←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

前厄本厄後厄を序破急に置き換えてみる(2025年暫定賛歌)

サボってる時もあるが年末にはできるだけ西暦を頭につけて「暫定賛歌」というタイトルでブログを書くようにしてきた。さしづめこのエントリは「2025年暫定賛歌」というのが本来のタイトルになるはずだが、今回はこのようなタイトルにしてみた。理由は後述する。

「暫定賛歌」というのはおそらく俺が勝手に言ってるだけの造語のはずなのだが10年以上使い続けている。意味はそのままで、暫定的な賛歌だ。くそったれな世の中でちっともよくならない政治や社会、テレビからネットからご近所から歩く町並みで見かけるポスターからうんざりするようなニュースを浴び続ける毎日が生まれてからずっと続いている。それでも俺は賛歌を歌っていたい。このとっ散らかった世界を、その世界を少しでも良くしたい人間を、その世界でもがき苦しむ人間を、そんな世界なぞ俺には関係ないと言わんばかりに我が道を突き進む人間を、そしてそんなくそったれな世界をより強固にしようと目論んでいるようにしか俺には見えない人間も、それはどこぞの偉い人も何かに突き動かされてやけっぱちになってる人も、その全てに対して俺は賛歌を歌い続けていたい。残念なことにもともとの自分の性根がどうしようもなく捻じくり曲がっているので、普段の俺はそれらを基本的に笑い飛ばして茶化して屁理屈をこねくり回して、そんな形でしか表現しないので誤解されがちだが実は結構世界を愛したいし世界にはよくなって欲しいし、本当に全員みんなが幸せな世界になればいいのにな、そのために俺に何ができるかなということをマジマジのマジで考えていたりするのだ。うっそぴょ〜ん!いや、嘘嘘。うっそぴょ〜んが嘘嘘。

一方で、自分の世界の愛し方、世界に対して自分ができることなんぞや常々考えてるものが「うんうん、それは素晴らしいね、これからもずっとそうしていきなさい」と自分で思うことなどできるはずもない。日々変化する世界でそんなこと思えるやつは端的に言ってただの阿呆だ。だから「暫定」という言葉を枕につけている。あくまで今年はこう思ってますけど来年の暮れにどう思っているかは全然わかりませんよというエクスキューズだ。何らかの思想や方針を確定的明らかな正解として邁進してだか盲信してだか実利的にしてだか生きてる人は昔からいくらでもいたのだろう。しかしながらそういう人がやたら目につき鼻につく生活環境が一昔前に比べて極まっている昨今を眺めると、賛歌を歌う時に「暫定的な今の僕の考えていることです」と前置きする言葉を作っておいたことは我ながら慧眼であったと感心する。

前置きが長くなってしまうのはいつものことであるが、そういうわけでこれは「2025年暫定賛歌」、或いは年に一度だけしか書かない、僕が僕のためだけに書く日記です。

 

思えば俺にとって2025年は散々な一年となった。様々なトラブルが公私を問わず私に舞い込み続けた。そのすべてをここに記そうとすれば長渕剛桜島ライブくらい長くなってしまうので割愛するが、結論として私は今年の12月にうつ病の診断を受けて休職を余儀なく選択するに至った。理由は複合的なもので火山が噴火を繰り返しては大きくなっていくのと同じようなものかなとイメージしている。「え、桜島ってそんな噴火してでかくなってるの?」と思ったそこのあなた、たぶんその疑問は間違いではなくて俺自身も今わざわざ長渕剛桜島を持ち出さないでも「コップの水が溢れた」とかでよかったんじゃね?と思っている。

ともあれ「私は少し壊れてしまった」という初めての状況を受け入れながら私の2025年は終わりを迎える。先のことは何もわからない。

 

