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オイ俺が公園で食おうと思って買ったパン盗ったん誰なんよオイ

あのー、絶賛リモートワーク中なんですけど、ずっと家にいるから働いてるか休んでるかずっとよくわかんねえし、だからこそメリハリは大事だし有給休暇使うのも大事だし、だからせっかく平日に休みを取ったし、だけれども緊急事態宣言中だしお出掛けもできないし、でもまあ家からチャリで15分くらいのところに馬鹿でかい公園があるし、ソーシャルディスタンスを確保しても1万人くらいは収容できる馬鹿でかいフリスビー投げ放題の公園あるしそれきっとソーシャルディスタンスを確保したまま人を敷き詰めるだけ敷き詰めたら空から見た時アメリカの囚人が整列してるみたいな感じになるし、それなら遊びに行ってみてもいいんじゃないのとなって嫁さんと3歳近い息子を引き連れて3人で行くかーつって、行って。ソーシャルディスタンスが2m?2m以上の距離を取ろうとしない奴は殺していいっていう法案が可決されたんでしたっけ?これからされるんでしたっけ?浅野忠信きゃりーぱみゅぱみゅが抗議してるんですっけ?なのでまあとりあえず射程2mの三節棍持って出発〜つって。組み立てると2mになる三節棍、畳むと60cmくらいだからめっちゃコンパクトに持ち歩けるから便利〜つって、背中に畳んだ三節棍括って、ただ相手にぶつける部分がトゲトゲだから痛い痛い痛い!つって、三節棍の部分って何て言えばいいの?節?棍?わかんねえけどとりあえずトゲトゲ痛い痛い痛い!でもソーシャルディスタンスを犯すやつがいたらこの三節棍のトゲトゲの棍をぶつけて目の玉ほじくりぱみゅぱみゅしてやるかんねって公園行くことにして。で、せっかくだし昼飯にパンでも食うかって。その公園の入り口ちょっと出たところにご近所さんならみんな知ってるみんなどうせそこでパン買って公園で食ってんだろ?みたいなお馴染みのパン屋さんがあるからそこでパンなんか買っちゃってさ、公園出向いたわけ。公園っていうか緑地公園、て言えば伝わるの?ハイジなら靴を脱ぐような公園、て言えば伝わるのかな?とにかくだだっ広い野っ原が広がる公園に出向いたんだ。

そしたら平日なのに結構賑わっててさ。え、本当に平日?てくらい人がたくさんいてさ、大阪はもう絶賛自粛を要請されまくってるから余計なのかな、みんな暇なのかな、俺と同じような家族連れとかさ、あとなんかキャッチボールだのなんだのしてる学生の群れとかさ、めちゃめちゃたくさんいてびっくりしたんだけど。それでもまあそれ以上に土地が広大だから俺の三節棍の間合いには誰も届いてないぞくらいの広大な公園だからまあのどかなもんだね、みんな楽しそうだしソーシャルディスタンスも維持できててよかったねうふふふすなんつって。で、俺らも自転車そこらへんに止めてさ、広大な芝生をてくてく歩き出して、息子がなにせ先陣切ってずんずん歩くからさ、ワンピース目指してんのかってくらいただまっすぐ前進前進するから、まあそれを待てーつって三節棍振り回しながら追いかけて、そしたら息子はキャッキャ笑いながら逃げて、無軌道に息子を追いかけて後ろを振り返ると停めた自転車はどんどんどんどん遠くなるしどんどんどんどん小さくなる。途中で誰かが落としてそのまんまのテニスボールなんかを見つけちゃった日にはさ、それを俺がぶん投げて息子がそれを追いかけて行って、それで息子が拾って投げ返したボールを俺がまたぶん投げてって遊んでて1時間くらい遊んでたのかな。もういい加減疲れたし腹も減ってきたなぁと思って、また息子からボールを受け取った僕は踵を返して「たぶんあっちらへんに自転車を停めたはず」っていう最早見えないくらい遠くの自転車がある方にボールをぶん投げてそれをまた息子が追いかけてみたいな第二章が始まって、それを繰り返してやっとこさ元の自転車を停めたところまで戻ったわけ。

それで、さー、じゃー、レジャーシートでも敷いて買ってきたパンでも食べますかってなったところで、さてみなさんお立ち会い、掲題の通り、自転車のカゴにパンがない!!

