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「他者に正しい価値観や規範を内面化させたい」という欲望

先日、大学時代の後輩の男と久しぶりに会って酒を飲んでいたらこんな相談を受けた。

職場で男性社員同士が女子社員を品定めして順位をつけるようないわゆる下世話な話をしていて、その話に混ぜられそうになるのが嫌だ、と。

あまり角を立てるのは本意ではないが、どう言うのがうまいだろうか、という話であった。

で、僕は自分の職場でそういう会話が発生してたら何ていうかなーと考えた結果、「少なくとも自分のいるところではそういう話は控えて頂きたい。自分のいないところでも他に女性スタッフがいるところでは控えるべきだろう。できれば勤務中にそういう話をすること自体もない方が好ましい。そういう話が好きな男だけの飲みの席で身内で楽しむ分には止める権利はないかもしれないが、その文脈を会社に持ち込むのは極めて好ましくない」とかになるかなぁと考えた。

まぁ、実際これを言える人そうでない人がいるし(僕は会社ではそこそこそういうの言える立場とキャラクターだし、実際に僕は下衆な話題になりそうになるとあからさまな否定にならないように同調の素振りは見せつつも「つまらないし美しくないのでやめましょう」と切って落とすので、少なくとも僕の前でそういう話題が出ることはなくなった)これを伝えたところで反論したり構いやしないって人というのもいるだろうが(幸いにも自分の職場にはそういう人間はいないようだ)、僕が言うとしたらこんな感じになるかなぁと伝えた。

後輩は「それだけなんですか?」と不思議そうな感じで「もっとそういうのはハラスメントで良くないことだとか、そういう話は愉快じゃないとか、どうしてそういう話をしないべきかとか、そういうことは言わないんですか?」と聞いてきた。

で、僕がその場で思いつくまま喋って返したのは「うん、だって、そういう話が会社でなくなればいいんでしょ?じゃあ控えるべきだ、って伝えて、それで向こうがそれを理解したならそれで終わりで、それ以上何を望むの?」みたいな内容だった。彼がそれ以上の何を望みたいのかは、まあわかるんだけどさ。

僕は得たい結果を最小コストで得たい人間なので、今回の件でいうと「そういう話が会社でされないようになってほしい」が求める結果だ。「そういう話をする人たちに性根を改めてほしい」は考えないものとする。そっちもセットで実現しようとするのはものすごく大変なことだし、そっちもミッションに追加してしまうことで一つ目のなんてことないミッションをクリアする難易度もベリーベリーハードになってしまう。それはとても非効率的だと思う。結果が見込みにくい努力は徒労だ。まずは、一つ目のミッションをクリアさえしてしまえばそれでいいではないか、一度に多くを望みすぎてはいけない。僕はそう考える。

そこで思ったのだが、この「少なくとも私の前でその話は控えてほしい」という言い回しって、どこまで有効に扱われるものなのだろうか。例え話で考えてみたのだが、僕に「下衆な話は私の前では控えてほしい」と言われた相手が「なるほど、了解した、控えよう。代わりに、私は私で控えるので、そちらもフェミニズムがどうとかハラスメントがどうとか、そういう話を私の前でするのは控えてほしい」と言ってきた場合はどうだろうか。僕は完全にアグリーする。むしろ、最初からそのつもりだ。そちらからすると、煩わしい耳に障る話なのだろう、言われれば反発したくもなるだろう。だから僕はアグリーだ、君がそういう話を控えてくれるならそれでいい、僕はそれ以上を君に求めない。僕ならそうなる。

けど、一般的に考えて「私の前でフェミニズムの話は控えてほしい」なんて言ったら、まーバチクソ怒られるだろうね。なぜバチクソ怒られるのか、を考えた時に掲題の言葉が頭をよぎった。

「他者に正しい価値観や規範を内面化させたい」という欲望が人にはあり、そしてその欲望は現代において概ね肯定されているようだ。

しかし、それは本当に肯定されるべきものなのだろうか?僕の考え方から言い換えられるなら「肯定されるべき」とすることは果たして効率的なのだろうか?どうもこのあたりに世の中の断絶が深まる要因が隠れている気がする。

