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ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

ズイショ

これを読んで、あー俺もなんかここらへんの話したいな~と思ったんだけど、いざエディタを開くと「ほんとか?ほんとに話したいのか俺?」ってなってきました。

何より、そもそも、面倒なことは、ズイショは、ブログ名であり、ブロガー名でもある、ということだ。

このブログがなぜ、「ズイショの日記」でも、「ズイショのひとりごと」でも、「ズイショの部屋」でもなく、「ズイショ」なのか、そしてなぜ私はズイショなのか、そもそも私はズイショなのか、よくわからない。

 

私をズイショと呼ぶ人がいます。

だから私はズイショだ。

と言っているのは、私ではなく、ズイショだ。

私はズイショだ。

そう言っているのはズイショです。

ズイショが、私はズイショだ、というのは当然のことです。

だって、ズイショは、ズイショなのですから。

だから、私はズイショだ、と言っているのはズイショです。

私は、ズイショですか?

と今書いたのは私です。

私は、ズイショです。

と今書いたのは私です。

私はズイショですか?

 

私は、今、こうして、モニタの前でキーボードを叩いている。

では、ズイショは、モニタの前でキーボードを叩いていますか?

いいえ、ズイショは、キーボードを叩いていません。

キーボードを叩いているのは、私です。

このブログは、ズイショです。

このブログは、ズイショが書いています。

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます。

キーボードを叩いているのは、私です。

従って、私がズイショということで、よろしいでしょうか?

よろしいですね?

私がズイショです。

と言っているのは、ズイショです。

ズイショが、私はズイショだ、と言うのは当然のことです。

ズイショは、ズイショだからです。

だから、私がズイショだ、と言っているズイショは、ズイショです。

 

私はズイショです。

と言っているのは、ズイショです。

このブログは、ズイショです。

このブログを書いているブロガーはズイショです。

ブログが主で、ブロガーが従と考えた場合、ズイショが主で、ズイショが従です。

逆に、ブログが従で、ブロガーこそが主だと考えた場合、一転してズイショが主で、ズイショが従、ということになります。

考え方次第では、ズイショが主とも言えるしズイショが従だとも言えます。

私はズイショです。

ということは私が主とも言えるし、私が従だとも言えるはずです。

しかし、本当にそうでしょうか?

私にはどうにもズイショが主で、私が従であるような気がしてなりません。

私はズイショです。

私はズイショですか?

私はズイショです。

私にはどうにもズイショが主で、私が従であるような気がしてなりません。

では、私はズイショではないということでしょうか?

このブログはズイショです。

このブログを書いているのはズイショです。

私はズイショです。

私はこの文章を書いている。

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます。

私はズイショです。

私の人生はズイショの人生ですか?

と、書いているのは私です。

私は主ですか? 従ですか? 私はズイショですか?

座禅体験感想文

座禅ってあるじゃないですか、お坊さんにはただこう、座り込んでじっとしてるっていう座禅っていう修行があるらしいんですけど、それでお坊さんは微動だにしないほどえらいみたいな風潮があるらしいんですね。駆け出しの坊主はだからたぶんすげえ振動するんですよ、なんだったら振動するどころかそもそもマナーモードにするの忘れてて木琴のメロディを口ずさむお坊さんもいるらしいんですけど。逆にどうやんの?っていう。もはやそれは逆でもなんでもないだろって話なんですけど、それが徐々に徳を積んでえらくなっていくにつれてどんどん微動だにしなくなる。僕あんまり仏教のこととか詳しくないんで本当に動いてないわけじゃないんだろと勝手に思ってて、むしろ止まってるように見えて実はめっちゃ振動してるみたいな超微細な震動でなんでも切り裂くブレードとかを操れるようになったりとかそういうことを即身仏っていうのかなと思ってたんですけど、そうではなくて本当に動かないでじっとしてるだけらしいですね。だからたぶんお坊さんの最終目標っていうのは分子運動の停止だと思うんですよね、マイナス273℃。自力でマイナス273℃に到達して自身だけではなく触れるものすべてを静止させる能力、その力を得たくてお坊さんは厳しい修行に励んでいるんだなぁ、えらいなぁと思いました。なんでこの数行の間に『ARMS』で得た知識を披露することになったのか僕にもよくわかりません。そういうわけでそんな座禅をお試しで体験できるというお寺がなんかありましたので行ってきました、今回はその感想文です。一番びっくりしたのはあのゆらゆらした時に背中を叩いてくるやつ、あれずっとなんか勝手に卒塔婆だと思ってたけどぜんぜん卒塔婆じゃなかった。

