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出遅れた2016年暫定賛歌

ブログ、という自分の好きに文章を書いていい場所があるんですけど(おでんつんつん動画をアップさえしなければ何を書いても何人殺そうが亜光速のがんもどきで何人のこめかきを撃ち抜こうが全く問題がない場所)、一年の締めみたいなものを、今年は明確に「今年はもう別に書かなくていいでしょ」と思って書かないでいて、大晦日だって言ってんのに麻辣ピーナッツが置いてあるファミマを探してチャリで15kmほど放浪してその間にポケモンの卵が3,4とか孵り、そういえば年越しそばに入れる刻みネギを買い忘れていることに気づきスーパーに立ち戻ったものの言わずもがな俺がそんな理由でスーパーを訪れたのと同様にその日は誰しもが一年で一番にネギを求めた日だったものだから刻みネギはとうに売り切れていて、本当のことを言えば殴りかかったらたぶん勝てるしかつネギを持ってそうなジジイはたくさんいたのだけれど、良いお年をの気持ちでネギは諦めて家に戻り、風呂に入り、風呂から上がり、酒を飲み、紅白を眺め、オリラジが縁起物に昇華した瞬間を見かけ、それで年を跨ぎ、揚げと海老天の両方を乗せたしかしネギがないそばを食い、嫁と今年もよろしくねなんて言って嫁は寝て、それでテレビを点けてて嫁に寝れないんだけどなんて言われても嫌なのでテレビは消して、お皿を片付けて洗ってまだ眠くなかったのでテレビも消しちゃったし仕方なくパソコンを開いてみたら、2016年を締めくくるエントリを書いてるブログがたくさん目について、なんだ「今年は書かなくていいでしょ」なんて思っていたのはこの世界における僕のたった僕で、いやもっといるんだけどね、ブログアカウント持っていて一年の総括エントリを書いてないやつなんざ死ぬほどいるんだけど、それでも書かなかった僕の視界に入ったのはてんでわざわざ書いたやつばかりだった。それがなんだか面白くって、「ああ、そう」と僕は思った。僕は書かなかったけど、それは僕だけの都合で他の人は勝手に書いていた。それを僕は見て、内容はまだ全然ちゃんと読んでないんだけど、「そうか、お前らには一年なんか色々あったんだな、まぁ俺は知らないけど」と思った。それは、「ああ、俺もやっぱり書いときゃよかったなぁ」なんて話では全然なくって、ただ、俺が俺のいる場所から俺のいない場所を見渡せばチカチカとせせこましい光があって、それを見かけてわははと笑い、オーイと声をかける俺は、きっとその光がなければきっと黙ったままでいたのだ。何もないところにオーイと呼びかけるのはどうにも背中が寒くって、オーイと叫ぶ方角を誰だって探してる。その探してる視界の先に、僕がいたらと思うと僕はオーイと叫ばずにはいられないし、僕にそう思わせるのは僕の瞳に飛び込んでくる眩しくもなんともないずっと遠くのあなただ。以上です。

仗助は成長した。吉良吉影は成長を拒んだ。

上記の増田の言ってることはまぁすげえ分かるし何の文句もないのね。でもまぁ俺には俺の感想がある。こっちも読んじゃった以上書きたくなっちゃったから。そういうわけで、原作は過去に読んでるうえでジョジョ4部のアニメも全部見た人のざっくりとした感想です。

でもやっぱ見てて思ったのは、荒木さんってすごいブレない、明快な作劇をする人だなってことですよね。最初っから最後まで全部カッチリ決まってる状態で書き始めたんだななんて印象はまるでないけれども何が骨子なのか、テーマなのか、何と何の対立を描きたいのか、x軸は何でy軸は何なのか、すんごいぶっとい柱としてあるんだな荒木さんの中に、ってことは思った。

いや、なんつうかこう、あのシーンとあのシーンはこういう対比で!!みたいなかっちりしたことは苦手なんであんま言えないんですけど、なんかいちいち関心してしまう感じはありますよ。

まずメインの主人公格3人、仗助・億泰・康一、こいつらの成長がすごい丁寧に描かれてるってのは一目瞭然じゃないですか。それに対してラスボスである吉良吉影の向上心の無さってすごいですよね。「成長」とは真逆のコンセプトのキャラクターですよね。いや、吉良吉影という人間自体は自分の生活を守るために必死で、ある意味ではすごい向上心がある人間なんですけど、そうして生まれたアナザーバイツァダストについても過去に自分を吹っ飛ばす能力なんだから随分後ろ向きな能力ではありますよね。この対比がまずひとつでかくって。

