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自分も与えてやれてる実感を持てないと、ただ一方的に与えられるのは怖い

読んで、なんか思いついたことを書く。この増田の参考になる話なのかは知らん。

と言いながら書き始めてはみたものの、掲題のとおりでそれ以上言うことは実はあんまりない。

 

人間、意味がわからないこと、辻褄が合わないこと、どういう道理か見当がつかないものってやつは、そりゃあもうそれだけでどうしたっておっかない。

最近の僕がそれほど夜をおっかないと思わないのは、夜がなぜ暗いのか、夜はなぜやってきて、いつ去っていくのか、知識や経験で知っているからだ。

それらの理屈の一切合切を知らぬまま生きていたならば僕はきっと今よりずっと夜がおっかなかったろう。

 

道を歩いていて、知らない人が突然あなたに話しかけて、100万円をくれてやるから受け取れと詰め寄ってきたら、あなたはそれを受け取るだろうか?

僕はおっかなくてちょっと受け取れない。

それが100万円を咥えたアナグマとかだったら周囲に誰もいないことを確認してぶん殴るかもしれないけれど、人間相手ではそうもいかないし、じゃあもうそれはおっかなくて受け取れない。

僕が100万円を気兼ねなく受け取れるのは僕が100万円を受け取る道理があると思えた時だけだ。

 

きっと人に愛されるのも同様で、結局愛されることに根拠を見いだせないと、愛されて然るべき道理がないと、どれだけ深く愛されたところで、わけがわからず暗闇みたいにおっかない。

 

これは主観の問題だ。

 

「なぜ怪我をしないんですか?」と聞かれたイチローが「僕がいくらもらってると思います?」と答えたエピソードがあって、それを僕は「それだけの金額を気持ちよく受け取れる自分でいようとしたら自然と入念な身体管理をするようになって自然と怪我なんかしない」という話に解釈した。

愛されるのもおんなじで、僕はまぁわりに嫁さんを大事にしてる人だと他人に思われることが多い人間なのだけれども「どうしてそんなに奥さんを大事にできるの?」と言われたら「僕がどれだけ愛されてると思います?」と答えるのは割に容易い。

 

けれどもこれは「愛されたらそのぶんこちらも愛するのが当たり前でしょ?」みたいなスマートでかっくいー話では全然なくてどちらかというと、大酒飲みの僕があんまり酒を飲まない奴と居酒屋に行って、向こうの善意で割り勘にされそうになるとあせる感じに似てる。

俺の方が多く払わないと道理が合わない、負い目になって普通に喋れなくなるから割り勘だけは勘弁してくれ、となるあの感覚に似ている。

普通に愛されてることを普通に幸せだと思えないってことは結局、実のところそんなに深刻な話でもなくて、そういう「俺ばっかこんなに飲んで割り勘でいいはずがない」と同じくらいの感覚なのではないか。

 

これは何も愛される資格云々みたいな偉そうな話じゃなくて、人それぞれの主観の話だ。

 

人はただ何もせずただ愛されて別にいいんだけど、本人が納得できないなら、仕方ない。じゃあ気持ちよく受け取れるような自分になるしかない。

家事を頑張るでもセックスを頑張るでも楽しい会話ができるよう頑張るでも愛してる気持ちを何らかの形でもっとたくさん伝えるでも、やり方は本当になんでもいい。

ただ与えられるんじゃなくて、「自分で引き出したんだ」って手応えのある「愛してる」を相手から勝ち取っていく作業を重ねることが、自分に向けられた愛をずっと信じていくために必要な人もいるのではないかと思う。

 

繰り返すにこれは何も「お前はそれくらい頑張らないと愛される資格がないんだ」とかそんなけったいな話でもなくて、人よりもたくさん身体を動かさないとなかなか気持ちよく眠れない人もいるよね、みたいな話だと思う。

そういう人に生まれちゃったら、もう自分はそういう人生なんだと割り切って、毎日24時間のうちの一部を筋トレとランニングに当てて生きていくより仕方ない。それで気持ちよく寝れるなら御の字だ。

そんな調子で自分に向けられた愛に自分もまた向き合う時間を作っていくしかないんじゃないだろうか。

みたいなことを思った。

そして愛したい愛されたいに限らず何かにつけて何も考えずに素直に受け取って喜んだり泣いたりみたいなそんな善良な人間みたいなことを俺なんかがするのはなんだか申し訳ないとてもとても後ろめたくて堪らないみたいな人間が書いてるのがこのブログであったりもする。

「なんでそんな書いてるの?」に対する答えの一つは「僕がどれくらい生かされてると思います?」なのかもしれない。

 

あと、100万円咥えたアナグマぶん殴って倒したら体長5mくらいのボスアナグマが追ってきそう(100万円を手放してる間は追ってこない)。以上です。

ちょっくら長崎行きますわ

なんとなく屋上でパンを食いながら流れる雲を眺めていたところ不意にですね、僕は思ったんです。あー、理不尽に殺された人がたくさんいる土地に行きてえなー、と。で、できれば殺された人が信仰持ってるとなお良いなーとも思いました。あと最近、ちょっと体重が気になるので坂が多いと運動にもなって願ったり叶ったりだなーみたいなことも思ってて、もっと言えば四角くて甘い菓子が食いたいなみたいな気持ちもあって。なんかこの俺の今の感じの要望にちょうど合致するような場所ないかなーできれば国内で、と思ってググってみたところ長崎がめちゃめちゃちょうどよかったので長崎に行くことにしました。ドンピシャじゃん。キリシタンが江戸時代に一回幕府にキャーン言わされててその後も信仰を持ち続けてたらキリスト教国に爆弾落とされて、坂が多くて使い物にならないので自転車所有率が日本ワーストで、カステラがうまい。ドンピシャじゃん。ドンピシャだけどもうひとつ欲を言えばなー、理想を言えばだけど、贅沢言ってるのはわかるんだけど、超絶男前のミュージシャンの出身地だったら最高なんだけどなー、そいつの嫁さんがチューブトップが似合ってたら言うことないんだけどなーって思ってたらそれもクリアできてたので、奇跡ってあるんだね。そういうわけで長崎に行きます。