訪れたのはこちら、なんか禅宗のすごいお寺らしいです。儲かってはるな~って感じで大きくて広かったです。お寺の紹介終わり。

予約していた時間に社務所に行くと担当の坊さんがやってきてまずは移動みたいな感じになりました。そりゃそうね、社務所は座禅するような雰囲気ではなかったんでね、なんか制服のお姉さんとかが普通にデスクワークしてたんでここで座禅するのはちょっとなって感じです。絶対座禅してる途中でトースターが焼き上がってチーンって音と共にパンが飛ぶみたいな悪戯されるわ俺ならするわ、だから座禅する場所ここじゃなくてよかった~と思いながらお坊さんの後ろをてくてく歩いてたら気づいたんですけど、最近のお坊さんの服ってすごいんですね、めちゃめちゃ夏仕様だった。なんかネグリジェみたいなのを着ていて。いや、あのすいません、なんかメッシュ?わかんないけどちょっと透けてる涼しそうな素材ってことを言いたかったんですけど、ネグリジェみたいなのを着ていてなんて言い方をしたら完全にネグリジェ着た坊さんを想像しちゃいますよね。僕も想像しました、ネグリジェでブラジャーとパンティ透けて見えてる抱きまくらにプリントされる時用のポーズの坊さん。マリリン・モンローと同じ位置にホクロがある。その日僕らを相手してくれた実際の坊さんは全然そんなんじゃなくてなんか涼し気な素材の袈裟をまとった若いシュッとしたお坊さんでした。

それでしばらくしたらなんか建物に到着しました。座禅をするお堂だから、ぜ、ぜんどう? 「ぜんどう」って打ったら変換候補に「禅堂」って出てきたのでたぶん僕が辿り着いたのは禅堂だったのではないかと思います。はい、このままググらずに行きますけども、結構広いところでね、あー僕今から禅堂の内部がどんな雰囲気なのか書こうと思ったんですけど俺こういう風景描写みたいなの全然こう小綺麗な感じでできねえのな、まずね、大きさはね、大会議室くらい。あの、区民センターみたいなところ行ってすいません、20人くらいでボードゲームしたいんですけどって言ったら職員さんがじゃあ今空いてるお部屋順番に見ていきましょうかって言って一番最初に案内してくれるところ、「あー、これはちょっと大きすぎますよねあははは」つったら向こうも「そうですよねー、ここ100人とか入るんでさすがに大きいですよね~」とか言ってじゃあ何で見せたの?ってなるあれくらいの大きさ、ボドゲって俺言ったよね?わかんないけどこれシンポジウムとかやる時用のやつでしょ?そもそもシンポジウムって何?っていうあれくらいの大きさ。で、天井はすごい高い。あんま覚えてないけど、2階建ての吹き抜けくらいの高さはあったね。だからお母さん連れてきたら絶対「掃除大変じゃん!」って言うやつ。モデルルームで吹き抜けの家とか入った時絶対うちのお母さん言ってたから、「掃除大変じゃん!」って。そのせいで僕友達の家とか遊びに行って吹き抜けだったりすると吹き抜けの天井の角とかすげえ見る癖ついちゃって、あーやっぱ蜘蛛の巣みたいなの張ってんな~みたいなのすげえ見るようになった。で、すげえ暗いのね、自然光が差さないでもないけど~?くらいの、かなり薄暗い感じ、全然真っ暗ってほどではないけどゲームボーイやってたら絶対お母さんに怒られるくらいには暗い。「目ぇ悪くなるよ!」って言われるやつ。で、うるさいなぁとか思いながらも子供だから言うこと聞かずにゲームするんだけど何年も経つとやっぱ本当に目ぇ悪くなるのね、それでメガネ買いに行く車の中でお母さんが「だから目ぇ悪くなるって言ったしょ」ってすげえ言うの。人間ってそんなに連続で「だから言ったじゃん」って言えるもんなの!?ってびっくりするくらいずっと言ってて、すごいよね、数年越しの「だから言ったじゃん」。そんな感じの大きなお堂に、長椅子というにはちょいと脚が長い台がずらっと並んでて、高さは俺の腰よりちょっと高いかな、この上に座って座禅をするわけだけどお尻を乗せると俺の足が地面には着かないくらいの高さだから決してそんな高いってほどではないんだけどお母さんがこの上に立つって話になると念のため俺揺れないように手で支えるから、っていうか俺が立つから、もうお母さん若くないんだから、くらいのそれくらいの感じ。尽くお母さん登場しましたけどね、ポーカーでいうところのスリーカード決めましたけど実はうちのお母さん一時期区民センターの受付のバイトしてたから実質フォーカードです。

