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伝わり方が10割。或いは胎動。

伝わり方が10割だと思っている。

俺だって色々考えているんだけど、色々考えてるなりに何も言えなくってはにかんでいたら何も考えてないやつだと思われて下を向いているよりほかなくなったり、とりあえず口を開いてみて喋り出したら後半「そうじゃないんだ違うんだ」しか言えなくなってたりする。

人は誰もたった一本の時間の矢に跨り人間の口は一つだけ一秒間に一つのことしか喋れない口にした言葉と思考がイコールで結ばれる瞬間はついぞ死ぬまで一秒たりとも訪れない。

バベルの塔なんざわざわざ崩したりなんかしなくたって、そのうちに人間は勝手に涙に溺れたことだったろうに。だって私は貴方の言葉がわかる。しかし私には貴方の考えていることがひとつもわからない。

僕の思考はいつでも僕の頭の中にしかなくって「なるほど、あなたの考えていることはこういうことなのですね」と貴方が僕に言う時、貴方の頭の中に出来上がっている「あなたの考え」それはきっと僕の考えではなく、どうしようもなくどうしたって貴方の考えなのでしょう。

そこで私の考えを正しくわかってくれなんて嘆いたって仕方がない。そこで僕ができる努力はあなたに僕の思っていることをどう考えどう想像してもらえるだろうかと祈るように言葉を紡ぐことだけだ。

一秒間に10も20も光陰だか矢だかの如く現れては立ち消える僕の考えを僕は貴方に伝ええない。時間の矢はたった一本でそれに跨った僕の口から発せられる言葉は一秒間にたったひとつだけ、ひとつ何かを言い果せた時に僕はそれよりもっともっと多くの言えなかったことたちを抱え込み、そして貴方の目も光も届かない底へ底へと沈んでゆく。

宵越しの言葉を持てない僕たちは1秒間にたったひとつの言葉を口から吐き出して、吐き出されたたったひとつの言葉を耳に入れて、そのたった一欠片を真に受けて10も20も光陰だか矢だかの如く勝手に貴方は僕のことを想像して、そうして僕は貴方の目を見れるようになったり見れないようになったりするただそれだけなのだろう。

言葉にできたことなんかあってないようなものとしか思えないほどにそれよりずっと多くの本当にたくさんの言えなかったことたちを、背中を丸めて大事そうに抱え込んだ僕は、頭から真っ逆さまにゆっくりと沈んでゆく。

暗い暗い彼方に沈んでゆく。

僕と貴方は果たして言葉でつながるか。それはきっと沈んだ底でわかる。

伝わり方が10割。或いは胎動。

人間関係の調整における「待つ」という戦略の重要性と難しさ

ほんとに備忘録メモ。

掲題にあるような内容・方面での面倒が最近なんかすげえ多くてだるいんだけど。

色んな人間が噛んでてそれぞれにそれぞれの思惑があったり利害が一致したりしなかったり、大事だと思うものがそもそもバラバラだったりみたいなそういう面倒があって、それはまぁどこにでもある面倒なのだけど。

僕はこの手の揉め事に対して「待つ」という選択をすごく大事にする。それは例えば「今日あの人を説得しても絶対に聞き入れないだろうが、一週間後であれば、別のあの人がその間にこういう動きを勝手にするであろうから、そうなればあの人も説得に耳を傾けざるをえないだろう」みたいなそういう判断だ。

「時間が解決してくれるさ」という言葉はいかにも胡散臭く、僕だってあまり信用していない言葉ではあるのだけれど、この手の話の際には僕は割りと信用していて、どちらかというとその信用は「時間くらいしか解決してくれそうにない」というニュアンスであったりする。

そこにいる登場人物全員が本当にものわかりのいい合理的な人物ばかりであるのなら、面倒な駆け引きなど打つ必要もない。でかいテーブルでも囲んで一同に介してもっとも妥当な落とし所に着地すればいいだけだ。それができればどんなにラクか。それができないから困ってる。

なので僕は時間の経過と、それに伴う状況とか各人の心境の変化とかを、すごく大事に要素の一つとして考える。寝て起きて、寝る前とまったく同じ心持ちでいるのって人間なかなか難しいのだ。そういうところの気の緩みも考慮して、使える期間はできるだけそういう風に使って、その後でどう動くかを考えたい。どこを啄けばどうなるか、どこを軽んじればどうなるか。