一例を挙げれば、先日ツイッターで「ハラスメントに厳しくなっていく世の中に『生きづらい世の中になった』という人がいるけど、そんなことで生きづらくなるやつは一生生きづらさに苦しめばいい」みたいなツイートを見かけて、それがものすごくリツイートされてものすごくいいねされていた。

僕はそれを見て、「『生きづらい世の中になった』も控えていただきたい」にどうして人は留めることができないのだろうと思ったのだった。

まあ、わかるんだけどね。僕は今の自分の環境においては「控えてください」を言える状態にあるけど、それはまあ僕がたまたま恵まれてるからで、「やってられねえ」環境が世の中にゴマンとあるのも理解している。向こうがクソみたいな全時代的な価値観(たとえば、女はセクハラされても我慢するのが当然、とか)をこちらに内面化させようとしてくるクソみたいなイベントがあるので、それに反発するために自分の内面化された価値観をアップデートするために、自分を奮い立たせなくてはならない人たちがいるのもわかる。それが必要な人たちがいるのもわかる。

でもやっぱ、それで相手の間違った価値観や規範をなんとしても上書きさせたい、振る舞いだけではなくその内面まで変えてもらわないと納得いかないというのは、端的に言って無理があるんじゃないかなぁと思う。

そういった欲望を持つ人を否定はできないけど、僕はそういった欲望を肯定して自分の中にもあるだろうそういう欲望に身を委ねたくない。なぜなら効率が悪いから。俺は効率厨だから。

なので、「他者に正しい価値観や規範を内面化させたい欲望」を、もう少しコントロールしてみようよ、頑張ってみようよなんて言えない。できない人はやらなくていい。できる人がやればいいから無理してやったりなんかしなくていい。それでも、そう言われてみればもう少し頑張れるかもって人の目にこの文章が触れてくれればなーって思う。そう思える人が増えればいいのになーって思う。

価値観や規範はなかなか変えられなくても、振る舞いくらいなら案外人間変えられるから、まずはそこだけ変えようよって感じで、それで振る舞いだけでも変われば関係性も変わって、それで一人でもどうしてこの振る舞いだとこんなに心地よい関係性になれるのかなって思ってくれれば、その人が「振る舞いだけじゃなくて、もう少し知りたいです」って言ったら僕はその時に初めてその人と「控えてください」以上の話をしたいし。

青臭い話をしてるのはわかってるし、怒られる話をしてるのもわかってるんだけど、少なくとも僕はいつまでもそうしていたいなぁと思っている。

以上です。

 

「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」への反論

タイムラインにこの記事が流れてきて「まぁそうだな」と思った。

で、この記事に対して掲題のような批判が溢れかえってるのも目についた。

なのでこれを書いている。

「自分の家族が殺されても同じことが言えるのか」について僕が思ったことは「いや、直接の被害者遺族はそんなこととても言えないだろうしそう言う必要もないだろ」だった。

そして、だからこそ当事者じゃない誰かが「それでも誰かが言わなくちゃならないこと」を言うべきなんだろうと思う。そしてこの記事の筆者はまさにそれをやっているんだと思う。

自分の家族が殺されてしまった人にそんな殊勝なことを言えとはとても言えない。言えるわけがない。決して無理に言わせたりなんかしてはならない。

しかし、そのような視点を社会が持つことが同じような理不尽が繰り返されないために必要であるならば、それなら代わりに当事者ではない誰かが言うべきだ。

もしかしたら今不幸の只中にあったのはどこかの誰かではなく自分であったかもしれない。この事実は誰にとっても恐ろしく堪え難い。

しかし、ならばこそ、今不幸の只中にたまたまおらずにいる人々は、当事者でないからこそ当事者には到底引き受けられない役割を探して、その役割に向き合うべきなのではないかと思う。