あれ、パンがない?なんつって、あれ、リュックの中に入れてたんだっけ?つってリュックを開けてガサゴソしてみても当然の如くパンがない。盗られたわ、いやこりゃ盗られたわ。待ってください、ひとつ言わせてもらうとね、そこまで馬鹿じゃあないんですよ、自転車のカゴにリュックサックも置きっぱなしで、息子の足取りに任せていると自転車がどんどん小さくなって見えなくなって、それはもちろん分かっていたけど財布とか携帯とかの貴重品はもちろん身につけたままでいたし、盗られて困るものないし盗ったって仕方ないものは自転車のところには置いたままにしてないし、自転車に鍵は掛けてるし、まあ問題ないだろうの判断で我々自転車から遥か離れてグランドラインを進んでいたんです。それで戻ってみたらパンがないんですよ。たしかにたかだか1000円程度の買い込んだパンは盗られて致命的に困るものでもないし、影ひとつない晴天の下をずんずん進む息子と我々御一行と一緒にいるよりは木陰に停めた自転車のカゴに置いておいた方が、傷まずおいしく食べれるかなという判断のもとで残していったパンでしたけど、まさか盗られるかね!?びっくりですよ本当にもう。

いや、まぁ、盗られた僕も悪かったな、迂闊だったなとは思うんですよ。なにせそのパン屋さんは公園の入り口のすぐ側にある誰もが知ってるパン屋さん、誰の自転車ともわからぬカゴに馴染みのパン屋さんの袋が無防備に置かれているのを見たら誰であろうと「あ、あのパン屋さんの袋じゃん。じゃああの中にはパンが入ってるじゃん」となるのは自明ではあるんですけど、じゃあそこで「よっしゃ!持ち主たぶん近くにいないし、パン盗んだろ!」てなります!?お前どんなモチベーションで緑地公園来てるんだよ、どんなモチベーションで緑地公園来てるんだよ。

ふんふふんふふ〜ん。あ〜今日も公園はいい天気だなぁ、みんなニコニコ楽しそうだ、てくてくてくてく、あ、あんなところに自転車が置いてある!カゴにはパンがある!よっしゃ、パクったろ!いっただっきまーす!

こんなんなる!?お前どんなモチベーションで緑地公園来てるんだよ。流れがおかしいだろうがよ。逆に朗らかなテンションじゃないとこんな朗らかな緑地公園にわざわざ出向かないだろ、出向くなよ。ふんふふんふふ〜んからよっしゃパクったろ!のそのスイッチの切り替えなんだよ。なんでさっきまで太陽大地ありがとうのテンションでスキップしてたのにいきなり卑しいハイエナの目にスイッチ切り替わってパンなんかパクってんだよおかしいだろお前のテンション。よしんばさ、よしんば最初からハイエナのテンションで公園を徘徊してたとしたらさ、それはそれでおかしいだろ。狩場を間違えてるだろ。ああ認めるよ、俺の脇の甘さは認めるけども、そんな盗めそうなパンの出現率高くないだろ、さすがの緑地公園だって。俺がレアモンスターないしレアアイテムドロップするモンスターだったとしても、公園それ自体はそんな盗みに適した環境ではないだろ。どっちかっていうと、本当に最初からハイエナの目で誰かから何かを盗むつもりでうろつくなら、新聞屋のサブスク代の集金係のルートとかを狙えよ、狙うだろ普通。これは完全に今日俺が連チャンパパを読んでたからこそ出てきた発想だけれども。朗らかな気持ちじゃないと用がない公園で朗らかに公園を歩いていていきなり盗めそうなパンを盗む犯罪に手を染めるのも意味がわからないし、最初から犯罪目的なら公園をその舞台に選ぶ感覚も意味がわからないし、実害はたかだか1000円そこらだから全然いいんだけどさ、犯人像がわからないのがすげえ気持ち悪い。なんなんだよ、平日の暖かな公園でパンを盗むやつ。そんな奴、ふつうにかんがえているわけないよな、犬!!

