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相手に「この人は対等を望む人間だ」と判断されるにはコストを伴う

なんか盛り上がっててブコメとか眺めて「へー」とか言ってたんですけど。まぁまず、「こんな男いる?」ってのは言っても詮無いので置いときましょう。なんか、いるって言ってるんだからいるんでしょ。そういう男が描かれた屏風があって夜な夜な抜け出しては高収入バリキャリ女に罵声を浴びせるので大変困っておるのじゃって将軍様が言ってるんだから「いるんだー」って思ってるんですけど、こうやって書くと実のところいないと思いつつ書いてる揶揄だと思うじゃないですか。実はこれ、そもそも一休も屏風に入ってるっていう世にも的なオチのやつですから。「よし、引き受けてくれるのじゃな一休、では新右衛門、一休を屏風から出してやれ」「ははっ!」つって、そういうスタンド攻撃なんですけど。まぁ人間誰しもたった二つのまなこで世界を無理にでも見渡すしかないわけで見える景色は人それぞれ、その中で見えたものを互いにシェアしていけるといいですねってことだと思うんですね。

それでー、なんか思ったのは、冒頭で挙げたエントリの中では女性の方は対等な関係を望んでいるんだ対等な関係と言っているのだけれど、対等な関係って一体なんじゃらほいみたいなことを思って。じゃあ実際にパートナーとどういう風な結婚生活を送りたいのかみたいな部分に全然触れてないなと思って。そういう具体性を伴わないのなら「対等」って言葉は方便としてしか受け取れずたぶんあんまり意味がないかもなぁと思うんだけどそこらへんは書いてないだけではっきりビジョンがあるのかなぁと疑問には思った。

ひとつ、これからするのはひとつの可能性の話なんですけど、例えばですけど自分より高収入の女に尻込みする男性の中には、もしかすると「結婚生活における家事は収入の低い方がより頑張らなくてはならない」という先入観にとらわれているタイプもいるのかもしれないなぁと思いました。なぜなら、一昔前のお父さん・お母さんの時代は女が家事をやるのが当たり前で、かつ男の方が稼ぐのが当たり前の時代だったからです。そんな時代を見て育ったのでそういう誤解をしてる人の存在はじゅうぶんに想定できるなぁと思った。もちろんそこで収入に関係なく家事は女がやるもんだ、そして俺は男だ、なんなら証拠を見せてやろうふぐりぽろ~んなんて言う男は論外なのでバスタブで転んで洗濯紐を首に引っ掛けて死ねばいいと思うんですけど、そこで「今は女が家事なんて古い時代じゃない!収入の低い方がやるべきなんだ!」っていう「う~ん、20点」くらいの理解に留まる人もいると思うんですよ。もちろんそこで結局男の俺は家事がしたくないので俺は自分より収入が低い女しか相手にしないんだって言っちゃう男はそれはもう喧嘩にうんざりしてその場を立ち去ろうとしたところでバスに撥ねられて死ねばいいと思うんですけど。俺はさっきからなぜ『ファイナル・デスティネーション』の死に方のネタバレを混ぜているんだ。純粋に対等ってのはそういうもん、収入差の分は家庭でより多く頑張って補ってそれで対等なんだと想定していて「げっ、相手の収入が俺の倍、ってことは家事なんか俺が全部やらなきゃいけないじゃん、でもこっちだって収入惨敗してるとは言えフルタイムで働いてるんだから全部は無理だよ。でも向こうがそんだけ稼いでるんじゃ『全部やってくれ』と言われた時に断れないな」とか考える人もたぶん世の中いっぱいおるんやろな~みたいなことは思いました。

仮にこういう考え方の男がいたとして、そいつはたぶんどのみち自分より収入が低い女に対しては「家事くらいやってくれよ」と言うに決まってるのだからクズだ、と考えて切る人はまぁそれはそれでいいと思うんですけど、これって単純に「対等っていうのはそういうことじゃなくて収入に差はあれどお互い仕事を持って頑張ってるってことには変わりないんだから、収入を負い目に感じる必要はなくて、家のことはまた対等に分担できればそれでいいよね、対等なパートナーシップってそういうことだよね」という意識を共有できれば何の問題もないはずですよね。それってそんなに難しいのだろうか。そんな当たり前の大前提すらいちいち共有しなくちゃならねえのかよ糞めんどくせえと思うかもしれませんが、それ結局言わなくてもわかって欲しい察してちゃんと変わりねえだろと思うし、そういう金銭面での負い目みたいなものって男女問わず多少なりとも人間思うところがあるデリケートな部分なわけでじゃあそこのところの意思疎通を図ろうって時に収入多い側が切り出すのが自然でスマートでしょうとは思う。それこそ男女逆で考えれば自然であることはわかりやすいと思う。大体、稼いでる方がそういう話を切り出してくれないといつ後出しで格差を理由に対等の定義をいじるようなこと言い出すかわかったもんじゃないしなぁ。利根川理論だよね、「対等とは言った。ただ、対等とは何かは言ってない」みたいな。

