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『青春100キロ』レビューとその周辺の賑わい雑感

「AV女優とセックスしたい」はもうそれはただの男のドリームでいいんじゃねえかなと思うんだけど、やっぱ「中出し」とか「孕ませ」って単語が何のエクスキューズもなく使われているのはよろしくなかったんだろうなという気はする。単純にシモネタウェルカムの女性がいて「君は本当に魅力的だできることなら一度お手合わせ願えないかな?」は酒の席で言われて笑って流してくれたとしても「中出しさせてよ」「孕ませたいんだけど」を笑って流してくれるかは怪しいもんで、単純に「それくらい違う」単語なのかなと思う。「中出し」とか「孕ませ」にはそれはそれで一部の(あるいは多くの)男性のドリームが詰まってしまっているという現状自体には異論の余地はないとは思うのだけども、そのドリームは単純な「良い女とヤりたい」みたいなドリームとはまた違った性質のもので、僕なんかもある程度「だってそういうものが良いとされる価値観を浴びて育ってしまったのだから」男がそういう欲望を持ってしまうことはある意味では仕方がないことなのかなぁとは思うのだけどその「仕方がない」は「次の世代に再生産されても全然問題ない今後も容認され続けるべき性質である」ということではない。

もしかすると俺は今から全然わけわからんことを言うのかもしれないけど、たぶんこれ違法残業がなんでダメかって話と似てるような気がするんだよね。それをやられちゃうとほかも違法残業やらないと勝てなくなっちゃうからみたいな言い方があったと思うんだけど。

例えばそんなの本当にいるのか見たことないから知らないけど高校に頼んだらヤラせてくれるヤリマンがいたとして、そういう風に振る舞うことでチヤホヤされることを生きがいに感じてるヤリマンがいるとするじゃないですか。そもそもそれってどうなんだとかは本題じゃないんでここでは全然置いておきますけど。ここで別のヤリマンBが出てきて「おい、あっちのヤリマンはなんか生でヤらせてくれて中出しもOKらしいぞ」って話が出てきたら男は少なくとも一時的にはそっちに殺到すると思うんですよね。それくらい現状、中出しには男のドリームが詰まっちゃってるわけじゃないですか。そうなってくるとみんなに見向きもされなくなってしまったヤリマンAも中出し解禁するしかないじゃないですか。それってどうなの?って話なのかなぁと思った。もちろんそもそもヤリマンってどうなの?っていうところをぶん投げた喩え話なのでまあまあムチャクチャ言ってる自覚はあるんだけど、なんかこう、どこが問題なのかその感じなんとか伝わんねぇかな。「女とヤりたい」というドリームと「中出ししたい」ってドリームは同じようで全然違うってところだけ、こう、なんかわかんないですかね。

「AV女優はプロで、自分の意思で、安全をちゃんと担保できる状態で、みんな合意のうえでやってるんだから何も問題ないだろ」という反論があるわけですけど、「ゴムセックスより中出しセックスの方がより気持よくてより価値が高い」という価値観をばら撒かれるだけでちょっと困りもんなわけですよ。別にそれは女性だけが困ってるわけではなくて、そういう価値観を疑問もなく刷り込まれて女性を大事にできない(大事に仕方を間違えてしまってる)男性の側だってある意味では困らされて割を食ってるのかもしれない。世界の幸せの総量を不当に減らしてしまっているかもしれないわけです。「AVはファンタジーだから」とお茶を濁してみたところで、さっきわざと高校生男子を使って喩え話をしたわけですけど、本当にみんながみんなぜんぶをぜんぶファンタジーだと割り切れてるわけではないことくらいみんなとっくにわかってるわけじゃないですか。AVと同じ時間配分で各種前戯各種体位をこなしていくのが正しいセックスのやり方だと信じていた時期はありませんでしたか?僕はあります。

