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節分は、中長期的にガキに茶番を教える文化と見た

息子が今一歳半年くらいで、節分だったので俺も父親として恥ずかしながら鬼デビューをした。

俺が夕食に向けての買い出しで家を空けてる時に嫁のLINEをして「玄関に鬼のお面置いといて」と伝え、僕は家に帰ると、「父親」の記号になりうるいつも着ているコート、いつも着ているジャケットを脱ぎ捨てTシャツ一枚になって、「父親」の記号を出来るだけ排除した状態で鬼のお面を装着すると、四つん這いで息子のいるリビングへと這い寄った。

僕は普段の文章から見ても分かる通り相当にお喋りな人間ではあるが、声色の使い分けも割に得意な人間だ。

地の底から響き渡るようなド低音の唸り声を上げながら息子の名前を呼び忍び寄った。イメージは貞子とヴェノム。四足獣のように重心を低くしてじりじりと滲み寄る。息子はまあ、俺を見た瞬間、全身固まって、そしてギャン泣きしたよね。

すぐさまキッチンにいた嫁が駆けつけて大粒の涙をこぼす息子に寄り添う。片手には落花生を入れた紙の枡箱。大豆は誤飲が怖いので落花生になりました。

「ほら、豆を投げて追い払うんだよ!」と息子を励ましながら落花生を俺にぶつける嫁、ギャン泣きしながら落花生を俺にぶつける息子、そしてなかなか帰らない俺、バイオハザードのボスとかにありがちなHPが残りわずかになると刺し違える覚悟で一番元気になるタイプの鬼を演出しました。一歩近づくとより一層けたゝましく泣く息子、この節分という文化、根っこはサディズムでしょ、と僕は思いました。

で、仕方ないからいい加減僕も退散します。息子の見えないところに出るやいなやお面を外して顔の方を内側に折って置き捨て「どうしたどうしたー?」と父親の顔で登場します。思いのほか泣きながら抱き抱えられることを許容する息子、俺が鬼だったって本当にわかんないんだなーと思いながら「頑張ったなー」とか褒めてやったりしながら抱っこした。

そもそも俺らは今日は節分だって知ってたけどこいつは知らないしな、まーそりゃ怖いよな、と思う。鬼じゃなくたって、去年のクリスマスにはサンタクロースと保育園で対面してたらしいけど、アレだったサンタクロースの概念を知らなかったら自分を人気者だと信じて疑わない赤を纏った太った白い髭絶対怖いだろ。

初めてのもんは怖いわな、そりゃ俺だって最近でも覚えがある。今までやったことがないことにチャレンジするのは怖いし、知らないところに行くのは怖い、若い頃を振り返れば今になって思えばビビるだけ損だったなと思うことも当時は怖かったし、この調子でいけば不惑も変わらず惑うだろうし、そのうち赤いちゃんちゃんこを羽織ったところで、怖いもんは怖いだろう。

「怖い」と思う感情は、別に誰に頼まなくたって、死ぬまで供給されるよなぁ。僕の嫁さんみたいな我が子を本当に女神のように慈しみ愛する人に育てられる息子を見ていると、彼の置かれる境遇の方がよっぽど異質なものに感じられる。

時たま、俺みたいな鬼が出てきて恐怖に晒されている方が、よっぽど現実に即している。そう考えると、節分というのは本当に不思議な儀式だ。

来年もたぶん今年みたいにガチの鬼をやるんだろうし、数年後、それが効かなくなってきたらたぶん俺は「父親は鬼に食われてもういない」みたいな演出を考えるのだろう。節分を心から茶番だと思えるその日まで改良を重ねるだろう。そうして、世の中節分みたいなもんだと思えばいいし、世の中の怖く見えるもんは全部茶番で、鬼に見えるものは全部人間だ。

本当に怖いものは鬼ではなく人間だけど、鬼じゃなくて人間なら、最悪頭を硬いものでぶん殴れば倒れる。

とりあえず節分はそういうことを学ぶ行事だと理解したので、今後もしばらくやっていこうと思います。

以上です。

一粒500円のチョコを美味しいと思うには余裕が必要だ

まーそういうわけで2月というわけで、今月もイベント盛りだくさんでやっていきましょうね。まずはなんてったって節分ね。恵方を向きながら米飯を喉に突っ込んで死ぬと来世はより高次の生物に生まれ変われるっていう。うまく死ぬコツとしてパリッと乾いた海苔をいい感じに喉に張り付けて米飯を喉に固定するっていうテクニックが流行ってて、だから節分は毎年死ぬのが当たり前の上級者たちは海苔のことを「ジョイント」と呼んでいる。

