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2歳のガキは「オモチャ貸してあげなさい」と言われるべきなのだろうか

7月には2歳になる息子が同じくらいの年齢の親戚の子供と一緒に遊ぶ機会があった。

一緒に遊ぶと言ってもまだこれくらいの年齢のガキだと一緒に遊ぶというよりかはどちらかというとルンバが一つの部屋で複数台走っているような状態に近い。各々勝手に遊んでいる。

と眺めていると、息子が持っていたぬいぐるみを親戚の子が興味を持って手を伸ばして奪い取った。そして息子はキョトン顔ののち大声で泣きだした。

その子の親が「ダメでしょ、返してあげなさい」と言ってるそばで僕は「返さなくていいぞ!そのまま持って走って逃げろ!」と言い、息子の方にも「泣いてないで奪い返せ!」と言って煽っていた。

その子は優しい子だったようであまりにわんわん泣き喚く息子を不憫に思ったのか返してあげていたので「賢いなぁ」と思った。

その後も今度は息子がその子の持ってるおもちゃに興味を示し奪い取ろうとして、そうするとその子は自分のおもちゃなので当然奪い返すわけだがまた息子がわんわんと泣いて周りの大人に「貸してあげなさい」と言われるので貸してあげたりなどしていた。その時も僕は「無理に貸さなくていいぞ、持って走って逃げろ!」と言っていた。

僕は何もふざけて煽っているわけではなくそうしたっていいだろと本当に思ってたし、その子があまりにすんなりものを返したり貸したりしていたので優しいのは悪いことではないのかもしれないが2歳児がそんなに他の人の都合を気にして振舞わなきゃいけないものなのかねぇと思ったりした。

ものを仲良くシェアしたり譲渡したり貸与したりするのも生きていくなかでそれなり大事なことだが、子どもというか人間が本来持ち合わせている「所有への意志」みたいなものも大事にしてあげたらいいのになーみたいなことを考える。シェアしたり譲渡したり貸与したりなんていうのは本来「所有への意志」を遂行するための手段であるはずだ。レヴィ=ストロースとかいう面白いおっさんの話では未開の部族は自分の家族を婚姻によって他の家族へと譲渡することで友好的な関係を築く工夫を行ったらしいと聞く。きっと婚姻という発明が生まれるより前は家族同士の「所有への意志」がぶつかり合い多くの血が流れたことだろう。自分の「所有への意志」と他者の「所有への意志」の存在を確認して、それが何のルールもなしにぶつかり合った時に起こるダメージを知り、初めて「譲渡し合う」という手段が己の「所有への意志」を最大限に継続して満たすための最適解だとお互いに納得する。この過程があってこそのシェアの概念であり譲り合い精神であり「人にやさしく」という心意気なんじゃねえかなと思う。

その過程をすっ飛ばしてあんまり子どもの頃からみんな仲良く譲り合うことを是とするのは、おもちゃを他人に貸そうと手放した時に「所有への意志」まで手放してしまいやしないかと僕は考えているのだろう。

子どもは大人に与え施されないと生きていけないか弱い存在だ。子どもの持つものはすべて与えられたものだ。与えられたものは他者にも分け与えてシェアしなければならない。そうしなければ自分もまた何も与えられないからだ。子どもが「貸してあげなさい」と言われがちな背景にはこんな論理が潜んでいるのではないかと俺は想像する。

まあそれは、たしかに一側面から見た事実であることは間違いない。実際大人になってからも人間はシェアし合って譲り合って助け合って生きていくそれが社会だというのも一側面から見た事実だ。しかしやはりそれはただの一側面から見た事実にしか過ぎず、それがすべてだとも思えない。

子どもに与えられたものは与えられたものに過ぎず真の所有権は大人にあるので「返してあげなさい」とか「貸してあげなさい」とか簡単に大人は言ってしまうのではないかなとも思う。

いやー、子どもが一度渡されたオモチャは、大人が用意したオモチャで溢れた部屋に放り込まれた子どもたちは、思う存分に「これは俺の所有物だ!」と主張して貸さなかったり奪ったりしていいんじゃねえかなとやっぱり思うんだ。具体的に何歳から?って言われたら難しいんだけど、シェアとか譲り合いとかみんなと仲良くするとかそういうこと教えるのはもう少し大きくなってからでいいんじゃねえかな。