っていうとまた「それはお前がそうしてきたから(古いジェンダー感に乗っかって女を虐げてきたから復讐されると)そう考えるんだろ」とか言われそうだけど、そう言われたら「そうじゃなくって、俺が(男であるという理由もあって)そうしてきたことをあなたもやるべきなんじゃないのと言っている」という話になる。理由はそれぞれ、男であるということだったり、年齢が上ということだったり、それこそ収入がどうとかだったり、色々たくさんあるんですけど、相手が何かしらのものさしで勝手にこっちを推し量って「この人は対等なパートナーシップを築いてくれない人なんじゃないか」って疑われることって実は生きててしょっちゅうじゃないですか。だから我々はそういうときには面倒を厭わず「だいじょうぶですよ、僕は対等な関係を望む人間ですよ」というエクスキューズを第三者に常々発信し続けなくちゃならんわけです。他に良い言い方がないので感じ悪い言い方になりますが「持ってる方」がコストを支払うしかないのです。大きな話から小さな話までなんでもです。たとえば僕はこんなブログを書いているところからも分かる通り、よく口の回る人間ですので、それは僕にとって僕が一番ラクで喋りやすいように喋っているだけなのですが、口下手な人間は勝手に僕に対して「この人は自分の話なんか聞いてくれないんじゃないか」と思う可能性があります。それに対して僕は「聞くに決まってんだろ、いちいち俺が言わなくちゃならんのかそれ」とは思いません、相手が萎縮することもあるだろうなと考え「僕はあなたの話もちゃんと聞きたい人間ですよ」ということを言葉や態度で示せるよう努力します。それをめんどくせえって怠るのは結果的に自分が損をすると考えています。

結局自分が望む望まないに関わらず、相手が「そのカード切られてしまったら勝ち目がねえ」って思ってるカードを自分が持ってしまっているのなら「私はあなたと勝ち負けを競いたいわけではないのでこのカードを怖がらなくてだいじょぶですよ」と言ってやらないと腹を割った話をするのは難しいよねという実のところ男女すら関係ない話です。もちろんそれを手間だと判断して件のエントリの話でいえば年収が自分より下の人間を一律で切るみたいな選択肢は別にそれはそれでいいとは思うんですけど、どうしたってこのカードの持つ持たざるの問題からは別に誰も逃げられやしませんよ。みたいなことを思いました。

しかしなんか、元ネタがそんな感じなので僕も引っ張られて男が女がって言い方になっちゃってますけどやっぱこれって別に男はどうだ女はどうだって話でもなくて、結局恋愛なんてやつぁパートナーと話し合って価値観摺り合わせてオンリーワンな私たちにとってちょうどいい関係作りましょう、そのためには互いの固定観念を確認してアップデートしていくことだって必要だよねって考え方でいくしかねえだろとは思うんですけどね。悪い言い方したらパートナーに関しては育てましょうって態度が正解だと思うんすよ。最初から全部希望通りの願ったり叶ったりの物件なんかないし、いたとしてもそれって十中八九誰かが育てた結果なわけですよ、だからたぶん婚活サイトで優良物件探すなら「前妻と死別」で検索するのが一番手っ取り早いと思うんですけど。そんな検索できるのか知らないけど。ウイスキーでショートして爆発したパソコンのモニターの破片が全身に突き刺さりそのうえタオルを取ろうとしたら包丁が落ちてきたって死因で前の奥さんを亡くしてる男性で検索してそれに引っ掛かった人を狙うのが一番手っ取り早いはずなんですよ。ただ、そんなファイナル・デスティネーションの女の先生みたいな死に方で奥さんに先立たれた人ってめちゃめちゃ希少種で競争率ハンパないだろうし、それならやっぱ育てた方が早いんじゃないのって思ってしまう。炎上して終わっちゃった東村アキコのヒモザイルとかたぶん着地としてそういう話になる予定だったんじゃないかなーと思ってたんだけど、燃えちゃってもったいない。