 

犬「ワン!!!!!!!!!!!」

 

そこで俺はハッとするんですよ。新型コロナの影響では?新型コロナの影響で仕事がなくなって、明日の食うや食わずやにも困っていた誰かが、あてもなく公園を彷徨っていて、それで俺のパンに手を出したのでは?これなら納得がいくよね、まあ良いことをした気すらしてくる。そうだよな、ご時世だから大変な人もいるものな、わかんねえけど今頃、俺が食べるはずだったでっけえソーセージが挟まったケチャップがふんだんにかかってるパンをよ、夜になっても灯りがつかない空き家なのかなんなのかよくわからない家をわざわざ選んでその軒下に身を縮こまらせて雨を騙し騙ししのぎ、そうしながら俺の食うはずだったパンを泣きながら食べてるんなら、まあ仕方ねえかなって気はするな。今日は晴天だけど!!そのうえで19年の懲役を受けて欲しいしその後市長になってほしい。俺のパンの恨みは深いけど、深いからこそ、俺はそこにストーリーを求めるよね。盗ったのはカラスでしたみたいなオチは求めてないし、ジャンバルジャンには頑張って欲しい。どうせならジャンバルジャンであって欲しいこの感じ。どうせ盗られたパンなら、盗った人間はこんな人間であってくれたらまだマシだなという感覚、と、俺と岡村隆史との距離感。悩ましいよね。なんでだよ、ふざけんな、なんでただパンを盗られただけの被害者の俺が悩ましくならなくちゃならないんだよ。

俺が公園で食おうと思って買ったパン盗ったん誰なんよ。

全ては藪の中、レンゲ咲き誇る緑地公園の藪の中に包み込まれていってしまった。

教訓だね、これから公園に行く時は、パンは二つの袋に小分けにしてもらって、その一つは大事に肌身離さず持ち歩くし、もう一つはなかのパンに目玉が腐って落ちる毒を塗りたくってカゴの中に引き続き放置するし、俺の自転車の周辺で目玉を眼孔からこぼしてうずくまってる奴がいたらトゲ付きの三節棍でしばき回すし、落ちてるテニスボールを見かけたらまず毒針が仕込まれてないか入念にチェックする。

以上です。

岡村隆史炎上と、僕と深夜ラジオ

はじめに断っておくと、このエントリは岡村の失言やその後の矢部の説教の是々非々を考える内容ではない。岡村の発言は「そりゃ怒られるでしょ」と思うし、矢部の説教もそりゃ100点からは程遠い。が、「なぜそう思うのか」をなるだけ多くの賛同と納得を集められるように語ることが僕の書きたいことではないし、掲題のとおり僕と深夜ラジオとの20年のことを書きたいなと思った。

僕は今年で34になったわけだが、そうなるとつまり僕が初めて深夜ラジオを聴くようになったのが中学生の頃だったのでなるほどざっくり20年近くものあいだその時々でムラはあるものの僕の興味関心の中のひとつに深夜ラジオがある人生が続いているのだなと今回の岡村隆史炎上の件でなんだか感慨に浸ってしまった。

最近の若いもんのことはわからんが自分が中学生男子の時分には中学生男子とは大きく二つのタイプに分けることができて、ひとつはカウントダウンTVをみるために夜更かししているタイプと、もうひとつは深夜ラジオを聴くために夜更かししているタイプだ。これはもちろん大嘘で、深夜ラジオのために夜更かしもするしカウントダウンTVもチェックしている男子中学生も勿論多く存在していたはずだ。それなのになぜ僕がそう言い切るのかというと答えは簡単、俺がクラスで最低限抑えておかなくてはならないJ-POPシーンなどには一切興味がなく、そんなことより深夜ラジオのお笑い芸人の馬鹿話の方がよほど、むしろそればかりが大切だった根暗中学生男子だったというそれだけの話である。

