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僕の「知り合いの誰かと誰かが実は付き合っていたと知らされる」観

これ読んでなんか「この人、海外から帰ってきたと思ったらまたなんか早速ウジウジ言ってるよ」と思ってめちゃ笑ったんですけど(大事なく帰国されたようで何よりです)、僕も「知り合いの誰かと誰かが実は付き合っていたと知らされること」についてなんか喋りたくなった。

いや、お二人さん、めでたいね。色々いじったようなギャグを言うこともできるけど、それはもうツイッターでみんながさんざんやってるだろうし、まぁいいや。

「実は俺たち付き合ってるんだ」って言われて「裏切られた」って思ってしまう感覚、そりゃ僕も昔はあった。それはもうお前なんなんだよって話で、僕は僕で彼女がいる時でも「裏切られた」って感覚になったりするんだから、メロンパン口いっぱいに頬張りながら「クロワッサン勝手に食べるなよ!」ってモゴモゴ言ってるみたいな、お前口にメロンパン入ってるんだから関係ないだろ、みたいなね。昔はそういう感覚あったけど、いつからだろうなそういうのなくなったのはって考えたら、結局隣の芝は青いって感覚が抜けた頃なんだろうなって思った。別にそれまでだって「俺だって今の彼女じゃなくて、お前の方の彼女とほんとは付き合いたかった!」って具体的に思ってたわけじゃないよ、なんつうのかな、いわゆる、本当はこの世のどこにもない僕の頭の中にしかないすごいラブラブなカップルっていうイメージがあるわけじゃないですか。それが幻想で、どこにもないんだ、僕の頭のなかにしかないんだってわかった時に僕はすごいラクになったというか、誰かと誰かが付き合ってるってことを素直に祝福できるようになったのかなぁ。

そりゃ今回の件も、僕が大学生だったら、めちゃめちゃ「裏切られた」って感じたと思うんだよね。それで、その「裏切られた!」って思った時に僕の脳裏に浮かんでるのは、ロングコートのポケットに手を突っ込んでる有吉のそのポケットに夏目三久も手を突っ込んでポケットの中で手をつないで二人で歩いてるイメージ映像なんだよね、なんだったらマフラーも二人で一つを巻いて寄り添って歩いてるのね、そういうのを想像して「お前らそういう仲だったのか、裏切りやがって!!」って大学生の俺はモヤモヤしてるんだけど、たぶん付き合ってるのは本当だとしても、俺の想像してるような「そういう仲」では絶対ないじゃん。あの二人がそんなことするわけないじゃん。ツリーを彩るイルミネーション見てさ、「来年も一緒に見ようね」って言ってるわけないじゃん、あの二人が。でも俺は勝手に「付き合ってる」って言われたら「そういうことやってんのか!」って決めつけて、その部分だけ想像して「裏切られた!」って思うんだ。でも、こう、何人かの女性と付き合ってみてさ、結婚までしてみてわかるのはさ、恋人と付き合うって全然そういうことじゃないじゃん。いや、そういうの全くないとは言わないけどさ、そればっかりじゃないというか、あったとしてもそういうのはオマケみたいなもんじゃん。めんどくせえことの方がたくさんあるし、っていうかメインはそっちのめんどくさい方じゃん。って考えたら誰かと誰かが付き合ってるって聞いた時になんかそういうの想像して、「裏切られた!」って思っても仕方ないのかなって。

だから、友達同士が実は付き合ってるなんて話を聞くのも、いつからか「ちゃっかりやってやがったか!」っていうよりは「よくやるよ」って気持ちの方が大きくなってきたな、僕は。その二人のことを知っていれば知っているほど余計だよね。だから、有吉さんと夏目さんが実は付き合っててって聞いても「うわ、めんどくさそうな二人~~」って先に思って、まぁ言ってもあんなもんテレビだからさ、これはこれで俺が、人が僕に見せてくれる一面は本当なんだって鵜呑みにする馬鹿正直な馬鹿だって話なのかもしれないけど、結局誰かと誰かとの関係性って恋人になったらはいリセットして恋人らしくお付き合いしましょってなるとはどうしても僕には思えなくて、それは僕の過去の恋愛がそうだったからって根拠しかないんだけど、結局は恋人になろうが結婚しようがそこにある二人の関係性ってそうなる以前の関係性の延長上にしかないと僕は思ってて、それ考えると怒り新党のやりとりを生半可見てる僕は「うわ、めちゃめちゃめんどくさそう~~」って思うわけです。じゃあカメラ回ってなかったら有吉は夏目三久の言うことに折れてなんでもかんでも頷いて「うんうんそうだよね」って素直に話聞いてるとは全然思えないなって話で。