同じ「うまく関係性を築けない理由」を探すにしても「だから関係性を築かなくていいんだ、私は悪くないんだ」と居直りたくて探してるのか、「ここさえどうにかなれば関係性を築けるんだ」って思いたくて探してるのか自分でわかってんのかなぁって人はザラにいて自分で自覚してそっちを選んでるなら僕はどっちでもいいと思うんだけど、わかってんのかなぁなんてことを恋愛記事なんかにコメントしてる人を見ていてよく思う。件の文章に出てくるようなどうしようもないクズ男もそりゃ世の中なんぼでもおるのは知ってるけど、「男は全員そんな感じ」に帰結するのは本人にとっても不都合が多い結論なのではないかと思うのだけれど。屏風に描かれた餅は取って食えないわけだけど、屏風に描かれた餅をありがたがる人は結構いて、それは屏風として風流だから気に入ってるのかいつか新右衛門さんが餅を屏風から追い出してくれると本気で信じてるのかちょっとよくわかんねえなみたいな、なんかそんな感じ。以上です。

気にしすぎな人に必要なのは「気にしすぎ」という言葉ではなく「気にしなくていい」という物語

閲覧注意!! このエントリにはあのドラえもんが帰ったと思ったら帰ってくるやつ、実はのび太ドラえもんを発明したとかじゃない正規版の最終回(でもそのあと復活する)やつのネタバレが含まれています!! ネタバレが嫌いな方はブラウザの更新ボタンを連打してはてなを落として。はてなからこの村を救って欲しいの。

そういうわけでほとんどネタバレはしきってますけどね。し終えてますけど。し果せてますけども。

話は掲題の通りです。例えば僕なんかけっこうな心配性で、嫁さんとかが海外旅行に行く時なんかけっこう気が気じゃなくて不安で不安で引き裂かれそうになるし、なんか酒とか飲みながら一人であのワニが虫歯触られると噛み付くオモチャあるじゃないですか。あれの上の歯に辛子をたっぷり塗って右の手の甲にカッターでちゃちゃっと切り込み入れてから一人でプレイするとスリルが半端なくて超楽しいんですけど、そういう一人の楽しい時間でもふっと「もしも今この瞬間に海外にいる嫁が何か事故や事件に巻き込まれてたらどうしよう、もしこの瞬間に既に嫁がこの世にいなかったとしたら俺はこの時間を楽しんで過ごしていたことを一生後悔するんじゃないか」とか考えちゃって、そうしたらもう全然楽しめないですよね。辛子が傷口に触れるかもしれないという極限状態のなかでワニの歯を治すゲーム全然楽しめないわけです。

人はそんな俺こと僕のことを「気にしすぎ」と言います。嫁すら言います。まぁ、そうなんでしょう。人間どこにいたって死ぬ時は死ぬ。海外に日本人が出向いたからってそんなサルゲッチュのピポザル感覚で外人みんなが日本人を追いかけ回すわけじゃない。頭ではわかってる。わかってるけどさ~~~~~~~~~。

結局こんなん、気分とか感情とかの問題なわけです。そして、気分とか感情とかの問題のなかには、決して一人では解決できない問題ってのがあるんです。それが今でしょ。結局あなたのなかでは「気にしすぎ」な「気にするに足らない」話であったとしても、現に私は気にしてるし、その気持ちを無視して蔑ろにされたら、私はどんどん未来を恐れるし、そうなるとどんな些細なトラブルの原因も過去に因果を求めてしまうし、まぁうまくいくわけがないんですよ。

気にしすぎな人に必要なのは「気にしすぎ」という言葉ではない。「気にしなくていい」という物語だ。

何かをものすごく気にしている人に対して「気にしすぎ」と言って一体何になりますか。その一言で「そっか、じゃあ気にするのをやめてワニワニパニックに戻ろう」って言ってこんにゃくステーキみたいな手の甲をワニの口に差し込めると思いますか。できませんよ。何言ってんだコイツ、ですよ。それだけ言われたって「お前が気にしなさすぎだよ」としかなりません。それはあなたが私に思っている態度とビタイチ変わりません。ではどうするか。