「所有すること」と「シェアしなくてはならないこと」をニコイチで覚えることのリスクというか、そういうことを考えてしまう。

いいじゃんか、所有への意志を尊重してやろうよ、「俺のもんだ!」を貫き通したいなら無理にそれを否定しないで当事者らに任せておけばいいじゃんか(もちろん度を越してたら介入は必要だろうが)、「俺の意志で所有してんだ!」って思うものを相手のために貸してやるとか「俺の意志の所有物」に干渉させないために他人の所有物を尊重するとか、そういうこと覚えるのは「俺の意志」をしっかり覚えた後でいいんじゃねえかなと思うんだよな。

あと、単純に、「みんなのものだからみんなで譲り合おう」を刷り込むと、人間成長したどっかで「これはみんなのものでも与えられたものでも無くて俺が俺の力で獲得して所有してるものだ、だから他人に分け与える必要なし、俺はもう人に施す必要なし」って勘違いしちゃうんだから、そうなる前に「俺が俺の意志で所有してるもの」を「人に分け与える」っていう感覚を与えた方が優しくて交渉上手な人間になるんじゃないかなぁとか思う。

そういうわけで俺は今後も同じような場面に遭遇したら「持って走って逃げろ!」「奪い返せ!」と囃し立てるし、どうせ他の大人はまともな仲裁をしようとするんだから、中にはこんな大人がいたっていいんじゃないかなと思う。

以上です。

最近悲しい交通事故の報道が多い件雑感

僕は「子供を持たない人間にはわからない」とか「同じ親である身だからわかる」みたいな言い回しが兼ねてから大嫌いで、自分が親になった今もそういう言い方は絶対にしたくないと思って生きているのだけれども流石に連日の交通事故うんたらで幼い子供が死んでいるだのの話を耳目にしていると親ならではの感情も湧いてくるところがあってどうしたって如何様にも割り切れない。こんなことが起こらないようにするためにはどうしたらいいんだろうと、自分がその当事者になる可能性が今も僕の横に寄り添っている現実に頭を抱えるばかりだ。

僕は車の免許を持っていない。僕は前世、車に轢かれて死んだんじゃないかと思うくらいに車が嫌いだ。車が無いと生きていけない田舎で育ち、大学から電車の路線の行き届いてる大阪で生きているので、という理由ももちろんあるのだけれど、きっと車の免許を持つことはきっと一生ないだろう。酒が好きなこともあるけれど、車を持つ維持費がかったるいのもあるけれど、どうしたって人の命を簡単に奪えるものに頼って生きるのが嫌なのだ。斧をカウボーイの投げ縄みたいに振り回しながらだったら時速60kmで走れるよ、と言われても誰もそんな危ないことしないでしょう。僕はそういう感覚で元来から車の運転というものをしようと思ったことがない。なので、過分に偏った意見をこれから喋るだろうことは別に隠しもしません。Amazonから届いた荷物を受け取りながら、必要とあらばバスやタクシーにも乗りながら、スーパーで野菜を買いながら、つまりはそれはすべての生きてる人がそうなんだけど、車を運転してる人に助けられながら生きつつ俺は車を運転したくないと言って生きているずるい人間の文章を今読んでいるのがあなたです。

車は便利です。それは間違いがない。この便利なしには最早誰も生きられません、それくらいに便利です。その便利を手放せって言ったって難しいだろうなと思う。

一方でやるせない事故が起きる。車なんて無くなっちゃえと思ってしまうような、やるせない事故が起きる。普段こんなこと言いたかねえけど、子を持つ親として、決して失いたくない伴侶を持つ身として、どうにもこうにもやるせないただただ悲しい事件が時たま立て続けに起こっているように感じられる昨今です。妻子を失った遺族の会見の動画を見れば我がごとだったことを想像し、涙も流れます。この涙には「俺じゃなくてよかった」という安心の成分もいくらか何パーセントかは含まれてるような気がしてほとほと自分が嫌にもなります。そう思わせるのはやはり、車が世の中に必要で自分自身も自分が運転しないにせよ車の恩恵を受けて生きていることなのかなとも思います。