ハウステンボスと、長崎市内の観光と、あと最終日、ちょっと博多にも寄ります。あんまり予定をそんなにしゃんと決めてないので、なんかこれ食っといた方がいいぞとか見ないで帰ったらもったいないぞみたいなことをあったらツイッターででも教えてください。参考にしたりしなかったりします。

現状頂いてる情報は以下の感じです。

 

博多駅構内ショッピングモール、松島茶店で売ってる焼きたての梅ヶ枝餅

・福岡のごぼう天うどん

・福太郎のめんたいボウル480円。ほかほかごはんに明太子、卵と具たくさんお味噌汁で500円!博多駅新幹線口近くのデイトスのみやげもん市場内。

・吉宗の茶碗蒸し

・江山楼の長崎ちゃんぽん

 

その他、佐世保バーガーを食うために佐世保まで行くのかったりいんで、長崎市内で食えるうまい佐世保バーガーの店情報などお待ちしています。

真面目な話で一番興味あるのは「めっちゃ信仰心のある日本人」を見物に行く感じなので、なんかそれで興味深い話ある人とかも気が向いたら教えてください。まぁ、なんかそんな感じです。僕は、あんま本読んだりとか映画観たりとか高尚なことをしないで生きてる人なのですが、最近だと長崎関連で触れた何かでいうと『MIWA』『母と暮せば』『沈黙』くらいかなぁ、他になんか長崎関連で面白い作品とかあったらそれも知りたいです。教えると言葉を覚えて育つので、シーマン感覚でみんなでズイショさんを育てよう。なんかそんな感じで、まぁとりあえず出掛けます。以上です。

アウティングに怒っとけばそれでいいのかよくわからん

 とある芸能人が突然の引退ということでツイッターが盛り上がってるのを見かけて、その引退の原因は写真週刊誌の報道にあるみたいなんだけどそこにある報道内容のひとつにその芸能人のセクシャリティに関する情報が含まれていたらしい。俺はその週刊誌の記事は読んでないので実際のところはよく知らん。

 本人の意思を無視してその当人のセクシャリティを誰かに伝えてしまうことはアウティングと呼ぶらしく、それはとんでもなくやってはいけないことだ。今年だったか、それをきっかけに自らの命を絶ってしまった大学生もいた。ヘテロである自分には想像することしかできないが、それほどアウティングというものは辛いことであるようで、だからツイッターを見ていてもみんなとても怒っているようだ。

 それで僕も全くやりきれない理不尽な話だと憤る気持ちはあるのだけれど、「アウティングは絶対に許してはならない!」というのはまぁそうなんだけど、全く無関係な第三者としてそれだけでいいのだろうかという気もしてなんだか煮え切らない。

 自分はその芸能人とは全く無関係な第三者ではあるけれども一方で同じ社会で生きているもちつもたれつの社会構成員であったりもするわけで、そう考えた時に、アウティングという行為を否定することはそれはそれで必要で大切なことではあるのだけれども、それほどまでにアウティングという行為が今回のようにクリティカルで致命的に作用してしまう現状の社会の在り方、空気に対して自分が取るべき態度は本当にただアウティングという行為を糾弾するだけでいいのだろうか。ここのところで僕はよくわからんくなる。

 もちろん例えば「俺はそういう偏見とか全然ないから」「全然気にしないから」みたいに言うことは簡単だ(簡単にそう言ってしまうこと自体が軽薄で無責任で浅慮ではあるかもしれないが)。ただ、そう言う一方で「アウティングなんかされたら本人はどれだけ大変か」「アウティングは人の人生を狂わせるものなんだ」と言うのはなんだかちょっと違うのだけど「俺は気にしないよ?俺は気にしないけど世間は何て思うかな?」でお馴染みの太宰メソッドよろしく結局世間の偏見の存在を肯定して加担してしまってるんじゃないかという気もして、なんだかわからなくなってしまう。

 もちろん怒るのは必要なことだ、アウティングはどうしたって許される行為ではない。だけどそれだけじゃないプラスアルファってないのだろうか、アウティングという行為がもたらしてしまう結果が今より少しでも軽微な世の中になるために必要なことが、何か怒る以外にあるんじゃないだろうかなんて気がして僕は怒るより先になんだかぼーっとしてしまうのだ。

 繰り返すに僕は「アウティングけしからん」って怒ってる人に文句を言いたいわけじゃない。ただ、それだけじゃないプラスアルファがないかなーと思っている。もちろんどんだけ世に溢れる偏見がマシになったってアウティングが良くないことには違いないんだから(誰も笑わないからって言われたって俺は自分の意思と無関係に自分のチンコを見られるのは嫌なのと同じように)怒ることだっていついつまでだって必要だ。でも他になんか並行してするべき行動、示すべき態度、こんな時に残しておくべき言葉があるんじゃないかと思って、僕はぼーっとしている。そしてこういうことを考えるのは、別に人に考えろって求めることではなくて、別に怒らなくてもやりきれない気持ちにならない余裕がある奴がそいつの好きで勝手に考えておけばいいことだとも思っている。

 この通り、全然まとまりないし歯切れのいい結論も何もないのだけど、これは書かずにぼーっとしているだけだと霧散しちゃうやつだ、と思ったので、書いた。以上です。