深夜ラジオ好き男子中学生の人口は自分の体感ではだいたい男子の20%から30%くらいだったように記憶しているがここで気をつけたいのは一口に深夜ラジオ好き男子と言っても決して一枚岩ではないということだ。たとえば僕が当時とても楽しく聴いていたのはまず真っ先に挙げるのは爆笑問題カウボーイ、そして最初は難しくて面白さがあまりわからなかった(あと構成作家の笑い声が邪魔に思えていた)がどこかのタイミングで楽しみ方が完璧にわかるようになって今では「一番好きなラジオ」と断言できる伊集院光深夜の馬鹿力、そして意外と楽しく聴いてたけど本当にそんなに面白い内容だったかは一切記憶にない西川貴教のANN、ここらへんは欠かさず聴いていた気がする。で、ほかはまあ、色々つまみ食いして聴いたり聴かなかったりって感じだったと思う。当時は今のテレビ録画みたいにリアルタイムでA局を聴きながらB局を録画(録音)なんてこともできなかったのでスペシャルウィークなんかになるとANNとJUNK今日はどっちを聴こうかななんて毎日悩んでいたのは良い思い出だ。

さて、深夜ラジオ好きも一枚岩ではないというのはどういう話なのかというとなんかの話の折に「深夜ラジオ」になると「まじで!?俺も深夜ラジオ好きなんだよね!!何聴いてるの!?」みたいな話になってしまうわけだが、当たり前だが何が好きかは人それぞれでその各人各人にとっての「深夜ラジオ」というのは実態として全然違うのである。俺みたいな偏屈な人間はそこでナイナイのANNとか福山雅治魂のラジオとかゆずのANNとかを持ち出されると「ちょっと待ってくれ、俺の深夜ラジオ好きとお前の深夜ラジオ好きは違う、一緒にしないでくれ」と思ったものである。むしろ俺の中での勝手な偏見だが、単に「深夜ラジオ」という共通点を見つけただけで目を輝かせて「俺も深夜ラジオ好き!!何聴いてるの!?」と前のめりに聴いてくる奴らはそこらへんが好きな奴らが多かったような気がする。伊集院光爆笑問題をより好んで聴く奴らは「俺も深夜ラジオ好き」と相手に言われるとむしろ身構える。もちろんこれも大嘘でみんながみんな俺みたいな考えのやつばかりなはずはなく、伊集院光深夜の馬鹿力福山雅治魂のラジオも分け隔てなく楽しんで聴いていた人たちも沢山いるだろうし、つまり俺は20年前から今日に至るまでのあいだそれほどまでにただ自分の偏屈を守り今なお卑屈で狭量な人間であるとも言える。

もちろん「深夜ラジオ」全般に言える共通点として「身内ノリ」というやつはどの番組においても等しく存在していて、放課後の教室で仲の良い奴だけでやっている馬鹿話みたいなところはどうしたってある。それでもなんだろ、当時、伊集院光爆笑問題とが別格に好きだなぁと思えたのは何故だろうと考えてみると、他の多くの深夜ラジオが「先生が見てないところで馬鹿話」っぽかったのに対して、僕の特に好きだった二つのラジオは「あえて先生に怒られに行く計画をこっそり放課後立てている」みたいなノリを強く感じていたからかなぁ、と今言語化してみるとそんな感じになる。

もちろん、自分の好きなものを持ち上げるために他の人の好きなものを下げるのは行儀が良くないことであるのは重々承知のうえでわざわざしているので、もう少しお付き合いいただければ幸いだ。おぎやはぎアンタッチャブル極楽とんぼ雨上がり決死隊もそれなり楽しく聴いてはいたのだが、やっぱり伊集院光爆笑問題が俺はぶっちぎりで楽しかったなぁ。楽しかったというか、格好良かった。もちろんその後に出てくる芸人深夜ラジオ、山里亮太とかオードリーとかハライチとかエレ片とかもそこそこ聴いてはいるのだが、今は中学生から高校生にかけての深夜ラジオ原初体験を思い出してる最中なので割愛する。そしてこのタイミングでこんなこと言わなくても、ということを言うのだが、ナイナイのANNは最も身内感が強くトークもほんわかでそんなに格好いい笑いをとってるイメージもなくテレビ人気とハガキ職人に助けられてなんとかなってる番組だなと思って当時からあまり好きではなかった。