理不尽に怯え、無力感に苛み、理不尽をただ恨み、憤りに身を任せることは簡単だ。

しかし、実際に私たちがそれほどまでにただ無力であるかについては未だなお疑問だ。

自分の家族が殺されたわけではないからこそ、もし殺されていたのが自分の家族だったとしたらとてもとても向き合えない問題に向き合いたい。

当事者だからこそ言えることがあるように、当事者ではないからこそ言えることできることを探したい。

簡単に社会は人間は無力だと諦めたくない。

きっとどうにかできたはずだ、もう少しマシにできるはずだ、そう思っていたい。

もちろん僕がそんな風に考えられるのも自分が当事者じゃないからで、自分の家族が殺されても同じことが言えるのかと問われれば僕は全くそんなことできるわけがないと思う。

しかしそれは当事者と非当事者にどうしようもなく分断されるしかないゆえの役割分担の問題で、ダブルスタンダードとかとは全く別の話なのではないかと思う。

逆に言えば、どこかの誰かのその悲しみと怒りに同化しなければ、自分が当事者になった時に悲しみと怒りに身を任せる資格がないという話でもないのだと思う。

みんな怖いしみんな辛い。

その中でできることを探して、誰かにはできないけど自分にはできることを探して、少しでも世の中をマシにしたい。そういう世の中であってほしいと思うから僕はそうしたい。

何も当事者であることばかりが宿命ではない。万人に万人の宿命がある。やるべきことが、向き合うべき問題が、立ち向かうべき理不尽とそれぞれの宿命に応じた立ち向かい方がある。

てめえのためとてめえの愛する隣人のために僕は今てめえにできることを探したい。そう考えることをいつまでも諦めたくない。

以上です。

痴漢安全ピンの話の流布は今痴漢に悩んでる人を苦しめる

めちゃめちゃ手短に書く。

痴漢なんてどうせクソなんだから被害者はこっちなんだから表沙汰になって困るのは向こうなんだから痛い目見ても自業自得なんだから、痴漢されたらあいつらの手を安全ピンで刺してやればいいんだよ、みたいな話題でキャッキャと盛り上がってる人たちが世の中の一部にいるらしい。みなさんそれぞれに嫌な思いをされた経験があるのだろうからそんな言説を面白がれるんだろうし「だよねだよね」と共感し合うことで何かしら過去に受けた傷から救われてはいるんだろうなと思う。とは言え、こんな乱暴な話が世の中に流布されて、流布する方は楽しいのかもしらんが、それでどういう人がどういう風に受け止めるかを考えるとなんだか仄暗い。

まず、そういうことを言って楽しんでる人たちの間で実際にそれを実践してる人できる人ってどれくらいいるんだろうかと思う。たぶんだけど、一握りもいないんじゃないかなと思う。もしそれを言ってる人たちが本当にみんな実行しているなら、もっと違った形で「ネットで話題」になってるはずだろうし。たとえば「電車でいきなり安全ピンで刺された」みたいな報告事案が多発する、とか。「いや、手を刺されても痴漢はやましい思いがあるから告発なんてできない、故にそういう話題は起こらない」って反論が飛んできそうだが、痴漢ができるような混雑した電車で剥き出しの安全ピンを痴漢にだけピンポイントで刺すなんて作業が各所で行われて全部が全部成功するとも思えない。もし本当にそんな痴漢対策が広く実践されてるようなら、何の後ろめたいところもないのにぶすっとやられたって報告事例がネットに散見されるはずなんだよな(本当に広く実践されている!という立場を取りたいなら「もし痴漢してなかったとしても抗議すれば痴漢と疑われるかもしれないので、やっぱり報告事例が上がってこないのは本当に広く実践されていたとしても不自然ではない」と反論することができるが、それならいよいよ問題だ)。

つまり、みんな「実際そんな危なっかしいことはできないけどなー、そうしてやりたいなー」という願望をまるで本当に正しい対策みたいに言ってまことしやかに共有してるってのが今の状況なんじゃねえかなーと思う。

