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野木亜紀子『ちょっとだけエスパー』1話感想と今後の展開予想

140字に収まらないしブログに書くか~と思って軽い気持ちでブラウザ立ち上げたら5,000字書いてしまった。大作です。

 

とりあえずまだ1話なわけでシーズンドラマとしてのストーリー全体がこれからどこに向かうのか全然わからない1話で「わけわからん1話だった」と言い切ってしまうことはできるんだけど、面白かったか面白くなかったかでいうと全然面白いんだから野木亜紀子は大したもんだ。

何よりこれまでの野木亜紀子作品と比較すると設定の突飛さもノリも過去の代表作と比べてテイストが大きく異なり、こんだけ作風を確立して大御所作家と言って差し支えない評価を得てるのにチャレンジングなことをしていること自体リスペクト。

 

とはいえ、これから何が始まるかわからない1話時点でも野木亜紀子作品に流れる通奏低音のようなテーマの予感は示唆されている。

接触しないと発動しないちょっとだけテレパシー能力を会得した主人公が雑踏で浴びるネガティブな個人の叫びは、なるほどこれまでどおり現代社会で生活する人間の孤独という要素はやっていくんだなとわかる。

恐らくちょっとだけ未来予知能力によって課されるミッション、そのミッションを達成することによって個人の人生が好転したというリザルトが報告されて世界がちょっとだけ良くなる。これはMIU404で繰り返し語られた些細な行動による未来の分岐、あったかもしれない世界、なかったかもしれない世界というテーマを思わせる。

また恐らく物語全体のキーパーソンとなるであろう、今日初めて会ったはずの主人公を本当に愛している(テレパシー能力で確認したんだから本当に)偽物の妻。人の孤独と表裏一体のどんな形でもいいから誰かと繋がっていないと人は生きてはいけないというテーマも当然今後顕在化されていくのだろう。

エスパーの存在を匂わせる会話を偶然聴いてしまった大学生も当然これから重要人物として躍動していくのだろう。アンナチュラルやMIU404でも扱ってたのと同様に、個人の秘密を誰にも頼まれていないのに暴き告発しようとする人間の一面、根拠不明確な限られた情報を元に沸き起こる私刑的正義感情の暴走あるいは陰謀論。また彼らを利用するために悪意をもって作られるフェイクニュース。現代SNS社会の問題点もテーマとして入ってくるんだろうと思わせられる。

 

これらのエッセンスを自然に1話から盛り込むことによって荒唐無稽な設定で最後どこに向かうのか全然わからなくても信頼を持って素直に楽しめるというのはやっぱり野木亜紀子のこれまでの功績があってのことなのかもしれない。これが野木亜紀子作品じゃなかったら1話でとりあえず見るのやめて4話とか5話でネットで大絶賛されているのを見て「え、そんなに面白いのアレ!?」ってなるタイプの作品な気はする。

 

とは言え、これまでのリアリティを重視した現代を舞台に初手から世界観と人間関係と主人公の使命・役割が説明される真っ当な社会派ドラマであることが1話からわかる作風でやってきた野木亜紀子がファンタジー要素を大きく加えて挑む本作の大きな転換はやはりチャレンジングだなと思う。同時に、キャスティングが発表された時に「なんで野木亜紀子作品に大泉洋と宮﨑あおい?」と正直思ったが1話を見た時点で「そりゃこの二人くらい召喚しないと、こんなチャレンジできないよ」と納得した。

 

ストーリーの全体像がドラマ中盤までなかなか見えてこない構成で進める時は「巻き込まれ役」を一人設定するのがセオリーで、視聴者と同じようにわからないまんまに振り回される奴を一人おいておくと視聴者がそのキャラの視点から見れてついていきやすいみたいなパターンがお馴染みだ。ただ近年の日本のドラマでは「巻き込まれ主人公」ってかなり減ってるような気がする(体感です)。だいたい主人公は謎と使命を抱えた抜群に優秀でかっこいい尖ったキャラで、そこにいわゆるワトソンないし今泉くんの役割でキャリアの浅い新人・後輩が「巻き込まれ役」を引き受けるパターンが多い気がする(体感です)。なぜそんな傾向になっているのか(そもそも体感だけど)の分析は横道に逸れるのでこれ以上の言及はしない。そのうえで巻き込まれ型主人公ド真ん中の火の玉ストレートをぶん投げるとなった時、大泉洋主演という頼もしさは一話時点で納得だ。まぁぶっちゃけ大泉洋が「だいたいどんな役でもできる」というのはこれまでの実績でわかりきったことなのではあるが、自分の置かれている状況がまったくわからないまま周囲に振り回され続けて戸惑いながら無理難題を押し付けられながらなんとか自分の役割を探して果たそうと奔走する役がこれほどうまい人はなかなかいない。と、ここまで書いてて気付いたんだがそういうキャラクターを大泉洋が演じ続けていたのが彼の原点『水曜どうでしょう』である。もしかしてもしかするとそれを踏まえてのキャスティングなのかもしれない。