もちろん、深夜ラジオを初めて聴くようになってからのこっち20年、ずっとヘビーリスナーであり続けたわけではない。人生のフェイズが変わるにつれ、そんな深夜ラジオばっか聴きまくってるわけにはいかないのである。それでも、なんだか生活が荒んだ時や落ち込んだ時や、あとはどうしようもなく暇を弄んだ時期なんかになると、久しぶりに深夜ラジオ聴いてみよっかなという気分になり、やっぱ伊集院光面白えなぁとか、太田は相変わらず馬鹿だなとか、オードリーまだ同じ話してるのかよとか、やっぱ矢部いないと岡村ギリギリだなとか、山里も初めの頃は伊集院光意識しすぎててきつかったけど今はなんかすっかり山里のトークだなとか、やついだけマイクボリューム下げてくれとか色々文句を言いながら、人生の随所随所で深夜ラジオを聴いて、つまり「一緒にしないでくれ」なんて捻ねたことを言いつつ俺もやっぱり深夜ラジオ大好きっ子なのである。

そしてそんな人生の合間にラジオとは別の全然狭い話なのだが僕自身も手慰みにブログなんかを書くようになり、最初の頃は書き方がよくわかんないので伊集院光トークを参考にしたなんか馬鹿な文章を書いてみたりなんかしちゃったりして、怒られたり褒められたりしながら楽しくやってたけど、インターネットの風向きもどんどんと変わっていって「言ってはいけないライン」なんかもどんどん刷新されていった。昔は特に本旨と全然関係ないところで脈絡もなく「Google菊門ティクスみたいな名前のやつでPV数を調べたんですけど」とか書いてたけど、いつからかそういうこと書くと馬鹿認定されて本旨を読んでもらえなくなるので書かないようになったりしながら「時代は変わっていくなー」とか思っていた。ラジオの方でもそんな時代の変化はどうにもあったようである時からラジオで喋った内容の無断書き起こし転載ブログ発で深夜ラジオのパーソナリティがプチ炎上を起こすみたいな事象も出てくるようになって、特に覚えてるのは伊集院光LCCの航空会社を利用した時にちょっと揉めたみたいな話をラジオでしてて、そのラジオの内容自体は伊集院光が自身の真面目馬鹿な性格が災いしてLCCのガチガチのルールとの折り合いを自分の中でつけようとするも全然うまくいかなくてどんどん気まずい感じになっていく流れを自虐たっぷりに語ってめちゃめちゃ笑えたんだけどネットでは「自分の意見を押し通そうと航空会社を告発する悪質クレーマー」みたいな扱いをされちゃって、大変僕も憤ったものだった。まあでも、今の時代ってそんなもんよね、と思いつつ。その後も僕は、ブログもあんまり無茶苦茶なことが書けなくなったなぁと思った折には息抜きに伊集院光の馬鹿力のネタコーナーにインターネットで書いたらまあまあ怒られそうなネタを書いて運が良い時は採用して読まれたりして、採用されると伊集院光が全裸の特製カードとかがもらえるんだけど「もらってもなぁ」と思ったりしつつ、人生とインターネットと深夜ラジオとを、それなりのバランスでその時その時続けていたのだった。

そんなこともあったりしながら時は流れて2020年コロナ禍、ナイナイ岡村炎上のニュースが耳に飛び込んできた。僕は34歳で、深夜ラジオを初めて聴いてから、ナイナイのANNを初めて聴いてから、かれこれ20年前後が経っていた。とりあえず、岡村のラジオを聴いて「あー、こら怒られるわなぁ、弁解のしようもないわなぁ」というのを確認して、それからは他の深夜ラジオ芸人の深夜ラジオの動向も見守りつつ、岡村隆史のANNも見守りつつの、そんな数週間だった。久しぶりにたくさん深夜ラジオを聴いた数週間だった。

やっぱ、そんなこんなで深夜ラジオを長く聴いて、それ含めてのナインティナインを知ってる身として、あの矢部浩之の公開説教は色々思うところがあったな。その翌週のも含め。こっちが自分と深夜ラジオの20年を考えてた時に、お笑いコンビとしての30年を語られたら、そりゃこちらも思うところが出てくる。ただただ年月を感じた。そして変わっていく時代と世界とを感じたし、変わっていった自分とあまり変わってない自分とを感じたし、変わっていった人間関係を感じた。岡村隆史の女性蔑視発言を憤ってる人からしたら「そんな矮小な話に落とし込むな」と怒られるのはやむもないことだが、個人の20年とか30年はきっとそんなに矮小ではないし、1個上の先輩に説教する50近いおっさんが語った自らの人生の転換期もきっと矮小ではないんじゃないかなと思った。俺にはそうとしか思えなかった。世間一般の是々非々は問うまでもなく、岡村の失言はマズイのだが、そこを皮切りに顕になった二人の30年は、俺は彼らのラジオをあまり面白くないと思いながら20年間たびたび聴いていた人間として、とても軽んじることはできなかった。あくまで俺にとってはね。

