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聴力検査した結果と、自分の声と喋り方を意識することのススメ

面白そうだったのでやってみた。

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 わからんけどまぁまぁどやって良いやつな気がしますがどうなんでしょうか。よくわかりません。ズイショさんは白いお犬さんなので耳年齢20歳ということは人間でいうと95歳くらいのおじいちゃんですね。聞きたいものしか聞こえないお年頃だと思うので気をつけたいです。

余談なんですけど、リンク先のヨウさんの話の後半が面白くって、自分の喋り方とか発声をコントロールしましょうみたいな話をしていたのですけど、それは本当にその通りだなぁと思っていて。

別にモテの文脈に限らずとも、人によって聴きやすい話し方、テンポ、あると思うし、特定の喋り方・声の出方に対して偏った印象を持って勝手にニュアンスを汲み取ってしまう人なんてのもあります。「怒ってるように聴こえる」とかね。そこでさっきと同じ調子の発話で「怒ってないから」と言っても、またその調子だったらどうせ「怒ってる」って受け取られるに決まってるんだから。というか、こういう感じで言うと「怒ってる」って受け取られるんだっていう情報がせっかく降りてきてるのにそれを活かさないとか意味わかんねーってな調子で僕は、声のトーンも喋り方のテンポもけっこう人によってその人がフラットに聴ける喋り方はどんなだろうと微調整かけながら喋りたいな、みたいなことは心がけてます。単純に雑談なんて即興のセッションみたいなもんなんだからある程度お互いの得意に合わせた方がうまくいって楽しいに決まってるし、合わせられる方がより合わせた方がお互いハッピーじゃんってな調子で。

服やらなんやらのオシャレはTPOも意識しつつ人の目を意識して臨機応変に努力するのは普通なのに、自分の発声や喋り方については「俺はこういう喋り方だから」って端から決めつけちゃって努力のしようもない領域として開き直っちゃってる人って世の中意外と多くって、もったいないよなぁと思う人を見かけることって少なくない。「結局見た目が全て」とか「胃袋を押さえたらこっちのもん」とか言いますけど、聴覚だって立派な五感のひとつ。イケメンじゃなくたって清潔感だけアピールできたら随分闘えるのと同様に、イケボ(イケメンボイス)じゃなくたって抑揚を意識しながら喋るよう心がけるだけで結構得するもんですよ。以上です。

私の真意を決定するのは私ではなく貴方だ。

 僕は、不本意に人に嫌われるのが嫌いだ。こんな奴にゃあ嫌われたって構いやしねえやと嫌われにかかった態度に出て嫌われるぶんには一向に構わないが、こっちにその気もなしに知らぬ間に嫌われてしまうことが僕は非常に怖い。そんなの絶対に嫌だって寝てる時の僕だって布団を抱きしめながら思ってる。僕は、嫌われたくない人に嫌われたくない。そして、この世界には嫌われたくない人が大変に多い。それ自体は良いことなのだけれど。それが日々を生きて息を吸う吐あする僕の不安のほとんど全てだ。

 そんな話をした時に思い出すのは、とある友人の言葉だ。彼は、お世辞にも要領の良い気の利いた人間とは言い難かった。端的に言えば全てにおいてどこかひとつ抜けている人間だった。しかし彼は小賢しいことは言わないし人の言葉をそのままに受け取る度量があったし、そこにはいくつかの理由があるのだけれど、まぁ要するに気持ちの良い人間なもんで彼のことを悪く言う奴は、僕は、だってずっと見たことがなかった。

 それである時に酒の席だかなんだかで、人に嫌われるのは怖いよなという話をしていた時に、彼に対して「まぁお前にはわからねえだろうけどな」と言ったことがある。そのままの意味でそう言った。だって彼が嫌われてるのを僕は見たことがないのだ。嫌われることがなければ嫌われることの怖さも他人事に違いなかろう。しかし、そこで彼はこう言った。

