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2歳の息子に一緒に酒を飲んでもつまらん二軍のやつ扱いを受けた

嫁さんが忘年会なので普段は嫁さんがやってる息子の面倒を寝かしつけまで一通りやったんだが終始いろいろ順調だったんだが寝る前に絵本を読むタイムがあるんだけど本棚から息子が読みたい絵本を選んで寝室に持っていく、いつもは嫁さんが5冊までだよ5冊までだよって言ってるのに息子は6冊も7冊も本棚から取り出して寝室に持っていこうとするから5冊だよ5冊だよってなだめて5冊にさせようとしているから俺も5冊だよ5冊だよって息子に促したんだけど3冊しか選ばねえの、え、お前、もう2冊いけるけどいいの?3冊でいいの?本当にいいの?って言っても、うん、うん、しか言わねえのそれで仕方ないから二人で寝室に行って絵本3冊読み聞かせしてやってまだ3冊だけどいいの?もう2冊くらい読んでもいいけど寝る?て聞いたら、うん、うんって、言って自分で電気消して寝るんだから一体なんなんだこの2歳児。完全に今日の飲み会のメンツおもんないから絶対二次会行かないし財布5000円くらいあればいいや感覚で絵本3冊しか選んでないじゃん。そういう自分のことイケてると思ってほかのやつ見下してる大学生みたいなことするんだ、2歳児もするんだ、と思った。思ってるあいだに本当に2歳児寝た。おやすみー。

以上です。

人生会議雑感。啓蒙はエゴだからこそ十分な配慮が必要だ。

小藪の人生会議のポスターが取り下げられた件。

散髪屋に行くのと同じペースくらいでネットで話題になる「一部のクレームによって広告やらキャンペーンやら何やらが取り下げられる系のやつ」ですが、これについて僕の一番根っこの主張はだいたい同じで「取り下げるくらいなら始めからやるな」で、「クレームが来たから取り下げる」ということは「クレームが来るとは思っていなかった」ということでそれはつまり「誰も不快になるとは思わず、全員が全員、十人が十人、みんな好意的に受け止めてくれると思っていた」ということで、そう考えると「保育園児じゃねえんだからさぁ」と溜め息が出る。そんな簡単に取り下げられると「まさかクレームが来るとは思ってませんでした」ってことで、それは「あまり深くは考えずノリで作りました」と宣言されてるようなもので、擁護できるものもできなくなっちゃうのでやるならちゃんとやってほしいと思う。「クレームは想定内で炎上して話題になるならそれはそれでよし」の取り下げる前提でやってるパターンも考えられるが、それはそれで感心できないのでどのみち支持しにくい。

というのが、僕の基本的な考え方なのだが、その考え方を置いといても今回のこの広告を全面擁護してる人たちには「ちょっと待ってほしい」と思ったので慌ててお尻から万年筆をぷりっと取り出し筆を取った僕です。僕は万年筆で原稿用紙で書き、それを秘書がタイピングで清書するタイプです。気の小さい都知事に気を遣って芥川賞をもらってやった人と同じタイプです。

「取り下げるべきか、取り下げないべきか」は先に書いた通り「作った側が決めること」だと思います。だから、あまねく取り下げられた表現は基本的には「覚悟がなかったのね」ってのが僕のスタンス。

このスタンスとは相入れないところで「不当な批判をする奴が悪い」「そういう奴のせいで表現が抑圧されて良くない」「誰も傷つかない表現はないんだから馬鹿げたクレームを入れるのはやめろ」って人たちもいます。そういう人らは当然、今回の炎上にも炎上させた側に怒ってるわけです。

今回多いのは「実際に延命治療に向き合った経験がある人は、この広告に好意的」みたいな雰囲気で「厳しいけれども大事な話で、けど普段はみんななかなか考えようとしない話題なのでインパクトがある表現でも、多くの人がそれをきっかけに考えてくれるならそれは良いことだ」みたいなノリが擁護派からは感じられます。まあ言うてることは分かります。

分かりますが、そのうえで僕から見てどうしたって不当な批判に当たらない真っ当な批判がとりあえず一つ、僕にはパッと思いつきます。

あの、枕元にいる父親に毒づくくだり、要る?