だからそれで、「よくやるよ」って思うし「それでもよくやってるんだから仲いいんだね」とは思う。

もしかしたらなんかテキトーにラブラブな二人を想像してよかったねって言ってるよりも、「この二人が付き合って同棲してるんならたぶんこういうことで喧嘩とかしてそうだよな」とか想像してる僕の方がよっぽど下世話ではた迷惑な奴なのかもしれないけどね。でもなんかそこらへんまで勝手に想像することで僕は「よかったじゃん」って素直に思えるし、「大変なこともあるだろうけどいつまでも仲良くね」って思えるし、なんか悩みがあるなら力になってあげたいなって思えるし、もし二人が一緒にいれなくなった時も双方に対して「まぁまぁ、人生色々だわな」と言ってそれぞれと変わらず友達でいれたらいいなって思うし、まぁでも別れたって聞いた時はもしかしたら俺は最初ちょっと笑っちゃうかもしれないけど、それは変に理想のカップル像を押し付けて勝手に期待して勝手にガッカリしちゃわないためにどうしてもそういう副作用が出ちゃうみたいなもんだから、勘弁してくれな、みたいな。

まぁ、サークル内恋愛の抜け駆け感にフォーカスすればもうちょっと思うところは色々あるんですけど(むしろ冒頭であげた記事はそっちを中心に置いて話してるのわかってるんだけど)、それは今回は全力で置いといて、とりあえず知り合い同士が付き合ってるって知った時に僕が考えるのは、なんか、そんなところです。

いや、建前だけどね。知り合いの魅力的な女の子が実はあいつと付き合っていたとか、実は彼氏いるんですとか知ったらやっぱわけもなくチキショーって思うことあるよ。その人にはめったに人には見せないもっと素敵な表情があって、それを誰かが実は知っていて、俺は見れないんだって考えたらチキショーってなることそりゃあるけどね。だってまだ見たことない素敵なもんは見れるだけ見たいじゃん、そこらへん人間欲張りじゃん。でもそういう表情を人から引き出すのにどれだけの努力が必要か、その表情を見せてくれる関係を維持するのにどれだけの苦労が必要か、逆に僕が自然に人の隣にいてられるようになるまでに相手からどれだけのものを手渡されてきたか、そういうのなまじっか知っちゃってるからさ、やっぱ「よくやるよ」って思うしかないし、「幸せにな」って思うし、まぁ恋人じゃなくたって良い表情見せてもらえる時ってあったりするしさ、ここらへんの話になってくるとそれは男女限らず。そっちでこれからもよろしくね、って思うしかないよね。読んでるか有吉!夏目ちゃんをよろしくな!! 以上です。

「誤解を恐れずに言えば」を冒頭で使うのはやっぱなんか変だ

この文章では「誤解を恐れずに言えば」について考えます。そしてこの言葉は冒頭で使うのではなくむしろ論理展開の締めで使うのがいいのではないかという結論になりますが、この文章の締めは全然「誤解を恐れずに言えば」ではありません。あらかじめご了承ください。

何かツイッターのタイムラインを眺めていたら炎上してるっぽいブログ記事が流れてきたので読んでたら冒頭で「誤解を恐れずに言えば」と書いてあって「みんなこの言い回しほんと好きだなぁ」と思った。それで、なんとなく僕は炎上芸人の人たちが免罪符にも何にもならないのにやたら常套句として使っている「誤解を恐れずに言えば」はなんだか誤用っぽいよなぁ、そもそもこの言い回しってそんな使い方するもんだっけなぁと思って、ネットで検索して調べようと思ってとりあえずGoogleを開いてみたものの「そういう使い方」と「そういう使い方に対する批判」に汚染され尽くしていて僕は途方に暮れた。仕方がないのでとりあえず、自分ってこの表現使ったことあったかなぁと思って自分のブログを「誤解を恐れず」で検索してみると一件ヒットした。

