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「自衛隊を見かけたら手を振って」をネットで言うのは本当にナシなのか

ブログにするほど書きたいことたくさんあるわけでもないんだけど100字じゃどうにも足りないことは間違いなかったので。

自衛隊車両を見かけた女性(女子高生)は隊員に手を振ってあげてください。元気の源になるし作業時間外の話の種になりますんでwww」

これは、まぁ元のツイートに関しては素直に「マズったねぇ、こいつぁダメだ」「仕方ないわ君こりゃしばらく殴られときなさい」としか言いようがない。特に「女子高生」が致命的ですね。庇い立てする術を僕はちょっと持ち合わせません。

だので、この人は殴られててくださいとは思うんですけど、僕がむしろ気になったのは上記の記事の一つ目「プロとしての支援者が、支援対象に笑顔やら感謝の言葉を期待してはいけないんじゃないか?」という部分。これってニニコさんの言うとおり現場では「基本のキ」であることは間違いないんでしょうしそうあるべきだと僕も思いますが、それはネットでも当然のように適用されるべき論理なのでしょうか?という、問いを、僕は、発します。

もちろん「適用されるべきではない」と声高に主張する気も僕にはありません。ことにこれは今も続いている震災での話題なわけですから僕も非常に悩ましい。「適用するべきだ」とスパッと言ってしまった方がラクはラクだ、なんて言い方だってできる。ただ、そんなに当たり前に議論の余地もなく「適用されるべき」だと言い切って次に進んで良いものか矢張り僕は疑問に感じてしまうのです。

思い出したのは、僕が毎年楽しみにしているtogetterまとめです。

お盆が近づき壇家廻りという超繁忙期に臨むお坊さんクラスタが、壇家のみなさんに「こういうおもてなしは実は困ります、こういうおもてなしがすごく嬉しいです」みたいなアドバイスをしてたり、眺めてると大変微笑ましいし面白いしなるほどなぁとなる。で、これは「壇家さんにはなかなか面と向かっては言えないことをツイッターを通して坊さんが言うことで、壇家さんも坊さんも両方ハッピー」っていう効果を狙ってるわけじゃないですか。

もちろんお坊さんと壇家さんの関係を簡単に支援者と非支援者に置き換えて考えられるものとは思わないんですけど、インターネットってやっぱそういうリアルではできない・リアルとは違うレイヤーだからこそできるコミュニケーションで相互理解が深まってそれがリアルに反映されてリアルがちょっと良くなる、そういうのが美しいですよねみたいな側面あると思うんですね。最近のインターネッツはそこらへんの可能性の芽をなんかガリガリ刈り取ってってんじゃねえかなって印象を僕は感じるわけです。

件のツイートに関しては前述したとおり「完全にやっちまいましたね」という感想なんですが、「うまいこと言うこともできたな」とも思うんですよね、いやあのツイート主は心の底からゲスなこと言いたいのが主旨だったろうで彼には無理なんでしょうけど。たとえば「手を振り合うだけで気が晴れることもある、俺たち自衛官も頑張ってるからみんなももし余裕があったら手を振ってみてくれよな、こっちも元気が出るぜ」くらいの感じだったらどうなってたんだろうと思うんです。ニニコさんの論理を厳密に厳密に運用するならアウトなんでしょうけど、アウトだろと言う人もいるんでしょうが全体を見ればなんか雰囲気的にはイケそうな気もする。

まぁ別の内容のツイートが発信された平行世界には僕も貴方も辿りつけませんので想像するより仕方ありません。なのでもひとつオマケに想像すると、件のツイートが発信されてしまった我々のこの世界線においては、件のツイートが発信されなかった世界線に比べて、今後「手を振り合うだけで気が晴れることもある、俺たち自衛官頑張ってるからもし余裕があったら手を振ってみてくれよな、こっちも元気が出るぜ」がアウトと解釈される可能性は高まってるなと僕は想像するわけです。そしてそれは果たして良いことなのだろうか、悪いことなのだろうかと思いを馳せるわけです。

繰り返すに、これは、問いです。「そこは別にいいだろ」という反論ではありません。

そして、この問いについて今みんなで考えようよとも思っていません。だって「どうあれアイツが悪いんでしょ」というのが確定的な状況で、根気良くじっくり考えることはとても難しいですから。なので、僕は問うたうえで今回はそこんところは保留にしません?と言いたい。「あいつは自衛官という立場で女性を軽んじるツイートをした。非常に不適切だ。けしからん。ばーか!」で終わりましょうよ。そこで「そもそも支援者のあるべき姿っていうのはさー」って話を始めるまでもなく彼は明らかに悪いので、その状況でそっちの議論も始めるのって絶対良くないから徹夜明けに議論するくらい具合悪いからやめとこうぜ、ってのが僕の主張です。

