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早生まれが不利はそうなんだろうけど、それを是正してどうなんのよ

「早生まれが学力や体力面で他の子どもに遅れを取りがちだけど、年齢が上がってもあまり解消されない」という現象を研究してみた - Togetter

おっす、3月生まれです。

僕はもう何せ運動がからっきしにダメでね、もう本当にダメダメ。泳げないし、逆上がりできないし、自転車も補助輪がないと乗れないし補助輪も左右ひとつずつじゃ足りないからもうキャタピラでいいじゃんくらいたくさん付けてる。スピンアックスのローラーくらいつけてる。中学生の時の体育の授業ではマット運動につけ跳び箱につけバスケットボールのレイアップシュートの練習につけ、とりあえず体育の先生は俺を指名して「みんなにお手本見せてやれ」って言って、できない俺のどんくさい模範演技で一笑いみたいなのが恒例で、あとマラソンでは1km走ったところで口から肺がまろび出て理科教師が「こりゃいいもん見た!みんな来い!」つって、きれいに肺がベロンと裏返ってまろび出てるからさ、肺の内側が見えるわけ。理科の先生がアインシュタインそっくりの白髪長髪白髭で常に雷を待ってそうな風貌だったんだけど、裏返ってまろび出た俺の肺を見て「これが肺胞だ!わかるか肺胞だ!」つって、それでみんなが肺を口からまろび出して朦朧としてる俺を取り囲んでハイホー!ハイホー!て手を繋いで輪になって踊ってくれて、その輪の回転速度がだいたい140km毎時くらいになったかなーてところで俺を抱きかかえる白髪長髪白髭に白衣の理科教師のつむじから突き出てる松の木にドーン!て落ちてさ、そこで1.21ジゴワットの電力が発生して2020年にタイムスリップしました14歳の僕が、34歳の俺に替わりましてこの文章を書いています。全裸です。タイムスリップと言えば全裸だな、というのがやっぱ西暦2000年からやってきた14歳の僕としてはあるので、全裸です。え、シュワちゃんが知事!?

それでなんでしたっけ、そうだ、早生まれは統計で見ると不利だって話でしたね。

いや、このようにね、僕も運動方面においては死ぬほど苦手意識があり、この苦手意識は3月生まれに起因するのかなと思うことはあります。3月生まれのせいにしたいと思うこともありますよ。でも、泳げる3月生まれも世の中全然いるからね、それはもう俺が泳げないだけなんよ、別に悪魔の実の3月生まれシリーズを食って海に嫌われたわけでは全然なくて、俺はただただ泳げないだけなんですわな。

運動以外だと、まー、僕も長所短所取り揃えた人間だけど、「早生まれのせいだ」と思ったことはないかなー。勉強はそこそこできてるし。

 

犬「わおん!わおん!わんわんわんわんわん!!!!!!」

 

おー、どうした犬!!

なんだ落雷か、あそこにおいでますは、あれは、俺!?高校3年生の18歳の俺なのか!?そうか、高校3年生のお前もまた、マラソンで口から肺をまろび出し140km毎時の速度でハイホーを踊られ、落雷に打たれ、そしてお前もまたこの2020年にやって来たのか。

どうも、ただ高校生の時の話をしたいだけなのに、なんかノリで一人称の主体をタイムスリップでやってきた中学生の俺にしてしまったせいで、高校生の俺を召喚せざるをえなくなってしまった俺です。これはPHSです。ボタンを押すと通話ができます。

高校生の俺になにが聞きたいんですかい?ああ、僕ですか?僕は3月生まれですけど、勉強はなんとなく昔からできましてねぇ、地元でトップの高校にノリで進学したんですけど、そこでは学力という観点においては落ちぶれに落ちぶれました。400人くらい学年にいる中で、下から数えて10番20番、それくらいですかねぇ。おっとかみなりバトンタッチ。

現役の時は歯が立ちませんで、親が許容するような水準の大学には箸にも棒にも引っかかりませんで、浪人して、なんとかそこそこには恥ずかしくない大学には潜り込みました。はいバトンタッチ現代に戻りまーす。