少し長いけど、段落ひとつまるまる引用します。

で、なんかSMAPが5人で温泉旅行をしてたんですけど、なんかすげぇ良かったですね。人生とはなんぞや的なことを思ったりしました。彼らはとどのつまり天下とったアイドルといって差し支えないと思うんですけど、全員おっさんなわけです。ええ歳なわけです。だからといってアイドルとして落ち目なのかというとたぶん世間的には全然そんなことない。よっぽど5人で政治的思想から大量殺人でも企てない限りきっと彼らは死ぬまでアイドルなんだろうなと思います。解散したところで元SMAPという肩書きにはなるかもしれませんが変わらず彼らはSMAPなんだろうなと思います。誤解を恐れずに言えばたぶんあの人たちはそういう意味で、既にドリフターズの域に達してるんでしょう。

なるほど、手前味噌ですが、僕はこの使い方は良い「誤解を恐れずに言えば」なのではないかな、と思いました。

いきなりポンと、なんの前置きもなしに「SMAPドリフターズの域に達している」と言ってしまえば、様々な誤解を招く恐れがあります。「てめえ高木ブーに対応するのは誰だと言いたいんだ」と掴みかかられるかもしれません(森くんが荒井注なのは間違いないとして)。「天下のアイドルを下品なお笑い芸人風情と一緒にするんじゃねぇ」と三角絞めを決められながら罵られるかもしれません。「SMAPはとっくにドリフターズを超えてるわ」とバールのようなもので殴られるかもわかりません。比喩的な表現は常に誤解・誤読されるリスクを抱えています。

しかし、私はいきなりそれを言うのではなしに、私はその一文へと至るまでの間に一定の言葉を尽くしています。そこに至るまでの言葉を踏まえるとここでいう「SMAPドリフターズの域に達している」というのは「現在の元ドリフターズメンバーがそうであるように彼らは今後一定以上の存在感を示し続けることだろう」という意味で言っていることがわかるでしょう(僕にはそう読めたんですけど、そう読めなかったら力不足ですいません)。

つまり、「誤解を恐れずに言えば」というのは「ここまでに書いてたことをちゃんと読んでくださっている方には誤解されることはないと思いますので言いますが」という意味合いで使うことが可能で、何せ自分が昔に書いた文章でそういう使い方をしていただけの話なので、それを以って「これが正しい使い方だ」と言うことなんてできやしないのですが、こういう使い方の方が最近巷で氾濫している暴論のエクスキューズとしての枕詞よりもいくらかカックイー(かっこ良い)のではないでしょうか。

よく「誤解を恐れずに言えば」に対する揶揄として、「誤解を恐れろよ」という言い回しがありますが、僕も全く以ってその通りだと思います。文章を書く以上、不要な誤解を招かぬよう出来る限りの努力をするべきだと私は思います。だからこそ書き手はあらゆる手立てを講じて、ここまで言えば誤解されることはないだろう、そう思える文脈を形成できたと書き手が判断した時にのみ、本来恐れるべき誤解の可能性をとことんまでゼロにできたと自負できた時にのみ、「誤解を恐れずに言えば」という前置きとともにエキセントリックな修辞を使うことが許されるのではないでしょうか。

いわば「誤解を恐れずに言えば」と言うのは、書き手から読み手に対する「私は『人事を尽くして天命を待つ』を全うした」という宣言であり、ある意味では推理小説などでしばしば使われる「賢明な読者諸君にはお分かりの通り…」と言ったような読者への挑戦状であるとも言えるのかもしれない。そこにあるのは、伝わらないかもしれませんがそれは仕方のないことですよという書き手の読み手に甘えたエクスキューズなどではなく、伝わらなかった場合は私の責任だ、それでも私はきっと誤解されることなく意図どおりにあなたに伝わるだろうと思っています、という書き手としての矜持と読み手への誠意と信頼なのではないでしょうか。そして、文章を書いて何かを伝えるうえで必要なことというのはそこらへんなのではないでしょうか。まぁ、引用したエントリではその前の段落でっていうか一行目で僕、SMAPをコントユニットって言い切ってるんですけどね。だめじゃん。

