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【読み物】長そうな手紙の冒頭

 君がこの手紙を読む頃には僕はもうこの世にはいないだろうか。僕というのはもちろんこの手紙を君に宛てて書いている僕のことだけれど、君がこの手紙を読んでいるこの瞬間――それは昼だろうか夜だろうか僕にはわからない――僕自身は相も変わらずの作り笑いで毎日を遣り繰りするのに必死でしょっぱい汗を流してる真っ最中なのかもしれない。しれないけれど、だとしてもやっぱり、今これを書いている僕には君がこの手紙を読み終えた時にどうなるかだなんてどうしたって想像がつかない。もっと言えば僕がこの手紙を書き終えた時に僕がどんな顔をしているのかさえ想像がつかない。まさにこれを書いている今この瞬間の顔を試しに書き記してみようか? これは君の大事な彼について書いた手紙だ。僕が、他の誰でもないこの僕が、殊更に彼について事細かく、僕と彼の出会いの時まで遡ってそれから今の今のところまでを順繰りに、僕が彼について知る一切合財を貴方に語って聞かせてやる理由なんて傍から見てどこにもないことなんて僕にだってそりゃあ分かってはいるけれど、だってそもそもこれは彼のためにやってるわけなんかでは全然なくて、僕の目的が彼の何たるかを君に知って欲しいなんてところにあるわけじゃあないことも僕にはすっかり分かりきっているのだから理由がないことなんて僕が語らない理由には全然なりっこない。だから僕は臆面もなくこうして言葉を吐き出すことができるわけ。わからないだろうけど僕は今すごくニュートラルな顔をしているからね、言ってみればスキー場のてっぺんに一人掛けのリフトで向かってるようなそんな面持ちだ。真顔でもなければその瞬間を満喫しているでもない、そんな面持ちだ。僕だって何も楽しいと思って愉快な気持ちでこんな酔狂なことをおっ始めようと思っているわけじゃないんだ。だって君だって、リフトで頂上を目指すことそれ自体が楽しいことなんてあったかい? ……あったかもしれないね。思えば初めては何だって楽しかった。僕はそうだった。君はどうだった? 君もそうだといいな。けれど、だからって、今でもその時のことを鮮明に思い出すことができるかい? あの時と同じ気持ちで、リフトの頂上を眺める君の目ん玉とつながってる君の脳みそを、君の脳みそに乗り込んだ小さな君を、頭のてっぺんから足のつまさきまでどっぷりと、あの時と同じ濃度の不安とワクワクに沈めて漬けこんでやることが今でもできるかい? 今、リフトに乗った君は、ただ無機質に上へ上へと運ばれる君の身体に、それほどの感慨を抱くことができるかい? だからこうして語り始めようとしている僕だって、本音を言えばもう飽き飽きさえしてるんだ。てんで嬉々となんかしちゃいない。そのことは重々わかって欲しい。けれど、飽き飽きしているそのことだって僕が彼について語らない理由にはどうしたってなりっこないんだ。僕が彼について語らなくてはならない理由なら、そりゃないよ。一つもない。そこんとこ僕は勘違いしてないんだから君だって勘違いしないでよね。理由という言葉がわかりにくいなら、それは資格とか適性とか言い換えてもいいけれど、繰り返すに僕はそんなもの持ち合わせちゃいない。ただ一方でそんなもの必要ないとさえ思ってる。つまり勘違いはしてないけれども分をわきまえる気もないんだな。開き直ってやがるんだ。強いて言えば動機かな。僕には動機がある。僕は君にこの手紙を届けたい動機がある。ただ動機だけが、ある。