どうも34歳の僕です、子供が先日3歳になりまして、子供は7月生まれなんですけど、3歳は歯がたくさん生えてます。

僕がなにを言いたかったかというとですね、早生まれが統計上不利だって話自体はもっともだと思うんです。僕も運動への苦手意識を持ってるし、3月生まれじゃなかったらクロールとかできたのかなー、あの「んぱぁっ!」て顔できたのかなーと思わないこともない。でも、俺がクロールできないのって絶対に「3月生まれだから」ではないよねー?て話なんです。実際運動以外では意識することほとんどないしね。

これは、件の統計を「そんなんおかしい!」て喧嘩売りたいって話ではありません。そういうのはあるんだろうね、統計として出てる通り、とは思うんです。運動についての苦手意識を考えた時に「3月生まれ」は頭をもたげるのはそれはそうだし。だけど、まー、じゃあ俺が4月に生まれてたらバリバリ運動できてたか?っていうと全くそんな気はしないよね。俺の身体のことは俺が一番良く知っている。俺のチンポの亀頭の色は、カラーコードでいうと#7cfc00。ピッコロか!!

早生まれは統計的にも間違いなく不利だとして、まあ統計的には実際そうなんだろうけど、それって下方修正みたいな方向で不利だと思うんだよね。3月生まれごときで「届かない」んだったら、それが4月生まれだったとしてもたかが知れてる高さにしか届かないんじゃないかと思う。どんなジャンルにおいてもね。

だって、俺の得意なことにおいて「くそー、俺が早生まれでさえなければ」なんて思ったことないもん。俺の苦手なもんは、どのみち苦手で、しょせん4月に生まれたところで大したスーパースターにはなれなかったことでしょう。

俺は生まれ月なんか関係なく戦える、そういうジャンルがあったからいいけど、それが無い奴はどうしたらいいの?と思うかもしれないが、それもやっぱ変な話なんだよ。そういう話になれば、4月生まれで負けてる奴だってなんぼでもいる。

統計のうえで、早生まれが負けてるのが真だったとしても、それは本当に統計だけの話なんだよ。早生まれはやっぱり負けやすいんだって統計見て落ち込んでる3月生まれの隣には、統計的には勝てるはずなのに勝ててない4月生まれがいると思うんよな。みなさんは、ボンクラな4月生まれを見たことがないんですか?きっとそんなことはないはずです。

繰り返すに、俺は統計を否定しないです。早生まれは色々不利なんでしょう、身に覚えがある。

しかし、その不利は、やっぱり誤差でしょう。その誤差を是正しなくてはならんと結論付ける冒頭のリンク先はやっぱし癪に触りますね。あれって「自己責任」を突きつけられた時の言い訳をできるだけ排除したいようにしか見えません。4月生まれでも3月生まれでも、勉強できないやつはできないし、運動できないやつはできないでしょうな。その先には、勤め先がどうのとか年収がどうのとかになってくるんでしょうか。統計上早生まれの方が平均年収が低い?それがなんなんですか?年収が低い4月生まれはいないんですか?いないわけないでしょ。

ここらへんの話をすっ飛ばして、早生まれの不利を是正しようなんて結論づけられてもね、もっと先に考えることあるだろ、としか言えませんよ。数字いじくって遊んで、楽しそうだなとしか思いません。

なんか、フェアネスを叫ぶのは悪いことじゃないんかもしれませんけどね、気持ちよく自己責任論を叫ぶためにやってないか?と思ってしまった。3月生まれは別に不利じゃないから、お前がダメなのはお前のせい、て4月生まれに言うのと同じように言いたいだけちゃうんか、と。

平均でものを考えるのって、まあ楽しそうではあるよね。自分が平均以下になるわけがないと思ってる奴の娯楽だね。

以上、なんらかのジゴワットで馳せ参じた声帯が尿道にある0歳のズイショさんでした。バブー。

医師による嘱託殺人を批判することは簡単で些末なことなのだろう

難病に苦しんで「死にたい」と考えている人がいて、ある医師がその人を同意のもとに殺したという事件が起こったらしい。

その医師はもともと優生思想的な「無駄な命は殺してしまえ、生かすな」的な考え方を持っていたそうだ。

当然この医師はその行いが発覚すると嘱託殺人の容疑で逮捕されて、その行いと抱えていた思想が白日の元に晒された結果、インターネットで多くの人に批判されている。「批判されている」と容疑者の医師を主語にする必要もないかもしれない、多くの人々が、怒り、嘆いている。

