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「死にたいと言ってる奴は死なない」ではなく、生存本能が「死にたい」と言わせてる仮説

死にたい死にたい言ってるやつは結局死なないんだ的な言説は定期的にネットリアル問わず観測されるがこれまで30年とかそこら生きてきた体感として死にたい死にたい死にたい言ってて本当に死ぬやつはいくらでも見てきたし一方でなんだかんだ死なない奴もいくらでも見てきたが死にたいとも言わずなんのアラートも無しにひっそりと死んでしまう奴というのもそれなりにいてそういうやつは大抵死んだ後に今思えばあれはあいつなりのアラートだったのかなとも思わせられるのでやるせないみたいな経験がある人にはあるしない人にはないのだろうしアラートを受け取ったことがある人もない人も死にたい死にたい言うやつは死なないって言ったりするし死ぬ時は死ぬなんて言ったりするしそこははっきり言って個人差なのかなと思わんではないが死にたい死にたいと言おうが言うまいが人間勝手に死ぬ時は死ぬし死ぬなら事前に言ってよねって思うし言ってくれたのが目の前のあなただと思うし死んでしまうのはそりゃあもうどうしたってやるせないせめて言ってよね事前にって思うし死にたいって言う人はそりゃ死にたいんだろうなと思うし死にたいという目的を遂行することだけを考えるなら本当は死にたいなんて他人に言うべきじゃない一人でひっそり死にたい意思を秘匿して死ぬべきだ遂行を第一に置くならばそれでもなお死にたいと喧伝するのはそれはもう生存本能だろう疲れてしまって死にたい脳と遺伝子レベルで刻み込まれた死にたくない気分との相克みたいなそういうことなのかなと考えるように最近はなっていて死にたい死にたい結局死なない人というのは生きる力が強かった惨めったらしく死にたいと喚き助けてくれる人を探すそれ自体は餌をくれよとせがむ雛鳥のようにそれはきっと生存本能だ。

喉が渇いたと叫ぶ人は本当は水無しで生きられると誰が思うだろうか。

本当に死にたい人がわざわざ「首を吊るのでロープください」と言うだろうか、「ロープください」ではなく「首を吊るのでロープください」と言ったのはなぜだろうか。そこにロープがあればひとりでに死んでいただろう人間が、ロープのない部屋で一人佇んでいたならそれはきっと福音だ。外に出よう。死にたいと言おう。

死にたいって言えるやつは立派だ、それだけ希死念慮に苛まれながらも、まだなお、SOSを出せるのすごい立派だなぁと思う。生きるために形振り構ってなくて偉い。だから、そういう人が身近にいたら、おいお前どうして死にたいんだつって、俺と禅問答してるうちはだっておれと禅問答してるんだから死んでないわけだし、そういう風に他人の生存本能に振り回されていたいなと思う。

だからみんな死にたいって言えよと思うし、死にたいって言ってるやつを馬鹿にすんなやとも思うし、死にたいって言えるのは他人を信じる力がある人間の生存戦略だなと思うし。

誰も死ぬな。生きててよかったとお前に思わせるのはお前の心臓だけだ、その心臓を殺すな、心臓を殺さない手段を選ぶな。心臓は、お前さえが止めようとしなければ飄々と動き続ける。誰も死ぬな。死んだら終わりだ、死んで良かった話なんて生まれてこの方聞いたことがない。

朝日を見よう。朝日は見れない。朝日を眠い。起きれない。起きるために生きよう。いつかまた早起きしよう。そして朝日を見よう。早起きができるようになるまで生きて、また朝日を見て生きようと思おう。俺はそうしたいなと考えている。俺はそうしたいかと考えている。

なんかそんなことを考えていたのだった。

以上です。

 

新井浩文の出演作品見れなくなっていいのか問題

ちなみに俺はネットで見かける報道が新井浩文さん表記から新井浩文容疑者に切り替わった瞬間に真田丸のブルーレイBOX6万円をポチった。俺がもっかいくらい見たかったので、大事を取った。

色々考えたんだが、掲題の件について、俺の結論は「見れなくなっても、まあ、いい、仕方がない」よりになった。なぜそう思うに至ったか、の話をする。

とりあえず、まあ、ぼくも、「見れなくなるのはおかしい」という人たちの気持ちも、まあ、わかる。「おかしい」というか「これからも見たい」という気持ち、まあ、わかる。でも「これからも見たい」って、「既に見た」人の言い分ではある。思い入れがあるんだろう。僕も、『青い春』とか、すごく思い入れがある。けど、それって、過去に「見た」から、そう思うわけで、見てない人からすると、「どっちでもいい」んだと思う。そして、もし、そういう作品が闇に葬り去られたとするなら、10年後20年後50年後となっていけば、個別の作品の見れる見れないにおいて「どっちでもいい」人の割合は増えてくる。

