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「セックスできるお母さん」が欲しかった

「結局男なんてセックスできるお母さんが欲しいだけなんでしょ」みたいな言い回しをたまに見かけるんですけど、なるほど、まぁでも出発点なんてそんなもんだったような気もする、と思うわけです。例えば中学生男子に「何か食べたい?」と聞いたら「焼肉!」と答えるわけですけれどもそれはあんまり世の中に存在するおいしいものをちゃんと把握できてないからなんですよね、経験値すら伴わない貧困な想像力ではすごく漠然としたアホみたいなものしか求めることができないんです、人は自分が欲しがるものですら想像できる範囲でしか欲しがることができないのです、だからタレがめっちゃ付着した安い肉で白米をできるだけたくさん頬張るくらいしか贅沢を経験したことがない中学生男子はアホの一つ覚えみたいに「焼肉!」と声高に叫ぶのです。プロ野球選手になりたいと願った幼稚園児が「全打席ホームランを打つスラッガーになろう」と考えるのも、アホで想像力がないから仕方のないことなんです。それらと同じように交際経験にも乏しく精神的にも未成熟な男が「おれのかんがえたさいきょうのれんあい関係」として「セックスできるお母さん」レベルのあまりにザックリすぎる細部がぼやぼやしている存在しかイメージできないのはやっぱり仕方のないことじゃんねと思うわけです。だって自分の身近にいる女性のロールモデルってお母さんくらいしかいないわけだし、あとは風の噂で聞いたところによると男女間で行われるセックスというとても気持ちの良い行為がこの世界のどこかにあるらしい、欲しけりゃくれてやるこの世のすべてをそこに置いてきたくらいの情報しか手元にないわけです。じゃあそれらの知識をもとに全想像力を傾けて考えた理想の女性像が「セックスできるお母さん」になるのは極めて必然的な流れじゃあないですか。「ありったけの夢をかき集め」と言ったもののお母さんとセックス以外の夢に具体的な思いを馳せられるほどの想像力が伴ってなかった。ありったけっていうか全二種やないか。大変残念です。

とまあ、そういうことなのかなと思うんですけど、別にそれは「男というのは自分勝手でわがままなことばかり考える生き物なのだ」という話ではなく、「人生経験が少なく想像力に乏しい人間というやつは現実味に欠ける極端な理想像しか思い描くことができない」という人間一般のお話であり、そういう風にわけのわからん非現実的な理想を男性に求める想像力の足りない女性というのももちろん同様に存在するわけです。

世界一スマートでイカしたトックリセーターメーカーの社長さん(もうお亡くなりになられたそうです)が遺した言葉に「顧客は本当に自分が欲しいものを知らない」というものがあります。これは商品開発のシーンに限らず、割りといつだってそうだねと言えそうな言葉に思われます。これ言い換えると「顧客が欲しい欲しいと言ってるものなんてあいつら本当に欲しがってるわけじゃないからわざわざ頑張って与えてやることなんてないし、あいつらが本当は何を欲しがっていて何を与えてやるかはこっちで決めるんだ」ってことだと思うんですけど、会社の人間関係なんかであまりこれを極端に持ち出しちゃうとうまくいかないにしても、恋愛を含むパーソナルな人間関係においてはこの話、とても重要なんじゃねえかなと思うわけです。未熟で馬鹿で想像力の足りない男が「セックスできるお母さん」を求めたとしても、そういった役割を演じて与えてやる必要なんてないわけです。それに関係なく、自分が与えてやりたいものを与えてやればいいわけです。高校生が「焼肉食いたい」と言うからって焼肉ばかり与えてやっていては碌な大人になりません、焼肉ばっか食って育った大人は十中八九馬鹿になります(断言)、「焼肉食いたい」と喚こうがそんなの無視して野菜炒めや湯豆腐を食わせてやったりするのが本人のため、ひいては未来のお互いのためになることもあるのです。自分の想像力の貧困さに自覚的で謙虚な人間であれば、そうして実際に与えられたものを糧に自分の拙い想像の細部に修正を施していくことでしょう。自分の想像力の貧困さに無自覚で傲慢な人間は「俺の欲しいものはこれじゃない」と駄々を捏ねるかもしれませんが、そういう奴には自分の想像力のショボさと向き合うよう水を向けてやるか或いは捨て置きましょう。僕は、人間は何かきっかけがないことにはなかなか成長できず最初の段階で想像力貧困で馬鹿みたいなことしか想像できないのはある程度仕方がない、と考えますがその成長をわざわざ手間暇かけて促してやる義務なんぞ誰にもありません。そこまでしてやる価値がない人間に見えたのであれば、すみやかに袖にしてやりましょう。一番良くないのは、相手が求めているもの(ここでは「セックスできるお母さん」)を私は頑張って与えて差し出したのだから、私が想像する私が欲しいものを求めるのは当然の権利だし彼は差し出して然るべきだ、と考えることです。想像力貧困な二人による絵に描いた餅のような理想の押し付け合いなど地獄の物々交換です。お互いに借金作ってお中元とお歳暮を贈り合うようなもんです。中長期的に良好な関係を維持するためにはお互いが無理のない範囲で差し出し合うのが望ましい形です。そのために、自分が差し出すべきものは自分が差し出せるものの範囲で自分の意思で決定する。何を差し出すか吟味するという自己責任の作業を放棄して相手の無茶な要求にそのまま応えて、その代わりに自分の要求にも無批判に応えろというのではどう考えても未来はありません。相手の求めるものは現実味に欠けるので決して無批判に与えてやることなく、自分が差し出すものは無い想像力を働かせて自分の頭で考える、一方で相手がそういうプロセスを経て与えてくれたものを評価する際には自分が欲しいと思い描いているものを基準にすると少し無茶があるという謙虚な姿勢を心がける。

取っ掛かりが「セックスできるお母さん」というフレーズなのでややこしいのですがこの話はもちろん「女は男に一方的に与えるべき」という極端な価値観に基づいた話ではなく、男が女に与える時でも女が男に与える時でも逆に相手に何かを求める時でも同性間の話であっても、お互いに尊重する人間関係を作っていくうえでいつだって意識せにゃにゃらんのはここらへんの話なのではないかなぁと思う。

そういうわけで僕もたぶん、初めの頃は、だって他に想像のしようもなかったものだから「セックスできるお母さん」を探し求めてオギャーっと第二次成長期を迎えたに違いないのだろうけど、それから何やかんやあって、あの頃求めたこともない想像したこともないあの頃の俺が思い浮かべる俺にとって都合の良い理想からは程遠い形ながらも、今のところは居心地の良い結婚生活をやっている。僕は今は「セックスできるお母さん」を欲しいとも思いませんがその理由は「そんな女性なんているわけないから」ではなく、「それよりもっと具体的で詳細で実現可能性があるリアルな良き男女関係を想像することができるから」です。もしそんな都合の良い女性なんてこの世にいるわけないと分かったとしても、それに代わる理想像をうまく思い描くことができなければ人はきっと無茶な理想像を追い求めることしかできないのでしょう。代替案を思い描くのはもしかすると自力だけでは難しいのかもしれません。俺が自分で欲しい欲しいと喚くものよりも俺に必要なものはもっと他に色々あったけれど、それが自分に必要だったと気付くのは構造的にどうしたっていつも差し出された後のことでした。別に嫁さん相手に限った話でもなくて、願わくば僕も、人にそういうものを差し出せる人間になれればなぁとぼんやりながら想像している俺こと僕なのであった。以上です。

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