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『バチェラー・ジャパン』シーズン2感想文

観ました?みなさん観ましたろかい??バチェラー・ジャパンシーズン2最高だったな~~~~~!!!!

バチェラー・ジャパンシーズン2観てるけどまだ最終回まで観切ってない人は今すぐ回れ右じゃいそもそもバチェラー・ジャパンってなんじゃいって人は今からあらすじを書くけんな、それを見て「あれ、それちょっとおもしろそうじゃない?」って思ったら回れ右じゃ~~~い、とりあえずめちゃんこ面白いんでみんな観ようぜ。

あのー、バチェラーってのはそもそもなんなのかっていうと知らねえけど外国で始まったテレビ番組らしくて世界中のいろんな国に輸入されているおもしろコンセプトだそうでアマゾンプライムにて日本にもついにやってきたみたいなそんな感じらしい。セレブでちゃんと働く(少なくとも番組上は)超超優良物件の独身男性(通称・バチェラー)の心を射止めるべく選ばれし20人の女性が2ヶ月のデートロケに臨んで鎬を削るみたいな内容で、最初20人の女性に囲まれたバチェラーが適宜開かれるローズセレモニー(次のステージへの進出を意味する数限られた薔薇を女性に順々に手渡していく儀式)で本当にずっと一緒にいたい女性をどんどん絞っていって最後には一人の女性を選び抜くみたいな企画なんですけど、まぁでもせっかく選んだ最後のその一人の女性も悪魔族に取り憑かれた人間がいるらしいって情報に疑心暗鬼になっちゃった人間の悪魔狩りで殺されるんですけどね。それでバチェラーは人間に絶望するもののなんやかやあって自分と同じデビルマンになった同志を集めてサタン族との最後の結成に挑むんですけど。みんなネットフリックスもよろしくな!!デビルマンクライベイビーめっちゃ面白かったぞ!!!!

じゃあそろそろネタバレするぞ、ネタバレを見るべきではない人類への配慮にさよならでいいんだよな、シーズン2最後まで観た感慨語り始めるぞ、いいかな?いいかよな?いいんだよな、犬!!

犬「わん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

これシーズン1もそうだったのかわからないけど(なぜなら最終回間近にその番組を知ってイッキ観をし始めたから)前半戦一挙配信の形式を取ってるのはまず良かったよね、みんなどうせイッキ観して右手さん好きー!!ってなった直後に死んだところがスタートラインだったっしょ?俺はそうだったけど。20人は番組としても多いしね、どうでもいいやつがどうでもいいから落ちるっていう序盤戦はかったるいってのはあるので、そこらへんは一週間待ってられないから一挙配信ってのは良い戦略だと思う。

いや、俺今回のシーズン2を最後まで観て反省したのはさ、そのー序盤のほうが結構シーズン1と比べてイマイチだなと思ってたの。バチェラーの小柳津さんがいまいちっていうか洗練されてないなと思って。シーズン1のバチェラーの久保さんがほんまに女性のエスコートが上手すぎてさ、そういうバチェラーが女を選ぶのが『バチェラー・ジャパン』という番組なんだって先入観が今になって思えばあったんだろうね。その観点でいうと二代目日本バチェラーの小柳津さんは本当に最初イマイチだったんだ。めっちゃはしゃいでたしね、20人の女性に言い寄られるっていう自分の状況に本当にダサい感じで浮かれてたので、そこは久保さんと全然違って、違和感というかそれは一期を俺を観てたから一期バチェラーの久保さんを知ってる俺だから思ったことだし二期バチェラー小柳津さんお前も絶対穴が空くほど観たろ一期と思うんですけど、それでめっちゃ浮かれてるから二期はイマイチだなー一期のほうが面白かったなーと思いながら最初観てたんですけど、最後まで観たら「すまん、お前ら最高」ってなるんですよ。シーズン2は最初がっかりから始まりましたけど終わってみれば「バチェラーは日本でもやれるぞ!!」という完璧な感想になりました。

繰り返すに僕ってシーズン1もかなり楽しんで観てたんで、それに固定されてた感あるんですよ。久保さんという超絶男前エスコート完璧男から学びを得ながらどの女性が生き残るか考える番組、そんな感じの結果、「あーなんやかんや見た目が好みで、最後まで弱いところを見せず(めんどくさくない)、若い女の子を選ぶんやなー」みたいな結末になったのが一期っていう感じにはなってしまうんですよね。二期を観たあとでは。久保さんかっこよかったけどなー、なんかエレ片情報に寄るともう一期で結ばれた二人は別れてしまったとも聞いているので、それも踏まえると久保お前それでよかったんかと思わずにはいられない。そんな最高な二期でしたよねー。