まず、人間が「より高次の生物に転生するために死のうとするイベント」ってすごいな、これの難しいところはですね簡単に「まだ高次を目指すのかよ!」ってツッコむと「人間を高次な生き物と考えるのは人間ならではの愚かな傲慢」って批判が飛んできますから。素直に「たしかに人間は辛く悲しく孤独な生き物だからもっと高次の生物に転生したい気持ちもわかるけど!」ってツッコまないとポリコレ的にNGです。あとはそうですね、節分は年の数だけ親に豆をぶつけていい日でもありますね。だいたい朝から晩まで一豆一豆投げることにしていつ豆が飛んでくるかわからない緊張状態をまる一日強いて親を疲弊させるベトコンタイプと自分の持てるだけの豆を握りしめて一投に全てを賭けるショットガンタイプに分かれましたよね。みなさんはどっちのタイプでしたか?僕は毎時何分に仕掛けるっていうパターンを一回作って親がそれに薄々気づいた頃から不規則に仕掛ける方向に切り替えるベトコンタイプです。

で、節分が終わると次にやってくるのが例のアレね。なんだっけな、名前が出てこねえや、どういうイベントだったかはだいたい覚えてるんだけど。アレですよね、確か、女子社員が一人1000円ずつとかお金出し合って、で、一番下っ端扱いされてる事務かなんかの若い女の子が業務時間外にわざわざ近所の百貨店に行って、で、ありったけの刃物を買ってきて男性社員に殺し合いをさせるやつですよね。普段から女性社員に嫌われてるお偉方がコンパスとかのめっちゃ頼りない武器を手渡されてひと笑いなんてのもすっかりお馴染みの光景ですね。強いオスだけがモテる時代でもないので最近はあえて毎年闘わずに死ぬことで暴力や支配を好まないアピールをする男性もいるみたいですね。

よく毎年死ぬ奴が出てくるブログだなぁ、おい、犬!!

「ワン!!!!!!!」

そういうわけで、バレンタインシーズンなんで嫁と百貨店の催事場のバレンタインフェアとか巡ったりしてるんですけど、いやー高いチョコうまいね。高いぶんちゃんと美味いからチョコは偉い。だってなんか本当に高けえのって一粒で500円くらいするからね。高けえって。バフンウニかよ。バフンウニ級のチョコレートなわけですよ。もっとパッと聞いた感じで美味そうな例え方なんかあんだろ。

まあ、そんな感じでねー、美味え美味えつってチョコ食ってたんですけど、嫁が言うわけですよ、「昔はそんな高いチョコ絶対要らないって言ってたのに今はふつうに美味しい美味しい言ってて舌が肥えたね」って、言うわけ。で、あ、そういうもんかなー、たしかに大学生とかフリーターの頃はこんなチョコ絶対要らんかったなー、大人になって年取って舌肥えたんだなーって一瞬思ったわけですけど、いや違えわと思って。単純に金銭的余裕だわと思って。

だって当時はさ、あまりにカネがないわけですから、気づいたらあと1週間を500円で凌がなくちゃならない、みたいな。だからまあまず168円の焼きそば3玉入りを2つ買うじゃん?これでざっくり340円、あとは20円のモヤシを毎日買って、モヤシは足が早いから毎日20円を握りしめてスーパー行ってモヤシを買って、1日1食で6日凌げるじゃん、20円かけ6で120円、あと40円で最後の1日をどう乗り切るかだよねみたいな。いやお前そんなドヤ顔でどう乗り切るかだよねって言われてもモヤシ2袋以外の選択肢お前にあんのか?みたいな。そういう人間がね、果たして一粒500円のチョコを美味しがる余裕があるのかって話なんだと思うんですよ。図書館で借りてるから6000円の本を「おもしれー」つって読めてたけど、自分のカネで買ってたら果たして文章頭に入ってくるのか、みたいな。