親指シフト始めて4ヶ月ほどたった結果

メモだよ~。

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7月末に測った時はWPMが180~200で調子いい時は200出るかもね~くらいだったんですけど、今はもうご飯のこととか考えながらぺっぺっぺーっと打っても220が出る感じになりました。で、体感としてはこれもうちょっと全然まだまだ伸び代ありますね。まだ指がもたついてるなぁというかちょっとバグって今止まってたなぁって思う瞬間があります。そして、10年近く使い続けていたローマ字入力では晩年(というのはつまり親指シフトを始めようとしていた4ヶ月前頃のことなんだけど)そういうもたつきやバグった感覚が一切なかったのです。つまり、これは習熟度が更に上がればなくなるってことですね。なので、250くらいまでなら余裕で出るであろうということを僕は極めて具体的に想像することができるということです。そこより上は現時点ではちょっと置いておこうかな、という感じ。そこから先を目指すのであれば単純に指が「こんなんもんでいいだろ」とサボっている感覚を矯正していく必要があります。今で十分速いんだからこんなもんでいいでしょって脳が無意識に思ってるので指のスピードをセーブしてしまっている節があります。それに伴って思考の速度のセーブも後々は解放していかなくてはならんかなとも思っています。ローマ字入力の時の速さに脳が馴れていて「これ以上のスピードで考えたってどうせ入力が追いつかないんだからこれくらいでいいでしょ」とやはりサボってる感覚が自分の中にあるのを感じます。これももうちょっといじめて鍛えてやれば伸び代がありそうです。今の時点で既にローマ字入力の速度は遥かにぶっちぎっておりますので、今までであれば入力スピードに対して思考が渋滞を起こしていてこれから書くことは決まってるのに指が追いつかないので今まさにその瞬間入力して文字として出力している内容は既に考え終わっていることで打ちながら頭のなかで考えているのは800字先の内容みたいな現象がザラにあったんですが、今はそういう渋滞が起こることはまずありえないのでむしろ「思考さん!もう指示してもらったぶんはすべて入力済みですよ!早く次に書くべき内容指示してくれないとこっちも困りますよ!」みたいな状況が発生していますので、やっぱり思考の方をいじめなくてはなりません。今後の課題はそこらへんです。

と、ここまでの話を総合するとですね、親指シフトの恩恵を受けやすいタイプ受けにくいタイプってのはあるのかもしれない気がします。僕は書きながらその場のノリで書くタイプなので、親指シフトの恩恵をどちらかと言えば受けにくいタイプというかフルに活用するには上に挙げたような更なる鍛錬が必要ということです。もっとインスタントに、親指シフトを上達すればしただけ即座に恩恵を受けられるタイプ。それは、頭の中でまずはうんうん唸って考えて考えて、よし、今なら書けそうだ!頭のなかであらかたまとまったぞ!あとは書くだけだ!ってなってから書き始めるタイプです。たぶんそういう手順で文章を書く人はものすごい恩恵を受けられるような気がします。今の僕の段階でも理論上は1時間で1万字の文章を作成できる勘定になるわけですが実際はそこには1万字分の文章を考える苦労も必要なわけで、それに要する時間が1時間以上かかるようであれば1時間1万字は達成できないわけです。しかし、考える時間と入力する時間を別途に設けるタイプ(入力時に思考する割合が比較的少ないタイプ)はその割合が極端であればあるほどキーボードに向かってる時間分だけそのままに文章を生成できるようになるというわけです。僕もたまにそういう順序で文章を書き始める時も巡りあわせによってはなくはないのでその時が来たらまた書き終えたあと別途報告したいと思います。

ツイッターなんかを通じてなんか親指シフト始めよっかなーって蠢いてる人も何人か見かけますが、やはり親指シフトを極めた先にはちょっとローマ字入力では体験できないニューワールドが控えてる予感が僕はひしひしとして参りました。ので、まぁ最初は大変でしょうがみなさん頑張ってください。僕も頑張ります。以上です。

「言ってることはわかるが言い方が気に食わない」を言い換えよう

一般論です。

「言ってることはわかるが言い方が気に食わない」と思う時はまぁそりゃあ生きててある。僕だってある。この言い回しをもっと丁寧に言おうとするなら、僕であれば大体以下のような感じになるだろうか。

 

私はあなたの主張する内容そのものには賛同する。

しかしもしここで私がそのようなつもりで賛同の意を示したならば、あなたはそれを自身の言い方も含め賛同されたものと解釈するのではないかと私は危惧している。

そしてあなたは今後も同じ言い方を繰り返していくのだろうとも私は考えている。

私はそれを良しとしない。

よって私はあなたに賛同しない。

 