なーんかね、大体これはネットでも現実でもそうだけどひとつ大ポカしちゃったら他の論点で「そこはちょっと反論あるんだけど」って言ってもうるせえ開き直ってんじゃねえぞって余計怒られるだけでマトモな議論なんてできないんだから、明らか大ポカかましたとこ以外は触らない方がお互いのためなんだよね。そこをオーバーキルというかダメ押しの一点というかトドメを刺しにかかるというか、誰かが何かやらかしたら余罪をどんどん論われるじゃん、で一箇所大ポカしてて大勢は決しちゃってるから余罪ひとつひとつ検証してひっくり返せるところはひっくり返してこうなんて話にはなかなかならないから、そしたらそれがそのまま判例みたいな形で残っちゃってさ、次からは大ポカしてない何気ない時に「それはダメなんだぞ」って持ち出す奴が出てきて、そこで初めて「あれ、なんかめんどくさいぞ」ってみんな気付くんだよ。「悪いものを悪いと言って何が悪い」って話と「最近のネットは息苦しい」って話は、だからちょっと別の話だと思うんだよね。グレイな部分というか、なぁなぁの部分というか、遊びの部分がどんどん無くなってるよなーみたいな。

ほら、人間関係でも相手が言い返せないヘマこいた時に「あと前から思ってたんだけどさーアレもやめて欲しいんだよねアレもやり方変えて欲しいんだよね」って他の話までほじくり返したら絶対信頼関係なくなるじゃん、だってそこで出来たルールは二人で対等に話し合って決めたルールじゃないから。不平等条約だから。

なお、件のツイート主がセーフかアウトかって話は興味なかったので(女軽んじた時点で明らかアウト)、件のツイート主が現役か元かって議論もあるみたいですがそれは全スルーしてます。「さすがに100字には収まらないから」つって書き始めたら2500字ですってよ、奥さん。こいつやっぱ放っておいたら際限なく喋ってるからダメですわ。以上です。

通信費を払えば無料で批判し放題

上記、拡散して有益になるような情報よりも批判ばかりが取り上げられてウンザリだ、という内容の記事で概ね「そうだね」とは思った。

批判されている事象は確かに批判されるべき内容であるのかもしれない、しかしそんなことよりもっと大事な拡めるべき情報があるだろう、どうして批判ばかりが拡散されてしまうんだという話なのだけれど、答えはシンプルで批判を頑張って拡めている人間というのはじゃあ批判するべきことがなくなったら――例えばマスゴミと呼ばれるような人たちが襟を正して批判されない振る舞いをするようになったなら――批判以外の有益な情報をせっせと拡散してくれるのかと言えばそうではない。彼らは批判がしたいだけなのだ。

ここで僕がしたいのは巷でよく見かけるような「揚げ足取りをしても仕方がない!もっとクリエイティブで建設的な発信を心がけよう!」みたいな意識が高すぎて高山病で手足がしびれるような話ではない。そういうことは、したい奴がすればいいことで万人に求めるようなことじゃない。クリエイティブで建設的な発信なんてシロモノは志がない人間に片手間でできるものではない。僕にだってできない。えーと、おならぷー。ほらねほらね。

世の中の大半の人間が考えてることなんて大概おならぷーですよ。それは昔からずっとそう。じゃあ昔はなんでそうは見えなかったのかっていうと、みんな自分の考えてることがおならぷー程度のことって知ってたからですよ。昔は知ってたという言い方をすると今は知らないのかって感じに聞こえるけど、そうではなくって、自分の言ってることはおならぷーでわざわざ金と手間をかけて世間様に表明するほどのこっちゃねえなんてことは今も昔もみんな知ってます。ただ、おならぷーをわざわざ言うのにかかる金と手間が最近はすごく減りました。

「金と手間がかからなくてタダでおならぷーを言えるならせっかくだしストレス発散になるし言ってみようかな。」

日本が批判が多くなったように見えたなら原因はほとんどそんなところなんじゃねえかなと僕は思います。

結局以前は切手代とか電話代とかが惜しいからみんな思ってても批判をわざわざ表立って言わなかっただけですよ。それは品位とか粋とか知性とかをかつての人たちは大事にしてたからとかじゃあ全然なくて、単純に、手間がかかって面倒だったから。その面倒が今はない。面倒なしに何でも言えるようになった時、何を言いたいかってなると批判ですよ。批判というか、批判とはただリアクションしてるだけですから、自分以外の誰かがいるならば無人島以外ならどこでもできますから。そこで批判以外のことを言おうとする奴は、極端な話それより以前からどうにか金を作って手間暇面倒かけて勝手に発信してます*1

