←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

埋葬一直線!! 『サウルの息子』感想文

あのー、掲題の通り、『サウルの息子』っていう映画を観たんでその感想文を書こうかなと思うんですけど、いつもだったらまずあらすじから入るんですよ、僕なりの言葉でストーリーのあらすじを語るところから始める。この映画だと舞台が1940年代のポーランドアウシュビッツ収容所になるんですけど。例えば、僕が大阪が舞台の映画についてあらすじを語るとするじゃないですか、まぁだいたい途中でありのままの話をするのに飽きてテキトーなこと言い出しますよね。当時の大阪シティーを牛耳ってたのは茶髪を売りにしていた弁護士で、7つのたこ焼きを集めて紳竜(紳助・竜助)を復活させようとしてるんだ、みたいなことを言い出すわけじゃないですか、ふつうの間違ってないこと言うのかったるいから。そんな僕なので、『サウルの息子』のあらすじなどはしません、危ないから。迂闊に事実と異なる馬鹿を言うとあかんやつになるから。このドイツのユダヤにやったことはマジで茶化しちゃいけないんだなってことなんで、僕は危ないんでここではあらすじませんので、各自wikiとか見て。欅坂ダメだぞあんなことしちゃ、この野郎!!

サウルの息子 [DVD]

サウルの息子 [DVD]

 

はい、そういうわけでね、ネタバレとかの配慮はないんで、まだ観てなくって、ずっと観ようかなと思ってたなーんて人は、これを機会に今すぐ回れ右して本編を観て、その後このブログエントリに帰ってきてね。とても良い映画だと僕は思いましたよ。

僕、そもそも戦争映画に対してすごくノリが悪いんですよ、けっこう好んで観るんですけど、そんな開襟して楽しむタイプではないんですよね、観るけど。我々現代に生きる日本人からすると信じられないような凄惨な悲喜こもごもを一手に引き受けてくれる「戦争」という設定なわけですけど、いや、「わしゃごめんじゃー!!戦争は嫌じゃー!!!!」って駆け出したい感じはわかるんですけど、駆け出して下駄が宙を浮く感じは全然分かるんですけど、紙一重なんですよ。「に、人間がこんなひどいことをやっていただなんて……!!」って部分と「まんまやないか」って部分、これが紙一重の半々なんですよ。人間はなんてえげつないんだ……、ちょっと血とか種とかが自分と違うってだけでこんな惨たらしいことができるのかって気持ちももちろんあるんだけど、「まぁ、聞いてる通りやな」っ感じで行こうとする自分もあったりする。「事実だからなぁ、オリジナリティがないなぁ、そのまんまやないか」って思う部分もどっかであって、「あれ?この話ってストーリー自体はフィクションで実話じゃなくって、そのうえで戦争の設定だけ実際に過去にあった史実から持ってきたってだけなら実はエルフとドワーフの戦争の話とかに置き換えた方が面白くない?」みたいなことってあると思うんですけど、この感覚、どれくらいの人が共感してくれるものなのかあんまわかんないんですけど、映画でも小説でもだけど「本当にあったんですよ、これは!!」という一点で恐縮しろみたいな感じでこられるとちょっとヤダなみたいなのが僕にあって、それでなんか下駄を履かそうとしてくる感じ、「この悲惨な戦争は本当にあったんだぞ!そんな中でも輝きを失わない家族愛!さぁ、泣け!」みたいなのちょっと苦手で、それこそ本当の戦争を山車にしてないかみたいな、戦争という名のポン酢を掛けたら大体何でもうまいやろ的な気配が僕はどうにも苦手なんですけど、でも「戦争の悲惨さを忘れないために」って大義名分の前にはこんなん言うてる僕がくっそ性格悪いってだけの話にしかならないのでなんだかなぁってなることがあったりするわけですけど、しかし、今回観ました『サウルの息子』は、それでもなお、この僕と、貴方とが、共に生きるこの世界の、今より少し前の、たった少しだけ前の、僕らのすぐ隣の世界を、舞台にすることが必要だったと思ったし、たかだか100年経たないちょっと前の出来事であることが大事な映画であるように思われました。

