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バイトテロ雑感

あのー、中学生の頃、北海道の片田舎にいたんですけど、一緒に毎朝40分くらいの道中を徒歩通学する友達らの中で「走ってるトラックに欲情する」ってギャグが流行ってて。いや、意味わかんないと思いますよ。一つも意味わからないと思いますし、「いやこれ面白いでしょ!2019年でも通用するでしょ!」なんて強硬姿勢を取るつもりも全くないんですけど、そもそも当時も通用してなかったですけど、ファクトベースで流行ってたんですよ残念ながら。走ってるトラックを見かけたら「はぁ、はぁ、辛抱堪らん、めっちゃエロい、触りたい、あ、あ〜〜〜!!あ〜〜!!」つってトラックを追いかけるのが流行ってたんですよ。いや、意味が分からないのはわかりますよ、わかってくれとも思わないんですけどめっちゃ流行ってたんですもん仕方ないじゃないですか。1996年、たしかにその土地に限って言えば10人くらいの間で流行ってたんです。意味わからんだろうけど。で、最終的にトラックの運ちゃんにめちゃめちゃ怒られるよね、そりゃトラックの運ちゃんも怒るよ、そんな悪ふざけで接触事故にでもなったらトラックの運ちゃんが罪に問われるわけだから。怒るに決まってるよね、自分の運転するトラックを追いかけてくる中学生。で、そのうち誰だかが怒られて怒られて、追いかけてたトラックが停車して運ちゃん降りてきて胸ぐら掴まれてめちゃめちゃ怒られるみたいな。学校にも通報がいって、学校でもその遊びしてた一味がめちゃめちゃ怒られてかくしてトラックに欲情して追いかけるギャグは封印されることとなったのであった。

そういう経験とかがあるので、バイトテロの話題を見てるとただただ俺の頭が今よりずっと悪かった頃にツイッターやらなんやかやが無くて良かったなとしか思わんのよな根っことしては。そう思う心当たりがある人間が全体のどんだけパーセントなのかは知らないけど、同情っていうほどじゃないけれど、生まれる時代を間違えてたら俎上に上がってたのは彼らじゃなく俺だったかもしれないとは素直に思う。だから勘弁してやれとも思わんけど、最近生まれた馬鹿は大変だな、とは思うわけです。かつて馬鹿だった身としては。

前にバイトテロじゃなくてバカッターって名前で流行ったの何年前だっけか。

面白いのは、一つ出ると他にもいっぱい出てくるんだよなアレ。触発されて後塵を拝したみたいな奴らがたくさんいるのかな、そういうけしからん奴らが世の中にいるんだって知った奴らが過去の類似案件を探そうと棚卸ししてるのか、そこらへんはよくわからない。しかし、馬鹿ほど芋づる式に出てくるあの夏があって、そしてこの冬がまたあるんだなって感じはする。次はまた5年後6年後なのだろうか。教育からの警鐘がうまく機能してねえなら中学1年が高校卒業するくらいでスパン一周ってのはまあしっくりは来るかな。そういえばコンビニ店長の「うちらの世界」が馬鹿ほどバズってたのがその時だったか。懐かしい話である。

で、結局このバイトテロ問題ってどうしたら解決するのって話を考えてたんだけど、とりあえず一つ言えるのは、たぶん職場の居心地がふつうに良かったらやらないだろうなとかは思う。上司が馬鹿をうまく転がさずに締め付けて管理してたらそうやって締め付ける上司の目を盗んではおだつから、馬鹿は。おだつってのは北海道弁で調子をこく、という意味です。この前北海道の従姉妹が子供連れて遊びに来た時「この子おだつんだ」と言ってて「おだつ」って10年ぶりくらいに聞いたな、と思った。

一回だけ新婚旅行で海外旅行をしたことがあって、タイだったんだけど、タイの店員ってまー舐めてるんだよな。タイのモスバーガーで注文しても注文受けたやつが注文を高らかに宣言したが最後、だれがその注文を作ってるのか俺の頼んだテリヤキバーガー誰預かり案件なのか全くわからくなってて、店員がみんなで談笑してるの。あ、もうタイでは人間じゃなくてAIがつくるのかな?さっきのテリヤキバーガーワンプリーズ的なタイ語はアレクサに言ってたのかな?と見守ってたけど、一向にハンバーガー出て来ねえし、あいつら談笑してるし。むかついたけど、今になって考えると、あいつらはバイトテロしないだろうなと思うし。日本人感覚からすると常に客に対しておだってますからあいつら、常に「注文を気分で出したり出さなかったりする」っていうフランクなデモをスナック感覚で客相手に日常的にやってるんでわざわざテロまで起こす必要がねえわな、とは思う。