AVにお世話になったことのない男性はいないと思うんですが(いや、そんなもんたぶん普通になんぼでもいますけど他の書き方が思いつかなかった)、男には、そういう、そのお世話になったAVがある意味で敵として立ちはだかって来る、呪いとして付き纏ってくる、俺を幸せから遠ざけようとしてくる、みたいな局面が生きてる割と手前でどうにもある。それはどうにかせにゃにゃらんとは思うんですよね。AV自体はきっと世の中に必要なものなのだろうし、すぐにまるっと解決することはできないのかもしれないけど、そういう負の側面を軽減しようとする努力はしにゃくてはにゃらん気がする。だから「中出しとかマジで気持ち悪いんですけど」と思う人がいるのは当然として「うん、その気持ち悪いという言い分、まるで反論できない。すげえわかる。でもだって俺が見てきたAVはさ~ここぞという時は中出しだったんだよ~。だから中出しいいなって思っちゃう。そういうもんだと教育されちゃったんだもん」みたいな気持ちも仕方ないと思う。仕方ないというのは正当化したいって意味じゃなくて、そこには滑稽さも含まれていて、俺にはただ攻撃すりゃいいもんだともとても思えないって意味で。もちろん「ねぇ、生でヤらせてよ」とかにやけ顔で言われたことがある女性からすると「ふざけんな」って話なのはわかるんだけど。「俺のような中出しに価値を見出す人間をこれ以上増やしてはいけない」みたいな、ヒュンケルならバランを止められるかもしれないみたいなそういう意味で、「中出しにテンション上がってしまう人」のことを考える必要もあるんではないかなと思う。もちろんそれは例えば今こんな煮え切らない文章を書いてる僕みたいな「そうしたい人間」がやっておくべきことで、怒りたい人が怒るのはそれそれで当然のことだと思う。みんな自分の見える世界から正しいと思うことを各自やっていくしかない。

だから、そういうAVによる変な価値観の刷り込みみたいな物悲しさも含めて「中出しセックスのために100キロ走る」っていう話であればもうちょっと話が違ったのかもしれないよね。昔、園田くんと竹本くんがAV見てて擬似か擬似じゃないかで揉めて取っ組み合いの喧嘩始めたこととか今になって思い出してみたら、それはもうどうしようもなく滑稽で残念で馬鹿馬鹿しくて、それを「青春」と形容する気持ちってのは俺もわからんでもないわけですよ。そういう価値観を持ち続けることやその価値観自体は肯定されるべきではないけれども、厨二病を愛するのと同じような距離感でただ全否定するんじゃなしにこう、うまいこと表現するってのは可能なんじゃねえかなって気はする。別に「そういう表現の仕方なら許してやる」って話でもないけど。そういう表現をする気がない人にそうしろって言うつもりもない。それでまぁ、記事を読んだところこの映画の狙いというのはどうもそういうところにはないらしく、「セックス」よりは「中出しセックス」の方が言葉のインパクトあるよね、ゴムセックスより中出しセックスの方がそりゃ断然盛り上がるよねくらいの感覚でそういう言い方をしてたのかなぁという印象で、記事でも同じような感覚でそういう言い方をしているように読めたし、それが普通で何も問題ないという風情で無批判にイノセントにそういう言い方をするのなら、「そこに無批判なのはおかしい」ということを目についちゃった側は言わざるをえない、黙ってたらそれを受け容れることになっちゃうから、そこは言わしてもらいますよみたいな人が一定数いた、って話なのかなと思った。

みたいなことを考えてて思いついたんだけど、これで実は本編のラストがさ、100キロ走った男性がコンドームと擬似精液が入ったパック渡されてさ「本当に中出しなんてできるわけないでしょ。中出しセックスは子供を作って一緒に育てたいと思える相手としかしちゃいけないもんだから。AVの中出しシーンもあんなもんぜんぶ擬似だよ。だから君は今から擬似セックスをするけど、AVという虚構の世界において君は間違いなく『上原亜衣と最後に中出しセックスした男』として永遠に生き続けるし、世の男性たちは中出しセックスへのドリームを持ち続ける。だから君はここで本当は中出しセックスをできなかったことを決して誰にも口外してはいけない。死ぬまでだ。それがずっと中出しセックスに夢を見続けてきた君にできる最高の恩返しであり、君に与えられた使命だ」って言われて泣きながら擬似セックスするみたいなオチだったらすごくない?客は中出し生セックスして嬉し泣きしてるんだと思うわけだけど、実はそうじゃないんだみたいな。世にも奇妙な物語みたいじゃない?そうだったらいいな~と思ってるんだけど、もしそうだったらマジで神映画だし『イニシエーションラブ』観てないけど『イニシエーションラブ』を超えた大どんでん返し映画として歴史に名を刻むんじゃないかな~と思うんだけど、どうなんだろうな~。以上です。

