←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

ビレバンは俺を救いに来なかった

北海道のそこそこ田舎で育ち、やっとこさ吉野家ユニクロが町にやってきたのも僕が高校生になってからのこと。テレビ東京の映らない町でエヴァショックも起こらなかった教室で、僕は十代の青春を過ごした。

日頃、生活をしていて耳目に飛び込んでくるのは一辺倒な全国区のテレビ番組から得た情報・いわゆるメインカルチャーというべきものばかりで、カラオケに行くと野球部はLUNASEAやGLAYを歌い、サッカー部はB-DASHSNAIL RAMPキングギドラを歌い、バスケ部はサザンとミスチルを歌っていた(個人の見解です)。そのいずれにも馴染めずに自分が気持よく歌える歌をわからずにいた僕はつまるところの「歌が苦手な人」となった。今でも自分のことを「歌が苦手な人」だと思っているが、今では好きな歌をいっぱい知っていて楽しく歌えているから自分が「歌が苦手な人」だと思っていることが正しいのか間違ってるのかまるでわからないけれど、三つ子の魂百までじゃないけれどきっと俺は死ぬまで「歌が苦手な人」だ。あの頃、TSUTAYAに並んでいなかった音楽は、この世に存在しない音楽だった。

みんなが面白いと言っていることが面白くなくて大いに困った。じゃあ何を面白いと思うんだ言ってみろと言われても俺には何もなかった。俺をワクワクさせてくれるものが地平線の果てまで見当たらなかった。田舎の地平線はすぐにでも見渡せるという意味で都会の地平線なんかよりもずっと近い。だから僕は、自分で作るしかなかった。かと言って音楽を作るだとか、コンピューターをいじるだとか、そんなことも出来なかったから、それは例えば小学生がノートにすごろくを書きつけてクラスのみんなに遊ばせて評判のお伺いを立てるような何でもないことだったのだけど、僕はあらゆる瞬間で俺が面白いと思ったことを言ってやってみせてそれが他の人にとって面白いかどうかを確認し続けるより仕方がなかった。ヤンキーだとか不良だとかそういうのとは全然別のそのまんまの意味で、突っ張るより仕方なかったのだ。突っ張らなければ周りの押し付けてくる通り一遍の「面白い」が、俺にとっても「面白い」になってしまうようだったから、俺は俺の「面白い」を提示し続けるよりほかなかった。自分が多少、口の回る人間であると仮定するならばその理由のほとんどすべてはそんな十代の頃に起因する。

大学進学を期に大都会・大阪へと僕は居を移した。大都会・大阪である。今でも僕は大阪や京都の人間が東京コンプレックスをちらつかせると「パンもケーキもあるけどもマカロンだって食べたい」と言われているようで粟や稗ばかり食ってた身分としてぶん殴りたくなる。ポケモンバトルをするためだけに町で唯一のそういうイベントをやってるゲームショップ目指してチャリンコ1時間漕いでた人間を前にして言って良い言葉ではない。東京がなんぼのもんか知らんがこっちからすると見まごうことなき大都会・大阪である。30分あれば見知らぬ人間とのポケモンバトルをセッティングできる土地はぜんぶ大都会。

田舎から出てきた僕からすると擦れ違う人間はみなオシャレで垢抜けていて羨望の眼差しを注ぐばかりの心情的にはほとんどズーズー弁の僕だ。そうしてやがて知ったのがビレッジ・バンガードの存在だ、そこにはいわゆるメインカルチャーに対するサブカルチャーと呼ばれるような本だとか音楽だとかグッズだとかが所狭しと陳列されていて、非常にワンダーだと聞き及んでいた。さっそく行ってみるとなるほどそこにはコンビニや町の個人経営書店やブックオフやには置いていなかった面白そうな本がたくさん並んでいて、こいつぁすげぇと僕ぁたまげた。連れ立ってくれた先輩も、こいつはいいぜとかこれはハンパないぜとか色々教えてくれてなるへそなるへそと感心していたが、やがて僕は要らぬところを得心するのであった。

いや、爆発してるのはお前じゃなくて岡本太郎だよね?

ピーキーなのはお前じゃなくて金田のバイクだよね?