なんか、この映画、舞台から設定から主人公の職業っていうと変なのかな、置かれた立場?などなど、どこからどう切り取ってもTHE・戦争映画なんですけど、ある意味で全然戦争なんか関係ない「さぁ、八方塞がりで希望も何もありゃしない、そんな時あなたはどうする?」っていうめちゃめちゃ普遍的な話のような気もするんですね、日常の対極の非日常として戦争という舞台装置が採用されているわけでなはくて、日常とか、普遍的な人生のままならなさの象徴として戦争が採用されていて、ただただ異常なまでに何の希望もない日常としてそこに戦争があるんですよ。ほんで、主人公のサウルがね、こいつがまたよくわかんないの。いわゆる先述したような、なーんか僕が斜に構えちゃう戦争映画っていうのは「ほら!お前ら!こんな美しい、尊い人間の営みを、通い合う心と心を、そのすべてを奪うのか戦争よ!!」みたいなテンションの高さがあるのね、そういうわかりやすいのもない。もちろんまぁ映像から察するサウルの生活ぶりっていうのは色んなものが奪われて奪われて奪われつくされた状況そのものであることは疑う余地はないのだけれど、そういうなんか客の同情を誘うようなキャラクターでは全然ないんですよ、無口で何考えてるかわからない薄気味悪い男でね。ゾンダーコマンダーっていう、同胞殺して死体片付ける仕事を与えられてるユダヤ人のサウルがですね、ガス室でくたばりきれなくて息も絶え絶えのユダヤ人少年の死に生で立ち会うんですけど、「死」の後に「生」って出てきて図らずもややこしくなりましたけど生と書いてナマ、LIVEって意味なんですけど、そこでサウルは何を思ったかこの少年を「俺の息子だ」って言い出して、なんか彼らの宗教では火葬はあかんくって土葬で弔ってやらないといかんらしいのね、それまでさんざ同胞の死体を焼却しまくってきたサウルはここで突然「こいつを埋葬したいんじゃ!」って思い立って、で、この後がもうみんなに迷惑かけまくりで、もう埋葬したいんじゃっていう一念でサウルの頭の中がいっぱいだから、それで作業中無駄口聞いてたらドイツ人に殺されるっていうのにいわゆる神父さんみたいな役割なのかな、弔いのお祈りをできるらしいって噂の人に業務中に話しかけたりしてね、そのせいでその人、ドイツ人に殺されちゃうんですよ結局。その後もレジスタンス的なサウルの面倒も見てやるよって言ってくれてる人たちに頼まれたお遣いも息子の埋葬のことで頭いっぱいになっちゃって全然お遣いできてなかったりね、自分のことばっか考えて迷惑かけまくりで「サウルあんたそりゃないよ!!」って思うんですけど、それでいうと一番「そりゃないよ」なのはどう考えてもナチスなわけじゃないですか。そこらへんがもう、ちょっと見てて分からなくなってくるところなんですね。サウルの置かれている状況は異常なんですよ、狂ってるのはサウルじゃなくてナチスなんです、いや、でもただじゃあサウルが狂ってないかというとそれはどうなの?っていうのがわからなくなる感じが超楽しくて、一回目はなんだかんだ終始真顔でサウルの背中とサウルの顔を終始真顔で観てたけど(特殊なカメラワークの関係でマジで2時間たっぷりサウルの顔ばっか観ることになります)、そんな機会があるかはわからないけど二回目観る機会があったとしたらたぶんまぁまぁ終始笑えると思う。ほとんど邦題は『埋葬一直線!!』ですから、極限状況下でのコメディっちゃコメディなんですよこれ、足でピアノ弾くなんて目じゃないくらい破天荒ですから。あの時代、世界は狂ってた。そしてサウルも狂ってた。だからサウルは人に迷惑もいっぱいかける。でも、それはもう、ナチスが悪いのと同じようにサウルなんかを当てにしたお前らが悪いよ、サウルは今忙しいんだからそんなやつにお遣い頼んだお前らが悪い。サウルは悪くない。けどサウル、サウルお前、ええかげんにせえよっ!!って感じがね、これは何の映画なんだって感じになるんですよね。