 

twitterでもちょいちょいこの話題についてコメントしてたんだけど「実際の作品を観に行かないで言うのはズルいよな~」と思いつつも「でも俺、今の温度感だったら観には行かなさそう」と思ってる自分があり、この文章は、これ書いちゃったら観に行かないわけにはいかんだろみたいなところに自分を追い込みたい気持ちがあって書いた部分がでかい。『イニシエーションラブ』の方は観るか不明です。

人を信じられない人は人を信じすぎなのではないか

もう男なんて信じない!

もう女なんて信じない!

もう大人なんて信じない!

もう人間なんて信じない!

昔はそれなりに気が弱くて空気を読む子供だったので、小学校低学年くらいの頃までは割に大人を信じていた。子供の知る大人っていうのは、いわゆる学校の先生とかそういう人のことだ。大人は僕ら子供のことを真剣に大事に思っているし、公明正大に物事を考えているし、自分たちが出来ているからこそ子供にも「みんなと仲良くしなさい」と言うのだし、そんな大人たちが見てくれているからこそ子供は無邪気でいられるのだし、だから自分は無邪気でいなければならないと思っていた。無邪気でいることこそが「私は大人を信じていますよ」という表明であり、こちらが信じていればこそ大人もそのように振る舞ってくれる。勿論その頃、そんな言語化なんてできているはずもなかったが僕はいわゆるそういう共犯関係のようなものを僕と大人を含む世界との間にイメージしていたような気がする。

しかし、そんな幻想は自分が大人になる日を待つまでもなくやがて忽ちに瓦解した。小学3年生の時に、1組の担任の後藤先生と2組の担任の五十嵐先生は仲が悪いらしいという話を小耳に挟んだのだ。大人は立派で、普段私達にそうしろと言うように、大人同士はみんな仲良くやっているもんだと思っていた、きっとそうなのだからそう思わなくてはならないと思い込んでいた私にとってそれはとてもショッキングなニュースだった。

まさに肩の荷が降りるような思いだった。なんだ、大人は信じているほど立派なものではないのか。ならばもう無理に信じようとしなくていいんだ。自分にわかる範囲というのは途轍もなく限られているというのに無邪気に無制限に手放しにわからないところまでまるっと信じなくてはならないのが息苦しくて嫌で嫌で仕方がなかった。なぜそうしなければならないと思っていたのかは今でもよくわからない。ともあれ、僕はよくわからない自分で自分に課していた義務から遂に解放された。これは「大人なんてもう信じられない」とスネたわけではない。大人が信じられない以上に僕は同年代の子供たちがみんな気に食わなかった。しかし大人が仲良くしなさいというのでそうしなければならないと思っていた。ところが大人の言うことを無理に信じなくても良いということは、気の合わない奴とは無理に仲良くしなくていいんだということにやっとこさ気付いたのだ。何かをまるっと信じなくていい、気の合う奴も合わない奴もそいつと仲良くするもしないも大人だろうが子供だろうがそいつの言ってることが耳を貸すに値するか否か全部自分で判断して決めてもよいのだ。もう俺は何も信じなくていい。勿論その頃、そんな言語化なんてできているはずもなかったが、僕は天にも昇る思いであった。そしてそんなふうに割りきってみればこそ、世の中にはなかなか話せるやつもいるということに僕は漸く思い至った。

もう男なんて信じない!

もう女なんて信じない!

もう大人なんて信じない!

もう人間なんて信じない!

そんな少年期のささやかな原体験を抱えた僕には、だから、こういったセリフがいまいちピンとこない。これらの言葉の前提には「信じたいけど信じることができない」というニュアンスがあるように思うのだけれど、「信じたくもないのに信じなくてはいけない」と思っていた僕にはどうにももうひとつよくわからないのだ。まるっと手放しに何かを盲信するだなんて僕には甚だおっかない。