話は変わって掲題のタイトルに話は戻るのだが、散々な一年を迎えた私はどうやら年齢的に前厄の年にあたるらしい。若い時はというか今の状況を受け入れるその瞬間まで私は厄年というオカルトを思いっきり馬鹿にしていた。それくらいの年齢の時はそりゃ何かしら誰でも大変なこともあるのが普通だろう、それをわざわざ厄年がどうのと厄祓いやっとけだのと促し祈祷料をせしめる神社の連中をとんだ銭ゲバだと思っていた。しかしいざ前厄の年齢になったと思ったらこのザマの俺である。つまるところ、俺は睡眠導入剤を飲んでから布団に入る生活を始めるとともにこの厄年という概念とも向き合わざるをえない羽目に陥ったのだ。

働いてないので時間は無限のようにあるので思索に思索を重ねた結果(そんな難しいことを考えるのはおやめなさいと医者には嗜められてるが)、俺が辿り着いた結論は具体的な年齢は関係なく人生を見つめ直して人生をやり直すのには三年かかる、という教訓こそが厄年なのではないかということであった。

まず今までの生き方を否定しなくてはならない状況に至るのが前厄であり、序。これまでの生き方が否定されるので破っぽいけど、序。終わりの始まりということばもあるように、新しい生き方を探さなくてはならないキッカケとそれにまつわる災難に振り回されるのが序。まずこれに一年。

次にその今までの生き方とは違ったやり方を模索するのが本厄。次の一歩を踏み出すために新たな困難に立ち向かう。これもた序っぽいけど破。冒険の始まりだ!と言うのは簡単だがそれまでの生き方を破壊する必要があるのでやっぱり序ではなく破。そしてまたこれに一年を費やす。

その先に人生が好転してまた毎日楽しく生きられる環境を構築できてきて、しんどかった日々と訣別するための心の持ち直し方とか生活スタイルを確立するためにまた一年。これは完全なリスタートだから破っぽいんだけど自分をどんどん新陳代謝していく期間なんだからどちらかといえば急。

一応自分の中でそういうふうに解釈してやっていくかと今は考えていて、つまりなんで厄年がなんで三年も続くんだよ舐めんなよと思ってたんですが、生き方を見直すなら三年くらいかけてじっくりやりなさいよという話に解釈し直すとたしかに焦っても仕方ないなと思うに至ったわけです。

この話を書くにあたって序破急でいくか守破離でいくかすごく迷ったんですけど、守破離はなんか主体的すぎるというか全部自分でやらなくちゃならない感じがして、今日のところは「今の俺は環境や他人の力を借りながら自分という人生の物語の序破急をやらせてもらってるんだ、俺がどうにかして成長して社会のルールを守るところからそのルールを破って離れて自由を獲得するとかは俺に今必要なことではない。今の俺に必要なのは技術の習得ではなく物語の再構築なのだ」と思い至りこのような結論になりました。

 

休め休めと言われても脳がぐるぐる回って毎日大変。生まれてこの方勤勉に働き続けてきた俺の蟹味噌より甘くほろ苦い脳は考えることをやめられない。これが病いかどうかは知らない。多くの俺が愛してる人、俺を愛してくれる人に囲まれながら、けんもほろろに生きている。応えたい何かと自分自身のエゴとのあいだで揺られて脳のぐるぐるは止まらない。こんなに人に恵まれてるのに俺の寂しい心はぴくりとも動かないまま寂しいままだ。それでも自分みたいなもんを心配してくれる人たちに応えたい。ぐるぐるぐるぐる考えながら、とりあえずは気長にやっていく。

最悪な一年だったけど、来年もなんとかやっていこうと思える一日さえ一年に一度でもあれば。そんな一日を俺に幾ばくかでも与えてくれる人たちへの感謝こそあれば、俺は来年もふざけて笑ったような泣いたような顔をしながら生きていきたい。

あと、明日の紅白で星野源が京都のニンテンドーミュージアムで歌うの「絶対キャンセルされないやつ歌えばいいんだろう?ああん?」感があってすごく楽しみです。

みなさま良いお年を!暫定賛歌でした!

 

以上です。