で、今はそりゃそんな今だって大して稼いでるわけではないですよ。あくまで昔に比べたら稼いでる、余裕があるってだけの話で、手取りが9万5000円なんですけど、社宅にヘクタール級の田んぼがあるんで、あとドリンクバー。だからまあ、そんな給料貰ってるわけではないんですけど、食うには困らない。いつでもおにぎりは食えるし、いつでもジンジャーエールなっちゃんオレンジを7:3で割れる。今のは完全に雰囲気で喋っただけでジンジャーエールなっちゃんオレンジを7:3で割ると美味しいだなんて俺は一言も言ってないしやったこともないですからね。そんな感じで、台風のひどかった年の冬は飢饉で離職率がヤバイんですけど、それでも昔よりは生活に余裕がありますから、手取り9万5000円ってことはメロンパン900個は買えますからね。大富豪ですよ。いざとなればメロンパン900個いつでも買ってやるぞって気概と余裕があればこそ、「なるほど、たしかにこれはメロンパン5つ分の価値があるな」とか言いながら500円のチョコを美味しいなと思えるわけですよ。

たぶんなんでもそんなもんですよね、自分のカネで1万円のコース料理食うのに抵抗あるやつは、他人の金で1万円のコース料理喜んで食えるけど、コースの値段が5万10万になってきたあたりで「いいから現金でくれよ」ってなってくるだろうし。1万円のコース料理を自分のカネで美味しく食えるやつは、10万くらいまでなら他人のカネだしと喜んで食うだろうけど、ここで50万円のワインとかが出てくると「味とか全然わかんねえし奨学金早く完済したいな」って思うんだと思うんです。全部そんな感じだよね、身の丈に合ったもの以上のものは、少なくとも俺はなかなか素直に楽しめねえよ。いやだってみんな6000万奢ってやるから宇宙行くぞって言われて、みんなそんな素直にワクワクできる!?「いや宇宙なんか行かんでも3000万の家が二件買えるやん、親は心配だけど二世帯は嫁さんに気を遣うし、でも6000万あったらまず郊外に3000万の自分の家買ってそこから徒歩10分くらいのところに3000万の家買って親を住まわせたらええやん」とか考えてまうんじゃないですか、知らんけど。「ミストサウナは自分の家の方にしか付けてないの親父にバレたくないから隠しボタンみたいなんにしよう」とか、どんだけ宇宙から見た地球が綺麗なんか知らんけど、やっぱ庶民にはミストサウナの出る浴室の方が大事なんちゃいますのん?知らんけど??

いや、もちろん、この話って、実のところの大前提を一旦置いて話してるってのはもちろんありますよ。掛け値なしに好きなもんってのは実際あります、例えば僕だってもやし和えた焼きそばばっか食ってた頃も平気で1万円の芝居を観に行って「良かったぁ」とか言ってましたし、新井浩文さんが新井浩文容疑者になった瞬間なんの躊躇いもなく6万円の真田丸ブルーレイボックスをポチったりするわけです。本当に好きなものには、高いだの安いだの何も関係なく、必要経費だったりもするわけです。

そんな感じ、そんな感じです、とか言って終わらせようと思ったんですけどよく考えたらこれで終わったら「俺が収入増えたんで500円のチョコ美味しいと思う余裕ができました」って言ってるだけになってる可能性があってそれは感じ悪すぎるだろ、思って。ガウン引っ掛けてワイングラスをちろちろ回してる俺が「諸君も500円のチョコを美味しく思えるように頑張ってくれたまえ」って言ってるみたいじゃん、そんな大した豪遊もしてないのに。あとそのワイングラスの中身、ドリンクバーのファンタグレープなのに!!

まあ、でもまあ、一粒500円のチョコは、美味かったんだよね。美味いから買ってもいいかなと思える。逆に言えば未だに縁日の600円の焼きそばとか意地でも買いたくないし、あんな祭りに便乗した残飯売りに払う金なんか一銭もねえし。だからなんかまあ、それに金を払いたいか払いたくねえかってのは、どこまでも考え続けたいよなと思うわけです。金を使うことそのものを良いことにしたくねえっていうか、昔お互い貧乏してたけど仲は良かった友達とかとたまに会ってさ、なんか雑な金の使い方してたら悲しくなるんだよな。貧乏だった自分への復讐みたいな雑な金の使い方してる人って案外見かけて、あれすごい悲しい気持ちになるんよな、なんなんだろ、悲しい気持ちになる。

だから、まー、せいぜい500円のチョコを食うだけで3500字のブログをいちいち書きたいし、金は使うか使うまいか悩み続けたいなーと思うわけです。全然関係ないけど水道から日本酒出えへんかなぁ。

