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残念ながらベタながら理想の恋愛関係とは小説家と編集

いつだったか情熱大陸だかソロモン流だか的な番組で『共喰い』で芥川賞を取った田中慎弥さんの特集をやっていてたまたま観てたんだけれど、まぁこいつがひどいんだ。どうひどいのかうまく言えないんだけど、まぁひどいんだ。テレビを見ているとたまに「おまえお笑い芸人になれなかったらもう死ぬしかないじゃんね」って思えるどうしようもなく面白いお笑い芸人が出てくるけど、同じようにそういう風な小説家も存在する。それは別に悪いことではない。で、番組は田中慎弥さんのユニークな人柄にフューチャーする形で展開するんだけど、終盤になって次の連載に取りかかるってことで田中慎弥さんがどこだかの旅館だかでその一話を書き上げるって話になるんだ。浴衣に着替えて机に向かって延々ペンを走らせる田中慎弥さん、ようやく書き上げたところで編集の人が読みに来る。この編集の人が20代もそこそこのそこそこかわいいネーチャンで俺は「わっかりやすー!」て思ったね。で、そのネーチャンが今まさに書き上がったところの生原稿を読んで「面白かったです」って褒めたら田中慎弥さんが笑えるくらいに照れてるの。ただの編集の20代もそこそこのそこそこかわいいだけのネーチャンにちょっと小説褒められただけでこんなに照れてるんじゃ、こいつ本田翼とセックスしたらそのまま死んじゃうんじゃないのってくらい照れてるの。それで観た当時はめちゃめちゃ笑ったんだけど、よくよく考えたら自分が書いたものを初めて読んだ人が、他の誰もまだ読んでいないそれを読んだ唯一初めての人が、褒めてくれたらめちゃめちゃ嬉しいのはそうに決まっているのであった。

先日、skype読書会というものに参加して『すべてはモテるためである』という本及びモテ周辺の話題について何人かと喋り散らかしていたのだけれども、モテのことを考えるとそこに現れる登場人物の何と多いことか、ということに驚いた。社会的に客観的に第三者視点でモテているとはどういう状態なのかだとか、コミュニティの中で気になる異性にアプローチすることとコミュニティの中で他のみんなともうまくやることは両立しうるかだとか、まぁ結局ひとつの真理としてこの世は僕と僕以外に分けて考えることができて、僕が「握りたい」と思った時に握れる拳は僕の両の手の拳この世にたった二つだけ、それ以外の約140億の拳は決して僕の思い通りには動かない。僕が愛して愛されたい貴方も僕か僕じゃないかでいうと当然僕じゃないわけで140億の拳の側の、「僕以外」に属するわけだから、だって貴方は僕じゃあないんだから、僕は貴方のことを考えようとした時に僕以外みんなについての一般論を考えてしまう。それは少し貴方に対して不誠実な気もする。

けれど、そんなアンビバレントな悩みを抱えているという点においては僕も貴方も大差ないのが突破口であり身も蓋もない言い方をすれば付け入る隙であり、例えば小説家と編集がそうであるように、(他の人がこれから色々言うのだろうけど)(他の人が色々言っていることはもちろん知っているけれど)(ともあれ)【私は貴方が好きなんだ】ということをちゃんと伝えればよっぽどそれで事足りるんじゃないかなと思った。それさえちゃんと伝えることができれば、そんなことを伝えられてしまったら、誰だって田中慎弥さんのようにはにかむほかにないんじゃないかなと思った。この世は僕と僕以外しかないけれど、貴方にとって貴方でも貴方以外でもないほかならぬ僕でいることさえできれば、それさえできればきっとうまくいくしそれめちゃめちゃイージーじゃんとも思った。

もちろん、これは二人のために世界はあるのということは意味しない。小説家と編集の関係は、ほとほとこっぴどく第三者の目に左右される。そういう世界だからこそ、二人で歩くほうがよっぽど利口で頼もしい。そこらへんも含めて、恋愛もきっとそんなもんなんだろう。

なお、田中慎弥さんがその時書いていた小説はチンポが異常にでかい男が主人公の話だったと思うんだけど、それを言っちゃうとこのエントリ全体が過剰にややこしくなってくる気がしたので端折りました。以上です。

 

他の人のレポート



文章が語りかける相手と想定読者はしばしば一致しない


このブログ記事を見かけて「この話をするのにこのタイトルつける感覚がイクメンっぽいなと思った」とツイッターでコメントした。で、なぜそんな風に思ったのかがぼんやりわかったのでぼんやりだけでも頭に残ってるうちにメモ。

文章が語りかける相手と想定読者はしばしば一致しない。このほう太パパさんという人は主に育児を題材にしたブログを書いている人なんだけど、冒頭に挙げたエントリなんかはタイトルからして顕著ですが、この方の文章って「育児をしていない人向け」という設定で書かれてる印象が強い(ように俺には見えた)。しかしコメントやはてなブックマークを覗いた感じ実際に読んでいる層は育児経験者ばかりだったりする。なんか、ここのギャップが気になる。