いっぱい食べるのはお前じゃなくて腹ペコ青虫だよね。

ぜんぶお前は消費してるだけでお前はただ嬉しそうにしてるだけだよね? なんで俺と同じようにdocomoの携帯を買って持ち歩いてるだけのお前が、そこにナイトメア・ビフォア・クリスマスの携帯保護シールを貼っているというだけの理由でそんなに自信満々なの? 俺は俺が何が好きで何を面白いと思っているのか全然わからず七転八倒してきたというのにお前はずっとここで「アレがいいね」「コレがいいね」とピーチクパーチク騒いで金をポンと出すだけで「俺は自分の好きを一番大事にするぜ」とか言っちゃって、自分を疑問に思うこともなくよろしく楽しくやってきたのだな。

そうして僕はビレバンが大嫌いになった。ビレバンで趣味嗜好を「纏う」人たちも大嫌いになった。

かつてダウンタウン松本人志は貧乏人が想像力で金持ちに負けるわけないだろということを言っていて、「子供の考える力を育てるレゴブロック、俺はそのレゴブロックをどうやって作るか考える子供だった」みたいなことを言っていた。僕が都会モンに対して思うのもつまりはそういうことである。俺の生まれた土地には何もなかった。何もないところを耕して、俺の楽しいと思う心とか面白いと思う心を必死こいて育ててきたんだ。生まれた時から周りはモノに溢れていて、人は人、自分は自分って当たり前に思えて、メインカルチャーに馴染めず爪弾きにされてる感覚も知らずに、口を開けてたら自分の好きなものがやってきた外食で育ったお前らなんかに負けて堪るか。ちなみにガストもサイゼリヤももちろんなかった。びっくりドンキーだけはなぜかあった。チャリで30分はかかったのであんまり行ったことはなかった。

ビレバンは俺を救いに来なかった。だから僕はビレバンが嫌いだ。大嫌いだ。

逆恨みである。到底、人に振りかざせるような行儀の良いものではない。普段それで人を嫌ったり、自分が攻撃的になることを正当化したりする理由になるだなんて甚だ思っちゃいない。だけど今更捨てることなんてよっぽど敵わない。ビレバンは俺を救いにこなかった。だから俺は一人で頑張ってなんとかここまでやってきた。そうするしかなかった。ビレバンは俺を救いにこなかった。それは俺の年表の右端に注釈としてずっとずっと書いてある。今更捨てることなんて敵わない。ビレバンは俺を救いに来なかった。

千羽鶴折りたい人には「迷惑だ」ではなく「代わりにくまモンの絵をネットにアップしよう」と言いたい

僕も闘牛士という職業柄、半年に一回くらいのペースで骨折するのでよく千羽鶴を貰うんですが毎回ありがたいなと思って無駄にしたくないなと思って食べようとするんですけど調子がいい時でせいぜい二羽ですね。ワサビ醤油のちからを以ってしても二羽しか食えない。折り紙は噛んでも噛んでも柔らかくならないので全然飲み込めない。ガッテンいただけましたでしょうか? それで残りの998羽はどうしたものか途方に暮れて毎回結局赤いマントの代わりに闘技場に持ち込むんですけど、牛にみるみるズタズタにされていってパッと見もともと千羽鶴であったことがわからないくらいに鶴の数が減ってきたところでマントとしての機能も失われて牛が僕の方を狙って突っ込んでくるようになってまた骨折します。で、また千羽鶴をプレゼントされる。そういう負の連鎖が続いている俺です。オレ!

いや「役に立たねぇよ」「馬鹿かよ」「迷惑だよ」って言うのは簡単ですけど、そんな単純な話でもないんじゃねえのとは思うんですよ。千羽鶴ってもう文化じゃん。だってあれ爆発的に普及したのってたぶん広島の原爆絡みの何かでしょ? それはもう文化だよ。どこかでなにか悲しいことがあった時に「あ、千羽鶴折ろう」って小林製薬くらいの勢いで「あ、千羽鶴折ろう」って脊髄で思っちゃう人が一定数いるのは仕方ないよ。だからありがたく受け取れって話ではもちろんなくって、文化を変えていくにはそれなりの敬意がいるんじゃねえのって話。敬意っていうのは被災地のために何かしたいっていう人の善意への敬意ね。それは役に立とうが立つまいが善意のはずですよ。だから千羽鶴ありがたく受け取れって話じゃないですよ。ただ、それは善意か善意じゃないかでいうと善意のはずなんですよ。そこを否定しちゃったらもう戦争だよ。で、当事者が敬意を払う余裕がねえのは仕方ねえんだから余裕がある部外者同士で敬意を払いあうしかないんじゃないの。