その一連の流れを眺めていて思ったんだが、これはなかなか、昨今の人々が怒り嘆く日々のあれやこれやの事象をまるっと圧縮して、極めてシンプルに提示した一件になっているのかなと思った。

「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いそれ自体に向き合うことは途轍もなく簡単で、ネプリーグの最初の15分くらい簡単だ。Aがたとえば今回のような、優生思想に基づく嘱託殺人であればなおさら、仮にウォッカを一気飲みしてべろんべろんになってるホリケンであろうともラクショーに「Aはするべきではない」と答えられる。Aの是々非々に断固としたNO(あるいはYES)を突きつけることはあまりに呆気なく容易い。その容易さはあるいは心地良くすらあるのかもしれない。

それでは、その「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いに何らかのアンサーを出したとして、さらにそのアンサー自体が間違っていなかったとして、じゃあそれで何もかもが解決解決のめでたしめでたしになるだろうかと考えるといやそんなことはない。全然ない。まずそもそも、その問いは何故発せられたのか、「Aをするべきか、Aをするべきではないか」という問いの裏には常に「たとえZであったとしても」という、問いそのものを発生させる前提であり現実であり実態が存在していて、そのZこそが本来我々が向き合うべき課題であり、そのZを取り除くことさえできていればそもそも「Aをするべきか、Aをするべきではないか」などという愚問は発生しなかったはずなのになと僕は愚直に考えるのだ。

このZという問題は常に厄介で答えはなく悩ましい。誰にとっても正気を保ち続けながら向き合うには明らかに等しく荷が重く、逃げ出したく、逃げられる人の多くはその思いのままに逃げ出し、何らかの事情で逃げ出せなかった人々だけが取り残される。そしてZという本質の問題から目を逸らし蜘蛛の子を散らしたように逃げ果せZと目が合わないように生き存える人々が、逃げそびれ取り残された彼らの終着点のAを「Aをするべきか、Aをするべきではないか」で語るばかりなのだ。

難病患者を同意のもとに殺してはいけないし、小学校に乗り込んで児童を殺しまくってはいけないし、秋葉原歩行者天国にトラックで突っ込んではいけないし、障害者施設に乗り込んで障害者を殺しまくってはいけないし、アニメ制作会社に火をつけてはいけない。全部全部、痛く当たり前のことだ。

しかし、その背後にあるZに目を向けてどうにかしない限り、その当たり前にやってはいけないことはきっとこの先も起こり続けるだろう。

Aという自己中心的あるいは独善的な悪意を否定することは心地よく容易いが、Zという背後に潜む問題から目を逸らしたままただAを否定するそれだけでは、きっとそれもあなたが心底に憎むAと同様に自己中心的で独善的なだけなのかもしれない。

「同意のもとに殺してほしい死にたい人がいた」という、これ以上もなくシンプルなZがまざまざと報道され語られるこの事件を受けて、多くの人々によってAではなくZが語られる世界を望むし、それが果たされない世界の先には誰もが己の抱えるZを噛み殺して生きるやるせない未来しかないなとも思う。

以上です。

 

言語とは思考の型であり、共感を目的とした言語表現は思考の幅を狭める

言語表現によってお前達は日々アウトプットに邁進しているつもりなのかもしれないが、実は油断するとともすればお前たちはただインプットを繰り返している。

言語とは一般的にコミュニケーションツールであり他者と交流して意思疎通するためのものとして認識されがちだが、同時に言語が内省的な営為を助けるためのツールでもあるというその側面は、インターネットが浸透して誰しもが誰だかかにカジュアルにテキストをお届けすることがとてもお手軽に当たり前になった現代においてはますます軽視されているように感じる。