さて、そういうわけで遂に座禅体験がスタートします。まずはクールビズみたいな格好のお坊さんが簡単な説明をしてくれます。こういう姿勢を作ってくださーい、とか視線はここらへんっすよーとか、動いたらしばきますよーとか、座禅始まったら俺も喋らんからねー、だからチーンって鳴らす合図覚えてねーとかなんかそんなの。よくわかんないけど、座禅っていうのはお釈迦様のポーズの真似っ子らしいですね、まずは形から真似るってのはなんか仏教の基本らしいですね、いやめっちゃテキトーに言うてますけど。かつて甲本ヒロトは「ジョーにあこがれました。ジョーのようになりたいと思いました。ジョーのようになる、それは 彼の音楽やファッションを真似る事じゃなく誰の真似もしないことでした」なんて名言を残しているわけですけど、仏教は真似るんだ~ふ~んなんて思いながらね、俺に釈迦のポーズ真似しろっ言うんだ~ふ~んみたいなね、俺は別にいいけどYAZAWAはなんていうかな?とか思いながら卒塔婆でシバカれるの嫌なんで大人しく座禅を組むわけですけど。いや、自分で体験したいですって言って来たんだからそりゃちゃんと従えよってだけの話なんですけどね。この流れで従わないとか内田裕也じゃねえんだから。ちなみに僕が卒塔婆だと思っていたそれは正式名称は警策と呼ばれる棒だったんですけど、いや、俗称が卒塔婆ってわけでもないんですけど、なんか罰ではなく励ましの意味で叩くんですよみたいな話をしていました。それを聞いた僕はこの座禅の話に関しては本当にそうなんだろうけど、みんなそう言うんだよな、と思った。あと音は大きいけどそんなに痛くないんですよ、とも言っていましたがそれもみんなそう言う、と思った。桑田真澄の見解が気になるところです。

それで、遂に実際の座禅が始まるわけですけど、これが結構すごいんですよ。僕もともと、座禅のことはよくわからないけど、変性意識?トランス?みたいなものは結構入りやすいタイプなのかなぁという自覚はあるんですけど、座禅がそういう感じを目指すやつで良かったのかちょっと怪しいんでもしかしたら全然間違ったことやってたのかもしれないんですけど、しかしスーッと入ることができた。何せ環境がいいんですよね。ほとんどお母さんの話しかしてなかったんでどれくらい伝わるかわからないんですけど、程よい薄暗さで空間とか空気とかを十分に感じられるがらんどうさがあって、鳥の声とか木々の葉が揺れる音とかがちょうどいい具合に遠くから聞こえてくる感じとか、なかなか良いもんなんですよ。それでボーッとして感じるままにしておくと警策でしばこっかなーって坊さんが目の前を通り過ぎていくのだぼんやり見えて、それで身が引き締まるっていうとまた違うんだけど、おるな~と感じる対象がいるのも大事な気がする。一人でやるよりはそういうのあった方が良い気はする。で、自分にはそれなりに入ってるつもりなんだけど、本場の坊さんから見てちゃんと入ってる風だったのかなぁみたいなのはありますよね。10分2セットの20分とかやってたみたいなんですけど、幸いかわからんけど一回もしばかれずに済みました。こういう合図出してくれたら体験がてらにしばきますよーっていうのもあったんですけど、それもなぁ、こっちから手を抜くみたいでなぁと思って僕はそうしなかったんですけど、しばかれなかったのは本当にイケてたからなのかお客様基準でまぁええんちゃうかレベルだったのかという疑問は残ります。あの、年上の従兄弟が麻雀教えてくれた時に最初はまぁ手加減したるわみたいな感じで一緒に卓を囲むんですけど、それなりにルールを覚えた今になって考えると、そんなお前ごとき素人の麻雀に手加減も糞もあるのか?と思うんですけど真相は永遠に闇の中みたいな感覚が残りますよね。この話を嫁にしたらそもそも嫁が行きたいというので体験しに来てたわけですけど「じゃあ今度は丸一日ガッツリみたいなガチのやつに行こう」みたいなこと言われましたけど、全然行きたくないなと思った。ちなみにあの警策、他の参加者で叩かれる人がいてたんですけど、右3回左3回の計6回、半ダースも叩くんですね。ダースで数えると途端に頭おかしい兵士が殺さなくちゃならない敵の数を確認してるみたいな感じになるのなんでなんですかね。ほんで、その3回3回って結構ゆったりのペースで叩くんかなって思ってたんですよ、うんたったパンうんたったパンうんたったパンくらいのペースかなと勝手に思ってたらパンパパーン!って叩いてたのでそれすげえビビった。叩かれた本人はもっとびっくりしただろうなと思った。あとその時、スーパー銭湯で股間をタオルで叩くマリリン・モンローと同じ位置にホクロがある裸のおっさんのイメージが脳内に想起されてたのでやっぱ俺別に全然入っていなかったんじゃないかって気もする。