男なんてどこにもいない。女なんてどこにもいない。大人なんてどこにもいない。人間なんてどこにもいない。そこにいるのは、僕が僕を通してこの世界を眼差しているように、彼を通してこの世界を眼差す彼と、彼女を通してこの世界を眼差す彼女と、貴方を通してこの世界を眼差す貴方と、ただそれだけだ。僕が僕のことなんかひとつも信用できなくってだからこそ他の何かを信じなくてはならないと勘違いしていたように、僕以外のすべても同じように信用ならないやつだった。

だから僕は貴方にひとつ、ふたつ、言葉を投げかける。貴方が信用ならないからこそ、貴方のことを知りたいと思える。貴方が眼差す世界の向こうから、僕は貴方を眼差すことができる。貴方のことを信じてなんかいたら僕にはきっとそんなことできやしなかった。貴方のことを信じていたら僕は貴方に出会うことなんか叶わなかったし、貴方のことを信じていた僕はきっと貴方になんかひとつの興味も持てず自分のことばかり考えていたことだろう。僕は貴方を信じることができなくて本当によかった、この世界がなにひとつ信用するに値しない世界で本当によかった。

僕は、貴方は、何も信じなくていい。これは控えめに言ってとんでもない福音だ。

2016年天皇賞(春)感想文

あ、いや、でも、紛らわしいタイトルでごめんなさい。これは「あんま競馬とか興味なかった人が初めて競馬場に行ってみました。せっかくなのでG1の日に行きました」という文章です。なんか、アレですよね、玄人のみなさんは分析とか解説とか色々あるんですよね、わかんないですけど。そういう内容ではないので、そういうのを期待した人は回れ右してください。アザラシの赤ちゃんは反時計回りにクルンと一回転してください。かわいいのでイワシをあげます。でも、だからって、反時計回りを二回転したからってイワシを二尾もらえるかというとそうではないからね、そんなこと言ってたらアザラシの赤ちゃんが回転するたびに際限なくイワシをあげなきゃいけなくなっちゃうじゃん!ダメでしょそんなの! こらっ、そんなかわいい顔で見つめてもダメなものはダメ!アザラシは子供の頃は毛がもっこもこでほとんどマルチーズとかポメラニアンとかあそこらへんの小型犬みたいですごくかわいい。そのくせ、眉毛みたいな模様が入っていて目も大きくなったり細っこくなったり実に表情豊かだ。そんな顔でイワシをせがまれたらもう僕困っちゃうよワシャシャシャシャ!ワシャシャシャシャシャシャシャシャ!

では、馬しか出てこない競馬場の話を始めます。アザラシの赤ちゃんが見たい人は、ググってください。

一応、地元のばんえい競馬を見に行ったことは何回かあったんだけど、ガチの競馬場っていうのは見たことがなくて、せっかくなので一回くらい行ってみてもいいかな~と思ってたのが去年の秋とかなんですけど、冬とか寒いなか頑張るのは正月明けのばんえい競馬でもう飽きたしな~とウカウカしてたらいつの間にかゴールデンウィークになってて、そしたら天皇賞っていうG1ですね、一番すごいランクのレースが京都でやるっていうので、「ランクが一番すごいランクのレースはすごい」っていう感じは、僕はダビスタやったことないけどモンスターファームで学んでるから。行くならここらへんだなと思って行ったんですね。行って帰ってきたんです。

まず人は思ったより多かったね。僕は基本ナメてかかるっていうのが人生のモットーでして、「どうせ大したことないだろ」から入ることは徹底してまして、USJに行く時とかも大体「ひらパーくらいだろ」と思って行くんですね。そもそもひらパー行ったことないんですけど、USJひらパーが同じくらいしか人いないならむしろひらパーはもっとすごいところだって方方で言われてるはずなんですけれども、「まあまあ言うてもひらパーくらやろ」思って行くことを決して諦めないんですけど、なんでかと言われたらそれはもうわかりません。たぶん「まぁ、覚悟してたから仕方ないね」と諦めながら人に揉みくちゃにされて何するにしても待たされるよりも「思ってたんと全然違うぞふざけんな」って半ギレになりながら待たされた方が時間が経つのが早い、みたいなそういう生存本能なんですけど。だから今回も京阪の淀駅にある京都競馬場に行くにあたっても「だいたいくずはモールと同じくらいしか人おらんやろ」言うて。嫁が「結構競馬場広いよ。こんだけ広いってことはもっといっぱい人いるんじゃない?」とか言われても、「お前ね、馬が走るんだから。人がいようがいるまいが広くしないと仕方ないんだよ。広くないと馬は走れないんだから。広いっていうのはそれだけの理由なわけよ。むしろ広ければ人がいるってのはどういう料簡だい?君は南極大陸モッシュできるほどの人集りを見たことがあるってのかい?」とか言ってね、超ナメ腐って行ったんですけど結論からいうとめちゃめちゃたくさん人いたね。普通に盆や正月の新大阪駅くらい人いたね。あんなに人がいるんだ。びっくりしたわ。