物語です。対話です。一塊の論理ではない、時間軸と共に積み重ねられるイメージの集合です。

例えば僕は、なんのかの言いつつ、嫁を海外旅行に数度送り出してるわけですが、その過程にはそりゃあ多くの対話がそこにはありました。もちろん、いくら二人が話したことで、海外で事故や事件に出くわす確率は良くも悪くも変わりません。(僕からすると)嫁が思っているほど低くなることはないし、(嫁からすると)僕が思っているほど高くなることもありません。実質的に、この対話という物語をいくら重ねたところで、嫁が無事に帰ってくる確率というのは露ほども変わりません。と、便宜上書いているものの、僕の中ではすげえ変わる。「だいじょぶだいじょぶ、夜はホテルから出ないから」という嫁に「絶対にやめて欲しいからね」と僕が言うことで僕の中では随分変わる。僕の中でだけだが。

ドラえもんだけではありません。ここで急遽ジョジョの話もすることにしました。「納得はすべてに優先する」という言葉がジョジョの何部だかで出てきます。僕はこの言葉が好きであると同時にマジで心の底からそう思っているので、納得しないことには納得できないのです。それは例えば今してる話でいうと「絶対に大丈夫なんだな」という納得ではありません。絶対なんてこの世にはないんだってことはタモリとかSMAPとか天皇とかこち亀が教えてくれました最近。僕が欲しい納得は「わかった、それでも君は行きたいんだね、じゃあ僕は君を応援するし、君の無事を願うよ」というただそれだけです。

ただ、そんな納得を獲得するのに必要なプロセスというのは人によって結構異なる。何の前置きもなく「了解ちゃんでーす」って納得できる人もいれば僕みたいにそこに至るまでいくつかの言葉が必要になる人もいる。これはもう個人差だから仕方ない。僕は嫁が出発するまでのあいだ事あるごとに心配だと口にしますしそれに嫁は「心配してくれてありがとね、でもね」と言います。大事なのは、こういう対話を幹とした物語だと思うんです。

だってみなさんね、ドラえもんの最終回超泣けるんだよつって突然言われて「ドラえもんが帰るっていうからのび太ジャイアンと一対一で闘って勝つんだよ、それで涙の別れになるんだけど嘘800を飲んだのび太が『ドラえもんはもういないんだ』って言ったから帰ってきてずっと一緒にいない!のび太ドラえもんずっと一緒にいない!俺は芸能界が嫌でロケを抜け出した綾瀬はるかと河川敷で菓子パン食べない!一生!」だけ言われても感動できないでしょ。なんのこっちゃわからんでしょ。言葉で「気にしすぎ」だけ言うのって要するにこういうことなんですよ。必要なのはそういうことじゃない。実際に漫画を手渡してページを一枚一枚繰るような、そんな物語が必要なんですよ。そしてそれはそんな、言うほど難しいことじゃない。ただ、あなたの中での結論が当たり前だと急がず、目の前にいる人間の言うことに耳を傾けることです。手っ取り早く言えば面倒で無駄にも思える時間を割くことです。それだけで、事態はきっと驚くほど好転する。あなたの意見を変える必要すらない。ただ、相手の思っていることを聞き、それに対し自分の思ったことを言い、それをフェアに繰り返すだけで、それはそのうち忽ちのうちに、物語へと変容する。そして物語は、納得の根拠となり、それは人間を強くする。

これ聞いてめんどくせえ~って思った人は仕方ない。立ち去ってくれて一向に構わない。これをめんどくさいと思う人は、僕にとってもまためんどくさい人だから。気になることを、無理して気にしないのはめんどくさくてどうにもストレスだ。心配に思う人が心配する僕を一笑に付すのはいかにも億劫だ。心配を浅慮と断じられては戸惑うほかない。そんな人の心配をするのはほとほと割に合わないのでこちらとしても残念ながら袂を分かつより仕方ない。本当は心配したかったけど、俺には無理だ、できっこない。だから、いちいち話を聞いてやって物語を作ってやるのめんどくせーと思った時は、「気にしすぎ」の一言も言わず、私は私・あなたはあなたの思いだけ胸に秘めて、それすら言わず、何も残さず立ち去ってくれ。それがお互いのためだ。僕の心配を共に和らげてくれなんてワガママは言わないので、「気にしすぎ」なんててめえのものさしを捨て台詞に突き刺して帰るのは勘弁してくれ。出会わない方がよかったなんて思いたくはない。