息子の死体を勝手に持ち出しちゃって数が合わなくなってるわけですから、それどうすんねん身代わりに誰か同じ背格好の少年を調達してこいやって話をしてる時にサウルが「お前死んだやつのために、生きてるやつ犠牲にするっておかしいだろ」ってすごく正論で同胞に窘められるんですけど、まぁそれは正論だけど、それを言い出したらナチスの方がおかしいだろって話で、そっちには文句言えずにサウルには文句言えるから言うってのも筋が通らないとまでは言えないけど、歪な話だよなーとかは思って、ただ件の戦争におけるユダヤの人らっていうのはめちゃめちゃその究極みたいな環境だったことは間違いないんだけど、理不尽まみれの世界に晒されてるって意味では、これって本当、俺だって誰だってみんなそうだよなってことをそのシーン観てて思ったんですよね。もともとがめちゃめちゃな理屈で世の中が回っていて、その時点でもう既に全然納得いってないし筋が通ってるとも思えないし、そんな状況下で自分が何をしたいか何を大事にしたいかって、そんな理屈で決める必要あるんだろうか、みたいな。サウルが言われたように「生命が一番大事だ、死んだやつなんて放っとけ」ってのは全然間違ってないですよ。まだ生きてる側の人間の理屈として大変もっともだ。けど、事実として彼らの生命って死ぬほど軽いわけですよ、ナチスのふざせた論理によって。その状況下で、自分はそれでも生きていたいから、死んだやつより生きてるやつの方が大事なんだって自分で言うのは勝手ですけど、そこで「いいや、どうせ吹けば飛ぶ生命だ、俺は自分の生命より他人の生命よりこの息子の死体を大事にして生きるぞ」ってサウルが言ったとしてそれを誰が責められるだろうかみたいなことは思うわけですよね。なんか書いちゃったらそれなりにポエミーないわゆる修辞でそれっぽく見える理屈みたいになっちゃいましたけど、本当はそんなものすら必要ないんですよ。どうせ世の中わけわかんないんだから、やりたいようにやるしかないよね、っていうそういう話なのかと思った。わかりやすくナチスを否定したり、同胞と共に声を挙げて立ち上がったり、何かを問うたり説いたり、そういうことはサウルはしなかったですけど、あれで十分、彼は彼自身の尊厳を貫いて彼自身の人生を生きたんだなーみたいなことを思って、それがまた別に美談でもなんでもなくて、いや本当良い迷惑なんですよ、やりたいことやったもんがち青春ならって感じでめちゃめちゃなんですけどサウル、いやでもなんか最後まで見届けたら最後の二日間は完全燃焼って感じでやり遂げたみたいな顔してたから、こいつにとってはこれで良かったのかなーと思って。明日にわずかな望みをかけて最後まで生きようとしていた他のレジスタンスなんかよりはよっぽど後悔なく死んだんだろうなーサウルは、みたいなことを思って、どっちが幸せだったんだろうっていうと陳腐な問いだけど、それは別に生きるのがもうやってられない状況だったら良い死に方を探しなさいって話ではもちろんないんだけど、変な話、秋葉原の加藤とか、オウムのこととか、あそこらへんのことはちょっと思い出してる俺がいたんだよね。理不尽に対する理不尽とか、カルトに対するカルトとか、どんな世の中だったとしても社会と個人の関係ってそういうのと紙一重だと思うし、そこで個人としてどう生きるかって、考えるのめんどくさいけどやっぱすごい難しいな、みたいな。狂ってるなら狂い返してやる!ってそこでそれこそ加藤みたいにやけになっちゃ駄目だけど、どっかで狂わなきゃ駄目なんだ、みたいな。そうだな、僕はこの話を、戦争の話とか民族の話とかではなく、社会とか世界とかに対する個人、の話だと思ってるっぽい。

とりあえず書き出したらなんとかなるかなーと思ったけど、自分でも思ってた以上に自分でも消化しきれてなかったっぽいなー、また一年後とかに観直そうかなー。いや、みなさん是非観てください、なかなかパンチが利いた映画でした。