「今はもう見れないんだけどさー」って誰かに言われて、「見たいな」って思う人もそりゃ少しはずっと出てくるんだろうけど、今はもう見れないそれを「見たい」と思う人はどんどんどんどん死んで減っていくのだろう。そして、100年とかの長いスパンで考えれば、「最初からなかったのと同じ」、になるのだろう。その時依然としてそうもなってない語り草で在り続けられる作品ってのはそれはそれで復刻するかもしれないし、それならそれで別にいいし。

つまりは、「なかったものと思って諦めろ」ってのが僕の言い分だ。もっと言えば、「これからも見れるままにしてくれ」と思ってしまうのは、それに携わった者の感傷だ。携わったってのは「作品作りに参加した人」もそうだし「その作品に感銘を受けたり救われたりした人」もそうだし、しかし全部どうあれ、そうして携わった関係者が「これからも他の人の目にこの作品が触れてほしい」と思うのは、広義の感傷に過ぎないのではないだろうか。

表現の自由みたいな話では全くない。なぜなら、その表現が闇に葬られるのは表現に問題があったからではない、「運が悪かった」からだ。

運が悪かったから日の目を浴びなかった作品は世の中に掃いて捨てるほどある。運も実力のうちという言葉もある。運とか実力とかがなかったから、誰の目にも触れられなかった作品があるように、実力があるから一時は多くの人の目に触れた作品が運が悪かったから人の目に触れなくなったとしても、それはそれで自然なことなんじゃないかなと思えてきた。

あと、俺は、真田丸を大変面白く視聴したけれども、もし俺の人生に無くても死にゃあしなかっただろうなと思う。一方で、真田丸に出会わなかったら死んでたと思う人も世の中にはいるんだろうなとは思う。ただ、これからの未来に蠢く死にたい人の中に「真田丸以外には死にたさから救われる作品はない」って人はいないんじゃないかなとも思う。真田丸に救われた人はいるだろうが、その人は「たまたま」真田丸に救われただけで、作品は「見た人」にとってのたまたまのオンリーワンになっても、いつの時代も代替性ゼロのオンリーワンであり続けられる作品なんてのはありえないとも思っている。むしろ、当時代性を以って、常に誰かを救う作品がいつの時代も作られ続けるのが健康な創作界隈だとも思っている。

真田丸が人目に付かなくなることがそんなに嫌でそんなに必要だと思うなら、誰かが真田丸的なものをまた作ればいい。真田丸加藤清正のシーンだけ別の役者で撮り直すのはどう考えても不可能だけど、真田丸に心酔した人たちが「真田丸を見たら救われただろう人たちを救う、真田丸とは別の作品」を作ることは全く不可能ではないと思う。所詮、創作って、焼き直しと新陳代謝だ。

「そんなこと不可能だから、犯罪者が出てるくらいなんだ、これからも真田丸を未来永劫語り継いでいこう」と叫ぶのは、やっぱり感傷なんじゃないかと思う。

これから見れなくなったとしても、その時代でリアルタイムにそれを見て救われた人がいるなら、本当に好きなら発禁になる前に即ポチったり悪いやり方でアクセスしたりとかいくらでもやりようはあるんでしょう、知らんけど。そこまでして作品を大事にしたい人たちが、次の時代につなげていった方がいいんじゃねえかなと思う。

100年後を考える。僕がもう死んで居ない世界。

100年前の僕が好きな作品だったからって理由で、犯罪者も良い演技してるし良い作品だからオッケーオッケーって言われてる世界よりかは、100年前にすごい良い大河ドラマがあったんだけど犯罪者が出演者の中にいて発禁になって、それでもアレはいい作品だったよなって集まった人たちが50年前に作った真田信繁を主人公とした大河がこれなんだよこの作品すげえよなみたいな世界の方が、僕は健全なんじゃないかと思う。

ここまで、さんざ真田丸を引き合いに出してきたけど、台風家族の関係者が「なんとか公開させたい」みたいに言ってるのがすげえ気持ち悪くて、あれ新井浩史そのままで流したいですって言ってるようにしか見えないし、それって「被害者がいる」ってことをすげえ蔑ろにしてるなって思うし、犯罪者が出てる映画が世の中に出るってことの問題をすげえ矮小化してるし、犯罪それ自体を些細な問題としてるように思うし、当人達がそう思うのは仕方ないにしても、それってすげえ感傷的なだけで身勝手なことだと思うし、そういう態度を応援するのは違うだろと本当に思う。

