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離婚されないブログ運営のために気をつけたいこと

読みましたー。

いやー、こういうのって本人は楽しくて仕方がないんでしょうけど一緒に暮らしてる方は堪ったもんじゃないでしょうね。何でもかんでも書く人って本当に何でもかんでも書きますから、あいつらGoogleAdSenseの規約で違反にならんかったら夜の生活のことまで書くんちゃうかみたいな見ててこっちが心配になりますもんね、さすがに【8月度のPV公開!】8月は48手お試しマラソンのシリーズが遂に完結、いや~本当に大変でしたが最後までやり遂げることができたのは偏に読者のみなさんの日々の応援があったおかげです、あと妻。それでは今回の実験で検索流入がどれくらい増えたのかさっそく48位から順に紹介していきます!みたいな地獄は今のところ見たことがないのである意味ではGoogleAdSenseさんがブレーキになってくれてありがとうみたいな話なのかもしれません。しかしそれほど分かりやすいどこからどう見ても地獄の地獄じゃなきゃ何なんだみたいな様相じゃないにしたって、冒頭で紹介した記事のように実は既に結構な数の小鬼たちが手を取り合ってマイムマイムを踊ってて完全に四方を塞がれてる自家中毒みたいなブログっていうのはきっとそれなりに存在しているのだろうなとも思うわけです。

そりゃまぁ、何でも書いちゃえってスタンスなら日々のネタには困らんのでしょうね、ましてや顔出し実名ドンと来いなんて腹を括っちゃえば無敵でしょうね。少なくとも書くのがしんどいみたいな意識は希薄になりそう。だって書いちゃいけないことがないんだから何でも書ける、それは別に自分の筆力の問題じゃなくてそりゃその条件なら息してるだけで何か書くこと出てくるだろってだけの話だと思うんですけどたぶん当人はそうは考えてなくて全能感ハンパなさそう。ブロガーズハイ。いいな~、俺もブロガーズハイなりて~な~、恍惚感すげえんだろうな超羨ましい、俺も身バレさえ恐れなきゃ飼ってるキリンの写真とかアップするのにな~、キリンの頭が屋根からうまいこと出るように天井切り崩してDIYした話とか絶対バズるのにな~、そもそも部屋飼いなのかよって話なんですけど、そこさえ解禁しちゃえば地上から餌を与えるのにちょうどいい長さの棒10選!とかでAmazonアフィリエイトも絶対ウハウハになるんだろうなとか思うんですけど、もし仮にそんなことしたらたぶんテレビとかでも話題になっちゃってきっと大変なことになっちゃうと思うんですよ。取材とかもすげえ来ると思うんですよね。キリンはとても繊細な動物なので僕はあまりそういうストレスをあいつに与えてやりたくないんです。だからブログでもそんな話は絶対にしません。あとそういうストレスを与えると便が緩くなるのでリアルに俺が困るっていうのもありますよね、部屋飼いなんで。

で、こういう文筆業ってのは身を切り売りする商売だみたいな問題自体は別に今に始まったことじゃなくて、件の記事への指摘でもある通り西原理恵子とか椎名誠とかがエッセイで家族やら知人やらを登場させてることで結構揉めてるとか揉めてないみたいな話は昔からあったようです。なのでまぁ本人の匙加減と周囲の理解を如何に得るか調整能力の問題だよねみたいな話をすることもできるんですけど、やっぱこのインターネットブログっていう形式を借りてそれが行われてるってなるともう一つ先の地平のまたひと味もふた味も違った未来感のある厄介事が顔を覗かせてるように僕には思えてならないわけです。