「タダなら遊んでやってもいいぞ」なんて客の意見は相手したって仕方ないみたいな話は色んな業界で聞きますけれども、今のインターネットってのはまさにそういう状態なんだろうなと思っています。よくソシャゲの界隈なんかで「3000円払えば無料でガチャを10連回せる」なんて言い方をギャグでやってますけど、全然笑えないですよ。通信費を払えば実質無料で批判し放題って考えてる奴がわんさかいます。

これは「批判はいけないことだ」と言う話でも「批判以外の意見を発信するのが有益で良いことだ」と言う話でも「志はみんな高く持とう」と言う話でもなく、ただただ「無料は人が殺到するから面倒だね」というだけの話です。金と手間暇と自分なりの誠意をかけて発信した奴が偉いって話ですらない。どれだけコスト払ったところでトンチキなこと言ったらそいつはトンチキで偉くもなんともない。

無料で面白いものがたくさん読めるようになったんなら、無料でつまらないものが目につくようになるのは当たり前だって話でもある。金と手間暇をかけてりゃ内容に関係なくありがたがられる時代でもない。

そういう批判でPVを集めて金儲けしてる奴らがいるのが問題で無料がどうとかは全然関係ないって筋も考えられなくはないけど、先述した通り無料で殺到してるユーザーがやりたいのは批判というかリアクションで、何かきっかけになるものがないと彼らは身動き取れないのだから煽りの批判記事もそういうニーズに応えてるだけで(悪くないなんてことはもちろん全然ないけど)根っこの問題は有料なら発信なんて絶対しないけどどうせタダなら発信したい人々(ないしタダであるという現状)にあるような気がする。

じゃあどうすりゃいいんだよと自分でも今思ったんですが、よくよく考えなおしてみると「昔の日本(日本人)はこんなんじゃなかった」ってノリにむかついて「いや、昔の日本人も切手代や電話代を惜しんでただけでたぶん同じようなこと考えてたよ。今も昔もそんなに変わらないよ」ということを言いたいだけでした。だから特に結論はありません。

みんなが何を考えているのかが昔よりわかるようになった。今、そういう風に見えたんなら昔からずっと実はほんとはそんな風だった。

僕が思っていたのはそんなところです。以上です。

*1:もちろんこの言い方は、インターネットが万人に発信する自由を与えたという事実を捨象して言っています。今日のインターネットは、切実に発信したくても出来なかった人へ与えた恩恵よりも、発信なんざ別にしなくてもいいけど発信できるなら無責任に発信してやってもいいよと考える人へ与えた恩恵の方が遥かに大きいと思います。

読書感想文よりもまず「最後まで読め」が嫌だった

そういえば少し前に読書感想文に意味があるだとかないだとか自由に書かせてやれだの自由に書けって言われても困るだのという話題が賑わっていてそれはまぁ定期的に賑わう話題なのでどうでもいいっちゃいいのだけれど、そういえば僕も今でもだけど本を読んで読書感想文を書くのが苦手で子供の頃はずいぶん苦労したものだけど結局何がきつかったのかということを思い返すと読書感想文を書かされることよりも自分で選んで読み始めた本は最後まで読めと言われるのがきつかった。

最後まで読めと直接的に言われたかは定かではないのだけど、何を読むか選びましょうね?何を読むか決めましたか?あなたはこれを読むと決めたんですね?じゃあ夏休みにこの本を必ず最後まで読んで読書感想文を書きましょうね!自分で選んだんだもんね!読めますよね!という最終的には圧力臭くなるようなフローは組まれていたような気がする。

自分の意思で決めたことを簡単に投げ出してはいけないというのは正論ではあるのだが、人間だもの子供ならなおさらのこと自分で向いてるかなと思って選んでみたもののちょっと触ってみるとどうもあんまり向いてなくてつまんないことがわかったなんて判断ミスは普通にありえるはずだ。にも関わらず、どうも初志貫徹みたいな思想を子供の頃はずいぶん押し付けられて窮屈な思いをした記憶がある。学校でやらされる読書ってのは俺の中でその筆頭なのだ。

読んでる最中は苦しくても最後まで読んでみて初めてよかったと思えることもあるとか言うけど、最初くらい読み始めから読み終わりまで一点の曇りもなくずっと楽しくって苦しい瞬間なんてひとつもなかったっていう読書体験をさせてくれよ。ましてや最後まで読んでみて普通につまんねえなってなることもあるわけじゃん、そうするとマジで時間の無駄だったなーって気分になるし読書は時間の無駄だからやーめぴっぴってなるわけじゃん。俺はそういうところあって活字への苦手意識ってのはすげえムクムク育ってこんなに大きくなりました。巻末の解説文だけ読んで感想文を書いたり漫画でわかるシートンの一生を読んでシートン動物記の感想文を書いたりしてそうしたズルで捻出した浮いた時間で延々ポケモンのレベルを上げ続ける馬鹿の出来上がりです。