たぶんネットで「くまモンの絵を描いてアップしてたくさんRTされて喜んでこの偽善者どもが、そんなの糞の役にも立たないから黙って募金しとけ」って言ったら盛大にぶっ叩かれると思うんですけど、無駄な輸送コストがかからずスペースも取らず廃棄コストもかからないだけでSNSに溢れかえるクマモンの絵も千羽鶴も一緒っちゃ一緒なわけですよ。いやだから無駄な輸送コストをかけてスペースを取って廃棄コストもかかるから千羽鶴は迷惑なんだよっていうのはその通りなんだけど、物は言いようで無駄な輸送コストがかかってスペースを取って廃棄コストもかかるだけで千羽鶴は、くまモンの絵と同じく善意なんですよ。それを「受け取って嬉しくないものを送りつけるのは善意ではない」なんて言い方で根っから否定してやる必要あるのかなって僕は思う。

勿論実際ほんと超迷惑だから送らないでくれっていうのが切実だから言ってやってるんだって側面はあるんだろう。でも僕みたいな別に被災してない部外者の人間はそんなにぶっきらぼうな切羽詰まった言い方しかできないくらい余裕がないわけじゃない。そこで被災地の千羽鶴迷惑で苦労かけられてる人々の気持ちにただ懸命に寄り添って切羽詰まったぶっきらぼうな言い方で彼らの善意を全力で否定することしかできないなら、それはそれで送られた側の迷惑も考えず遮二無二千羽鶴折りたくて仕方ない人らと同じくらい思考停止してんじゃねえのとも思う。

冒頭のtogetterで吹き上がってるような人らはまぁ特に極端なので一旦置いておくとしたって実際問題千羽鶴贈ろうみたいなことをやりたがる小学校とかってきっとあるんだろうし(だから実際問題になってるんだろうし)実際募金とか物資を送るとかそういう直接的な支援はできないけど何かしたい人ってのもたくさんいるんだろうと思う。「何かしたい」って思い、それ自体は素晴らしいことだと思う。そういう人たちが明らかに間違った形で善意を発揮してしまった時に僕らがするべきことってのは「お前のその気持ちは善意じゃない」って叩くことじゃなくて~、「もっとこういう善意の発揮の仕方したらいいじゃん」って言ってあげることなんじゃないの~? ちょっとなんか俺今すげえ恥ずかしいこと言ってるかもって思っちゃって照れで一瞬喋り方がグータンヌーボのYOUになりましたけども。もちろん現場の人たちはそこまで面倒見てられないよ。現場からしたら「迷惑だ」「勘弁してくれ」としか言えないよ。じゃあ外野が言うほかないじゃない。カリカリしないってのも「できることをやろう」の一つだと思う。難しいけど。

だので、千羽鶴折りたい人見かけたらとりあえず「くまモンの絵を描いてネットにアップしたら?」って言えばいいんじゃないすかね。そしたら迷惑にもならないし、きっと喜ぶよ。何だったら千羽鶴を折るくまモンの絵を描いてもいいし、アニメーションにしてもいいよ。一羽一羽鶴を折るくまモンを1秒24フレームで描いてたらたぶん千羽鶴折るのと同等かそれ以上に大変なんじゃねえかな。ありがた迷惑な支援は減らしていかなくちゃならないんだろうけど、行為だけじゃなくってそういう間違った発揮の仕方をした善意それ自体まで要らないもんだと切り捨ててたら、善意なんてアッという間になくなっちゃうよ。結局のところ千羽鶴折ったってくまモン描いたって何の役にも立たないけど、そういう体験で善意を育てた人が自分にできること増えた時にもっと良い形で善意を発揮するみたいなのはあるんじゃないですかね。わからんけど。以上です。

#ふぁぼしたひとを名前を伏せてどう思ってるか割りとマジで容赦無く正直にいう のまとめ

今回は最後までマジメにできましたのでまとめておきます。フェイク回答を多分に含みます。「心にもない言葉はバレる」というのがあって、それは人に掛ける言葉はオーダーメイドでなくてはならないということでもあります。そのために今自分が持っている言葉というのは一体どんなものがあるのだろうという棚卸しの意味で、こういうのはたまにやっておく必要があります。

「これ私ですか?」という質問にはその正否を問わず一律で「そうですよ!」と答えますので、気に入ったものがあったら「これ私ですか?」」と聞いてみてください。

以上です。