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差別意識と強張り

出先で腹減ったけど時間ねぇからなんかそこらへんの公園的なスペースでカップ麺を食おうと単位全然取れてない大学生みたいな決断をした僕はカップ麺食いてぇカップ麺食いてぇと嗚咽を漏らしながらコンビニに立ち寄り日清カップヌードルを震災明けのガンダムみたいな立ち上がる顔でレジに持っていったらレジの店員さんが小人症の人だった。都会を歩いてりゃそういう人を見かけることは今更珍しくもなんともないがレジの向こう側に立っているのを見たのは初めてだったかもしれない。何はともあれ一刻も早くカップ麺にお湯を注ぎ青空の下で3分間を正座で待ち焦がれ蓋を開けてモワッと昇り立つ湯気越しにヘルタースケルター沢尻エリカみたいな微笑をしたうえで厳かに平らげ完食した折には両手を合わせながら「アーユーハングリー?日清、カップヌードル」とダッフンダの顔で言おうという僕の計画を変更する必要はどこにもなかったので、僕は別に何でもない調子で普通に財布から小銭を取り出しお釣りなしちょうどピッタリで会計を終えたのだった。

これはどこに出しても恥ずかしくない一人前の立派なただの事実なのだけれども、身長と腕の長さにはある程度の相関関係がある。その一瞬のうちにそんな事実が言葉として僕の頭をよぎったというわけではないのだけれども、僕はただ、「彼の腕は僕よりも短い」ということを脊髄で感じたうえでそうしていたのだろう、僕は無意識にレジ台のだいぶ僕よりに置かれていたカップヌードルを店員さん側に近いように置き直した。彼はキョトンとした顔で言った。

「袋ご利用ですか?」

僕はぼんやりしている男だ。見ているようで何も見ていなかったり、見たそばから今僕の目の前であったことをスコーンと忘れ飛ばしたりする。よく考えたら僕は既にお金を彼に支払っている。ということは彼は一度このカップヌードルを手にとり、バーコードを拾い、そして僕の方にカップヌードルを戻したからこそ、僕は彼にお金を支払うに至ったのではないか。こっちはこっちでおちょぼ口で小銭入れを探っていたので僕は彼が商品をレジに通す一連の作業を認識していなかったのだろう。既に彼がカップヌードルを手に取るターンは終了していたということ、彼は一人でカップヌードルを手に取ることができたということ、二重の意味で要らんことをしてしまった自分が僕は急に恥ずかしくなってしまいそのまま「あ、袋要らないです」とだけ言うとカップヌードルを手にレジを離れた。何でもない振りをして店内の給湯ポットでお湯を注ぎながらも、なんだかよくわからない自分のエラー的な行動をどう処理してくれようか頭の中はグルグルしていた。

誰でも大なり小なりあるだろうけれども、僕はとりわけそれが大変顕著なのだけれども、人間いちいち考えて考えて間違いのないよう何もかも指さし確認をしながら生きるというのはやってられないので、一連の動作を一つの塊として捉えてその塊全体をもって「ひとつの手続き」と見做すライフハックがあるように思う。例えば僕が、カップ麺にお湯を注ぎ青空の下で3分間を正座で待ち焦がれ蓋を開けてもわっと昇り立つ湯気越しにヘルタースケルター沢尻エリカみたいな微笑をしたうえで厳かに平らげ完食したときには手を合わせながら「アーユーハングリー?日清、カップヌードル」とダッフンダの顔で言うのもその典型だ。同じようにコンビニのレジにおける支払においても僕はきっと商品をレジ係に渡し、財布からお金を取り出し、お釣りを受け取り、そして商品を受け取るという一連の動作を一つの手続きとして捉えているはずで、本来であればこのような恥ずかしいエラーを起こすことなく何事もなく店を後にしていたはずである。それが今回、どうしてこんなことになったのかというと、思い当たるところは一つしかない。繰り返しになるのだが、別にそういう人は街を歩いていたらそれほど珍しいものでもないし、彼らを見かけたところで良くも悪くも僕の心が特別な何かを感じるということはこれまでなかったはずだ。しかし、小人症の人とコンビニにて店員さんとお客さんの関係でやりとりを行ったのはこれが初めてだった。そこで僕は良い意味でも悪い意味でもなくただただシンプルに、その状況を「いつもどおりの一連の手続き」を行えないイレギュラーなケースであると判断していたのではないだろうか。つまるところ身体かあるいは脳が何かしら強張っていたのではないかと思う。

ところで、「差別や偏見はあるべきではない」という当たり前の事実があるけれども、これが真であったところで「私たちの身体はイレギュラーな慣れない状況に遭遇した場合なんらかの強張りを見せることがある」という事実とは特に競合しない。この二つの事実が同時に成り立つことは可能であるし、どちらか一方を優先するためにもう一方の事実を犠牲にする必要は特にない。ないのだけれども、いざ自分の身体がそういう強張りを見せる場面に遭遇してしまうとなんだか罪悪感に近いような気持ちが僕の中に生まれたのも事実だ。もしかしてこの感覚って間違った知識による露骨な偏見なんかよりよっぽどタチが悪くて厄介なものなんじゃないだろうか。

「いつもどおりじゃない」ことにストレスを感じるのはすごく自然なことで、そりゃあその居心地の悪い気分が悪い形で外に出て人に迷惑をかけちゃあ駄目なんだろうけど、ストレスを感じることそれ自体は誰にでもあるすごく自然なことだ。僕は幸い的外れの気遣いで恥をかく程度で済んだが、もっと違った形で身体が強張るひとだっているだろう(もちろん僕の挙動で相手が内心、気を悪くしてた可能性はあるんだけれど)。慣れない状況に強張ること自体はやっぱり自然な身体の生理だと思うのだ。しかしそこで「差別はいけません!」という言葉が頭をよぎると、なんだか居心地が悪くなってくる。自分が悪い人間のような気がしてくる。差別の意思をもって行動するなんてことはなかったとしても、何であれ自分の身体が不自然に強張った事実は何より自分の身体のことだから自分こそが誰よりも一番よく知っている。そこに一度後ろめたさを感じてしまったら、今度はその後ろめたさを払しょくするためになんだかんだと自分を正当化しようと理屈を捏ねくりまわしたくなったりそういった状況そのものから遠ざかろうとしてしまうのは人情だろうとも思う。でもたぶんそうじゃなくて、後ろめたさなんてそもそも感じる必要がなくて、緊張して身体が強張るのは当たり前なことで、そんな中でどう自分の身体をコントロールして相手と向き合っていくか、そうやって自分じゃないし母親でもない決して俺の思い通りにならない他者とどううまくやっていくかってのがそもそものコミュニケーションなわけで、それは誰が相手であったとしても同じことで「差別はあってはならない」としても「最初からできて当たり前」って前提で臨むのはやっぱりしんどいよね。誰だって超人じゃないんだから。

みたいな、そんなことを、青空の下で正座しながら考えました。

割り箸が欲しかった。