カッコのついた「決め台詞」で、一言ズドンと自分と同じ価値観に変えてやろうなんて考えはどうしたって傲慢だ。そこに必要なのは物語、イメージの応酬だ。途方もない作業だ。かくしてその果てで僕とあなたはきっと出会う。見たこともない顔をして見たこともない顔に出会う。そんな日を夢見て僕とあなたは同じ空間に立つ。あなたに出会うために。物語を紡ぐために。あなたは私を選べる。僕だってあなたを選べる。二人は、どこへ行くのか。それを物語るも物語らぬもあなた次第だ。あとはそうだな時々僕。以上です。

「謝らせないと死ぬ病」の人と、ただ謝って欲しい人は別

「謝ったら死ぬ病」なんて言葉があってこの前も話してたわけですけど*1、なんかそれへの意趣返しで「謝らせないと死ぬ病」なんて言葉を思いついて持ち出す人がたまにいたりするんだけどなんかそれ雑じゃねえかみたいな。タラちゃんレベルの気の利いた台詞だなと思って。タラオの言語能力を完全にナメてる前提で言ってますけども。

「聞いてよ、僕がミスターかもめ第三小学校に選ばれたと思って壇上に上がったら実は中島の陰謀で豚の血をぶっかけられたんだ。僕が怒るのはもちろんのことさすがに全校生徒みんなドン引きで、それなのに中島のやつ絶対に謝ろうとしないんだ、あいつが謝ったら死ぬ病だったとは見損なったよ」「あらそれくらいいいじゃないのよカツオ、中島くんもただのオマージュのつもりでやったんでしょ?」「ね、姉さん」「そうだぞ、カツオ、そこで火を出せない非ファイヤースターターのお前が悪い」「と、父さん、キャリーはテレキネシスの使い手でたぶん炎の少女チャーリーとごっちゃになってるよ!」「もうお兄ちゃんったらスティーブン・キングの話になるとうるさいんだから」「ワカメまで」「カツオ兄ちゃん、謝らせないと死ぬ病です~~~」一同「あっはっはっはっはっは!!」って絶対ならないでしょうだって。このカツオ絶対に謝らせないと死ぬ病ではないでしょ。カツオ、俺はお前の味方だぞ、あの作品世界で狂ってないのはお前だけだ。

いや、実際ね、「謝らせないと死ぬ病」と呼んで差し支えない人ってのは世の中おらんこたないですよ、いわゆる「謝ったら死ぬ病」ってのは誰がどうみたってもう謝るより仕方ない社会的に第三者の心象も踏まえてダメージコントロール諸々考えてもごめんなさいするのが最も有効な状況であるにも関わらず頑なに謝ろうとはしない人のことだと思うんですけど、例えばごま豆腐の乗ったザルを片手で持ってる状態でロードバイクに乗って走ってたらカーブ曲がる時に慣性の法則でごま豆腐だけ曲がらずにそのまま直進方向に吹っ飛んでってそれが通行人にぶつかって鼻血が出たみいなケースですよね。豆腐で鼻血て。やっぱスピードが乗った豆腐は硬いんだなー重量はあるわけだもんなーつって。これはもう完全に豆腐なんか持ってロードバイク乗ってた奴が全面的に悪いですよ、謝り倒すしかないはずですよ、豆腐は寿司を運ぶ梅さんみたいに後輪に固定するべきでしたすいませんって言うしかないですよ、いや、だから梅さん、あの、ど根性ガエルの。え、知りません?クッキングパパのライバルみたいな顎の、あの、ハンターハンターのウサメーンのモデルなんですけど、違う違う日村じゃなくてイボクリ遊びでジンに凹まされた、いや、もう梅さんのことは忘れてください兎に角すいませんでしたってひらひらに平謝りするしかないですよ。言い訳なんかするだけ自分の立場が悪くなるわけですから。で、ここで謝れないのが「謝ったら死ぬ病」の人たちですよね、「たしかに豆腐はぶつかったかもしれないが豆腐で鼻血が出るわけがない、大袈裟なことを言って私を陥れるつもりだ」とか「普通の大豆豆腐であれば私にも非があるとも思えるが、なにせごま豆腐だ。香りで気づいて避けれなかった方に問題がある」とか、第三者として聞いても呆れるより仕方ない馬鹿みたいな言い訳を延々繰り返す、それが「謝ったら死ぬ病」だと思うんですけど、じゃあそれに対応するよう考えてみましょうよ。