運が悪かった人たちが諦めきれないのはわかるけど、気の毒だなとも思うけど、「運が悪かっただけだから」って犯罪者が関わってようとそれは些細な問題だよね、ってするのは良くないよ。そういうスタンスを後世に残すのは良くない。

作品に罪はないよ、しかし作品は運が悪いと死ぬ。その無念を晴らすのは、その作品から何かを受け取った別の作品であるべきなんじゃねえかな。運悪く犯罪者を引いちゃってた作品をなあなあで語り継ぐのが、本当に創作の役割なのだとは俺にはとても思えないな。

そんなことを、考えていました。以上です。

 

※このエントリは、容疑者と罪が確定してる人との区別は一切置いています。そこの区別の手前の話だと思って書かれています。

節分は、中長期的にガキに茶番を教える文化と見た

息子が今一歳半年くらいで、節分だったので俺も父親として恥ずかしながら鬼デビューをした。

俺が夕食に向けての買い出しで家を空けてる時に嫁のLINEをして「玄関に鬼のお面置いといて」と伝え、僕は家に帰ると、「父親」の記号になりうるいつも着ているコート、いつも着ているジャケットを脱ぎ捨てTシャツ一枚になって、「父親」の記号を出来るだけ排除した状態で鬼のお面を装着すると、四つん這いで息子のいるリビングへと這い寄った。

僕は普段の文章から見ても分かる通り相当にお喋りな人間ではあるが、声色の使い分けも割に得意な人間だ。

地の底から響き渡るようなド低音の唸り声を上げながら息子の名前を呼び忍び寄った。イメージは貞子とヴェノム。四足獣のように重心を低くしてじりじりと滲み寄る。息子はまあ、俺を見た瞬間、全身固まって、そしてギャン泣きしたよね。

すぐさまキッチンにいた嫁が駆けつけて大粒の涙をこぼす息子に寄り添う。片手には落花生を入れた紙の枡箱。大豆は誤飲が怖いので落花生になりました。

「ほら、豆を投げて追い払うんだよ!」と息子を励ましながら落花生を俺にぶつける嫁、ギャン泣きしながら落花生を俺にぶつける息子、そしてなかなか帰らない俺、バイオハザードのボスとかにありがちなHPが残りわずかになると刺し違える覚悟で一番元気になるタイプの鬼を演出しました。一歩近づくとより一層けたゝましく泣く息子、この節分という文化、根っこはサディズムでしょ、と僕は思いました。

で、仕方ないからいい加減僕も退散します。息子の見えないところに出るやいなやお面を外して顔の方を内側に折って置き捨て「どうしたどうしたー?」と父親の顔で登場します。思いのほか泣きながら抱き抱えられることを許容する息子、俺が鬼だったって本当にわかんないんだなーと思いながら「頑張ったなー」とか褒めてやったりしながら抱っこした。

そもそも俺らは今日は節分だって知ってたけどこいつは知らないしな、まーそりゃ怖いよな、と思う。鬼じゃなくたって、去年のクリスマスにはサンタクロースと保育園で対面してたらしいけど、アレだったサンタクロースの概念を知らなかったら自分を人気者だと信じて疑わない赤を纏った太った白い髭絶対怖いだろ。

初めてのもんは怖いわな、そりゃ俺だって最近でも覚えがある。今までやったことがないことにチャレンジするのは怖いし、知らないところに行くのは怖い、若い頃を振り返れば今になって思えばビビるだけ損だったなと思うことも当時は怖かったし、この調子でいけば不惑も変わらず惑うだろうし、そのうち赤いちゃんちゃんこを羽織ったところで、怖いもんは怖いだろう。

「怖い」と思う感情は、別に誰に頼まなくたって、死ぬまで供給されるよなぁ。僕の嫁さんみたいな我が子を本当に女神のように慈しみ愛する人に育てられる息子を見ていると、彼の置かれる境遇の方がよっぽど異質なものに感じられる。

時たま、俺みたいな鬼が出てきて恐怖に晒されている方が、よっぽど現実に即している。そう考えると、節分というのは本当に不思議な儀式だ。

来年もたぶん今年みたいにガチの鬼をやるんだろうし、数年後、それが効かなくなってきたらたぶん俺は「父親は鬼に食われてもういない」みたいな演出を考えるのだろう。節分を心から茶番だと思えるその日まで改良を重ねるだろう。そうして、世の中節分みたいなもんだと思えばいいし、世の中の怖く見えるもんは全部茶番で、鬼に見えるものは全部人間だ。

本当に怖いものは鬼ではなく人間だけど、鬼じゃなくて人間なら、最悪頭を硬いものでぶん殴れば倒れる。

とりあえず節分はそういうことを学ぶ行事だと理解したので、今後もしばらくやっていこうと思います。

以上です。