座禅を終えたあとは入ってる感じが丸一日続いて大変でした。僕はいっつも視覚にくるんですよね。視界に入ってるものの中で動いてるものがすげえ意識されるんですよ。なんか、ロボの視界の映像で複数いるエネミーをピピピッとロックオンしてる感じわかります?あれに近い感じで僕が視界にある動いてるものすべてに意識を同時に向けてる感じがわかるんですよ。自分の意識が「わかる」っていうのも変な感じかもしれませんが、なんかそんな感じです。すげえ疲れるんだ。普段仕事してたりこうやって文章書いててもたまに間違えて入っちゃうんでむしろ普段は気をつけてたりすらする。あんまりそういう感覚になることは普段ないという嫁は耳にくるって言ってました。ドルビーが半端無くて世界がサラウンドになるらしいです。すげーって言って喜んでました。これが座禅で目指すべき正しい効能なのかは全然わかりませんが、今回感じたのはそんなところでした。

そんな感じで僕は懲り懲りだよ~って感じではあるんですが嫁はずいぶん楽しかったようなので、もしかするとまた機会があれば行くことになるかもしれません。嫁は実は家でひとり試したりもしているのだけれども、禅堂の時のような入る感覚はなかなか得られないとのこと。じゃあ俺も付きあおうか~って思ってamazon警策検索したらけっこういい値段するのな。ちょっといいサラウンドのヘッドホンが買える。以上です。 

 

『ニンフォマニアック』感想文

 そのうち観ようそのうち観ようと思ってたのを遂に観ました。

ニンフォマニアック Vol.1/Vol.2 2枚組(Vol.1&Vol.2) [DVD]

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トリアーという映画監督の作品を観るのは『アンチクライスト』に続いて二回目だったんだけど*1、あーなんか俺この監督ダメだわー、俺この監督が面白いと思ってやってること全然面白いと思わないわーって思った。

で、なんかさ、トリアーにかぎらずなんだけど、たぶん日本だと園子温の映画なんかの話になった時に「あるある!めっちゃわかる!」って思ってくれる人きっといるだろうと思うんだけど、過激な性描写とか暴力描写とかさ、そういうの取り扱った映画に対して「俺は全然面白いと思わなかったわー」って言った時にさ、なんか「あーまぁ好き嫌い分かれるよね、結構過激でショッキングな描写多いしね、合う合わないとかあるの分かるよ、そういうのに抵抗ない人なんかは結構楽しめるんだけどね」みたいな感じにされることあるじゃないですか。いや、別にそういうの苦手とか全然言ってませんやん、そんな変な嫌悪感とかなく普通に一本の映画としてフラットに見てそのうえで俺これ全然面白いと思わんって言ってんの、ちゃんと人の話聞けよみたいなのあるじゃないですか。別にいいんですよ、なんでも面白いと思う人もいれば面白くないと思う人もいて、それはみんな好きにすればいいじゃんと思うんだけど、そこをなんか「面白がるために必要な能力がまだちょっとあなたには揃ってませんでしたね、揃ってたら絶対面白いと思うはずなんだけど、いやーもったいない」みたいな雰囲気にされることってのがたまにあって、たぶんこれもなんか油断するとそんな感じにされそうな映画だと思った。ので、そうじゃねえからって思いながら書かなくてはならない感想文です。