ちなみにですが、ここではひとつひとつ紹介しませんが、はてなブックマークで検索してみたところ、ここで僕が言っているような「誤解を恐れずに言えば」の使い方はちょくちょく散見されましたので、そんなに僕の言ってることが的外れなことではないのかなぁ、どうなのかなぁと考えています。もうちょっと僕も色々見ていきたいと思っていますが、興味のある人がいたら眺めてみてください。

本文「誤解を恐れず」を検索 - はてなブックマーク

ネットでポピュラーな使い方が嫌なので僕はどうやら無意識に避けていたようにも思える「誤解を恐れずに言えば」という言い回しですが、これを機会にカックイー方の使い方を今後ちょくちょく使っていって、そちらの使い方が少しでも一般的になればいいなぁと思いました。

しかし、たまたま興味が湧いた言葉でたまたま検索してヒットした唯一のエントリが今揺れに揺れているSMAPについて書いたものになるとは、瓢箪から駒とはまさにこのことだ。以上です。

「楽しい会話」は「わかりあえる会話」とは限らない

コミュニケーションについての話をしますが、どうしても「それができりゃ苦労しない」という部分を含みますので、まぁ参考にできそうなところだけ各自持って帰ってください。

また、全体としてこの文章で考えたいのは「相手に複雑な情報を正確に伝える」ではなく「人とお喋りして楽しい時間を過ごす」であることを事前に共有お願いします。

最近「私、コミュ力がなくて、人と話すのが苦手なんです」という相談をたまたま複数人から連続して受けていて、私は、そうなんだそれは大変だねどうしたものかね、と話を聞いていた。こういう時よく「さて、コミュ力とはそもそも何か?」みたいな展開になりがちなのだけど、問題に対して正しい明確な正解があるのは問題の作成者が問題を正しく理解して問題を作っている場合だけである。「人と話すのが苦手でして……」と恥ずかしそうに頭を掻く彼らがそんな優秀な問題作成者であるとは私には思えない。彼らのいうそのセリフはたぶん「私、何かが足りなくて、人と話すのが苦手なんです」くらいの漠然なセリフに言い換えることが出来ると思うので、そうなってくると画一的な正解などありえない。「さて、何かとはそもそも何か?」、人それぞれである。「私が会話をする際に心がけていること」をコミュ力として定義しようとする人がいるけれど、それはあくまでその人の武器であって、「誰かにとって(誰にとっても)必要なもの」であるとは限らない。なので「コミュ力ないんすよ、僕」と言われたら僕はとりあえず「そうなんだー。ないと困るよねー、コミュ力ー。」と言う。

それで、大体いつものことなのだけど僕はそういう人たちの話を聞いていて最初「え、全然コミュ力あるんじゃない?人と話すの苦手な感じ全然しないけど?」と思う。しかしそれは俺が人の話をよく聞く男なのだからであった。僕こと俺ことズイショさんは、こんなブログを書いているものだから、会う人会う人に「実際に会っても、ずっと一方的に喋ってる人なのかなとちょっとビビってました」とか言われるのだが、このブログの勢いでずっと喋り続ける奴がこの閉塞的な日本社会で三十歳まで生き長らえさせてもらえるわけないだろ、と私は思う。だから実際に人と会っている時の私は意外と人の話を最後までちゃんと聞く。最後まで聞いてから喋り出す。その量が人より少しだけ多いかもしれないことは認める。しかしそれでも私は喋り足りないので仕方なくブログで一人で喋り、また明日から人の話を聞いて喋りすぎないように頑張ろうと誓いを新たにする。つまり私にとってのブログとはエレカシが「♪頑張ろうぜ~~」って歌ってるなかバッティングセンターでフルスイングしてるカッターシャツを腕まくりしたサラリーマン的なアレなのだ。

話が逸れたがそういうわけで私は人の話をわりと辛抱強く聞く人なのである。むしろ標準と較べてもかなり聞く方なのではないかと思う。これは偏に私が「よくわからないこと」をわかろうとすることが好きなのだ。もうこれは病的と言ってもいい。『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するアナスイというキャラクターは子供の頃からなんでもかんでも分解してしまう癖があり、オモチャから時計から何から何まで分解して最終的に人間を分解して刑務所送りになるのだが、「あれみたいなもんです」って言おうと思って書き始めたんだけど最終的に刑務所入っちゃってんじゃねえか。ダメじゃねえか。刑務所に入る予定は今のところないんですが、でもやっぱりそういう人を想像してくれるのが一番わかりやすいと思う。何かあったらとりあえず分解しないと気が済まない。子供の頃はもちろん「なぜなにどうして」と言い過ぎていつも声を枯らしていた。それがわかって自分に得があるのかないのかは全くどうでもいい、とりあえず視界にわからないものがあったら限界まで分解する。そんな調子なので、ある意味で「私、自分でも原因はよくわからないけど人と話すのが苦手なんです」という人と私は相性がいいのかもしれない。人と話すのが苦手な人の話は聞いていて要領を得ずよくわからないので人になかなか話を聞いてもらえずそれで困っているわけだが、そんなよくわからない話が私は大好物なのでいつまでも話を聞いていられる。