爆笑問題太田の20年越しの言葉も俺は身につまされる思いだった。こいつはどこまで純粋で、頭が悪い癖に、頭が悪いままでいつづけるのだろう。書き起こしされてしまえば、界隈によっては「そんなこと前提の前提だろ」と一蹴されかねない、それでも本当にお前らそれを前提にできてるか?と問わずにはいられない、切実で幼稚なクエスチョンを40分もの長尺をかけて言葉を尽くして語った。本当に20年前と変わらず、馬鹿格好良かった。自分から見える世界以上のことは語らずに、自分に見えない世界のことをせいいっぱいに想像しているように見えた。それについてはナイナイもそうなんだと思った。岡村なんかはまあ、あんま現時点で加点ですよって擁護できるようなことはまだ一つも言えてないと思うんだけど、それでも彼の狭すぎる自分の見える世界の外に自分にまだ見れてない世界があるというそのことだけは、理屈では頭では理解しようとしているような気がした。伊集院光は最近はやらない危ないボケ方をしているだけだったが、まあアレも本人なりの援護射撃なのかな、アレはよくわからん。

話を戻すと、このエントリは別に岡村隆史の失言とその周辺のなんやかやをジャッジしたい批評みたいな、黒なのか白なのかみたいな話ではない。ただ、別に、俺は今の時代のこの瞬間においての黒がどこからで白がどこからでなのはある程度わかってはいるつもりなのだが、その物差しを振り回して彼らをジャッジするには20年は長すぎたな、と思う。

彼の失言の黒さを白いということはできないし、その周辺で起こったいろいろな発言をそんなにめちゃめちゃ白いと殊更に声高に叫ぶこともできないけれど、20年があるからこそ、白を目指してもがく彼らを「まだまだ全然黒い」と断罪することは俺にはできんですよ。

爆笑問題太田が口を酸っぱくして言ってたのは、わかりあえる可能性があるってことで、正直俺も何言ってんだこいつ、と思った。でもなぁ、なにかを掬い上げる手があってさ、その指の隙間からこぼれ落ちる感覚や人やがあってさ、そいつらを、また掬い上げる手はあった方がいいに越したことはないし、でもその手からもまた何かや誰かは溢れる。その繰り返しで、誰もが溢れて落ちていくし、誰もが誰かを掬いたいんじゃないかと思う。誰もが何も掬おうとしない世界なんて絶望しかないし、そうはなりたくないからこそ、みんな何かを掬おうとして、そのなかで余計な他の誰かを傷つけてしまう何かまで掬い上げてしまってるのかな、みたいな。そういう風に考えると、俺は爆笑問題太田の言うことに納得がいったのだった。

俺がそんな好きじゃなかった深夜ラジオに掬われてた人もなんぼでもいて、深夜ラジオやってる人たちみんな、誰も取りこぼさないようにみながそれぞれに掬える人を掬っていただけなんだろうな、悪いものまで一緒に掬い上げながら。深夜ラジオという総体は、深夜ラジオに惹かれる人すべてを掬おうとしていた。だから、俺があんま好きじゃない深夜ラジオがナイナイ含めたくさんあったのも、必然だったのだろう。俺が掬われなかったラジオがあって、俺が掬われたラジオがあって、俺じゃない誰かが掬われたラジオがある。ラジオという文化は、ひいてはすべての文化は、本当はすべてを掬おうとしているのだろうと思う。思いたい。