トリアーというおじさんは、なんか一言でいうと大袈裟な人だなと思った。なんか普遍的なテーマとして描けばいいものをなんか俺だけが知ってる俺が世界で初めて見つけた大発見みたいな調子で描く人に思える。言いたいことはわかるけど言い方が気に食わない、と言うと我ながら大人げない奴だなと思うんですけど、映画って「言い方」じゃないですか。だから映画に対しては声を大にして言い方が気に食わないって言っていいと思うんですけど、僕はトリアーという人間の持つ問題意識、それがはっきり何なんだという話は置いておきますけど問題意識全般には共感できるところがあるし僕なりに思うところもある。でもトリアーの言い方が気に食わない。そんな言い方するもんじゃないと思ったんです。

さて、この作品の内容をざっくりと紹介するなら「色情狂であるジョーという女性の半生を描いた物語」みたいな感じになると思うんですけど、僕は果たして本当にそうなのか?ってところにだいぶ序盤から疑問を持ちました。そもそもがフィクションであるところの映画にこういう言い方をするのも変なのかもしれませんが、この映画内で描かれているジョーの半生というのはありのままの事実に即したジョーの半生なのでしょうか? 俺絶対そんなことないよなぁという風に受け取りながら観てたんですよね。というのも、この映画は作中で語られる全てのエピソードを経た後の「今のジョー」によって語られるという形式を取っているからです。その時点で僕は構造的に「今のジョー」と「これまでの過去のジョー」を単純に交互に映しているという形式だとはちょっと認識しにくかったんです。僕にとってこれは「ジョーの半生を描いた物語」ではなく、あくまで「ジョージョーなりに解釈したジョーの半生を語る物語」であるように思われました。ありのままのジョーの半生ではなく、ジョーによって編集されたジョーの言い分であると思って観る方が僕には自然に思えたので、そのように観ました。別にこれはジョーが虚言癖を持っていて話を盛っているとか言いたいわけではなく、描かれているジョーのエピソードひとつひとつはジョーが実際に体験したことで事実に相違ないのでしょうが、それがある一人の人間の視点と供述をもとに編集と演出が施されたうえで展開されている限りにおいて、そこには意図とか、作為とか、志向性があるわけで、それはありのままとはちょっと違うものであるはずだよと聞く側としては眉に唾つけて臨まなくちゃならんのではないかと思うわけです。何言ってんだよ、映画に意図とか作為とか志向性があるなんて当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、その志向性を「監督のものですよ」とせずに「ジョー本人はこう言ってるんですよ」という見せ方をするのは、うーん、なんかずるくない?と僕は思ったんですけど、どうなんでしょうか。

もしこれがジョーによって語られるという形式ではなく、例えばジョーのモノローグが要所で挟まれるにせよ「ジョーとおっさんの対話」という形式を持たずにジョーの幼少期から順繰りにジョーの半生を描き最後におっさんと出会ったみたいな形式であったならば、それはもう完全に「監督が監督なりに追いかけた監督の志向性を通して描かれたジョーの半生」という形のものに見えると思うんですけど、その場合観る側の印象はまた全然変わってくると思うんですよね。それがもっと良い印象になるかもっと悪い印象になるかはまぁ人それぞれだと思うんですけど。ていうか、もしそういう形式だったらまた全然違った話・言い方になってたんじゃねえかなと思うんだけど。ジョーによる語りという形式だからこそこういう話にすることができたんだろうし、逆に言えばそういう語りという形式を採用しなくちゃならないほどに、こういう話を監督はやりたくてしかたなかったんだろう、じゃあそのやりたくて仕方なかった動機はなんなの? その動機はジョージョーのように生きた動機とは全く別のところにあるはずなんだけど、そこを極力意識させないような作りになっているのはどうしてなの?みたいなことを思って僕は終始もやもやしていたわけです。

身も蓋もない言い方をすると、ジョー本人の語りという形式にすることによってなんかこう、文句を言いにくくしてない?と思うんですよ。「どうも、ジョーというひとりの女の人生を考えて映画にしてみました、トリアーです!」っていう形式であれば「トリアーお前、あのさー」って言いたくなるところ、「ジョーもねー、色々あったらしいですわー、本人もこう言ってるみたいですわ。なぁ、ジョー? な? 大変だったな? な?」って見せ方にすることで「うん、まぁ、せやなぁ、ジョーも、まぁ、わかるで?」って感じにしようとしてない?って思っちゃったんですよ。その狙い自体は僕のこの歯切れの悪い感想文を見ても大いに成功してるってことだと思うんですけど、それを成功させるのは良いことなのか、悪いことなのか、誰が得してるのかが僕にはわからねえなと思うわけです。