たぶん僕が「言ってることはわかるが言い方が気に食わない」と思った時に考えているのはこんなところ。掲題の件については以上で、以下は余談です。

 

ただね、これだけを言うのではケースによっちゃ「お利口にお願いできたなら話を聞いてやらんでもないでちゅよ~?」と同じだったりするので難しい。

たぶんもっとも望ましいのは賛同したい本来の内容の部分だけを自分なりの好ましい「言い方」で言い直したうえで、最後に上に書いた内容をエクスキューズ的に付記して「あなたに賛同したわけじゃないから勘違いしないでよね、いやツンデレとかじゃなくてマジで。マジでマジで。むしろ嫌いじゃボケ。むしろじゃないわ。順当に嫌いじゃ」と伝えることだろう。

一から十まで頭から尻までそのすべてにまるっと賛同することは出来ないなんてことは世の中ザラで、というかほとんどそればっかりで、しかしそれを理由に蔑ろにしてはいけない何かが一から十までの間のどこかの隙間に紛れ込んでいたりするのもまた世の常だ。

ならばその部分のみを抽出してやればいい。

確かにその通りだしそうあるべきだと思う部分があるならばそれは一部を引用するとかいうことではなくて―その要素だけを抜き出してやればいいのであって(或いはその作業は「脱臭する」とか言う方がしっくりくるかもしれない)、つまり駄目出しなんかしてないで粛々と自分にとって好ましい「言い方」を示すより仕方ないのだろう。

なんだか映画やアニメや小説でありがちな「文句があるならお前が作れ」みたいな話に見えるかもしれないが、「作りたいやつが勝手に作ればいい」ではなくて「作れるやつでなんとか作らなきゃダメですよね」っていうふうに考えなくちゃならん領域はみなさんご存知のとおり確かに存在するのだろう。もちろんそうじゃない領域も存在する。その領域の境目は人それぞれだったり人それぞれで済ましちゃダメだったりもする。

 

ただ、これは理想論であって、これを実践するのってすごいめんどくさいよね。めんどくさい気持ちもわかるわー。だからやっぱりやれる奴がやるしかないってことなんだろうけどね。と言ってしまうこの態度も場合によっては当事者意識に欠けるとか無関心だとか非難される種類のものであるのかもしれない。

逆に言えば色んな問題が前進しないのはみんながいちいち自分なりの「言い方」を探してはいられないリソースとか余裕とかの圧倒的な足りなさにそもそもの原因があるとも言えるのかもしれない。しかしそういったリソースや余裕がないという事情があるのは重々承知のうえでもなお、自分なりの言い方を示さずにただ「言ってることはわかるが言い方が気に食わない」とだけ言うのは「そんなに手間暇かけてまで賛同しなくてはならないことだとは私は考えない」と言っているも同じだったりするわけで、それが誰にどう解釈されるかはもうサイコロを振ってみないことにはわからないので万人は常に試され続けているとも言える。

また、このような問題は言い方を換えれば「順当に嫌いじゃ。ただ純粋にそういう言い方しかできないお前の性格が嫌いじゃ」というたったそれだけのことを伝えたい僕の前に立ちはだかる障壁だとも言えるわけで、それはもちろん場合によっては「順当にただあなたのことが好きなんだ」ということを伝えられない障壁にもなりうるということを意味する。

人間なんて好き嫌いがあって当たり前。好き合うも嫌い合うも気兼ねなくやりたい。「僕はあなたが嫌いだ」も「僕はあなたが好きなんだ」も、それ以上でもそれ以下でもなくそのままの意味でただそのままにそれだけを伝えたい。だから、僕とあなたの間に横たわる何かがそこにあるならば、僕はできる限りそれをひとつひとつ丁寧に取り除いていきたいなと思っていて、この文章だってきっとそういうことを言いたかった僕がどうにかそれだけを言おうと四苦八苦した言い方の一つです。タモリは赤塚先生の数多くの作品の一つです。タモリのサングラスはタモリの一部です。タモさんという言葉が出てこなくてタモリのことをサングラさんと呼んでいた田淵くんは私の中学校の同級生です。以上です。