と、ここまで書いていて気づいたのだが、彼らの悩みというのは「人に話を聞いてもらえない」というあたりにどうやらあるようだ。俺があまりに面白がって聞きすぎているので気づかなかった。言われてみると彼らは確かにどこか申し訳無さそうに話し始めることが多い。「わかりにくいと思うんですけど、すいません」という調子が発話の端々から滲み出てたりする。こちらとしては分解一筋三十年でノウハウもそれなりに蓄積されているため一般的にはわかりにくい話でもけっこう「俺の分解進研ゼミはそのわかりにくいやつをもう既に経験済みだ!」となったりするし、わからないならわからないで「どうにかしてわかってやるぜ」とむしろテンション上がって前のめりに寝ないでマリオをやってる時の顔になる。そういう風にしばらく話を聞いていると、相手も顔を紅潮させている僕を見て「あ、こいつ、わざわざ申し訳ないとか思ってやる必要ねえな」と気づき、申し訳なさそうさがナリを潜めて結構たくさん溌剌と喋るようになる。それで僕は、「これがたぶん他の人の前でもできればいいんだろうな」と気付くのである。

これをすげえ雑に言うと、いわゆる「もっと堂々とハキハキ喋りなさい」とかいう手垢のついたセリフになるのだろう。しかし、僕がここから先で主張したいのはそういう話とはちょっと違う、ということをあらかじめ理解頂きたい。そもそも簡単に「もっと堂々とハキハキ喋りなさい」と言う人はその時ワンセットで「そして、そのように喋ってもこちらが不快に感じないくらい理路整然と要領良く私にわかるように喋りなさい」と暗に言っている。それができないからたぶん彼らは困っている。特に会話が苦手じゃないタイプの人であったとしても例えば学校の先生とか上司とかで物分りの悪い高圧的な人物に何か報告なり相談なりをしなくてはならないシーンで、自分ではなく相手のものわかりが悪いことが原因だとわかったうえでどうにも今から私が相手に伝えなくてはならないことは相手には簡単には伝わらないような気がする、と察した時、ついつい要領をえない申し訳無さそうな言い方になってしまったという経験はないだろうか。悪くもないのに申し訳無さそうにするのはもしかしするとあんまり良くないことなのかもしれないが、だってそうした方がどうしたって処世術的にはラクなのである。うまく伝わるかどうか自信がない時に堂々とハキハキと喋るのはたぶんなかなか難しいことなのである。そして、彼らにとっては人との会話すべてが伝わるか自信がなくて、そのうえその原因は自分の方にあると認識しているのだ。たしかにそんな人がハキハキと喋るのは難しいのかもしれない。また、そういう怒られる怒られないなんて物騒な話を差し引いたとしても、たとえ利害関係のない友人同士の会話などにおいても彼らがどこか申し訳なさそうに「たぶんわかってもらえないと思うんですけど」という調子で話すのは彼らなりの気遣いであったりもする。つまり、彼らは自分の話がわかりにくいことを重々承知しているので、相手に対して「もし私の話がわからなかったとしても、それはあなたが悪いのではなく私の方に原因があるので気にすることはないですよ」という優しさメッセージを発信しているのだ。彼らがハキハキ喋れないのは、人が良いからでもある。

しかし、だ。「楽しい会話」を行ううえで、この申し訳無さそうな感じというのは一般的に考えて残念ながらどうにも足かせ以外の何物でもない。まず、何よりそんな態度で来られると向こうだって気を遣ってしまう。普通に喋ってくれりゃいいところ、「わからないと思うんですけど」って感じで来られると「わかってあげなきゃ」って気にもなってくる。両方優しいからこそそうなってしまう。互いが互いに勝手に感じている謎のプレッシャーが場を支配する。しかし、自信がなくて、そのうえわかりやすく喋ることが現にうまくできない人に迷惑だからハキハキ喋れというのも無理がある。じゃあもう一体全体どうすればいいのだろうか?