4部のx軸y軸でいうと、「成長と停滞」みたいなのと「利己と利他」みたいなのってすげえわかりやすくあると思うんですよね。吉良吉影というラスボスは「停滞と利己」という最悪を突き詰めたバランスゆえのラスボスだったんだろうなと思うんですけど、その中途に現れる敵スタンドにおいても鉄塔男なんかはね、あのスタンドは露骨に「停滞」を象徴してたよなーとか、脳みそが足りないもんだから成長というか前進しか考えないネズミのスタンド使いが現れたのも印象的ですし、ジャンケン小僧みたいに露骨に成長を望む敵も多数、露伴もそうだしハイウェイスターの奴なんかもそうですよね。あくまでそれは二項対立ではなくってx軸y軸の話だから、別に後に味方になるやつでも停滞を望んだり、利己的だったりもする。しげちーとかは、初登場時の行動原理の自分勝手さは大したものだったのだけれど、なんか殺人鬼相手だと大変な男前になった。

あと、「成長と停滞・利己と利他」をテーマだと仮定すると、あの料理人は結構面白くって、個人にはそんなテーマを押し付けつつ、「町」を主人公にしようとするような話を作るにあたって「新陳代謝」をモチーフにしたスタンド能力が出て来るのはある種の必然であるようにも感じる。

自分が今どこらへんの話をしてるのか眠すぎてわからんなってきてるのでテキトーに進めますが、戻るに、増田の主張はまぁわからんでもない。承太郎がとどめを刺すのってどうなの?

これについて思うのは、たしかに吉良の顛末ひとつを見ればそういう印象にもなるけれども、遡って吉良の親父の写真のお化けの死に様を考えるとどうだろう、とかは思う。高校生のうら若き主役が手を血に染めてはならぬ、という配慮で大人の承太郎がでしゃばったとなればそれが納得いかないという人の気持ちもよくわかる。しかし、それでいえば仗助はわりかしにトリッキーな手で吉良の親父を(もともと死人とは言え)殺しにかかったのである(しかもかちかち山のたぬきみたいなエグい手で)。

子供をただただ大事に甘やかして殺人すら肯定している父を、仗助は実の息子に殺させて。で、仗助自身はその殺人鬼の息子を承太郎にとどめを刺させるの、なんか僕はすごく自然ななりゆきに思わされた。

成長と停滞でいうと、残る者、託す者、みたいなことも感じる。4部は高校生の面々が主にクローズアップされてたのは言わずもがな、彼らに何を教えてやるかが大人でもある。そこで良い部分を見せたのが承太郎で、悪い部分を見せたのが吉良だった気もする。ここらへんはまぁ「利己と利他」だったりもする。自分らの後輩に未来においてどうあって欲しいか、が「今」の在り方に直結する。そう考えると、承太郎と吉良ってとても鮮やかな対比だし、承太郎が吉良をぶん殴るのもすごい必然性に感じる。

あとは、そうね、荒木さん自身もジャンプにおける自分の立ち位置について考えると、ただの正義VS悪みたいなのはダルかろうな、とか思って。3部の主人公の承太郎を保護者役として登場させたのもそういう感覚がやっぱ本人の中にもあったのかなぁみたいなことはちょっと思った。

いや、でもどう転んだってねえ、ありゃあ青春で、成長で、奇妙な冒険でしたよ。ケチつけたい気持ちはすげえわかるけどなぁ、つけなきゃ駄目かなぁ。そこんとこ俺にはちょっとよくわからん。寝ます。以上です。

自分も与えてやれてる実感を持てないと、ただ一方的に与えられるのは怖い

読んで、なんか思いついたことを書く。この増田の参考になる話なのかは知らん。

と言いながら書き始めてはみたものの、掲題のとおりでそれ以上言うことは実はあんまりない。

 

人間、意味がわからないこと、辻褄が合わないこと、どういう道理か見当がつかないものってやつは、そりゃあもうそれだけでどうしたっておっかない。

最近の僕がそれほど夜をおっかないと思わないのは、夜がなぜ暗いのか、夜はなぜやってきて、いつ去っていくのか、知識や経験で知っているからだ。

それらの理屈の一切合切を知らぬまま生きていたならば僕はきっと今よりずっと夜がおっかなかったろう。

 

道を歩いていて、知らない人が突然あなたに話しかけて、100万円をくれてやるから受け取れと詰め寄ってきたら、あなたはそれを受け取るだろうか?