「いや、俺だって人に嫌われたくないで。その証拠に俺が嫌われてるの見たことないやろ」

 これはちょっとやられたな~と今でも思い出す。くらいなんだからやっぱり大したもんだ。

 一見頓珍漢な台詞であるが、何よりこの言葉のすごいのは、結果を以って内心を忖度しようという態度である。もしかすると本来はこうあるべきなのかもしれない。

 世の中には例えば真意システムとかいう言葉がある。「皆が私の文章を読み違えてるだけだ、私の真意を理解してくれればきっと納得してもらえるはずだ」みたいな。けど、彼の姿勢に学ぼうとするならばそうではないんだよなぁ、「私は人に嫌われることを良しとしない人間だ」を証明する術は「人に嫌われない」しかない。同様に、例えば「私はズルい人間ではない」を証明するためには「人にズルくないと思われる」しかない。真意が伝わらなかった時点で、あなたの真意は、あなたの主張する真意ではない。あなたの本当の真意は、第三者が決定する。 

 多様性なんて言葉が持て囃されて、猫も杓子も猫のおひげも、もうなんだかてんやわんやである。大抵の思想やスタンスなんてやつは所詮は相対的なものであって、他者との差異、つまりグラデーションのどこに位置するかによって解釈されるものだ。しかし多様化が進む最近においてはグラデーションどころか玉虫マーブル曼荼羅模様、他者それぞれの考えをどのように相対化してマッピングしてそして自分はその中のどの位置に胸を張って立とうか悩ましいことがしばしばだ。しかし、そこでいっちょ一発「私はこのような考えを持った人間だ」と宣言してやることでまるっと満足してはいけない。あなたの宣言はただの宣言にほかならない。あなたが宣言したとおりの人間であるかを判断するのはあなたではない、それは他ならぬ他者が宣言した後のあなたの振る舞いを見て判断することだ。

 私の真意を決定するのは私ではなく貴方だ。

 もちろんこの言葉、自身の振る舞いと思考を都度振り返り改めるべき部分を改めてアップグレードしていくために使う言葉だ。自身の正当性をしばしば過信しすぎてしまうことに備えた御守りだ。この言葉を自分ではなく他者に向けて使うことも決して出来なくはないのだが上手に使うには非常に難度が高いテクニカルな言葉であるため、私はあまりお勧めしない。こんな言葉を乱暴に振り回していたらあなたなりの真意に関わらず話にならない大馬鹿野郎だと周りに忖度されてしまいますよ。以上です。

【お知らせ】弊ブログにおける嫁がズイショさんを呼ぶ二人称について

 いつも弊ブログを御覧いただき誠にありがとうございます。

 早速ですが掲題の件についてご報告させて頂きます。

 かねてより弊ブログでは本文中にズイショさんの配偶者(以下、嫁)が登場した際のセリフに関して「私そんな喋り方しないよ」という旨のクレームを嫁本人から頂戴しておりました。

 ご指摘頂いている件については要因がいくつか考えられるのですが、その一つとして嫁がズイショさんを呼ぶ際の二人称を改変しているという問題が挙げられます。

 基本的に弊ブログ内にてズイショさんと嫁の会話を記述する際、嫁はズイショさんのことを「あなた」と呼んでおりますが、これは事実と相違します。

 改変を行っている主な理由は「ズイショさんのイメージ、また弊ブログの文体・文調にそぐわない」「のろけすぎている」などがありました。

 しかし、定期的に発生する嫁本人からのクレーム及びよりリアルに肉薄した文章を書きたいという弊ブログの理念を鑑みて十分に考慮しました結果、本日より嫁がズイショさんに話しかける描写において実際の呼称により近しい以下のような二人称を使用することをここでお知らせさせて頂きます。

・ずいち

・ずいちゃん

 また今回の決定に伴いまして、ズイショさんが嫁に語りかける際の描写におきましても嫁たん嫁ち、或いは嫁ちゃんと記載させて頂くケースがございます。こちらも併せてご理解ご了承のほどよろしお願い申し上げます。

 僕は自分の昔話をあまり人に話さないタイプの人間なのですが、先日嫁に「嫁ちゃんは仕事がうまくいってない時は仕事の話をよくするけど、うまくいってる時はあまり仕事の話しないよね」と言うと「そうなのか、全然知らなかった。ずいちは嫁ちに詳しいな」と言われたので「ずいちは嫁たん検定準一級やからな」と返したところ、「嫁ちもずいち検定準一級くらいかなぁ。過去編をあまり知らない」と、俺の過去を『ワンピース』みたいな言い方で呼んでいました。

 以上、簡単ではございますがブログ読者様へのご報告とさせて頂きます。今後も弊ブログをご愛顧のほどよろしくお願い致します。以上です。