来週あたり、田舎の実家に帰ろうかなと思っています。家族を連れて。向こうは車が無いとまさに読んで字のごとく車が無いと生きていけない世界なので、僕はもともとの家族に運転をお願いするでしょう。そうしなければ何もままならない。僕自身は車を運転しないけど、僕は車がなければ何もままならないという意味で、結局車社会に加担している。僕の家族も、僕の故郷も、勿論同然に車がなければままならない。それは本当に日本人ほぼ全員がそうなんだろうと思う。

交通事故で悲しい人死にが出ると、そりゃあみんな怒る。人が死ぬのは悲しい。本当に悲しい。どうしてこんなことになってしまったんだろう、どうすればこんなことにはならなかったんだろうとみんなそれだけで頭がいっぱいになる。考える。年寄りの免許返納を義務付けようとか、自動運転を導入しようとか、誰も死なせたいために優しく優しく唾を吐き散らしながら叫ぶ。気持ちはわかる。

一体どうすればいいんだろうな、と思う。

そんなことができれば最高だなとはおもう。いや、本当におもうかな、よくわからない。

車は要る。車は人を殺す。

車は乗れるやつが乗れ。車で人を殺すかもしれない奴は乗るな。

歪な二元論だと思う。車を運転せずに車の恩恵を受けて頼んだ翌日にAmazonからの配達を受け取る僕は、それが歪であるということを車を運転する人よりいくらかは知っていると思う。そのうえで僕は人を殺す車に何を言えばいいだろうかと考えたいなと思っている。

思いつきで喋れば、ガードレールがあったら良かったなと思った。大津の事故に関しては。

ただ勿論、あまねく歩道脇にガードレールなんてつけることは予算的にできないだろうから、本当にやばそうな場所にだけつけることはできないのかなとか思った。AIがこれだけ発達してて、グーグルはマピオンの力を借りていたらしけれどある程度の地図情報はどこかにはある。それら二つに過去の事故の情報を当ててやったら「ガードレールがあったら、、、と思えてしまう事故が起こりそうな場所」を洗い出してそこにガードレールを優先的に設置しようとすることはできないだろうか、とか。

あとは、僕が子供の頃は大人はみんな飲酒運転してました、めちゃめちゃふつうにみんなしてました。飲酒運転をしてはいけない空気はここ20年で本当に浸透したなと思います。それと同じように、もう少し人を殺すかもしれない運転を抑制できないものかなとかは思います。極端な話、田舎の車しか通らない山道とかは置いといて人がいるところでは30km以上は禁止で見つかったら厳罰なとかできないんでしょうか。飲酒運転がこんなに許されない世の中になるとは思ってなかった身としては、やってやれんことはないだろうと思ってしまいます。時間はそりゃかかるかもしれないけど。

上にあげたのは僕の思いつきのほんの一例です。しかし僕は本気で、そんなことを考えます。車を一律に禁止にはできない世の中で、車が一人でも多くの人を殺さない世界はどうなんだろうと想像します。

そう考える僕にはやっぱりインターネットは少し不思議に見えます。みんな僕のように考えているとは思えない。殺したやつを苦しめたいとか、殺すかもしれない奴は車を運転するなとか。前者はそんなことしたって死んだ人は帰ってこないし、後者は誰が運転する車だった誰かを殺し得る。

車で人が死ぬのは本当に悲しい。本当にゼロまで減って欲しいと思う。そのために必要なのは果たして本当に怒りや蔑みだろうか。僕は車を毛嫌いしているので、先に挙げたような馬鹿で極端な案しか出ない。だからもっと多くの人が、交通事故に嘆き怒り誰かを責めるよりも前に、そんなことが起こらない方法を考えてくれるようになってくれればいいのになと思う。

理不尽の前に人は無力だ。できることが少ないことに心を痛めることは誰も変わりがない。そこで無力に任せて嘆くより前に、それでもできることを探す人間でありたい。願わくばそういう人が少なくない世界に僕は生きたい。そのために僕はやはりただ嘆くより先に、人を信じて人を動かすなにかの言葉を探したい。

誰も死にたくないし死なせたくない。シンプルな価値観を本当に共有したい。できるはずだと思う。みんな悲しんでいるんだと思う。そこに嘘はないんだと思う。

以上です。

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