ここで話が俺に戻ります。俺のブログはすぐ俺に話が戻ります。なぜならここは俺のブログだからです。

前述した通り、僕は異常な分解癖で、わからないことフェチを持っているわけですが、こんな僕のことを世の中の人たちはわかってくれるのでしょうか? 正解は、あんまりわかってくれません。いや、全然わかってくれません。わかるよわかるよって言ってもらっても「いや、ほんと?ほんとにわかってる?どうかな~」とか言うんで無理しなくて大丈夫です。「お前なんかにわかってたまるか」みたいな攻撃的なやつじゃなくって、普通に、だってこれ読んでて「なんだこいつ」って思いません? 僕ですら思います。書いてて「なんだこいつ」って思います。でも僕はわからないことフェチなので「なんだ俺、わけわかんねー、おもしれー」って思って俺のこの分解癖なんなんだろうってわかろうとします。で、わかろうとする研究の一環として友人なんかにこんな話して「なあなあ面白くねー?」って聞いてみると「何が面白いのか全然わかんない」と言われるので「なんでわかんないのか全然わかんねー、おもしれー」って思います。僕はわかってもらえないですが、人に伝わらないことばかり言っていますが、申し訳なさゼロです。どっちかでいうと僕に原因があるんだと思います。だってわけわかんないことばっか言ってるんだから。でも、僕はそもそもわからないことが面白いので、わかりあえないことを申し訳ないとはまったく思ってないのです。

で、こう考えてみるとですね、相手に何かを伝えるのが苦手でついつい申し訳ないなと思いながら喋ってしまう人に僕が言いたいことはですね、なんかたぶん会話って、仕事のうえでの会話とかはそりゃもちろんこんなんばっかじゃダメなのかもしれないけどね、雑談とか、酒の席の会話とか、友人同士の与太話とかってね、なんかそんなにわかりあえなくてもいいみたいですよ。わけわかんないこと言ってても「何言ってんだお前、わっけわかんねー」って笑ってくれますよ。で、たまにわかったらラッキーくらいの感じで。それで全然なんか楽しいですよ。そういう人ばっかなのかはわかんないけど、それで楽しい人って案外いるっぽいですよ。だって俺みんなの言ってること全然わかんないもん。でもわかんないわかんないってはしゃいでたら、結構相手も頑張ってわかるように喋ってくれるし、それで結局わかんなくても「まぁよくわかんないけど盛り上がったからいいや」ってなって終わったりするよ。

「すいません、伝わらないとは思うんですけど……」って感じで話しちゃうと相手も気を遣って「うーん、いやだいじょぶです、2割くらいは伝わりました、うん、伝わってると思う……」って感じになっちゃって楽しさも20%くらいになっちゃうんですけど、「わかんなかったらいいんだけどどうー?」って明るい感じで言ったら「うん、8割がたわかんない、8割がたわかんないけど2割はわかったかも」って返ってきて「がはは2割かーい」ってなってなんでかはわからんけどその時の楽しさは80%くらい出てたりするんだよね。俺はそういう会話が好き。俺はそういう会話ばっか好きすぎるんだけど、意外とみんなもそこまで嫌いじゃないみたい。

だから、わかりあえる会話ばっかりが楽しい会話とは限らないし、わかりにくいこともうまく言えないことも全然悪いことじゃないんだよ。ってことを、僕はあなたに言いたかったのです。

もちろん、伝えたいのに伝えられないのが苦しくて、そんな自分がイヤでイヤで仕方ないんだって人からすると到底受け入れられない話だとは思う。「なるほど、そういう考え方もあるのかな」と思えた人だけ持って帰ってください。まぁ、よくわかんねーけど気付いたらうっかり最後まで読んじゃってなんかわかんねぇけどまぁいっかってなってたらそれで十分。「それができりゃ苦労しねえんだよ糞が」って思わせちゃったらごめんね。次はもっと楽しく出来るよう頑張る。ずっとそうしてる。ずっとずっとそうしてきた。以上です。