では最後に、本編鑑賞後のおもしろエピソードを紹介してお別れです。

たるみが消えるどころかめちゃめちゃ落ち窪んでるがな。以上です。

どうせ、うまくいくので安心して観れる『きっと、うまくいく』感想文

この前なんかインド料理屋行って、嫁さんがなんや知らんけどナン食いたいって言うから、俺はもうそれを聞いた時点で南原清隆が帯番組持ってることが気に食わねえみたいな全然関係ないことを考えていたんだけど、まぁいいやと思ってインド料理屋に入って、カレー頼んで、店内にはでかい1畳くらいのテレビが壁に掛けられてて、インドの最近の流行りの音楽のPVが流れてるんですよ。で、最近じゃネットでは度々触れられるところだけどやっぱ見てたらインドのノリっておもしれーのな。なんかこう、バラードっぽい曲のPVとかでもどっか陽気というかふざけてるのな、国民性なのかな。いつもどうにも馬鹿馬鹿しくって、楽しいねぇとか言いながら観てたんだけど、まぁ言うて、男が肌も露わな女性をこれでもかと侍らせてキレッキレに踊ってね、ジェンダー観の固定ヤバイなと思って、PV自体は面白いけどもレイプ大国としての片鱗すごいなと思いながらカレー食ってたんすけど、あんまり観たことなかったけどもしかしてインド映画なんか観たら楽しいかもね、みたいな話になったので観ましたよ、インド映画の最高傑作とか言っても別に怒られないだろう名作、『きっと、うまくいく』。

きっと、うまくいく [DVD]

きっと、うまくいく [DVD]

 

いざ軽い気持ちで観始めたら3時間とかあると発覚して、だいじょぶかよって一瞬なったけど、まぁまぁサクッと楽しめたね、テンポ良すぎ。褒めてるけど褒めてないけど褒めてる。全編アニメ版『斉木楠雄のΨ難』くらいのテンポで進んでいるので、間違えて微妙な早送りで進んじゃいないか最新の注意を払った。その結果、大変良い映画を観た気になった。良かった良かった。

いや、でも実際よくわかんねえんだわこれ。油断するとなんか最近は邦画とハリウッドしか見てねえやってなるじゃないですか、そんななかで他の国の映画をたまに見るとわけわからんくなるね。映画としての文法?みたいなものも結構違ったりするんだろうなぁって思うし、それがインドとかなってくるともうリアリティラインからしてもうまず全然わかんないものね。この映画は、たぶん2000年前後あたりのインドの一流大学が舞台になってるっぽいんだけども、そこで主人公チームがまぁ馬鹿でオマヌケな無茶をする、それで痛快に嫌な奴に一泡吹かせたり、たまにイタズラがバレてピンチに陥ったりするんだけど、まぁこっちの価値観でいうとド犯罪みたいなことをするのよ、先生の家に忍び込んだり。これが映画だよ、こんなことあるわけねえだろって思って観ればいいのかインドではまだ普通にこれくらいサクッと不法侵入とか出来ちゃうのかなっていうのが全然わっかんねえの、でもなんかこの映画を観てる瞬間瞬間の面白さってそこのわっかんなさ込み込みだったような気がするんだよなぁ。例えば『蒲田行進曲』を舞台を現代に移してリメイクって言われても全然うまくいく気がしないじゃないですか、あの時代ならそんな話もあったかもしれないっていう感覚、それは当時の今その瞬間をあの映画と同じ時間に生きてた人が観て感じるリアリティ含め、その当時の人たちが感じてたリアリティを向こうから見て未来人のこっち側我々も感じられるみたいなそういうリアリティの種類があると思うんですけど、この映画の安心して観られるスカッとする感じってそういうリアリティに支えられてたと思うんです。

なので、なんか、この映画がハリウッドの大物も大絶賛!!みたいな感じで喧伝されて、2009年当時みんながおもしれえおもしれえって言ってたって事実、それをガッツリ時間を置いて熱狂も冷めきって、完全になんで今観たんやみたいなタイミングで冷静に観てみた時に、なんかそれって先進国がもはや先進国であるがゆえに現代を舞台にリアリティ込みで描くことができなくなってしまったノスタルジックな風景を後進国映画に見出して喜んでるみたいな構図なんじゃねえかみたいなことを思って。いや、それ自体が悪いことかっていうと全然そんなことないんだけどね。今年の頭かな? 二宮和也主演で夏目漱石の『坊っちゃん』を実写ドラマ化してやってたじゃないですか。時代設定はもちろん夏目漱石の書いたあの時代、昭和?明治?知らんけどなんかあそこらへんでやってましたけど、じゃあアレを2016年、現代に設定を移してやってうまくいくかっていうとうまくいかないじゃないですか、ただ2016年インドを舞台にしたインド版『坊っちゃん』はたぶん余裕で成立するんですよ、なんかインド映画とハリウッドってそういう関係じゃん、と思った。繰り返すにそれは悪いことじゃないんだけど。だからそれこそ冬ソナとかの韓流の先駆けがあったわけですけど、あれも結局80年代90年代の日本のトレンディドラマのノリがもう日本では「そんなんありえねーわ笑」って感じでリアリティ伴って書けなくなってそれでもあったトレンディドラマへの需要をペ・ヨンジュンが満たしてくれたみたいな側面があったと思うんですけど、異国にそういう過去の、喪失したリアリティを求めるって構図はなんか、単純にそのまんまの意味で、おもしれえな、不思議な現象だな、と思って。とりあえず俺はそういう感覚に自覚的でいたいし、これからも同で理屈で説明できる現象がしばしば起こるんだろうなぁと思ってる。

