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全編手話の台詞ゼロ映画『ザ・トライブ』感想文

全編手話、台詞なし、字幕なし、吹き替えなし、BGMなし、というないない尽くし。最早ハゲあがった酔っ払いのおっさんに「じゃあもう料金も半額でええやろ」と言われかねない(お前もう観にくるなよ)そんなレベルの異色映画『ザ・トライブ』を観てきました。なので、その感想文です。

まず、台詞もBGMも本当に最初から最後までなかったです。客の寝息がとてもよく聴こえた。どうやって2時間半ガッツリもたせるつもりなんだろうと思っていたらオーソドックスな飛び道具・反則手は一通り網羅しておりR-18スタンプラリーは十分にコンプリートしているんじゃないかなくらいの感じです。それなりにヘビーな描写は含みつつも無音で淡々としたエンターテイメント性の乏しいアレなもんですから家でDVDで観るのも随分かったるそうだし、どうせ興味あるなら劇場で観た方がいいんじゃないですかね。

とりあえず「全編手話!」という触れ込みのモノ珍しさがテツandトモのなんでだろうレベルで老若男女誰から見たって分かりやすすぎるのでそっちばかりが注目されがちなんですが、この映画の最大の特徴はというと頭おかしいレベルの執拗な長回しです。兎に角ワンカットワンカットがめちゃめちゃ長い。僕は舞台演劇を割りと好むということもあって長回しという撮り方はそれだけでYATARAテンション上がる性質-TACHI-なんですけど、僕と同様の長回しフェチはこの映画、一回観ておいて損はないんじゃないかなと思います。たぶんだいたい150分くらいの映画だったと思うんですけど、体感的にはせいぜい30カットくらいしかなかったような気がしたんだけど、流石にそこまでじゃない?これはちょっと確認してみないことには分かりません。DVD出たらそれだけでも確認しようかなぁ。何にせよまぁとにかく一度カメラが回り始めたら構図が切り替わることなく只管に登場人物を追いかけ続けて延々淡々とカメラが回り続けます。なんでこんなことになってんのかなって話なんですけど、まぁ何せ全編手話なんで、音声言語による会話が一切ありませんので、こういうやり方をしないと流石に繋がらないっていう単純な話なのかなと思っています。でもこれって不思議な話で、じゃあ僕らが普段見てる映像っていうのは極端な話で言えば二人の登場人物が交互に何かを喋るたんびにアングルが切り替わったりするわけで、あんだけカットが細切れになっていても普通に繋がるのは何でなの?って話になるわけですけど、それは要するに視覚情報がどんだけ断絶の連続で飛び飛びになっていようとも無音も含めて音のあるなしを判断し続けている「聴覚」の時間軸が常に一本に連なっていればこそ、違和感なく視覚情報を処理して前後関係を理解することができるからだったんだなってことに見ている間に気付くわけです。常に・今も・一秒前も・一秒後も・いつだって音に気付くことができる=聴こえる状態で生きていれればこそ、私たちは編集された視覚情報を問題なく処理することができるわけですが、聴覚で処理するべき情報が圧倒的に乏しいこの映画ではそうはいかない、編集されていない・生身に剥き出しの・間断なく連続した・視覚情報を絶え間なく追い続けないことには目の前で起こっていることを把握しきれなくなる。そういう意味では集中力を要求される映画ではあるのですが。

ここで僕が考えたいのは、そういった目の前で繰り広げられる聾唖の人間の生きる様というのは、本来的な私たちの生きているありのままと寸分違わないのではないか、ということです。編集不可能な音のないコミュニケーションの存在は、音のあるコミュニケーションを普段している私たちが無意識のうちに自らの経験や体験を記憶に留める過程の中で編集し、ありのままから遠ざけていることを示唆しているのではないか、ということです。編集とはつまり解釈です。ありのままに起こった事実を切り貼りと編纂して、ある一定の解釈をしやすいように仕向けるというのが編集です。私たちがそれこそ五感を駆使して目指そうとしている円滑なコミュニケーションというものは、結局ありのままを遠ざけようとする相互の編集作業によって成り立つ欺瞞に満ちたものなのではないでしょうか、というのが五感の一つを無闇に必然遠ざけたこの映画に触れて僕がぶち当たった問題になったのでした。