だから子供に本を読ませたいならつまんなかったら途中でどんどん投げて次の本を読みなさいって感じが一番いいんじゃねえかなと個人的には考えている。図書館はタダで本を読めるから素晴らしいっていうけどどっちかっていうと読んでも読まなくてもタダであることこそが素晴らしいと俺は思う。

そんなんじゃダメだ、そんな甘やかしてたら本を読まない人間になっちゃうぞって言う人は逆に本の力を侮ってるというか信じてないんだと思う。最初の10ページでも20ページでもいいから読んでつまんなかったらハイ次の本ハイ次の本ってことを10冊20冊やってりゃ誰でも1冊くらい「ウヒョーなんだこれ超面白れー、ページを繰る指が止まんねーご飯いらねー続き気になるから眠くもねー」みたいな本に巡りあうもんだろと思ってる。「本はいいぞ」ってのはそういうことなんじゃねえの。

一回そういう「うひょー」っていう成功体験があって悪くない思いをしたからこそまた次の本を手に取ろうって気分にもなるし成功体験があるからこそ「もうちょっと読んだら面白くなるかもしれねえし」と自分の意思で読み進める力が身について投げずに読める本の幅ってのも広がっていくもんなんじゃねえの。

もちろん低学年向け中学年向け高学年向けとか本のやさしいむずかしいの差っていうのはあるんだろうけど、炎属性の奴は初級のレベル1のダンジョンだろうが水系モンスターしか出てこないダンジョンだったら詰むわけで、逆に相性さえ良ければ結構むずかしい本だって「おもしれえから」って理由でグイグイ読めたりするもんだ。自分の属性なんて最初はわからないに決まってるんだからまず、それがなんなのかを見極めないことにはしんどいしそれを見極めるのに必要なのは頑張って最後まで読むことじゃなくてとりあえず数当たって一発で心鷲掴みにされる一冊に出会うことだと思う。ダンジョンの最下層まで無理して潜らなくていい。ダメそうだったらさっさと引き返してほかのダンジョンに潜ればいい。最初の一冊さえ見つかったらあとはAmazonのこの商品を購入した人はこんな本も購入していますじゃないけど相性の良い本の探し方はなんぼでもあるわけじゃん。で、そこに並んでるのを順番に読んでるうちに精度良すぎて「本当に俺の好み当てて来すぎてキモいわ」ってなって天邪鬼にそこに出てこない違う毛色の本に手を伸ばして、今まで読めなかった本も読めるようになってる自分に気付いたりするわけじゃん。そういうのが楽しいじゃん。

親の性格とか運で引いた担任の性格とかで、俺はどうもそういう本への触れ方を許されなかったようで書いてたら自分でもびっくりするくらい思い出し怒りが湧いてきてなんか無駄に喧嘩腰ですけど、もしかするとそういうのは俺の環境がたまたまそうだっただけだったり今は時代もずいぶん変わってたりでここにあるような本の読み方が推奨はされずとも許容されているのであればそれは子供にとって良いことだと俺は思うのでそうだといいなと思う。「最後まで読め」が今も主流であるならそんなん糞食らえだぞと思う。実際のところどうなのかは子供が近くにいる生活に今の俺はないので知らん。ので、とりあえず書くだけ書いた。

あとついでになんか言いたいことないかなと考えたら二つあって、ここにあるやり方も含めてどうしたって本を読まない奴もいるだろうけどそういう奴は読まんでいいと思う。本からでしか学べないことというのも中にはあるのかもしれないが、本以外からでもだいたい同じように学べることというのもきっと「本を読めないやつはダメだ!」と本気で思ってる人が考えてるよりはずっと多い。俺は本を楽しく読めるようになったのがだいぶ年食ってからでそれをもったいなかったなと自分で思ってるのでそういう立ち位置で書いてるだけ。あともう一つは、読書感想文の書ける書けないってのも結局うひょーってなる本についてだったら書けるし大して面白いとも思ってなかったら書けるわけないだろう。それだけの話だろう。流石に「本当に面白かったら放っておいても勝手に書く」とまでは言えないので書け書け言って書かせるしかないんだろうが、「書け」って言われて「じゃあ思ってることあるからちゃちゃっと書くわ」と書き始めてその思ってることが自分が頭の中で思ってるよりうまく書けなかったなら悔しいからうまく書けるように頑張るだろうし、大して思ってることなかったらうまく書けなくても悔しくもなんともないから頑張る気も起きないだろう。書きたいことがあったら書けるし書きたいことがなかったら書けない。学年で一、ニを争う馬鹿で本なんかろくすっぽ読まずに学校の作文や読書感想文なんか全力ですっぽかしてた河野くんはエロ小説なら書けた。河野くんにとってそれは本当に不思議な、中学三年生の夏の出来事であった。以上です。