二期は何が素晴らしいって小柳津さんが完璧からは程遠いキャラクターだった。一期との差異で考えると本当に不完全だった。初代バチェラーのドライを観ていた僕は、こいつ全然だめじゃんと思ったけど、実際は『バチェラー』っていう企画はそんな男性に完璧を求める企画じゃなかったんだな。シンプルに参加者全員の成長を描く物語だったんだな。

結論から言いますよ、僕だって倉田さん最後絶対負けるって最終回直前回観て思いましたもん。5馬身くらい離されてるやん思ってましたもん。いやー、順当やな思ってずっと観てましたよね、7人くらいなったあたりから。落ちるやつが順当に落ちるし、最後に残ってるのはこれもうどうしたって小口さんやろって思って観てた。小柳津さんは、追っかけるのが好きなんだなーってのはわかりきってたし、相手の内面を本当の意味でちゃんと理解することには興味がないし、なんやったら最終ラウンドシンガポールに臨むにあたっても「僕をときめかせてほしい」みたいなこと言うてたくらいですから、そういう人だと思うんですけど、そういう意味では小口さんなんでしょうね。そう思ってました。ずっと思ってましたよ。倉田さん勝ち目ないやろ、と思って観始めた最終回でしたよね。それが実ったっていうのが、シーズン2のすごいところでありすべてではあるんですよね。これからあの二人がどうなるかは知らんけど、応援したくないかしたいかでいうとほんまに応援したい。好きだぞーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!倉田ーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!

一期は一期で久保さんからいいろいろ学んだんでよかったんだけどなんやかや「失点が少ない女が勝ったな~~~」みたいな感想になっちゃうけど、二期は全然そんなんじゃなかったよね。そこが間違いがない。恋の楽しさを小口さんから感じて、「これやな」と思いつつ、最後の最後で絵本突きつけられてさ、あれさ、小柳津さんさん、まじであの瞬間に愛と恋の差を知ったんだなって思ったよな。あのシーンほんまヤバイな。地上波無理なくらいヤバイ。なにせ相当な馬身まくられてたしさ~~、小柳津さん、あずあず振る時に泣かなかったのを最後にその後ずっと最後別れる時泣いてるからさ~~、あの時倉田さんの絵本読んで泣いてるのも、「めっちゃこんなに好かれても嬉しいけど応えられなくてごめん」の涙だと思ってたんよね。そこまで小口さん優勢すぎたし。お前、そんな泣いて、相手まで泣かせてひどいやつやな~~~思ってたから、もう完全に諦めてたから、人は変わらないと思ってたから。小柳津さんは結婚してからも恋人みたいにワクワクしてくれる相手を求めてるから小口さん選ぶって絶対思ってたからね、だからあの結末は本当にビビったし、なんか感動したし、物語だったよね~~~~~~。

小柳津さんの物語だったよね。恋に別れを告げて愛を探す物語って考えるとすごいしっくりいってさー、いや、すごいよかったよね。バチェラーの可能性を感じた。

とりあえず一期で確立されたバチェラーは完璧が理想みたいなのはまるっとなくなったよね。それでいいんだよ。完璧な人間ばかりじゃないし。だって小柳津さん、あずあず振る以降ずっと泣いてたからね。あずあずには泣いてなかったけどね。人間な~~~~~~。人間は、本当に楽しいな~~~~~。もっと語りたいことたくさんあるけど、それを実現できるほど脳が追いついてないからもういいや。気が向いたらまた書こ。

みんな~~~~~!!!!!!!!恋しような~~~~~!!!!!!!!!!!!!!バチェラーも最高だし、俺も俺の妻も、みんな最高。全員最高。生きるの最高。愛してる。以上です。

