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「普通のおじさん」はどこにいる?

こちらのオフ会感想エントリみたいなのになんか僕の名前が出てきてますけど、大体おないどしで最年少だったってことでチェコ好きさん(id:aniram-czech)とニコイチみたいな扱いで登場してて、ちょっとキキとララみたいなってますけども。いや良いふうに言い過ぎだろアラサーって言われてんじゃねえかって話なんですけど。言うてますけどもね。

それで、まぁ『ぼくらのクローゼット』の集いに参加してたわけですけど、僕も言うてる間に来年三十路ってことで完全におじさんに片足突っ込んでるわけでしてそんな中であんだけ年長の人らに相手にしてもらって自分が一番若けぇみたいな場も年々減る一方ですからちょっと無茶苦茶なこと言ったって「まったく仕方ねえなこの小僧は」で済ましてもらえる機会ってのはなかなか貴重なもんで大変楽しくお喋りさせて頂きました。それで、シロクマ先生がなんか書いてるもんだから「あ、書いていいやつなんだ、なら書こ」と思っておっとり刀で筆を執ったわけですけれども、よくよく考えたらあんま書きたいことないやなと思って。楽しかったです。終わり。まる。ってところではあるんですけど折角なので「普通のおじさん」について考えてることなんか書こうかなと思います。今から書きます。まる。

「普通のおじさん」は普通のはずなのに何だか希少種でなかなか見かけることができず観測できるのはパンチのきいたおじさんばかりでどういうことだってばよ!って火影を目指してる間にいつの間にか自分もおじさんになりつつあるわけですが、それもそのはずで普通のおじさんは大抵の場合観測した瞬間に普通じゃないおじさんにジョブチェンジしてしまうわけで、だって例えばそれまで普通のおじさんとして背景に溶け込んでたおじさんがスタッと立ち上がり「どうも、普通のおじさんです!」って叫んだ瞬間、そいつ完全にやばいおじさんですからね。言うなれば普通のおじさんはシュレディンガーのおじさん的な性質があるわけです。また、普通のおじさんは社会的動物ですから、むしろ社会と断絶したまま成体(おじさん)まで育つのかなり難易度高いしそれをやってのけるおじさんってまあまあ普通じゃないおじさんですから、普通のおじさんは何らかの社会的役割を担っているわけです。その時点で私の視界に入った時には既に「そういう役割のおじさん」にまたジョブチェンジしてやがりますので、やっぱり普通のおじさんは観測できないという話にしかならないわけです。

そんなこんなでシロクマ先生が指摘されているとおり「普通のおじさん」のロールモデルがもうひとつ不在のまま日に日に枕は臭くなるし耳の裏は漁村ではお馴染みのみんな食べてる珍味みたいな香りがしてくるわけで、おじさんはみんな戦々恐々としているわけですけれどもそういうのも含めて普通のおじさんだったりするわけで、これから必要になってくるのはそういう「普通のおじさん」のロールモデルなりその断片なりを提示していくとともにそんなものに頼るまでもなく普通に存在している普通のおじさん各位に「お前、今まあまあいいぞ」ってことを言ってやることなんじゃねえかなと思うんですね。結局、普通のおじさん達の普通の悩みであったり普通から遠ざかろうとする普通の足掻きであったりがどこからやってくるかっていうと自分自身で選択したつもりも無しに否が応にもおじさんになってしまった、どこかおじさんにされてしまったような感覚があるのではないかなと思った。これはオフ会で出会ったおじさんたちがそうであったという話ではなくむしろ逆で、そこで出会った人たちというのは迷いながらも悩みながらも今のおじさんの感じを選択してそのおじさんになってるふうなところが皆さんあって、例えばおじさんコンテストがあったとして漠然とおじさんになってしまったと感じているおじさんはよくわからんので漠然とおじさん大賞を意識してしまってそんなすべてのおじさんの頂点に輝くおじさん大賞なんてなかなか獲れるわけがない、そんなもん獲るのはどうせゲーノージンですよゲーノージン、そんなことわかっちゃいるのに何となく大賞を意識しちゃって選ばれなくてああ俺はなんてダメなおじさんなんだと嘆いてる。そうじゃなくて、大賞じゃなくて、各おじさん部門賞を意識するのがきっと大事なことで、というかほとんどのおじさんは無意識に自分がエントリーする部門を選択して上手におじさんをやっているはずだのに、ただ、どうにも、そのことに無自覚だったり後ろ向きだったりするおじさんがいたりもするわけだ。

ここで話は飛ぶんですけれども、まったく別のところで僕が深い興味を以てまなざしている全然関係ない問題として、いわゆる他者への不寛容だったり想像力の放棄であったり、例えば昨今ネットでも話題になっていた被害者を責めたがる心理はなんなのかって話、そこには公正世界仮説とかいう考え方があって、ひどい目に合う人にはひどい目に合うだけの理由がある、そうじゃなければやってられないみたいな心理が働いているのだみたいなことだったんですけど、俺思ったのは「普通」であることを良いこととして実感できる機会って生きててあんまり多くねえなと思って、その一つが「普通じゃないこと」に誰かが巻き込まれてる時だったりするんじゃねえかなって思うんですよね。で、そんなんだからこそそういう時にここぞとばかりに自分は普通でよかった、普通じゃないとこんな大変な目に合うところだったって舞い上がっちゃってそれで変なところを責める方向にいっちゃうんじゃねえかなと。これはきっと不幸なことで、傷ついた人を傷ついた人として受け止めてみんなが少しずつ寄り添える世の中の方がいいに決まっている。それができない足枷になってる理由のひとつとして「普通でよかった」と思える機会があまりに少なすぎるってのがあるんであればもっとみんな「普通」についてよくよく考えて、自分なりの「普通」を選択してきた勇気と年季に目を向けてやりゃあいいんじゃねえかなと思うんです。他人のことを想像するには余裕が必要なわけですが、その余裕はどこから捻出するべきなのか、余裕のなさはどこからやってくるのか、実は意外なところでつながっているもんだったと僕は一人、膝を打ち、やっぱり「普通のおじさん」のことはよくよく考えてみる必要があるなという結論になったのでした。

というわけで一回がっつり脱線しましたが、なんだかわかるようなわからんようなどこにでもいるようなどこにもいないような「普通のおじさん」ってやつを何とか目の前に召喚するべく『ぼくらのクローゼット』ことおじさんアベンジャーズは今後も加齢臭漂う魔方陣を取り囲み、あーでもないこーでもないとピーチクパーチクしていくみたいです。いや、本当にそういう方向なのかはあんまよくわかんないですけど、僕はおじさんアベンジャーズの末席からそんなようなことをピーチクパーチクしていく所存です。引き続き御贔屓のほどよろしくお願い致します。以上です。

 

過去ぼくらのクローゼットに寄稿した文章