みたいなのが僕の基本スタンスなのだけど、けっこうこの感じってイヤな人にはイヤらしくって困る。けっこうみんな待たずに策を弄したがる。誰かに一か八か働きかけたがる。どうなるかはわからないけど、こっちの都合良いように動いてくれるかもしれないとかあっけらかんと言う。僕はそれが悪い方に転んだらどうするんだってタイプなのだ。

もちろん、それでうまくいくような関係性が関係者のなかにあればそれでいいのだろうけど、そうじゃないのに勝手に言うんだからどういうことなんだと僕はそういう時いつも甚だ疑問だ。

どうもそういう時の彼らはボールを自分がずっと持っているのが苦しいのではないかと思う。だから誰かに働きかけて、その誰かにボールを明け渡してしまう。その後どうなるかはボールを持ってる相手次第、どう転んだって自分のせいじゃない。

逆の言い方をすれば、ボールを絶対に渡したくないんだとも言える。黙っていれば彼らがどうするかわからないボールを、自分が働きかけることで自分の手元に戻して、あとは彼らがどこをどう走るか次第、俺がパスを出せるところに走り込めるかどうかは彼ら次第、どう転んだって自分のせいじゃない。

きっとそういう調子で彼らは待つことを拒むのかな、と僕は想像している。

しかし、それでもまぁ待つことのやってられなさはわかったうえでなお、僕は、人間関係とか政治的な要素を含むシーンでは、紅白のふたつに分かれる以上の複雑さを持つ事態には「待つ」ってやつがすげえ重要だと思っているのだ。

同じことを言うのでも、今日言うのと明日言うのでは本当に大違いだったりする。そういうの大事にしたい。一方で、時間の経過を待つ、というのは、そういう風にどんだけ俯瞰でえらそうぶって考えてる時でも、待とうとした瞬間、時間は誰にだって平等なものだから俯瞰を捨てざるをえず、いち当事者としてもんもんと時が過ぎるのを待つより仕方ないわけで、だから待つのは大変なんだぞというところも含めて。

よりもっと「待つ」を上手に使える人間になりてえなぁ。以上です。

旬の食べ物

やたらめったらにいちいち感傷的な文章を書く、何について語らせても魔法みたいに辛気臭くなるラサさんという人がいる。ある日、彼が、そういえばスイカを食べる機会がないなぁみたいなことをツイッターでまさにつぶやいていたのを見かけたので、私は無意味にスイカを食べることを強く勧めた。私は「なんでそこに執着するの?」というようなところで無意味に頑なになるのをなぜかすごく面白いことだと思っていて、例えば人が鼻歌を歌っていると突然に「今のBメロをもう一回歌ってくれ」と懇願し、そんなに強く言われると大抵の人はなんだか気味が悪くて恥ずかしいような気もしてきて断ろうとしてくるのだが私はそれに諦めることなく粘り強く交渉を続け、必要とあらば土下座でもする。意味は特にない。そのいつもの調子で私はラサさんに「スイカ超おいしいよ!」とお前に言われるまでもなく知ってる内容を言ってスイカを激推しし、そしてラサさんはあっさりとスイカを食べる決心を固めた。やんわり断られたところに「絶対スイカ食べた方がいい」と15回くらい連続でリプライするつもりでいた私は少々がっかりしたが、スイカを食べると言われてしまった手前、もう私にはどうにもできない。せめてもの腹いせにと感想文4000字くらい書いてくれと言ったがそちらも心地よく快諾されてしまったため、もう私には立つ瀬がなく、こうなってしまっては私としても9月になっても一向にラサさんからスイカについての言及がない可能性に賭けるほかない。私が15回にも及ぶ糞うざいリプライを彼に送りつけるにはもうその道しか残されていないのだ。しかし、そんな一縷の望みを抱く私を嘲笑うかの如く、スイカについて4000文字書かれた文章はアップされてしまった。

示唆に富んだ内容であるため、詳細については各自原文にあたって頂ければと思うが、彼のスイカを食べたにあたっての文章は最後、「すいかを食べてなくても、すいかを食べてもわびしい気持ちになってしまうのはもったいない性格だなあ、とも思う。」という一文で結ばれている。しかし私は独善的な人間なのでわびしい気持ちになったという彼の言葉を見てもなお、「ああ、いいことをしたなぁ」という気分になっていた。私は極力自分の過去の振る舞いをいいことに分類していく所存だ。私の生きやすさが問題だ。あと、一人暮らしで一玉買うのはやりすぎだと思った。