僕はおっかなくてちょっと受け取れない。

それが100万円を咥えたアナグマとかだったら周囲に誰もいないことを確認してぶん殴るかもしれないけれど、人間相手ではそうもいかないし、じゃあもうそれはおっかなくて受け取れない。

僕が100万円を気兼ねなく受け取れるのは僕が100万円を受け取る道理があると思えた時だけだ。

 

きっと人に愛されるのも同様で、結局愛されることに根拠を見いだせないと、愛されて然るべき道理がないと、どれだけ深く愛されたところで、わけがわからず暗闇みたいにおっかない。

 

これは主観の問題だ。

 

「なぜ怪我をしないんですか?」と聞かれたイチローが「僕がいくらもらってると思います?」と答えたエピソードがあって、それを僕は「それだけの金額を気持ちよく受け取れる自分でいようとしたら自然と入念な身体管理をするようになって自然と怪我なんかしない」という話に解釈した。

愛されるのもおんなじで、僕はまぁわりに嫁さんを大事にしてる人だと他人に思われることが多い人間なのだけれども「どうしてそんなに奥さんを大事にできるの?」と言われたら「僕がどれだけ愛されてると思います?」と答えるのは割に容易い。

 

けれどもこれは「愛されたらそのぶんこちらも愛するのが当たり前でしょ?」みたいなスマートでかっくいー話では全然なくてどちらかというと、大酒飲みの僕があんまり酒を飲まない奴と居酒屋に行って、向こうの善意で割り勘にされそうになるとあせる感じに似てる。

俺の方が多く払わないと道理が合わない、負い目になって普通に喋れなくなるから割り勘だけは勘弁してくれ、となるあの感覚に似ている。

普通に愛されてることを普通に幸せだと思えないってことは結局、実のところそんなに深刻な話でもなくて、そういう「俺ばっかこんなに飲んで割り勘でいいはずがない」と同じくらいの感覚なのではないか。

 

これは何も愛される資格云々みたいな偉そうな話じゃなくて、人それぞれの主観の話だ。

 

人はただ何もせずただ愛されて別にいいんだけど、本人が納得できないなら、仕方ない。じゃあ気持ちよく受け取れるような自分になるしかない。

家事を頑張るでもセックスを頑張るでも楽しい会話ができるよう頑張るでも愛してる気持ちを何らかの形でもっとたくさん伝えるでも、やり方は本当になんでもいい。

ただ与えられるんじゃなくて、「自分で引き出したんだ」って手応えのある「愛してる」を相手から勝ち取っていく作業を重ねることが、自分に向けられた愛をずっと信じていくために必要な人もいるのではないかと思う。

 

繰り返すにこれは何も「お前はそれくらい頑張らないと愛される資格がないんだ」とかそんなけったいな話でもなくて、人よりもたくさん身体を動かさないとなかなか気持ちよく眠れない人もいるよね、みたいな話だと思う。

そういう人に生まれちゃったら、もう自分はそういう人生なんだと割り切って、毎日24時間のうちの一部を筋トレとランニングに当てて生きていくより仕方ない。それで気持ちよく寝れるなら御の字だ。

そんな調子で自分に向けられた愛に自分もまた向き合う時間を作っていくしかないんじゃないだろうか。

みたいなことを思った。

そして愛したい愛されたいに限らず何かにつけて何も考えずに素直に受け取って喜んだり泣いたりみたいなそんな善良な人間みたいなことを俺なんかがするのはなんだか申し訳ないとてもとても後ろめたくて堪らないみたいな人間が書いてるのがこのブログであったりもする。

「なんでそんな書いてるの?」に対する答えの一つは「僕がどれくらい生かされてると思います?」なのかもしれない。

 

あと、100万円咥えたアナグマぶん殴って倒したら体長5mくらいのボスアナグマが追ってきそう(100万円を手放してる間は追ってこない)。以上です。