかしません?「これじゃあダメだろ」って思ってる人自体は一定数いるはずなんですけど、あんまわかってない人の数の方が遥かに多いから、逐一訂正っていうやり方では絶対に無理なんですって。一定いるあんまわかってない人が、自分の信じたいものに飛びついてしまう。これを止めることは「正しいグラフの見方」「ダメなグラフの見極め方」を啓蒙するやり方ではもう絶対どうしたって無理なんだから。「そんなことはない」なんて反論はやれるもんならやってみろってレベルで無理。

じゃあどうするんだって考えたら、とりあえずもうこれ、資格にしません?

業務独占の資格じゃなくていいから、名称独占の資格にしません?

業務独占ってのはたとえば医者とかの、「その資格持ってないやつがその業務やったら即シバきまわしますよ」みたいな資格ね。

対して、名称独占ってのは行政書士とか美容師とかまー世の中にたくさんあるんですけど、誰が実際の業務をやって対価もらっても別にいいんだけど「私資格持ってるんでちゃんとしてるんで、って勝手に名乗ったらシバき回しますよ」みたいなそういう資格。

さすがにグラフ作るのを業務独占の資格にしてしまったら、みんな一般人はグラフを作ってはいけなくなってしまうわけですから、なんだっけ、あの、エクセルとかパワーポイントを作ってる会社の人!なんだっけ!あのメガネの!ここまで出てるけど名前を思い出せない!思い出した!カーネルサンダースカーネルサンダースさんが黙っちゃいないから。資格がないと誰もグラフを作っちゃいけないとなるとさすがに世の中は回らなくなるし、カーネルサンダースの収入が無くなって個人で趣味として飼ってる2億羽のニワトリが飢え死にしてしまいますから。カーネルサンダースはエクセルとパワーポイントを売って得た副収入で2億羽のニワトリを趣味で飼育していますのでね、さすがに業務独占資格にするのはダメだなと思うんですけど。

せめて名称独占みたいな感じにしちゃってですね、なんか世の中の人々の行動をうわっと変えてしまうようなセンセーショナルなグラフが出てきた時にね、これを作った奴は誰なんだ、信用できる奴なのかみたいな、そういうのが一目でわかるような資格を作っちゃってさ、「あーちゃんと資格を持ってる人のグラフならこのインパクトはそのまま真に受けていいんだ」とか「これは資格のない人が作ったグラフだから当てにしちゃいけないなー」とか、それくらいはあんまわかってない多くの人々にも「名乗ってるか名乗ってないか」くらいはわかると思うんで。 まずはそこらへんからやっていきませんか?とマジで思ったんだよねぇ。

インターネットの極端な議論だと「インターネットにアクセスできるのを免許制にしよう」みたいなのもたまに見かけたりするけどさ、もうそれは無理があるから、インターネットってうんこくらい誰でもしてるから。うんこくらい誰にとっても身近だから。インターネットを免許制(免許取ったやつにしかアクセスできない)にするのは流石に無理があるからさー。

じゃあその手前のところで、水際作戦考えようよって本当に思うし、グラフに限らずだけど信憑性のひとつの目安として「資格にしちゃう」っていうのは、与太話じゃなくて本当にみんな考えようよと思う。何十年何百年かかってもいいから。ホモサピエンスが何千年何万年、火との付き合い方を考えてるように、情報発信との付き合い方をみんなで本気で考えていこうよ、と本当に俺は思っているのであった。

メリークリスマス、竹内まりや

以上です。

加害者を作るルールを野放しに加害者だけに憤る皆様へ

 

起きてしまったことは大変に悲しいことであるし、遺族の思うところももっともで、今後裁判の成り行き次第で自治会の人たちが賠償を支払うことになったとしてもそれはそれでまあ仕方のないことなのかもしれないとは思う。

しかしまあそれはそれで法廷の方でこれから進んでいく話であって、こういうことがありましたよってニュースを第三者として見聞きする我々が考えるべきことやるべきことというのは「自治体のやつら何てひどい奴らなんだ、障害者差別だ」とこの事件においていわゆる「加害者」の立場となった人々を非難して攻撃して溜飲を下げることではないんじゃないかなともこれに寄せられるインターネットのコメントたちを見て思ったのだった。というか、「溜飲を下げることが今やるべきことである」なんてシーンは本当のところはそんなシーン我々の人生にとって1秒たりともない。