私ももともと一人暮らしをしている期間がそれなりに長くあった人間なのだが、当時の私はほとんどコンビニのあらびきポークフランクとポテトチップスとビール以外を口にすることがなかった。それでもそれなりに元気で毎日飛んだり跳ねたりも出来たので人体すごいなぁと思って深くは考えずにいた。それで、結婚して以降は妻が料理を作ってくれるようになったので人間らしいものを食べる機会は増えていくのだが、それまで私は食べ物には旬があるということをあんまりわかっていなかった。あるらしいとは聞いていたが、ほんとにあるんだーという感じだ。冬になると白菜が安くてうまいとかあんまり知らなかった。果物の旬とかも、これは未だにあんまり知らない。それでも、ポテトチップスの新じゃがと秋味のビールで秋を察知することしかできなかった昔に比べれば、徐々にではあるが食うという行為を通して季節を感じられる機会は増えたのかなと思う。そこはもう役割分担で私は他の家事を頑張るんでという言い訳で自分がキッチンに立つことはほとんどないのだけれど、妻が油断するといっつも同じ献立を作っちゃうーみたいなことを言うので、食いたいものを言うくらいはできるぞと思って、ツイッターで料理の話題なんかを見かけると「これ食いたい」という意思表示でリツイートしたりしている。私のツイッターは妻の監視下にあるのだ。なので私は妻にこれ今度作ってという意思表示でツイッターで飯の話をする。すべてはズイショ家の食卓のためであるので、ゆめゆめ飯テロなどと自意識過剰なことは言わぬようフォロワー各位に関してはあい頼んだ。それで、季節というものを昔よりかはいくらか意識するようになって例えば今年の春は菜の花を食べるようにもなった。あれがなかなかほのかな苦味がビールと合って酒のつまみにちょうどいいのだ。来年以降も毎年食べて、そのうちには菜の花を待つついでに春を待てるようになりたい。夏はスイカを食うし、昨日はサンマを食べた。秋のサンマはやっぱりうまいというよりかは、サンマを食うと秋だなぁという感じに俺の身体を仕上げたい。冬になればカンパチなんかがうまいし、俺の一番好きなフルーツである八朔なんかも出てくる。八朔は俺の一番好きなフルーツだが、一人暮らしをしている数年の間、自分で買って一人で食べたことはただの一度もないので、それはやはり、食とか旬というものが自分の中ではとても些細などうでもいい事柄であるということだ。果たしてそうだろうか。きっとそうではない。なんというか向き不向きの問題なのだと思う。人が買ってきてくれなければ食べないということは所詮その程度の好きなのか、俺は大してそこまで好きなわけではないのだと勝手に割りきっていたのだが、結局そこにあるのは向き不向きなのだなと、最近はそういう食を嗜む人に触れる機会も増えてそう考えられるようになってきた。食べた時に幸福感を得られるただそれだけでは、そのような幸福感のあるものを食べられるようにはならないのだ。そこにはもっとある種の貪欲さというか、計画性というか、中長期的な目線が必要で、そういう素質を持てるか持てないかはもう完全に個人差で、人それぞれで、つまり役割分担である。そういうことをやれるやつが「そろそろサンマがうまいぞ」とか言うべきであり、俺はそれに従うばかりだ。俺にはそれがどうにもできない。9月になってまた一枚カレンダーを捲った時に上手にそういうことを考えることが出来ない。こればっかりは自力ではどうにもならない。だから私はせめてもの思いで洗濯物を干したり畳んだり食器を洗ったりもしている。私に旬を知る力はない。

松本人志が過去に作ったビジュアルバムというコントビデオがあり、その中に『古賀』という話がある。板尾創路が演じる古賀という男は著しく共感能力に欠ける男で、人と円滑なコミュニケーションを取ることができず、それを苦にも思っていないキャラクターだ。古賀は友人数人でスカイダイビングに行く。そして、飛んだらすぐ帰る。他のメンバーにそれを伝えるでもなく、さっさと帰ってしまう。そうして古賀が行方不明になったものだから、他の一同は大慌て。古賀の死も覚悟したわけで、事実はわからぬまま、「古賀がどこにもいない」という情報を両親に届けるべく古賀の家を参った。そこに現れたのは古賀。なんの変哲もないいつもどおりの古賀だ。古賀の不可解とも言える口頭に呆れる一同を前にしても古賀は悪びれる様子もなく「いやだって、その後メシ行くとか言うてなかったし」と語る。互いの話は平行線のまま終わるが、最後にひとつだけオチがある。スカイダイビングでのミス(と本人が思っているかは知らないが)をしてから少し、落ち込んでいた古賀のもとに一本の電話が届く。それを受けて古賀は「スキューバ?行く行く~」と返す。そのリアリティがなんか僕はとても良いと思う。以上です。