病院で延命治療受けるより家族と一緒の時間を過ごしたかった。これはわかる。

これを表現する過程で、病床に寄り添う別の身内をdisる表現、必須?

今この瞬間も何も言葉を言わなくなった身内を見舞って看病してる人たちがいるわけですよね?その人たちに「もしかしたら、そのあなたが看病してる身内はあなたに全然感謝してなくて、実は内心disってるかもね」って投げかけるような表現は、この人生会議の本来投げかけたいメッセージを人々にお届けするうえでどうしても必要だったんでしょうか?人生会議が投げかけているような「考えよう」というメッセージがもらえなかったが故に、考える間も無く当事者になって、今まさに葛藤しながら正しいかもわからぬ身内の治療を自らの時間と体力をすり減らしながら向き合っている人たちに「お前disられてるかもよ?」て表現をお届けすることはどうしても必須だったんでしょうか?

この一点において、あの広告表現は、批判されるに値する、と考えるし、僕もその点において批判します。そしてこれは「あの広告は取り下げられて当然」とイコールではないのは繰り返し言っている通りです。ちょっと文句言われて取り下げるくらいなら最初から啓蒙広告なんてやるなバーカ。

そもそもに立ち返ると、啓蒙って、エゴなんですよ。本来やらなくていいことを「やったほうがいいと俺は思うから」って理屈でやるのはエゴなんです。「自分はそれで辛い思いをしたから、そんな辛い思いを他の人にしてほしくないから啓蒙したい」ってのは、エゴなんです。辛い思いをした自分のためにそうしたい、てのはエゴなんです。別にいいじゃないですか、事前に話し合えなくて辛い思いをする人がこれからどれだけ出ようが別にいいじゃないですか、各自辛い思いをすれば。人間ってそんなもんですよ。この「人間ってそんなもん」を「そんなもん」と思いたくないってのは、やっぱりエゴなんです。

別に僕は「エゴ」をイコール「悪」「無意味」と言ってるわけじゃない。

結局はエゴなのだからこそ、啓蒙するならするにしても、不要に人を傷つけたり脅したりするようなやり方は推奨されるべきではないってことを言いたいんです。

「自分のような辛い思いは他の人にはして欲しくない」、その心意気やよし、今は自分には関係ない他人事だと思ってる非当事者をびっくりさせて考えようってのは別に悪いことじゃない。だけれど、そのびっくりさせる過程で「今更言われてももう遅い」当事者の人らに更に辛い思いをさせないような配慮をしようとすることは、非当事者をびっくりさせて啓蒙することとは別にトレードオフじゃないでしょう。ないはずだ。そこを信じて考え抜くのが、表現じゃないんですかね?

的外れなクレームも多々あった。

しかし、改められる部分もあった。

取り下げる必要はなかった。

しかし、省みる点はゼロではなかった。

それだけの話だと思うんですよね、僕から見ると。

だけど、「ネットの声」を眺めてみると、どうもそんな感じではなくてさあ。総論賛成各論反対じゃなくて総論も各論も賛成で、あの広告に怒ってるやつが悪くてあの広告は悪くないって人を結構見かけて。まともだと思ってたアカウントでもそうなってる人を結構見かけて寂しくなってしまった。

勝手に「傷ついた」と騒ぎ立ててばかりの人にうんざりする気持ちはわかるよ、俺だってうんざりしてる。だけど、そうやってうんざりした結果、人を傷つける可能性への想像力を失ってしまうのでは、それはあまりに寂しすぎるし、惨めったらしいよ。俺はまだまだあーだこーだ言っていたいけど、今はもう、そんな時代でもないのかなぁ。寂しいな。

以上です。

Twitterのクソリプ非表示機能が分断、相互不理解、思想の先鋭化を加速させる可能性

https://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/17420389/

 

はてなスマホアプリ、ブログカードでリンク貼れるようにしてくれ(できるなら教えて)。

以前から話題になっていたTwitterの自分にぶら下がったリプライを任意で非表示にできる機能が実装されるそうだ。

そのニュースを見かけて僕は掲題のとおりの懸念を抱いた。

その理由を以下にまとめる。

 