聾唖しかいない聾唖の人の世界というのは生きてて普段あまり見かけることもないんですけど、一番最初に気になって不思議だなと思ったのは、対話する二人がお互いに同時並行的に手を動かしていたりすることなんですよね。これって、僕ら口から音を出して会話する人たちの間ではあまりポピュラーじゃない光景です。というか、向こうが何かを伝えようとしている時にこっちも何かを伝えようとしている状況というのは、客観的に言って、かなり険悪でまずそうというのが音声言語で対話する人間の感覚です。でもきっと彼らにとってはそれが普通で、それが普通だということは、それがより私たちがコミュニケーションするうえで本質的だということです(音声言語を持たない彼らは私たちよりもよりシンプルなルールでコミュニケーションをしているわけですから)。つまり、嗚呼、残念ながら、なるだけ頑張って・きめ細かく・思いやりの心を持って行おうとしている私たちのコミュニケーションというやつは、どうしたって一方向的な<私>の今を伝えるだけの、ともすれば暴力的でエゴイスティックな振る舞いにすぎないということが明らかにされてしまうわけです。例えば愛しているのが本当だったとしても、愛した貴方に届けたいのは「愛している」という僕の内にある思いを君にぶつけたいという一方向的なものにすぎず、聴覚情報に頼り時間軸を共有する僕たちは相手の喋る順番と僕の喋る順番を区別することで会話のキャッチボールだのの言い訳を取り繕ってお互いを思いやっているつもりになるけれども、なんだ、結局、僕たちのやっていることは、自分の思いを相手にぶつけたいという、それだけのことなんじゃないか。音声言語を持たず、時間軸を持たず、ただ今・目の前にある景色でコミュニケーションする彼らはそういうことを僕に思わせたわけです。

もう一つ気付いたのは、僕たちが日頃伝達しているものというのは伝達できる範囲のもので、ありのままの自分の思いの丈というものは、やはり何一つ伝達できていないということです。それを気付かせてくれたのは、ジェスチャーを以って伝達を試みる役者の身体それ自体でした。例えばボールは、ボールのカタチをしていますので、その時点でボールとしての役割を既に果たしています。それゆえボールは、ただのボールとして、素朴にボールとしてそこに投げ出されています。同様に、聾唖の身体は、明確な手話という言語を持ち合わせているゆえ、その手話のジェスチャーを行った時点で「何かを伝達するための身体」としての役割を既に果たしています。それゆえに聾唖の役者の身体は、ただの身体自身として、誰かに何かを伝えようとするためではなくただ自身の感情を発露した状態のままスクリーンに投げ出されるのです。私たち、音声言語を持つ人間の身体は、音声言語を持つ故に所在なさげに佇みます。言語が何かを伝達する役割を勝手に果たしてしまいますので、身体は手持ち無沙汰なのです。手持ち無沙汰ながらも、曖昧にプラスアルファで何かを相手に伝えようと佇んでしまうのです。聾唖の身体は違います。何かを伝達するという役割を手話という身体言語によって明確に果たします。だからこそ、それゆえに、自身の感情が明らかにほとばしるのです。例えば、私たちは、無言で相手に怒りを伝えようとした時、怒りが伝わるような身体を作ろうとします。それが佇むということです。大して聾唖の身体は、手話という言語によって「怒りを伝える」という目標は明確に達成できます、だからこそ身体そのものは伝えるためではないありのままの怒りを迸ることができるのです。ともすれば、あどけなく、素朴で、ピュアにも見えるような彼ら聾唖の演技というのは、別にそういう俗に言う障がい者は天使みたいな人格なんだみたいな話ではなくて、そういう身体の役割の差異ゆえに、油断している箇所が異なっているだけなのかなという気もします。

まーそんな感じで長々書いているわけですけど、やっぱ明日以降僕が生きるうえで考えたいキーワードというのは「編集」になりそうです。この映画は瞬間の連続を何より重んじており、あまり編集されていませんでした。それゆえ、ありのままが乗っていました。しかし音があろうがなかろうが、僕らの生きる毎日だって瞬間の連続には違いがないはずなのです。それなのに、この受け止めようとする僕のリアクションの違いは何なのだろう。僕は、僕の日常を、瞬間を、どんな風に無意識に編集しているのだろう。その編集処理によって、僕はどれだけ前向きに・或いは後ろ向きになっているのだろう。編集する前の瞬間を掴まえようとしたとき、それには何が必要で、その先にはどんな風景が待っているのだろう。なかなか面白い映画でした。以上です

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