年齢層は思っていたより幅広かった。いかにもなおっさんから、二足歩行できてるにしても自我としてはノーカンくらいのガキを連れたファミリー、普通の初々しい大学生カップルっぽい人らまで結構な選り取りみどりで、言ったものの俺に選び取る権利は何ひとつないわけだけれども実に多彩なラインナップであった。とは言っても、2016年の日本とは思えない喫煙所の乱立っぷりとか何か馬券を買うためのマークシートを記入するスペースの別にそんなことないのにイメージ的には蛍光灯が切れかかってチカチカしてるような焦燥感あふれる風景は目眩がする有様で、「競馬場は思っていたより誰でも気軽に来れるあったかい場所だったよ!」というよりかは「死臭を中和しようとする客層は思ったよりもいる」くらいの感じでした。特に僕はもともとフードコートが苦手で、将来もしいつか子供ができたら我慢するにしても、今のところフードコートは俺には「餌場」にしか見えないということでものすごい嫌悪感があり、別にフードコートの飯はまずいだとかフードコードで飯を食うやつは馬鹿だとか言いたいわけではないのだけれど、あの芋洗いのようにごった返す人間がみんな何かしらにかぶりついている何かしらを頬張っているというのがもうなんか近未来SFホラーにしか見えなくて、とても「食事」には見えなくなってくるんですね。あんなもんエネルギー補給ですよ。餌を貪る何かしらの畜ですよ。別にそれを悪いことだとは思わんけど、俺は食事をしてえんだよ、つまりこのフードコートで売ってる食い物は全部食事じゃなくて餌なんだろ?俺は餌を食うなんてごめんだよ。並んで餌を金払って買うなんてごめんだ。ふざけんなばーかばーか!ってなるタイプなので、それに加えて競馬場のフードコートは俺の妄想じゃなくてマジで「勝負の合間の栄養補給だ」って感じで餌感覚で吉野家を貪るおっさんとかがたくさんいたのですごいなと思った。だって、普通にウロウロ歩きながら牛丼頬張ってたりするんだよ、2時間何も食わないと餓死するコマネズミじゃないんだからさ。

それで、僕はまぁ2レースくらいお賽銭程度の額を賭けてみたんだけど、下馬評の読み方とか馬券の買い方は将棋のコマの動かし方は知ってるレベルくらいで知ってるズブの素人なのだけれども、それでもまーやっぱりアレは賭けないで見るより賭けて見る方が面白いんだなーっていうのはわかった。

「口で言うだけならなんぼでもできるけど」って言い方があるけれども、「金を賭けたか賭けなかったか」ってのはその点においてものすごくわかりやすいから、「あっちも来ると思ったんだけどなー、あのまま賭けておけばなー」なんて言い訳は通用しないのである。お前は来ないと思ったから馬券を買わなかったんだ。言い訳するな見苦しい。お前にはお前なりの予算があって、そのなかで最善を目指した結果、その当たり馬券を買わなかったのだ。お前は本当にダメな奴だ。僕は自分にも他人にもそういう考え方をする人間なので、普段は興味ないのであんまり近づかない領域だけどこの賭ける賭けないという世界それ自体はとても分かりやすく魅力的な世界だ。そういう大前提があればこそ、どこに賭けようか本気で悩めるし、賭けに負けた時心の底から悔しがったり諦め切れたりすることができる。俺あの麻雀とかで、上がってないのに「俺もこんなテンパイしてたんだよ」って牌を倒すやつが苦手で、馬券の買った買わないはそれを許さない感じがあるよね、「いやお前当たり馬券持ってないんでしょ?」みたいな。そういう感じは好きだ。