なんだっけ、名前ド忘れしちゃったんだけどさ、あのー、白衣の人間の頭部に寄生してその人間の行動を自在に操って生きる生態の魚いるじゃん?たぶん想像なんだけど栄養も寄生してる人間の脳から直接吸い取ってるとおもうんだけど、なんだっけあの魚、名前が出てこない!「今日もお勤めギョ苦労であった!ギョ褒美に今日も楽しい魚たちの夢を見せてやろう」「あー!目を瞑ると視界いっぱいに美しく輝かしいイワシの群れが!ありがとうギャざいます!明日もあなた様のためにせいいっぱいギョ奉公させていただき、あーっ!あーっ!イワシがーっ!あーっ!!」の魚いるじゃないですか。なんだっけ、あの魚、名前が全然出てこない。

あの魚がなんかで言ってるのを聞いたことがあるんですが、大きく広い海ではそんなことないのに、小さな水槽の中では魚のなかでもいじめが発生する、と。せせこましく窮屈な水槽のなかではどういうわけか、なぜかいつもいじめが起こってしまう。それは、いじめっこを取り除いても変わらない。なぜかまた別のいじめっこが出てくるだけなのだ。だから水槽のなかに留まるのではなく、大きな広い海に出てみよう。そうしたら楽しいことがいっぱいありますよ。みたいなそんな内容だったと思います。

これはたしか「学校でいじめられてる人へ」というテーマでの文章だったと思いますが、いじめられている側の人たちを励ます以上に示唆的な話だなと思います。

それはつまり我々はせせこましく非効率的で合理性に欠けるルールの中では、誰もがいじめる側に回ってしまうかもしれないということです。僕もあなたも、誰でも、です。

人間は本来そんなに悪いやつじゃないと無邪気に信じてる部分は僕にも多少くらいはあって、日常のなかで誰かの優しさに触れてハッとしたり考えさせられることって生きていても少なくない。しかし同時に人に嫌な思いをさせられることももちろんたくさんあって、しかしそれは人間がどうしようもなく悪い生き物だというよりかは、その大半は弱さやずるさから来るのではないかと考えます。

どうしても誰かが損をしなくてはならないルール、個人個人がそれなりにランク付けをされて優先順位が生まれてそれが当たり前でそういうもんだとされてしまうルール、そういうルールを持つ世界に身を置かざるをえなくなった時に人間という仕方のないやつは、自分が割りを食わないためにずるいことをしてしまうのだろうと考えます。

人間は、余裕があれば無邪気に気まぐれに人に善意を施すし、余裕がなければ自分にはできてしまう他人への押しつけを我が身かわいさに手を染めてしまう、そんなような生き物なんだろうと考えます。

「それじゃ良くないよね」というムードというものはもちろんあって、そこに不当に割りを食う人間がいるのであればそれは是正されて然るべきで、そのためにみんな怒ろう声をあげようと世の中盛り上がっているんですが、そこで私たちが本当に何とかするべきものというのはなんなんだろうか、ということを僕はよく考えるんです。

僕はそこで闘うべき相手というのは、やっぱり、ルールや仕組みやシステムや、水槽そのものなんじゃないかと思うんですよね。自分の置かれている環境それ自体がフェアネスとは程遠く矛盾に溢れているなかで、個人個人の思想と行動だけにフェアネスを求めてしまうのはそれこそ水槽の側の論理に与してしまっているように思います。

冒頭の事件に戻りましょう、「できないなら何故できないのか、何ができないのか書け」の裏には「できる奴が無償でやればいい」という「誰も別に本当は全然やりたくないことを誰かにお互いに押しつけ合いながら回していこう」というひどく投げやりで全ての個々人を舐め腐った合理性に欠けるルールが隠れています。叩くべきはどっちかっていうと、こっちなんじゃないかと思うんですよね。

怒られずにはいられない「こんなことが許されて堪るか」とみんなが憤る事案には、だいたいいつだって「加害者」と「被害者」が存在していますが、それは結果でしかありません。多くの人々は不利益を被った、尊厳を傷つけられた被害者のことを思い、加害者を憎みますが、本当に憎むべきは人と人とを分断してそしてその一方が被害者、もう一方が加害者という結果に帰着させる悪しきルールなのではないかと僕は考えます。

そう考えない限り、その理不尽は繰り返されます。水槽からいじめっ子の魚を1匹取り除いたところで、また別の魚がいじめっ子になってしまうように。

 

自分にとって都合の悪い、自分ばかりが割りを食うルールばかりに人は目を向けてしまいがちですが、自分にとっては特にあっても困らない、むしろ快適なルールはありませんか。私も嫌々やってるけどなんとかやってるんだから他のみんなも嫌々そうしろよ、と思ってるルールはありませんか?そういうもの全てが水槽で、いじめっ子になる魚だって、実はそんなことを思っているだけなのかもしれませんね。

最後までギョ覧いただきありがとうございました。あーっ!あーーっ!!

以上です。

 

いじめられている君へ さかなクン「水槽の魚と似ている」に共感の輪