以上です。

怒りは、怒りの形のままでは役に立たぬ

日々、クソを煮詰めたようなニュースがテレビやインターネットやを賑やかし、今日もタイムラインは怒り狂ってる人で溢れかえっていて、しかしそれですらもう、最早すっかり見慣れた日常の風景だ。いい加減うんざりもするものだが、多くの人が怒ることすら出来ずなんとなく我慢を強いられていた時代が長らく年表に横たわっていたことを踏まえればこれはこれで喜ばしいことなんだろうとは思う。しかし、もうそろそろいい加減、みんなうんざりしてきたっていい頃なんじゃねえかなとも思うのだ。

怒りが怒りそのものの形のままで出来ることは我々が期待しているよりかはずっと少なかった。怒りそのものの形をした怒りは、我々の怒りの根源を取り除くための道具としてはあまりに原始的で拙く頼りなく、そして我々が憎み相対する邪悪は怒りそのものの形で立ち向かうにはあまりに狡猾で老獪で複雑であった。かつて我々が怒りの声すら発することができず誰かに届け慰め合うこともできず絶望していた頃のように、我々は我々が今共有し共振し日々すくすくと大きく育てているその怒りが、そのままの形では我々を決して救いはしない取るに足らない無用の長物であることに今一度絶望した方がいいのではないか。

絶望しろ、というのは何も怒ることをやめろということではない。それではかつての時代に逆戻りだ。

しかし、怒りは、怒りの形のままでは役に立たぬ。

我々は、我々が獲得したこの怒りを大切に手放さぬようにいつまでも大事にしたいと思えばこそ、その怒りをもっと人にとって有用な道具の形に作り変えていかねばならない。打製石器の時代を終わらせて、怒りを研磨するのが当たり前にしていかなくてはならない。

あるいは、振り上げた拳はどこにも届かないと知らねばならない。

握れば拳、開けばたなごころなどと甘っちょろいことを言うつもりもない。しかし、ただ拳を握りしめ振り回すばかりでは、どうにもここらが限界だというのはもうどうしたって分かりきったことではないか。

我々は拳を作り、振りかぶり、そうして初めて自分の肩から先に何か可能性がぶら下がっていることを知った。その可能性をもう少し膨らませようと思ったら、それはもうどうしたって一度、拳を開いてみるしかないんじゃないだろうか。両の手を合わせた10本の指に、拳よりも大きな可能性を見出そうとするしかないのではなかろうか。

そしてお前ら全員薄々気づいているだろうことを俺は知っている。拳を解けば現れる10本の指を使って何かを掬い上げたり何かを摘み出したり何かを作り込んだりすることが、ただ怒りに任せて拳を振り回すよりもずっと困難で辛抱が必要でずっとずっとめんどくさいことで、それに向き合うのが面倒だから頑なに握りしめた拳を解きたがらないことも、俺は薄々知っている。

怒りを怒りそのものの形に留め拳を振り上げるばかりの人々は、自分の持つ可能性を故意に握り込み隠蔽し、偽りの無力感に酔っ払っている。

拳を開けばそこには10本の指があり、その掌には指の隙間から溢れんばかりの可能性があるはずだ。その可能性と向き合うには好ましい結果を得るのを急がない少なからぬ忍耐と多少なりとも自分を律しようとする誠実と、そして何より可能性を諦めない並々ならぬ原動力が必要だ。原動力なら既に持ち合わせている。それは、我々を怒りに駆り立てる、それだ。

ならば、後は拳を開くだけだ。恐れることはない、拳を開いたところで、原動力は消えない。この先少なくともしばらくは、うんざりするくらいに世界は燃料を投下してくれる、投下し続けてくれる。拳を開こう。掌を見つめよう。指をわしゃわしゃと動かすのを眺め、できることを考えよう。

拳を開けば、世界なんかではないあなたが、あなたは可能性に満ち溢れている。

可能性を握りつぶして、拳を振り上げて、無力なんかを気取るな。怒りを怒りの形のままにして漫然と満足するな。前を見ろ、振り返れ、拳を解け、手のひらを見つめろ。西に東に北へ南へ駆けずり回らずとも、この10本の指さえあれば、この10本の指の使い方を考えることさえできれば、可能性は、まだ我々の手の内にうんざりするほど残っている。

我々というか、私に限った話で言えば、そういうものに私はなりたい。

以上です。