一つ目、試しに買ってみようというレースではボックス買い(上位二頭に来そうな馬を3頭以上チョイスする買い方)をしていたのだけど、勝ったとしてもトントンくらいなら最初から買わなきゃいいじゃんという考え方になる人間なのでド本命は外して他から馬を選んでたら本命が普通に勝って外してしまったので、そりゃそうだよなぁと思った。でもやっぱ手堅く勝ってもつまんねえんだよと考えた結果、次(というか天皇賞)は、本命2頭をピックアップしてそこから流しで来たら面白そうな馬を何頭か選ぶような買い方をした。結果としては、そういう買い方の方が本番のレースは楽しんで見れるような気がした。今回は、本命2頭のうち1頭がきっちり終始レースの中心にいてくれたのでそれはそれでよかったが、本命2頭が倒れた時の「ふっざけんなよ!」も経験できたらそれはそれで楽しい気がする。僕は競馬で「ふっざけんなよ!」ってなる人の気持ちがあまりわからないでいたのだけれども、たぶんこういう買い方をしてるんじゃねえかなと勝手に思った。その本命として抑えた馬がダメならもう全滅なのだ、そういう買い方をしてたら「ふっざけんなよ!」となるような気がする。

要するに、「何を買うか」「どこに賭けるか」というのは「何を買わないか」「何に賭けないか」という話なのが本来的であり、そういう買い方はなんぼでもやろうと思えばできるなかそういう買い方を放棄した時に「何を買うか」「どこに賭けるか」という世界の話に立ち返る。たぶんそこで勝負するという感覚は非常に気持ちいい。たぶん競馬で遊ぶならそういう遊び方のほうが楽しい。特に今回はパドックで生の馬を見ることができたので、「こいつになら託してもいい」みたいな勘違いを非常にしやすい。そいつを見て、なんかイケる気がしたから、そいつが来る前提で他に誰が来るかという押さえ方ができるのだ。前評判とか、オッズとかそういうの気にしてたらいくら買っても足りない気がしてくる。可能性は無限なんだから仕方ない。それを諦めるというか匙を投げるキッカケを勝手に何かを見出す瞬間ってのがたぶんアレみんな気持ちいいんだろう。

結論から言うと勝てなかったんだけど、別に大した額は賭けちゃいないし、別にそこはどっちでも良かったから、こうして「勝ち負けどうなるか含めてテンション上げられる賭け方」を考えてる時点で、自分はあんまりギャンブルにはテンション上がらない人種なのかなぁ~っていうのはわかる。競馬場には本当にいろんな人がいて、お前すごいなみたいな盛り上がり方とか入れ込み方をしてる人はいくつか見かけたのだけれども、俺はああいうのにはあんまりなれなさそうだ。お金にまったく興味がない現代人なんてなかなかいないので自分もそうまでは言い切れないけれども、少なくともギャンブルというところで僕は盛り上がれるタイプではないっぽい。変な言い方をすると、俺は盗みとか詐欺の方がお金に一喜一憂するなら向いてそう(犯罪だからやらないけど)。それでもやっぱ「口だけならなんぼでも言える」「お前がそう思ったんなら馬券を買え。買ってないならお前はその馬を信用してなかったってことだ。その馬が勝ったあとに持ち上げたって無駄だ」みたいなノリには痺れるものがある。そこに突っ込むお金がはした金なのか生活費なのか俺には知ったこっちゃないが、あの最終コーナーが回った時の大歓声。だってあんなもん、みんな金突っ込んでるんだ。俺だって突っ込んでた。じゃあ、そりゃあ、あんなマジな大歓声にもなるもんだ。みんなが馬を見てる、馬は走ってる、馬は20頭とかそんなもんで、それに対する人間の数はハンパなくって、走ってる馬の熱量よりも人間の熱量のほうがハンパないのも見ての通り。それも当たり前だ。みんな金突っ込んでる。金を突っ込んでるってのは信じたってことだ。あんなにわかりやすく、何かを信じてみることってなかなかない。いや、賭けっていうのが楽しいことがよくよく俺はわかった。別に次もまた行きたいなってわけじゃないけど、昔の友人が頭を掻きながら1万円貸してくれってやってきたら、その1万円を俺は馬に賭けるほうがよっぽどマシだなみたいな、そういうことは思った。以上です。