で、僕が気になるのは、そんないわば「だったらいいのにな」をまことしやかに共有して遊んでるムーブを、そんなムーブをムーブともわからないままに孤独に痴漢被害にあって苦しんでる人が見たらどう思うのかなーって考えたら追い詰められると思うんだ。「あ、そんな大それたことを毅然とやらないと痴漢被害からは抜け出せないんだ」って。本当はもっとあるはずなんですよ、そんな理不尽に被害に遭う人が渾身の勇気を振り絞らなくても、誰かの善意や優しい社会の仕組みで、相互を信頼しあうやり方で痴漢を退けることってもっとあるはずなんですよ、たとえばググったら出てくると思うんですが、痴漢を憎む人が近くにいることを伝えられるアプリがあるんだよーとか、そのアプリで無言のSOSを発信したらそれを受け取っただれかが痴漢を探して捕まえるかはわからないけど痴漢はキョロキョロと痴漢を探す目を意識するかもしれないんだよーみたいなそういうアプリ。僕もとりあえず入れるだけ入れてるけど、御堂筋線では鳴ったことないわ、あんま普及してないんだなきっと。普及すればいいのに。スマホからでめんどくさいのでリンクとか貼らないけど。

他の、自分の負担にならない方法がたくさんあるんだよより先に、痴漢には安全ピンだ!という主張が調べると真っ先に目に飛び込んできてしまう世界って、それなりに大変なんだと思うんですよ。自分が悪いわけでもないのに、困ってるのは自分なのに、てめえの勇気でどうにかしちまえそれができりゃさぞ痛快みたいな、そんな話が目についてしまうのは辛かろうなと思う。

で、そんなことを考えてると思い出すのが「あれ、それ俺なんか経験あるぞ?」ってなる。なんだっけと思い出してみると、ホモソーシャルの、女を抱いた抱いてない抱いた奴が偉い抱いてない奴は駄目の世界なんだよね。

僕はボーイスカウトに所属してて、ボーイスカウトは幼稚園児から小学生中学生高校生大学生から大人までが世代間異文化交流でキャンプしたりするよくわからないコミュニティなんだけど、お年頃で気になるあの子のことを考えると夜も眠れない中学生の頃とか、高校生の先輩から「女まだ抱いてないのか?だっせ、そんなんじゃダメだぞ」みたいなことをすげえ言われてたのね。「勢いだよ」「強引にいかなきゃ」って高校生が中学生に教えるんですよ、で馬鹿な中学生の中には真に受けるやつもいて、実践したのかな、実践したことにしてるのかな、同じようなことを言い出すやつが出てきたりして。でもやっぱ思うのはそういうことを中学生の俺たちに言ってた高校生のあいつらな、たぶん童貞もいっぱい混じってたと思うんだよなー。童貞の妄言を真に受けて、実践しちゃう奴らがいたあの感じ、あの感じと似たものを今のこのムーブに感じるわけです。

女の子には強引に、勢いで、無理やり口説いてなし崩しに迫って抱けりゃ勝ちだとは僕は思いません。そして世の中的にはそれはそうであるはずだと思う。けど、男社会の中でそれがどれだけ多数派の価値観かはわからないよね、つまらねえ「だったらいいのになぁ」を流布する奴らがいるから、「だったらいいのになぁ」を実践して勲章にして吹聴する奴らがいるから。そんな言説に追い詰められなければ、今までどおりずっと「あの子は僕のことが好きかしらどうかしら」でうじうじと生きて、いつか良い人に巡り会えたんじゃないかしらみたいな良い奴が、女を雑に扱うことを正当化して、セックス実績を勲章みたいにぶら下げて、寂しい人間になってしまうのをこれまでたくさん見てきたよ。

恐らくは多くは安全ピン童貞の人々が、まことしやかに「痴漢なんて安全ピンで刺せばいい」なんて、強張った主張を振りかざす。それを真に受けた追い詰められた人たちが、実際にそれを実践してまたそれが正解だと振りかざす。若けりゃ若いほどそれを真に受ける。そしてまたそれは伝播する。そんなことをしばらく繰り返した後に残るのは、弱い人間が馬鹿にされる、馬鹿にされないために他人を傷つけることが肯定される、今すでにこの世にあるそれと寸分違わぬ、クソみたいな世界でしょう。

僕はそれを望まない。

痴漢に遭って苦しい思いをする人がいない社会を目指すためには、人を無闇に憎み人を傷つけることを正当化して、なんならそれが勲章になって人を扇動できるような、そんな価値観が本当に必要なのだろうか。そんなに今まで通りでいいんだろうか。

以上です。