で、まぁ映画本編の内容については特に言うこと何もないんだけど、基本大学で青春とか笑いながら前向きに頑張るってだけの話なんだけど、ここまで述べた通り日本とかアメリカで今こんな筋書きの話を書いたら「そんなのありえっこねえわ」「ご都合主義じゃん」みたいな展開がバンバンあるの。もちろん、アメリカとか日本でやってやれないことはないんですよ、ただ成立させようとするとかなりギャグに寄っちゃうよねみたいな展開も一定のリアリティのもとでコントロールされてる感覚がするんですよ。だから、なんか、すげえ不思議。こんなにそのままの意味で「笑って、泣いて、元気になれる」みたいな映画ってどうなってんの?みたいな。いや、めちゃめちゃ良い映画ですよ、ほんと元気になれる映画って感じだから、万人にオススメしたい。俺は、またもう一回観る機会があるかちょっとわかんないけど、これが「人生で落ち込んだ時に、何度でも観たくなる映画」になる人ってたくさんいるんじゃねえかなってのは思う。もしかしたらそれはあなたかもしれない。もし、そうだとすると、そんな映画をまだあなたが観てないのは損だ、だから今すぐ観なさい。と、万人に言ってあげたいそんな映画です。3時間あるけど、笑えるくらいカッチリした2部構成になってるのでDVDで観てても途中休憩可です。あれ実際のインドでの上映の時ってやっぱ休憩取ってるのかな、1時間半がインド人の集中力の限界みたいなセオリーがあったりして。歌舞伎に似てるな。その、集中力ない人でも安心みたいな休憩ありき設計も、歌と踊りで飽きさせない感じとかも。そして何より掲題の通り安心して観れます。きっとうまくいくどころの話じゃありません、どうせうまくいく、最後どうせハッピーな感じにまとまる予感が終始半端ない。かと言ってそれが邪魔に感じられるかっていうと全然そんなことない。いや、ほんと不思議な映画です。観てない人は是非。あと、他にももうちょい観たいんでオススメのインド映画とかあったら教えてださい。

では最後に僕の考えたさいきょうの日本版『きっと、うまくいく』キャスト2016を発表してお別れです。

 

主役の天才役:劇団ひとり

親友のメガネのデブ:あえての神木隆之介

もう一人の親友の苦学生:そうくりゃもちろん佐藤健

嫌味なウガンダ出身のライバルキャラ:斎藤工

小雪のエキスを吸った高木美帆みたいな顔のヒロイン:小雪のエキスを吸った高木美帆

その姉の妊婦:青木さやか

ヒロインのフィアンセ:北島一樹

学長:『GTO』の時と寸分たがわぬ演技の中尾彬

ミリ坊主:ロバート秋山

テーマソング直後に自殺して笑いを取る人:DAIGO

 

7年前の映画のこんな大喜利やって笑うやつ俺以外この世におるんか。以上です。

 

 