息子の口から発せられる何かについての夫婦の見解の相違

生まれて11ヶ月とかになる息子がこの前までは「たっ!」「だっ!」「だっだっだ!」とか言ってたのが最近は「おった!」「おっだだん!」「だっだっおっだだ!」などと言うようになってるのを見て、嫁が「ほら、お母さんお父さんって言ってるよ」と言い出した。僕は「言ってねえだろ」「そう聞こえただけだろ」と思ったし言ったが嫁は「絶対言ってる」と言うので、そうかなぁと思いつつ「そうなのかなぁ、もう一回言ってみ?お母さん!お父さん!」と息子を煽る。息子は「だっ」とかもうちょっと長い「だっ」と何かを組み合わせた音を口から発する。嫁はそれを「ほら」と喜ぶ。俺はこいつが今の時点で喋ってようが喋ってなかろうがどっちでもいいんだが、俺はどっちでもいいことが「どっちか」にはさして興味はないし憶測で判断するのが大嫌いなのだが、そんなことより嫁が喜んでいることが楽しい。だからついつい「言ってるかも」「言ってるねえ」とか言ってしまう。俺と違う見解を持つ嫁に腹が立たない。それは俺が嫁を好きだからなのだろう。見解の不一致は本来腹立たしい事象であるはずだ。しかし、俺はついつい甘んじて「言ってる言ってる」とか言ってしまう。

付き合ってから結婚してから長らく二人でやってきて、なんやかんやあって、やがてこの彼が我が家にやってきた。

人間は三人集まると派閥を作ると言う。今この状況において、僕と嫁が「お母さんお父さんと言ってる派」で彼が全然そんなこと言ってない少数派なのか、嫁と彼が「お母さんお父さんと言ってる派」で僕がそれを信じない少数派なのか、それは誰にもわからない。わからないならわからないままにしておけば良い。

僕はどっちでもいいことが「どっちか」にはさしたる興味もないので、ただ楽しそうに俺には意味がわからん音を発する息子を妻と笑い合いながら見ている状況をただただ悪くないなと思った。以上です。

hagexさんの訃報に触れて

サッカーには興味ないので日曜の夜はさっさと寝て、月曜の朝の電車通勤はとりあえずジャンプを読まなくてはならないのでスマホにも触らず、下車駅に着いたところで時間を確認しようとスマホを手にしたついでにツイッターをなんとなく開いたらタイムラインはくだんの話題で大騒ぎで俺もそりゃあ面を食らった。

他人事でないと言われればまあ他人事ではないなとは思う。僕もなんだかんだ5年だか6年だかはてなでブログを書いていて俺はこう思ってんだ思ったこと書いて何が悪いんだという調子でずっとやっているのでズイショというネット人格は色んな人に好かれたり嫌われたり執着されたりしているのだろうし、実際に事実としてそうであることを身に沁みて感じる機会にもそれなりに恵まれている。そのうえ呼ばれりゃのこのこリアルで会いに行く性分なので、ネット人格として刺される第一号が彼ではなく俺であった可能性なんて全然0じゃなかったんだろうし、俺が「ズイショとして」刺される可能性はhagexさんが刺される前も刺された後の今も同じように存在し続けるのだろう。

ただそう思う一方でそれがどれだけ特別なことなのか考えるとよくわからなくもなる。

今朝からこの事件に関する色々な人の色々なテキストに触れているが、そこでしばしばネットで発信すること、ネット人格を持つことのリスクだとか覚悟だとか矜持だとかの話になっているのを見かけるものの、この事件から私たちはそれについて考えるべきなのか、この事件の問題点は本当にそこにあるのか考えれば考えるほど、疑問符が喉輪のようにぶら下がる。

現時点で読むことができるテキストに当たり概要が見えてくれば見えてくるほどに、たとえば新幹線で人が殺された時に誰も「それでも新幹線に乗る大義」の話なんかしていなかったように、今回の件もそんな風に考える必要なんてないのではないかとも一方では思うのだ(この事件の理不尽さとこの事件を痛ましく思う無念が人にそう考えさせずにはいられない、ということはわかる)。

それが自業自得なのかどうかは全然置いておくとして、世界にどうしようもなく追い詰められた人は、自分を追い詰める世界の象徴を殺すしかなくなるのかな、みたいなことを思った。その世界の象徴が何なのかは、人によってそれぞれで、それははてなの著名なブロガーなのかもしれないし、地下アイドルなのかもしれないし、腐女子に人気のバスケット漫画なのかもしれない。あるいは象徴は人ではなく場所であるかもしれない。それは秋葉原かもしれないし、小学校かもしれないし、障害者施設かもしれないし、新幹線かもしれない。そういう風に考えれば、はてな村の住人なら誰でも良かったのかもしれないし、地下アイドルなら誰でもよくてたまたまその時その人が目についたのかもしれないし、売れてる漫画なら何でもよかったと言えば何でもよかったのかもしれない。

この事件が、著名なブロガーが著名なブロガーであるがゆえに殺されてしまった事件なのか、単なる無差別殺人のひとつの形なのか、そこを疑問符が首から外れるまで考えたい気持ちが僕にはある。