まず、ミュートしているユーザーからのリプライは現状ツイート主に表示されない仕様になっているが、つまりツイート主が見れないことにはそれを非表示にすることもできない。もしそのような仕様が継続されるのであれば、自分のツイートのリプライ欄をコントロールしたいユーザーにとってミュート機能は痒いところに手が届かない無駄機能となり「ミュートではなくブロック」という選択がよりカジュアルに行われるようになるだろう。

自分のツイートのリプライ欄をコントロールしたいユーザーは、非表示にするリプライを選別するためにすべてのリプライに目を通す必要が生まれる。つまり、思想の異なる批判的なリプライへの接触機会が増える。そうなると対抗思想への憎悪はより深まることとなるだろう。今は「通知切ります、リプライも読みません」という選択肢が取られることが多かったが、やろうと思えば自分のツイートのリプライ欄をコントロールできるという選択肢を与えられたことで、これまで「見ない」という選択肢を選んでいた人々が「しんどい思いをしてでも見て非表示にしたい」という欲望にどれくらい抗えるのかは不明だ。しんどい思いをしてまでクソリプに目を通す必要はない、と僕は思う。

 

賛否両論のツイートをしてリプライが殺到するのに慣れっこな人が、自分のツイートのリプライ欄をコントロールしたいユーザーだった場合、カジュアルブロックは加速するだろう。毎回対抗する批判に目を通すのは面倒なので、ならばアカウントごとブロックするのが手っ取り早い。

 

このようにして、まず、ブロックのカジュアル化は促進される。その過程で「初めてのバズ」にぶち当たって、自分のツイートのリプライ欄をコントロールするために批判的な意見にわざわざ必要以上に目を凝らして向き合い、対抗思想への憎悪を必要以上に深める人というのも増えていくだろう。そして、憎しみがピークに達したところでカジュアルブロック派に移行していくだろう。

 

カジュアルブロックの加速によって、お互いに憎しみ合うことしかできない相手同士がTwitter交差点の真ん中で正面衝突する機会がなくなるならそれはそれでいいではないかと考えることもできるかもしれないがそうは問屋が卸さないだろう。

一定のバズに至ったツイートは必ずメディアが取り上げる。いくら、対抗思想をお互いにブロックし合ったところでネットニュースになってしまえば、お互いの目に触れないということはない。

しかし、お互いにブロックし合っているのでは、クソリプを投げ合うことも出来ず、自らツイートするより仕方がない。そしてまた、そこにリプライで飛んできた批判的な意見はまたブロック。批判的な意見をブロックするために目を通して憎悪を煮詰めてはブロック。

しかし、対抗思想自体はネットニュースを通して目に入る。絶賛と猛反対のみをまとめたネットニュースは更に双方の憎悪を深めるだろう。

自分が賛同したいツイートのリプライ欄を見れば、それもまた都合の悪いアカウントはブロックしててリプライされないか非表示機能で整備されているかで、自分と同じく賛同するリプライばかり。「みんな自分と同じ意見だ」と自身の思想の正当化と先鋭化は加速するだろう。

 

もちろん、これに似たような状況は、リプライ非表示機能を待たずとも各所で発生しているのだろう。そういう運用を現時点でしている人も既に少なからずいることだろう。しかし、自分のツイートのリプライ欄をコントロールできるようになるとあらば、そのような運用を選ばず踏みとどまっていた人が運用方針を切り替えるというケースも少なからず増えるだろう。

 

以上のように考えた結果、この機能の実装は、SNSを起点に、分断と相互不理解と先鋭化を加速させるのではないかと思う。今でさえギリギリというか手遅れにも見える分断が更に加速するように思われる。自身が共鳴できるツイートとそれに対する多くの賛同しか見えない世界で、見えてないから正確な割合はわからないけどネットニュースに書かれている極端な反対言論を見れば、人間はより憎悪を募らせ先鋭化するのではないかと思う。

 

今後の変化を待つほかないのだけれども、とりあえず今はそんなことを考えるのだった。

 

以上です。