誰がどう見たってこれ以上の謝罪は不要だろうという状況にも関わらず、謝れと抗議すればするほど第三者の失笑を買うに決まっているのに、それでも謝れと迫り続ける。

たぶん「謝らせないと死ぬ病」と呼ばれるケースを「謝ったら死ぬ病」との対比で想定するならばこれくらいが妥当なんじゃないかなと思います。だからごま豆腐持って走ってた人がロードバイク作った会社に謝罪を迫りだしたらそれは「謝らせないと死ぬ病」なんじゃないかなと思います。ごま豆腐ぶつけられた人は当然謝罪されて然るべきなのでいくら怒ったところで「謝らせないと死ぬ病」とは思えないし、同様にごま豆腐の一件で謝罪がないことに憤りを感じる第三者が謝るべきだと叫ぶのも「謝らせないと死ぬ病」とはいい難いでしょう。そういう人たちに対してまで「謝らせないと死ぬ病」のレッテルを貼って謝るべきところで謝る必要なんかないだろって主張する人ってのが結構世の中たくさんいるんよねーって話ではあります。

繰り返しになりますが、謝らせないと死ぬ病という人種がいないとは言いません。しかし、そういう人とそうでない人の判別はぶっちゃけ謝ってみないことにはわかりません。ちゃんと謝りゃたいていの場合はそれなりに落ち着きます。まず、許そうとする人は許します。もちろんみんながみんな許すわけではありません。しかし、許さない人の全員が全員「謝らせないと死ぬ病」だとここで判断するのは早計です。許さない人の中でもだいたいの人は「今回の件を許したわけではないし、お前のことは今後も嫌いだし警戒し続けるが、謝られてしまった手前これ以上この件を槍玉にあげていては私の方の心象も悪くなるので引くしかない」と判断してひとまずの溜飲を下げます。そして最後に残ったそのような状況になってもなお熾烈に叩き続ける人たちというのがきっと「謝らせないと死ぬ病」にあたる人になるのだと思います。繰り返すにこういう人たちってのは、まぁ一部には確実に存在します。しかし、そのような一部の存在を謝らなくて良い理由にするなんて理屈は通用しません。謝るべきところを謝れば、大半の人たちはその反省の意を汲んで、それでも叩き続けようとする「謝らせないと死ぬ病」の人たちの方がむしろ問題だ、という方向にちゃんと舵を切ります。もちろん、ぶつけたのがごま豆腐か卵豆腐かはたまたフルーチェかによって、勘弁する人しない人の割合グラデーションは変わってくるんですが、そんな極端に謝ることで自体がまるで好転しないなんてことはそうそうないはずです。自分がやられて嫌なことは人にやってはいけませんという言葉が今どれだけ機能しているのかは怪しいですが、誰かがやられていることはいつか自分もやられるかもしれないという意識は割りと共有されている世の中ですので、一度謝ったからと言って延々頭を上げることを許さず無制限に反省の意を引き出し続けて良いんだなんてことは多くの人は考えておりません。自分が謝る立場になる可能性があることを知っている人であれば。あとこの段落、西田ひかるをゲストとして登場させるか今やってるフルーチェのCMの女の子の目がでかすぎてなんか怖い話をするかどっちでいこうか迷ってるうちに終わってしまった。

そういうわけなので、みんなが謝らせないと死ぬ病だから謝ったら死ぬ病なんてものが生まれるんだって考えに僕は基本的にNOの立場です。いくらなんでも叩かれすぎと思って擁護したい気持ち自体はわからんでもないんだけど、第三者のそういう庇い立ての仕方も違うんじゃねえかなと思うわけです。