最低賃金上げろみたいな話は、ナンセンスだとは思うな。いやだって最低賃金を上げると最低賃金でしか働けない奴らの民度が上がるかって考えると絶対そんなわけないじゃん。100点のテストで10点しか取れない奴に100点やるために1000点満点にしたところでそいつの偏差値が35であることには変わりないでしょ。

本末転倒なことを言えば、ベーシックインカムやったらバイトテロ無くなるかはわかんねえけどだいぶ減るんじゃねえのとは思いますけどね。結局本当は働きたくなんかねえけど働かないと金がないしししゃあなしでイヤイヤ働いてる馬鹿がやるんだから、あんなこと。働きたいやつだけ働く仕組みになりゃ当然バイトテロなんか起こるわけがない。

そこで「イヤイヤ働いてるのは賃金が安いからだ、給料上げればちゃんと働くはずだ」なんて言うのはね、馬鹿を舐めすぎですよ。あいつらだって馬鹿なんだから、時給1万円にしたってあいつらやるときはやるよ。だって馬鹿なんだから。あの手の馬鹿はいくら金を積んだところで頂ける対価ぶんしっかり働こうなんて思うわけないんだから、どこまでいっても時給は時給、出勤してタイムカード押したら帰るまでのあいだは時給が発生してて時給はもらえて当たり前、何かと指示を出して働かせようとしたりサボってないかとか見張ったりしてくるこのおっさんがいなければボーっとしてるだけで金もらえるのにくらいのことしか考えてるわけねえだろあいつら。だから、まだ帰っちゃダメで暇ならあいつら無限におだつだろうし、いくらネットリテラシーを義務教育で教え込んだところで義務教育で教えられたはずのこと覚えてないやつなんざ掃いて捨てるほどいるし、本質的にはなくなんねえんだろうな。「自分と自分の身内と自分の職場がその当事者にならないためにはどうすればいいか」を考えられる奴が考えていくしかないんだろうなとは思いますけどね。もちろんうまい仕組みを作って馬鹿に馬鹿させない仕事環境を構築するなんて工夫を雇う側全員ができればいいのかもしれないけど、雇う側でその工夫ができない奴をゼロにするってのも馬鹿をゼロにするのと同じくらい難しい話だろうし、ベーシックインカムが無くてどんな馬鹿でも働かなきゃ生きていけない状況が続く限り、馬鹿を引かないように社会全体でババ抜きをするみたいな構図は変わらないというか、そういう現状がバイトテロによって可視化されてるだけで、バイトテロとか関係なく本質的に社会はババ抜きなんだろうなーと思う。

頭のいい奴が仕組みで全体をまるっと解決するんだなんてのは夢物語で、ミクロの一人一人がちゃんと絶望して、せめて自分の半径何メートルだけはなんとかしたいって考えて、そういう人たちが増えていくことで徐々に徐々に良くなってく、みたいなそういうものすごく絶望的に気の長い過程が最短ルートというか、それ以外のショートカット狙いの道は全部行き止まりみたいな、そういう性質の問題というのはたくさんあるよなーと思うのだった。以上です。

「死にたいと言ってる奴は死なない」ではなく、生存本能が「死にたい」と言わせてる仮説

死にたい死にたい言ってるやつは結局死なないんだ的な言説は定期的にネットリアル問わず観測されるがこれまで30年とかそこら生きてきた体感として死にたい死にたい死にたい言ってて本当に死ぬやつはいくらでも見てきたし一方でなんだかんだ死なない奴もいくらでも見てきたが死にたいとも言わずなんのアラートも無しにひっそりと死んでしまう奴というのもそれなりにいてそういうやつは大抵死んだ後に今思えばあれはあいつなりのアラートだったのかなとも思わせられるのでやるせないみたいな経験がある人にはあるしない人にはないのだろうしアラートを受け取ったことがある人もない人も死にたい死にたい言うやつは死なないって言ったりするし死ぬ時は死ぬなんて言ったりするしそこははっきり言って個人差なのかなと思わんではないが死にたい死にたいと言おうが言うまいが人間勝手に死ぬ時は死ぬし死ぬなら事前に言ってよねって思うし言ってくれたのが目の前のあなただと思うし死んでしまうのはそりゃあもうどうしたってやるせないせめて言ってよね事前にって思うし死にたいって言う人はそりゃ死にたいんだろうなと思うし死にたいという目的を遂行することだけを考えるなら本当は死にたいなんて他人に言うべきじゃない一人でひっそり死にたい意思を秘匿して死ぬべきだ遂行を第一に置くならばそれでもなお死にたいと喧伝するのはそれはもう生存本能だろう疲れてしまって死にたい脳と遺伝子レベルで刻み込まれた死にたくない気分との相克みたいなそういうことなのかなと考えるように最近はなっていて死にたい死にたい結局死なない人というのは生きる力が強かった惨めったらしく死にたいと喚き助けてくれる人を探すそれ自体は餌をくれよとせがむ雛鳥のようにそれはきっと生存本能だ。