今では、どこかに行こう、あれ買おう、旦那からの提案が全て「ブログのため」にしか思えず、家族のための言葉に聴こえなく、愛情も薄れてきた彼女は言う。

如何せん僕が気になるのはここの部分ですね、脱字あるっぽいけどとりあえずママで引用しました。

「最悪ひどい目にあったとしてもラジオでネタになるからいいや」みたいなことを言ってたのは伊集院光だったと思うんですが、まぁこういう感覚っていうのは自分もなんぼかありますよね、たぶん別にブログやってない頃からありました。日々何かしらやって生きてるわけですけど、何かやろうとしてもしかしたら失敗して思ったような結果は得られずただの骨折り損になるかもしれないけど、まあその時はその時で酒の席での笑い話のひとつにでもなれば御の字かなと思っておけば少しは重たい尻を動かす気になれる、嫌な思いをしてもそれで後日笑いが取れるならいってこいだなみたいな感覚ってのはある種の少なくない人間が持ってる感覚だと思うんですけど。キリンはそんなつもりじゃないですけどね、キリンは好きで飼ってるだけですけど。あんまりこの意識が肥大化するというか、あるもう一つの考え方と結びついてしまうと結構恐ろしいことになるなと思うんですね。で、それが何かっていうとブログでお金を稼ごうと思ったら何てったって効率化が大事ですからフォーマットってものを念頭において記事を作る人っていっぱいいると思うんですね。そのフォーマットに落とし込みやすいような経験になるよう自分の行動を選択する、てなったら一緒にいる人間は引用した箇所のような感覚をそりゃ当然抱くようになるんだろうなと。

西原理恵子とか椎名誠だって、そりゃあ何でもかんでもネタにして何だったら盛りに盛りまくってウケようと思って面白おかしく書いてるとは思うんですけど、それを「どう書くか」を考えるのはすべてが終わった後だと思うんですよ。僕が過去の経験を笑い話にするのだってそうです、とりあえずすべてが終わった後に「この経験をどういう順番でどういう風に話したら面白くなるだろうか」って考え始めるわけです。これはたぶんすげえ当たり前のことです。ただ、これがもし逆転するってなるとヤバくないですか? 分かりやすい話でいえば、テレビの取材がやってきたんだけれどもどういう構成で何を肯定的に扱って何を否定的に扱う感じの特集になるのかっていうのは既に取材に来るより前に決まっててその内容に沿ったコメントをしてくれって言われるしそれ違いますよって言っても「いやいやいや~違うことないでしょ?」みたいな感じで水を向けられるみたいな話ってインターネットとかでよく見かけるじゃないですか。このテレビの取材のノリを生活全般に適用されるのってめちゃめちゃヤバくないですか? 生活の中で必要なものを買うだとか、生活の中で家族とどのように接するかだとか、そういうものまで全部ブログに書いていこうしかも結構な頻度でって前提で生きてる人間は、「こういう風な記事を書こう」という構想に従って目の前で起きている生活の端々で迫られる意思決定を行うことになってしまうんじゃないだろうか。

昔から問題になってるのはあくまでアウトプットの結果が周りの人間との間に確執を産むという部分であって、それとは別の、アウトプットのための生き方そのものが日々のディスコミュニケーションを引き起こす、というのはやはりブログという形態だから加速するまた少し別の問題であるように感じられるわけです。

自縄自縛というかなんというか、どうしたもんかね~って話でとりあえず警鐘だけ鳴らす感じで、警鐘っていうかフライパンなんですけど、フライパンをガンガン叩くだけで結論らしい結論は特にないんですけど。フライパン叩くってそれもう完全にエプロン着てるやつですけどね、起きろ~のやつですけど、ラピュタのパン食べるから起きるよ~のやつですけど、ちょっと気をつけなさいよ目を覚ましなさいよって話なんである意味では的確なんですけれども。まーブログなんてしょせんブログなんでねぇ、2分でサクッと読めて電車乗ってる隙間時間をちょっと有効活用できたように錯覚させる程度の記事なんぞを量産するために自分の思考や行動を最適化したら、そりゃブログ上では褒めそやされて多少のお金が入ってくるかもしれないですけどたぶん喋ってて面白くないですよ。一緒に酒飲んでても面白くないですし、家族からするとたぶんもっと面白くないですよ。面白くないのは、後々辛いぞぉ。などとこんな絶対2分で読めないくっそ読みにくいブログを書く僕なんかは思うんですけどね。

あとキリンって一日20分くらいしか寝ないので僕もずっと寝不足です。以上です。