俺にはできないってだけで、そんな事情を知らない人には真っ黒に見えるのかもしれないなとは思うけど、それで全然いいんだろうなとは思うんだけど、誰の中にもそういう灰色ってあるんじゃねえのかなぁとかは思うんだよな。今この瞬間の白黒のために塗りつぶしてしまってはいけない、自分の人生の横にある、灰色ってのが誰にでもあるんじゃねえかなって俺は思ってて、他の人に本当にあるのかは知らねえけど、もしそういう心当たりがあるなら、そういう灰色を塗りつぶさない方がいいんじゃないかなと思うので、俺は塗りつぶさない。万が一にも白いとは思わない。ただ、自分の中のそれを真っ黒く塗りつぶしてはいけないと思う。だって全員が掬われたいじゃんか。以上です。

平田オリザの言い分と、コロナ禍への私見

あれはまだ2月だったか、野田秀樹が演劇への自粛要請への反論的な声明を出していて方々から非難を浴びていて、その時は俺もまだ野田秀樹を擁護する立場だったのである。他のどの業界もまだ事実上ものんびりのびのびやっていた時期であり(もちろん見えない先行きに誰も彼もがやきもきしていたことは間違いがない)、その中で「どうせ中止にしたって誰もそこまで困りはしないでしょ」って調子で劇場とかライブハウスとかばっかり自粛を要請されて、「ちょっと待ってくれよ、こっちだってそれで食ってるんだよ、そこで生活してる人間だっているんだよ」って話なんだろうなと思ったし、だからまあ外からは偉そうに見えるところもあったかも知らんが、俺は野田秀樹の発したあの声明を叩く側にはようならんかったな。

そして野田秀樹が叩かれてた時に、野田秀樹の過激とも取られる声明とそれに対する反感にTwitterでどうどうと中立を探していた平田オリザが今、このタイミングでオピニオンを発信してそれで怒られているのかはなかなか庇い立てがしにくく、なんつーか、苦虫を噛み潰すような面持ちの俺こと僕です。

野田秀樹が声明を出したあの時とは、4月も終わるあのタイミングでは何もかもが本当に違っている。野田秀樹の声明を拙速と非難することはできるかもしれないが、それで言えば平田オリザがあのタイミングで出したあのオピニオンはあまりに拙遅だった。困っているのはなにも芸術ばかりではない。誰も彼もが困っている。そういう局面に世界は差し迫っている。

その中で殊更に文化芸術の重要性、有意義性?を語ることになんの意味があるのか甚だ疑問だった。生産業への理解が足りないとかそういう話ではない。演劇業界では役者なんかは役者だけで食えてる人はきっとごく一部で、あとはたとえばわかりやすいところでは飲食とかそんなところでバイトもしながら食いつないでいるんだろうと思う。バイトの方もこの情勢だろうときっとままならないだろうし、大変なんだと思う。一方で、フリーランスとして大道具だったり音響だったり照明だったり制作だったりで色んな劇団の公演を同時並行的に支える人たちもたぶん少なくはなくて、本当に「裏方」としてそれ一本でやってる人ってのが世の中にはごく一部に存在していて、そういう奴らの口に糊する生活が自粛要請によって破綻することに心苦しくて、あんなことを言ってるんだろうなということも、まあ別に想像はつくのだ。

とは言え、とは言えだ。

そんな彼らを思ったとして、芸術や文化の崇高さを語るのが今するべきなのかが本当に俺の中で怪しい。

たとえば、今、困窮してるたこ焼き屋がいたとして(当然いる)、彼らは殊更に「たこ焼きは素晴らしい文化だから、たこ焼き屋を補償しろ」と叫ぶだろうか、叫ばないだろうと思う。「ただの飲食業」として、「もうちょっとどうにかしてくれよ」と叫ぶだろう。俺は、文化芸術の人らにも、叫びたいならそう叫んでくれよ、と思うのだった。

ここからは政治の話になるのだが、俺は、個人を救うやり方を探してくれよ、と思っている。職業の貴賎もなにも関係なく、困ってる人たちが生き長らえるそういう方向でやろうよ、と思っている。

俺は、自分の結婚式で、フリーランスの「結婚式専門のカメラマン」に発注して撮ってもらったんだけど、平田オリザは絶対そういうカメラマンのことを知らずに喋ってるんだろうなと思ったもんな。そういうのやめようよってすげえ思うもんな。

「みんな苦しい」ということを、どう解釈して、どう立ち会うかなんだと思う。それを実践する土壌が今全然ない。憎しみあうばかりで。苦しいな。

以上です。