喉が渇いたと叫ぶ人は本当は水無しで生きられると誰が思うだろうか。

本当に死にたい人がわざわざ「首を吊るのでロープください」と言うだろうか、「ロープください」ではなく「首を吊るのでロープください」と言ったのはなぜだろうか。そこにロープがあればひとりでに死んでいただろう人間が、ロープのない部屋で一人佇んでいたならそれはきっと福音だ。外に出よう。死にたいと言おう。

死にたいって言えるやつは立派だ、それだけ希死念慮に苛まれながらも、まだなお、SOSを出せるのすごい立派だなぁと思う。生きるために形振り構ってなくて偉い。だから、そういう人が身近にいたら、おいお前どうして死にたいんだつって、俺と禅問答してるうちはだっておれと禅問答してるんだから死んでないわけだし、そういう風に他人の生存本能に振り回されていたいなと思う。

だからみんな死にたいって言えよと思うし、死にたいって言ってるやつを馬鹿にすんなやとも思うし、死にたいって言えるのは他人を信じる力がある人間の生存戦略だなと思うし。

誰も死ぬな。生きててよかったとお前に思わせるのはお前の心臓だけだ、その心臓を殺すな、心臓を殺さない手段を選ぶな。心臓は、お前さえが止めようとしなければ飄々と動き続ける。誰も死ぬな。死んだら終わりだ、死んで良かった話なんて生まれてこの方聞いたことがない。

朝日を見よう。朝日は見れない。朝日を眠い。起きれない。起きるために生きよう。いつかまた早起きしよう。そして朝日を見よう。早起きができるようになるまで生きて、また朝日を見て生きようと思おう。俺はそうしたいなと考えている。俺はそうしたいかと考えている。

なんかそんなことを考えていたのだった。

以上です。

 

新井浩文の出演作品見れなくなっていいのか問題

ちなみに俺はネットで見かける報道が新井浩文さん表記から新井浩文容疑者に切り替わった瞬間に真田丸のブルーレイBOX6万円をポチった。俺がもっかいくらい見たかったので、大事を取った。

色々考えたんだが、掲題の件について、俺の結論は「見れなくなっても、まあ、いい、仕方がない」よりになった。なぜそう思うに至ったか、の話をする。

とりあえず、まあ、ぼくも、「見れなくなるのはおかしい」という人たちの気持ちも、まあ、わかる。「おかしい」というか「これからも見たい」という気持ち、まあ、わかる。でも「これからも見たい」って、「既に見た」人の言い分ではある。思い入れがあるんだろう。僕も、『青い春』とか、すごく思い入れがある。けど、それって、過去に「見た」から、そう思うわけで、見てない人からすると、「どっちでもいい」んだと思う。そして、もし、そういう作品が闇に葬り去られたとするなら、10年後20年後50年後となっていけば、個別の作品の見れる見れないにおいて「どっちでもいい」人の割合は増えてくる。

「今はもう見れないんだけどさー」って誰かに言われて、「見たいな」って思う人もそりゃ少しはずっと出てくるんだろうけど、今はもう見れないそれを「見たい」と思う人はどんどんどんどん死んで減っていくのだろう。そして、100年とかの長いスパンで考えれば、「最初からなかったのと同じ」、になるのだろう。その時依然としてそうもなってない語り草で在り続けられる作品ってのはそれはそれで復刻するかもしれないし、それならそれで別にいいし。

つまりは、「なかったものと思って諦めろ」ってのが僕の言い分だ。もっと言えば、「これからも見れるままにしてくれ」と思ってしまうのは、それに携わった者の感傷だ。携わったってのは「作品作りに参加した人」もそうだし「その作品に感銘を受けたり救われたりした人」もそうだし、しかし全部どうあれ、そうして携わった関係者が「これからも他の人の目にこの作品が触れてほしい」と思うのは、広義の感傷に過ぎないのではないだろうか。