いや、実際には書いてる人も「僕が書いた文章を読むのは育児をしているお母さんお父さんだ」とは思っているのかもしれない。けどなんか文章の要所に「知らない人に教える」みたいな話法が用いられるのだ(これ自体は別に悪いことではない)。これは実際に誰に向けて書くかという意識の問題ではなく、単に文章の癖なのかもしれない。そういえば昔、奥歯がどうにも痛んで駆け込んだ歯医者の先生が僕があんまり痛くてうめくものだから「痛いよな、もうすこし辛抱してくれよ」とか呟きながら治療してくれて「わしゃ鉄砲で撃たれた人間への警戒心が強い野犬か」と思ったものだが、あれも別に先生は本当に俺のことを野犬だと思っていたわけではなく、そういう先生の癖だったのだろうと思う。

癖であるのと同時にテクニックとして普通に有用って側面ももちろんあるだろうと思う。よくよく考えると芸人のあるあるネタでも「お客さんに知らない世界のあるあるを紹介するよ」的な設定であるあるネタを言うみたいなパターンって多い。共感を狙ったあるあるネタはマイノリティの連帯感とか、共犯意識とか、選民意識みたいなものを伴うと効果が増幅しやすいみたいな仕組みがある。であれば、実際にそれを聞いて「あるあるw」と笑うのはマイノリティの側であったとしても「マジョリティのみんなに語りかける」設定の方が笑いが起こりやすいということは言えるかもしれない。なるほど、そう考えると内容をもっとも効果的に見せるにあたっては「実際にそれを読む相手」と「その文章が語りかけている相手」は必ずしも一致させなくてはならないというわけでもなさそうだ。そういえば重松清の『疾走』の文体ってビビるよね。あれも形式としては読者に語りかけてるわけではないもんね。黒人に語りかけるでもなく白人に語りかけるでもなく「アイハブアドリーム」と独白するからかっこいいみたいなそんな話もできそうだ。

そういうわけで、実際の読者と違うペルソナに語りかける形式というのはやるべきではないという話でもなさそうなんだけど、効果が期待できる以上まぁセットでリスクもついて回るよねって話になりそうだ。例えばこのテクニックは卵と壁で言えば卵の側であることを明確に宣言しているに等しい。ならば正しく卵の側として振る舞わなくてはならない。卵の側ですよって顔で論をぶちあげたら「お前壁の側じゃねえかふざけろ」つってお母さんがたにボコボコにされてるイクメンブロガーなんかは、定期的に視界に入る(あ、冒頭の記事は別に全然燃えてないです)。あとは、大した知識もないくせに小学4年生を集めてクイズを出して良い気になっている小学6年生は他の小学6年生にケツを蹴り上げられる可能性は十分に考慮すべきでしょう、みたいな言い方もできるかもしれない。

まぁ、入りが冒頭の記事だったのでこんな感じになりましたが、別にイクメンの話に限らず、ここらへんのテクニックを無意識に使ってすっ転んでる人はわりに見かけるよねって話でした。「何も知らない人に1から教えるような書き方」は5とか6くらいは普通に知ってる人を納得させる文章を書くのにも勿論有効ではあるのだけれども、このテクニックさえ導入していなければ同じ内容のことを書いていたとしても別に誰も怒らなかっただろうに、みたいなそういうことは起こりうる。もちろんご利益もあるので一概に使うなという話ではないけれど、自分が今そういうテクニックを使っているという自覚はあっても良いかもしれない。

さて、貴方が書いている文章は、誰に語りかける設定で書かれていますか?

ちなみに俺はずっとお前に語りかけてるんだもんなちゃんとおとなしく最後まで聴けてエラいからこの後ビーフジャーキーもらえるんだもんな良かったな、犬!

犬「わん!」

よーしよしよしよし!よーしよしよしよし!

犬「わん!わん!」

よーしょしょしょしょ、しょしょしょしょ!

犬「わん!わんわん!」

わしゃわしゃわしゃはーえらいえらいえらい!

犬「わん!」

こちょこちょこちょこちょこちょ

犬「わん!わんわんわん!」

しゃーしゃしゃしゃしゃ!

犬「わん!わんわん!」

ふにゃーんめんこめんこめんこめんこよしよしよし!

犬「わんわん!」

しゃぁおっ!しゃぁおっ!

犬「わんわんわんわんわん!」

わんわんわんわんわんわんわん!

犬「わおわおーん!」

にゃー!

犬「わんわん!」

犬め!この、かわいらしい犬め!

犬「わおおーん!」

ちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!

犬「わーん!」

以上です。