更にここから穿った見方が続きます。

この作品の最後にあるのは絶望か否かって話にしちゃうと、まずそこで異論もあったりするとは思うんですけど、僕には絶望に見えたので、まずその前提で進めさせて欲しいんですけど、世の中に、絶望は、ある。でも、その絶望ってこういう形か?って思うんですよ。絶望の存在の仕方ってこんなんだろうか?と思うんですよ。僕が2作品しか観てないけど、「トリアーって大袈裟な人だな」って思うのはそういう感じ。色情狂に限らず、ただ望むままに生きようとした時、ただそれだけなのにどうにも立ち行かないという絶望は世の中にたしかにあるとは思うんですけど、それってこんなふうな絶望だろうかと僕は疑問に思う。この作品にある絶望は確かに現実世界にあるそれとよく似た形ではあるけれども、それは現実にあるそれを描いたものである以上にトリアーというおっさんが「世の中にはこういう絶望があるはずだ!あってくれないと困る!俺そういう絶望大好き!」と念じてやまない願望という要素の方が成分としては多いのではないか、だからこそ大袈裟に見えるのではないかと僕には思えてくるんです。もちろん願望が映画に詰まっていることそれ自体は僕は別にそれはそれで構わないと思うんですけど、「これが僕の願望です」と言うことと「こういうのありますよね、ねー、よっしゃ、みんなもあるって言ってる、よかったー俺こういうのあって欲しいと思ってたんだよねー、やっぱあるんだー、よかったー」と願望を満たすのはまた全然違う話のはずです。そして、トリアーがやりたがるのって後者だよなと思う。だから僕は「大袈裟だな」と思うんですけど、たぶんそう言うと「はー、ジョーの大変さ全然わかってない」みたいな感じに思われるんだろうなとも思う。それでまた「トリアーずるいなー」って気がしてくる。じゃあ僕はジョーの大変さ全然わかってないってことでもいいですけど、トリアーだって別にジョーみたいな生き方の苦悩をわかってるからそうしてるんじゃなくてその方が興奮するからそうしてるだけじゃないんすかね、とか思うわけです。

この感想を書き終わったらネット上の色んな人の感想を読んで歩こうかなと思うんですけど、僕はこの映画に肯定的な印象を抱く人もまぁたくさんいるんだろうなというのはなんとなく想像できる。ジョーという人間の生き方に色んな形で共感したり痛快に感じる人がいてたりするんだろうなと思う。でも、トリアーさんのやってることって「今こういうふうに絶望している人がいるんだ」って寄り添おうとしてるんじゃなくて、「こういう人にはこんくらい絶望していて欲しい」であるようにどうしても僕には見えるんですよ。そういう風に思って作らないとああいう形にはならんだろと思うんですけど。ここらへん、みんなどう考えてるんだろみたいなのが俺はすごい気になる。それはそれ、これはこれなのだろうか。ジョーという生き方がかっこ良ければ、ジョーという抗い方が美しければ、ジョーがなぜジョーのような生き方をする役割を創り手に担わされたかはどうでもいいのだろうか。神が色んな種類の人間を作ることに理由はないけれど、物語の創り手は、神ではなく人間です。ならばそこに理由はあるはずで、僕はその理由をすごく大事な要素だと思っているのだけれど。それとも僕の考えてるトリアーがジョーというキャラクターを創った動機が的外れというだけなのだろうか。

最初は、ジョーの問題は色情狂それ自体にあるのではなくって、自分の人生の語り方にあるのではないかとも思った。もし、ジョーが色情狂でなかったとしても、どのみち何やかんやあって最後童貞のおっさんに半生を語るようなことになっていたのではないか。いや、しかし、色情狂という因果があってこそ、ジョーはあのようにしか自分の人生を語らざるをえないのだと考えるほうが自然なのだろうか。とか、色々考えてたんですけど、結局どうあれあのようにジョーが語ることを選ばせたのは、トリアーというおっさんだ、と考えるに至った結果、なんかこんなような感想になった。

ジョーのような生き方について人と共にポジティブに考え語ることはたぶん僕にもできるしそれはきっと面白いだろうとは思うのだけれど、『ニンフォマニアック』という作品を肯定的に語ることはどうも僕には難しい。そこまでやってしまうと、僕は知らず知らずのうちにまた別の「なんだかいやなもの」に加担してしまうような気がしてしまう。感想文を書き終えた果てに残ったのは、なんだか岡田斗司夫と相撲を取った後の童貞のような疲労感です。以上です。

*1:その時の感想文はこんな感じ