表現の自由みたいな話では全くない。なぜなら、その表現が闇に葬られるのは表現に問題があったからではない、「運が悪かった」からだ。

運が悪かったから日の目を浴びなかった作品は世の中に掃いて捨てるほどある。運も実力のうちという言葉もある。運とか実力とかがなかったから、誰の目にも触れられなかった作品があるように、実力があるから一時は多くの人の目に触れた作品が運が悪かったから人の目に触れなくなったとしても、それはそれで自然なことなんじゃないかなと思えてきた。

あと、俺は、真田丸を大変面白く視聴したけれども、もし俺の人生に無くても死にゃあしなかっただろうなと思う。一方で、真田丸に出会わなかったら死んでたと思う人も世の中にはいるんだろうなとは思う。ただ、これからの未来に蠢く死にたい人の中に「真田丸以外には死にたさから救われる作品はない」って人はいないんじゃないかなとも思う。真田丸に救われた人はいるだろうが、その人は「たまたま」真田丸に救われただけで、作品は「見た人」にとってのたまたまのオンリーワンになっても、いつの時代も代替性ゼロのオンリーワンであり続けられる作品なんてのはありえないとも思っている。むしろ、当時代性を以って、常に誰かを救う作品がいつの時代も作られ続けるのが健康な創作界隈だとも思っている。

真田丸が人目に付かなくなることがそんなに嫌でそんなに必要だと思うなら、誰かが真田丸的なものをまた作ればいい。真田丸加藤清正のシーンだけ別の役者で撮り直すのはどう考えても不可能だけど、真田丸に心酔した人たちが「真田丸を見たら救われただろう人たちを救う、真田丸とは別の作品」を作ることは全く不可能ではないと思う。所詮、創作って、焼き直しと新陳代謝だ。

「そんなこと不可能だから、犯罪者が出てるくらいなんだ、これからも真田丸を未来永劫語り継いでいこう」と叫ぶのは、やっぱり感傷なんじゃないかと思う。

これから見れなくなったとしても、その時代でリアルタイムにそれを見て救われた人がいるなら、本当に好きなら発禁になる前に即ポチったり悪いやり方でアクセスしたりとかいくらでもやりようはあるんでしょう、知らんけど。そこまでして作品を大事にしたい人たちが、次の時代につなげていった方がいいんじゃねえかなと思う。

100年後を考える。僕がもう死んで居ない世界。

100年前の僕が好きな作品だったからって理由で、犯罪者も良い演技してるし良い作品だからオッケーオッケーって言われてる世界よりかは、100年前にすごい良い大河ドラマがあったんだけど犯罪者が出演者の中にいて発禁になって、それでもアレはいい作品だったよなって集まった人たちが50年前に作った真田信繁を主人公とした大河がこれなんだよこの作品すげえよなみたいな世界の方が、僕は健全なんじゃないかと思う。

ここまで、さんざ真田丸を引き合いに出してきたけど、台風家族の関係者が「なんとか公開させたい」みたいに言ってるのがすげえ気持ち悪くて、あれ新井浩史そのままで流したいですって言ってるようにしか見えないし、それって「被害者がいる」ってことをすげえ蔑ろにしてるなって思うし、犯罪者が出てる映画が世の中に出るってことの問題をすげえ矮小化してるし、犯罪それ自体を些細な問題としてるように思うし、当人達がそう思うのは仕方ないにしても、それってすげえ感傷的なだけで身勝手なことだと思うし、そういう態度を応援するのは違うだろと本当に思う。

運が悪かった人たちが諦めきれないのはわかるけど、気の毒だなとも思うけど、「運が悪かっただけだから」って犯罪者が関わってようとそれは些細な問題だよね、ってするのは良くないよ。そういうスタンスを後世に残すのは良くない。

作品に罪はないよ、しかし作品は運が悪いと死ぬ。その無念を晴らすのは、その作品から何かを受け取った別の作品であるべきなんじゃねえかな。運悪く犯罪者を引いちゃってた作品をなあなあで語り継ぐのが、本当に創作の役割なのだとは俺にはとても思えないな。

そんなことを、考えていました。以上です。

 

※このエントリは、容疑者と罪が確定してる人との区別は一切置いています。そこの区別の手前の話だと思って書かれています。