本件を「言論に対するテロ」みたいに解釈する向きが既に出てきているが、本当にこれってそういう話なんだろうか。僕はインターネットを楽しく本当に当たり前に満喫していて、インターネットのお陰で幾人もの尊敬できる友人を得ることができて、その機会を与えてくれたインターネットに感謝こそすれども、これは特別なことなんかじゃなくて当たり前なんだ、インターネットが僕たちに与えてくれたものは何と戦うでもなしに当たり前に享受していいものなんだと思っている。だからこの件を僕たちがインターネットで遊んでいることへの問題提起だとか宣戦布告だとかテロだとか考えてしまうのも、相手の思うツボなんじゃないかみたいに考えてしまうのだ(この相手というのは本件の犯人ではなく、もっと漠然とした何かだ)。

「新幹線に乗るのも考えものだ」なんて絶対変な話だと思うし、じゃあ同様に「ネットで有名になるのも考えものだ」も変な話だと思う。むしろ、ネットで有名になることは新幹線に乗るくらいふつうで当たり前のことだ、みたいに考えてもういいんじゃねえのかなと思う(人が死んでるんだからそれで良い訳がないんだが)。

インターネットなんざやってようがやってなかろうが、僕たちはうっかり誰か他人にとっての「象徴」になりうる。幸せであるだけで、金を持ってるだけで、子を授かっているだけで、男であるだけで、女であるだけで、ジョンレノンであるだけで、あらゆる理由で私たちは誰かにとっての「私を苦しめる世界の象徴」にされる可能性がある。誠に理不尽だ。その理不尽を理不尽のまま受け入れることこそが、理不尽と戦う唯一の方法でないかとも思うのだ。

理不尽に誰かを殺さなくてはならない象徴に認定して殺しにかかった事件を、なにかの象徴にしてはいけないんじゃないかと思う。理不尽は、なにかの投影でも象徴でもなく、ただただ理不尽なのだ。

理不尽な凶行の犠牲になったものがその理不尽を生んだのではない。理不尽な個人の暴走を産んだものは実際のところ何なのか。それを判明させて取り除かない限り、理不尽は続く。理不尽にも象徴に認定された誰かが殺され続ける。それは男かもしれないし、女かもしれないし、子供かもしれないし、老人かもしれない。はてなブロガーかもしれない。そこに意味などない。それが理不尽なのだと思う。

 

書き始めてみると思いのほかとっ散らかった。俺が言わなくては、と思うことなんか無くて、何か書かなくてはと思って書き始めたんだから、まあこんなもんだろう。理不尽な殺人が起きた時、人はあまりの理不尽に耐えきれず、そこに意味やらなんやらを求めてしまうけれど、それがただ空虚に「なんとなく」で自暴自棄に人を殺めた犯人に「自分がやったことの意義」を与えてしまうようで、俺はいつも嫌な気持ちになるのだ。俺はそういう奴らに「お前はただ癇癪を起こして無闇に人を殺めたクズだ」とただ言いたい。彼らの行動に一縷の論理も与えたくない。彼らの行動が、一分の隙もなく間違った選択肢を選んだ結果だと社会が認識するようになって欲しい。

だから、なんつーか、hagexさんの生き方とhagexさんの死に方に相関を見出すような考え方が俺はどうしてもどうしても嫌なのだ。俺が嫌なだけなんだけど、俺は否応が無しに今どうもそう考えているらしい。

 

hagexさんのことは、たぶん俺はどちらかというと好きだったんだと思う。ブクマしたりされたり、言及はしたことあったろうけど、されたことはないのかな。たぶん、ズイショという人格自体は認識されてはいるのかな、多分だけど。くらいかな。

今回の訃報に寄せて彼の人となりを知る人のテキストがぽつぽつと出てきて、彼の実際のところの人となりなど知る由もなかった僕はそれを読んで、やっぱり彼を好きだったのは間違ってなかったんだなと思う。こんな形で読みたくはなかった。でももう彼が彼自身について語ることはもう無いのだから、彼の生き方に触れた誰かのテキストをもっと読みたいなと思う。願わくば、それは彼の死に方と切断された形で。

彼はセンセーショナルな死に方をしなくたって、十分に語るべきところのある人だったのだろうと思う。交通事故で死んだ人の人となりをさんざ語ったあげく「そんな人だから交通事故に巻き込まれたわけで」とはならないように、そういう風にhagexさんという人柄が語られてるのを見て悼みたいなと思う。やりきれないな。以上です。