2016年11月5日15時追記:ごめん、ちゃんと調べたら日本公開は2013年だったっぽい。

あなたはこの文章を読んで「こいつめんどくせえな」と思う

はい、掲題の通り、何一つ共感されずただ「こいつめんどくせえな」と思われる話をします。

今日、嫁と二人で街に軽く出る用事があったので、そのついでに以前一度だけ飛び込みでランチを食べてとてもおいしかったからその後も何度か飛び込みで足を運んでみたものの最初の一回以外は「すいません、今日もう予約でいっぱいなんですよ」と言われてリピートできていなかったステーキハウスに行けるなら行きたいねという話になりました。それで、9時に朝食を済まして10時には家を出て、10時半すぎには街に出たところで11時オープンのお店に嫁が電話を入れることになりました。別にそういう業者との電話連絡はいつも嫁の仕事、というわけではないのだけれど僕がガラケーしか持ってなくて検索能力が幕末の侍レベル(つまりほぼゼロ)なので外出先の飲食店への電話なんかは嫁がスマホでお店調べてそのまま流れでみたいなことが多いのです。で、まぁさっき朝飯食ったばっかだし13時くらいがいいよね、もし予約いっぱいだったら前後するのは全然いいけど、って話してたんですけどそれで嫁が電話して何やらやりとりをしてるんですね、「お昼の1時くらいって空いてますか?」「はい、はい」「ああ、11時半…」、まぁいいんじゃないみたいな顔をする僕、「はい、じゃあ11時半で、はい、電話番号言いますね」みたいな調子で電話は穏やかに終わり、嫁から11時半になった旨を告げられました。やっぱおいしいお店だけあって人気なんだね~昨日までの時点で予約いっぱいなんだね~11時半だとお腹空いてるかちょっとわかんないけど仕方ないね~と僕が言ってると嫁が、「うん、『1時はいっぱいになっちゃうんで』って言われて」と言うんです。

はぁぁぁぁぁぁぁ~~!!!!!?????

いや、知ってるよ、13時はいっぱいになっちゃうの知ってるから事前に予約でけへんか連絡したんやん? 「1時はいっぱいになっちゃうんで」って何? いっぱいになる前に席を押さえるのが予約の本懐なんじゃないんですか。これが「1時はいっぱいになっちゃってるんで」だったらわかるよ、それは既に予約がいっぱいになっちゃってるってことでしょう、けど「1時はいっぱいになっちゃうんで」って何? その言い方って未来系じゃないですか、その未来を見越してするのが予約でしょうが、何その言い方? そこには一体なんの意図があるの? これから予約も常連さんとかからいっぱい来るだろうし、実際その時間繁盛するのは目に見えてるし、お前らのために押さえておいてやる席はないってこと?そうじゃないとそういう言い方にならないよね?ナメてんの?いや、ナメられるならナメられるでこっちは食わしてもらう側だから甘んじて受け入れるけどどういうことなの?ハッキリしてくれよ。これが嘘でもよ、嘘でも「その時間は予約もういっぱいなんですよ」とか「コアタイムは予約受け付けてないんですよ」とか言ってくれたらそれは全然納得いくんですよ、ただ「1時はいっぱいになっちゃうんで」って何? うん、いっぱいになっちゃうだろうからこっちは事前に連絡入れてるわけじゃん。

みたいなことを嫁の口からそれを聞いたコンマ6秒くらいの間に思ってもう完全にむかついて機嫌が一瞬で2万まで悪くなったんですけど、その後、俺の怒りの丈を嫁に説明してもよくわからんみたいに言われるし(いや、そんなつもりはお店側もないんじゃないかなぁ、既に予約がいっぱいって意味でそういう言い方をしただけなんじゃないかな、どうどうとフォローはしてくれたんだけど)結局この俺の憤りを解消するためには俺が電話して店員に問い詰めるしかないわけだけど味はおいしいからこれからも懇意にしたいお店だし、あと何よりこれは俺が絶対頭おかしいだけだから、でも俺的には全く納得できなくて、そんな状態で11時半のあんまり腹減ってない時間に飯食っても絶対うまくないし、二人で逡巡した結果、今日のところは予約をおとなしくキャンセルして、また近いうちに俺が予約の電話入れる形でもう一度ちゃんと行こう、そこでまた「1時はいっぱいになっちゃうんで」と言われたら俺は「それはつまり、1時は予約が既にいっぱいと言うことですか?」と聞く、ということで落ち着きました。ランチは当初の計画とズレましたがおいしいお寿司が食えたのでよかったです。あとこういう言葉の行き違いを避けたいから午後1時のことを1時と呼ぶのも全然納得いかない。俺は13時と言う。全て24時間表記で言う。いや、俺、今回の件でも結局クレームなんて一つも入れてないからね。お店に迷惑かけない形で自分が納得できる方法をちゃんと模索してるからね。ここでクレーム言ったらクレーマーだけど俺はクレーマーとは違うから、ちゃんと納得できる形で納得したいってだけだから。嫁さんは、こんな奴ともう10年一緒にいます。以上です。