で、そもそも、なんでそんなに謝らせたいのよって話なんですけど、ここでまた謝ったら死ぬ病の人ってのは、あいつらは頭を下げさせて優越感を得たいんだ、上に立ちたいんだ、気持ちよくなりたいんだなんてことを勝手に忖度してそんな奴らに頭を下げる必要はないなんて考えたりするんですけど、もちろんこれも中にはそういう人もいるのは否定しない。けど、そうじゃない人もいるし、そうじゃない人たちにも一律に謝らなくていい理由にはならないんだよね。島宇宙化って言葉を言ったのは誰だっけたしかセックスが好きか嫌いかでいうとめちゃめちゃ好きなおじさんだったと思うんですけど、同じ思想を持つ人たちで固まっちゃって違う思想を持つ人たちとの相互やりとりがいまいち活発じゃなくて、宇宙にたくさんの島が浮かんでるみたいなそういう世の中なんじゃないですかね、みたいな話だったと思うんですけど、なるほど確かにそうだねって思える部分となんか直感的にすごく逆にも感じる瞬間もある。こういう謝りましょう謝りませんの話なんかになった時は、結局島の中に閉じこもってることなんかできっこなくて、色んな考えの人がいるでっかい宇宙の中でシームレスに生きてんなぁ俺たちって気がしてくる典型だよね。宇宙船地球号だよね。俺、宇宙船地球号のことを考えた時、脳内イメージ映像では絶対にオーストラリアに推進力を生むブースターが取り付けられてるんだよね。完全に居住区とか取り潰して作ったろみたいな巨大なブースターがついてるんですけど、これは僕の内面に白豪主義的な差別意識が眠っているということなのでしょうか。

それで話を戻すんですけど、結局島宇宙とか言ってみたところで、どうしようもなく僕らは同じ、一つの、社会という、宇宙で、共生して生きているわけですよ、そしてその実感は不思議なことにモニター越しにスマホ越しに信号を送り合うだけのSNSの登場によってよりリアルに実感コミコミになった。たぶん謝って欲しい理由ってのはそれだよね。そんなことをして謝らない、悪いとも思わない、そんな人がこの同じ社会にいるんだっていう実感が謝罪を求めたくさせるんだと思いますよ。社会はこの一つしかないんだから、そこから追い出すわけにもいかず、どうしたって同じ社会にその人は居るんだから、これからも一緒に居るんなら、省みるところは省みてくれないと、困るよって感覚。これ全然自然な感覚だと僕は思うんですよ、「なんの一言もなしに、このままアイツと部活続けるなんて俺できねえよ」ってくらい自然な感情だと思う。だってアイツ、婆ちゃんが死んだって言うから練習試合休んだはずなのに帰りの電車で俺見たんだよ、アイツがプラスチックのスティッチに入ったポップコーン食ってるところ。あいつ完全にズル休みして、俺たちを騙して、ディズニーリゾート行ってたんだよ!! そんなもん一回きっちり話してくれないと、一緒に練習するのとか無理でしょ、でも、一緒にまた練習したいなって思うよ全国目指したいなって思うよ、だって俺たち同じ大皿のパエリアを食った仲間じゃねえか、だからこそ俺はアイツにきっちり謝って欲しいんだよ、みたいな感覚と、同じ社会構成員として納得いかないって感覚は大体一緒じゃねえのと俺なんかは思うんですけど。

ケジメとかメンツとか上下関係とか、そういう個と個の関係みたいなもんにこだわる人もそりゃいないとは言わないよ。ただ、みんながみんなそう考えてるわけじゃなくて、そういう個と個、点と点みたいな話じゃなくって、もっと社会というか自分が生きてる世界を空間的に有機的にみんなが捉えてるから、お互いが同じ空間に気持ちよくいれるようにちゃんとしようぜって感覚の方が今は多いような気がするんだよな。だから、究極改めるところを改めて共生のために必要なことだけちゃんと学んでくれりゃ、学んだんだなってことが伝わるように言ってくれれば実は謝罪そのものは必要なかったりする第三者がほとんどだし、ただ自分のやった間違いをちゃんと踏まえればその言葉はきっと謝罪を含む言い方になるはずなので「謝れ」って言い方になっちゃうみたいな、それが事態をややこしくしてる側面はあるんだろうけど、やっぱそれはケジメに詫び入れろやみたいな話とはちょっと違うと俺は思ってる。まぁ、こういう風に考えて謝るのもしんどいから背を向けてタコツボ化しちゃうんだってのが島宇宙化ってのもわかるんだけどさ。

そういうわけで、僕はやっぱり安易に「謝らせないと死ぬ病」みたいなことを言い出してうまいこと言った気になるのって全然違うと思う。全然うまくない。「明石家さんまが秋刀魚を食べた」と同じくらいうまくない。さかなクンオオカミウオを持たせて「さかなクンが魚を持ってるよ!」って言っても全然面白くないのと同じ。ていうかさかなクンオオカミウオ持ってたらそこに言葉はいらない。さかなクンオオカミウオ持ってるただそれだけで普通にめちゃめちゃ面白い。以上です。