言語が上手に操ることができなかった頃を思い出してみよう。まず言語は誰のためのものであっただろうか。他でもない自分のためのものであったように僕には思い出される。私の思いや考えや感情が、他者に伝わるかどうかももちろん自分が言語を操れているかどうかの大きな判断基準のひとつではあったものの、それ以上に今・ここにいる自分のなかにある、今・ここにいる自分のなかにしかない、自分から薄皮一枚離れた外の世界にはまだ・どこにも存在しない、自分の思考というものを今・ここに顕在化させるための手段としての言語が何より俺には尊かったし、その顕在化の成功・失敗を判断していたのは他者でもなくほかでもない今・ここにいる自分であった。

言語は鋳型のようなもので、操り捏ねくり組んず解れつなんとか形にしようと足掻き、そこに熱々に煮えたぎった己の感情を流し込んだ時、その時初めてずっと私の内にしかなかったそれが言葉として表現として今・ここに存在できるようになる。

そうして生まれてきたそれが美しいとか内にあったそれそのものだとかずいぶん見栄えが悪いとか私の内にあるそれとはずいぶん異なる出来だとか、そんなことに一喜一憂するのが私と言語との関係であって、それが私にとっての思考するという営為であった。

言語とは思考の型であり、言語の形がそれがつまり「私の考えていること」それ自体になってしまう。

コミュニケーションツールとしての言語の側面ばかり重視して考えようとすれば、言葉とはしょせん言葉であり、自らの内面や本心などとは全く独立した存在だという見解も持ち出したくなる人もいるかもしれないが、私はそういう部分はもちろんないとは言わないにしても、ずいぶんと言語の本質とそこに潜む問題を矮小化させたがる考えだなと思ってしまう。

言語と思考の関係は、私と鏡のなかの私のようなもので、鏡のなかの私に作り笑いを貼り付けてやろうとするならば、どうしたって自らが破顔するより仕方がない。だからこそ私たちは鏡のなかの私に安易な作り笑いではない本当の笑顔を見せてもらうために、ときにはいかにも余裕のない難しい自分の顔を覗き込みながら、言葉をより上手に扱うことにいつまでも腐心してきたのではないか。内省のための言葉はいつも私たちの隣にあった。

その本質は今も変わらないだろうとは思うのだが、しかしその一方で、私と言葉以上に、言葉の隣にはいつも他者がより近くにいることが現代ではずいぶん当たり前になってしまった。いつからか、鏡のなかの私の前に立つ私以上に鏡のなかの私を覗き込む誰かのことをより強く意識することが自然でカジュアルな価値観になってしまった。ように感じられることが私には最近多い。

鏡のなかの自分とそれを覗き込む誰かが同じ顔で笑い合えるように、人は顔面の筋肉をどんどんと最適化していく。いつでも同じ顔で笑い合えるように、言語はより一層コミュニケーションのためのツールとしての進化を遂げて、どんな感情を流し込んでもいつも同じ形に成形されるようになる。同じ鋳型を持つ者同士はいつも鏡越しに笑い合い、そうではないもの同士は、同じ一枚の鏡のなかに並び立つことすらない。

 

たとえばインターネットの負の側面みたいな話はエコーチェンバーみたいな言葉と共にたびたび語られるが、そういうものとは「おお怖い怖い」と距離を置いてポジティブに健やかにインターネットを楽しんでいる方々に置かれましても、そこで起こっている事象というのはどちらも同じ構造で大した違いがないように最近の僕は考えている。ギスギスしてなくてみんな気心が知れていて、いけすかない鼻持ちならないやつらは置いておいて、楽しく共感しあってお互いを認め合えて助け合って励まし合って、インターネットって何も悪いことばかりじゃないんだよ、上手に使えばインターネットってすごくいいもんだよって人たちも、同じただ一枚の鏡の前にかぶりつきで張り付いて、ひとつの鋳型の一つの笑顔をより素敵により研鑽して、目の前にあるその鏡が自分の色々な表情を覗き見るための道具であることをどこか忘れてしまいがちだ。

 

私は、鏡のなかの私を私だとは思わない。ただ、私を映す鏡がそこにあるばかりで、その鏡のなかに映る私の有り様を決めるのは、今・ここにいる私だ。私は、鏡のなかの私が他者にとってどう思われたいなどと考えたくはない。鏡は、あなたに会いに行くその前に今・ここにある私を確かめるための道具にすぎず、私は鏡のなかの私ではない今・ここにある私があなたに会いに行きたいと思う。

 

以上です。