 

そしてドラマ全体を貫く謎になっていくのだろうか、ヒロイン。突飛すぎる登場で考察も1話時点では全く進められず、感情移入もできないしヒントが何もなくただただ謎すぎて逆になんの興味も持てない、入りとしては結構キツいキャラクター設定だなと思うのだが「まぁ、かわいいからいっか」で納得させる圧倒的宮﨑あおいである。大泉洋に比べてめちゃめちゃ字数少なくてごめんな。あ、今度家族でひらパー行くわ。旦那さんによろしく伝えておいてください。

 

野木亜紀子が今までと全然違う(最終的にはちょっとだけ違うになるのかもしれない)ことを始めるうえで今までとは違うタイプの役者さんを連れてきたんだなということはよくわかった。

 

ここからはたぶんこういうことやりたいんじゃねえかなという予想である。

 

1話時点で今後どうにか回収するのかどうなんだろうと気になったのは、他人に手を触れてる時だけ相手の思考を読み取れるちょっとだけテレパシー能力を持つ大泉洋。そして、ちょっとだけエスパーが力をあわせて達成しようとするミッションの対象ターゲット。これが全部男性だったというのが気になった。

街の雑踏を歩く人々にたまたま当たっちゃったようなフリをしながらその人々の声を聴き自分の能力を確かめる大泉洋。そのたまたま当たる対象はすべて男性だ。これがいわゆるノイズを作らないって側面はあるかもしれない。これは野木亜紀子のオリジナルストーリーなので「ノイズ」というワードチョイスに批判的な意図は一切ない。だってシンプルにあのシーンで大泉洋が女性にもタッチしてたら「うわこういうおっさんおるわキモ」って思う人が多くいるだろうし実際にキモい。なのでそう思わせないために男性の声しか聞かないようにしている配慮(厳密に言うと男性にならやってもいいというわけでもないんだがそこには多くの人はあまり違和感を覚えない)。

また、ミッションのターゲットもすべて男性。他人の生活に不自然な介入を大泉洋が試みるわけだからやっぱりここでも女性がターゲットになると「何このおっさんキモ」とみんな思うだろうので妥当な判断である。

大泉洋の寝てるベッドに宮﨑あおいが潜り込んできたシーンでセクハラまがいをしたことがないのが自慢と主張するセリフをわざわざ盛り込んでるあたりここらへんの観点は明らかに意図的である。

しかし作劇・演出の都合上そうなるのは必然だなと納得したうえで同時にひとつの疑問が発生する。

 

「え、世界を救うって言ってるけどこのやり方だと逆に男性しか救えなくない?」

 

だって世界を救う使命を担った大泉洋が主役で、おっさんの大泉洋は女性に過度な介入はできないんだったら男しか救えないじゃん。じゃあ女の方を救う女ばっかのチームがあるのか?みたいなパターンもあるかもしれないが、恐らくそうではない。そういった「やらない方がいいこと」へのちょっとだけ配慮も含めての「世界を救う」なのだ。

 

そもそも主人公の大泉洋は会社をクビになり妻には離婚され人生に失敗して社会に存在を否定されたいわゆる落伍者である。そして大泉洋とともにこれから活動する「ノナマーレ」のちょっとだけエスパーの仲間たちも恐らくみななんらかの不遇を経験した社会落伍者だと今後打ち明けられていくのではないかと予想している。

つまり、ノナマーレとは「自分が社会に否定されたから自分も社会に絶望して社会を否定しようとしている人間(今風の言い方だと無敵の人と言ってもいいかもしれない)をもう一度再起させるための更生施設」であると同時に「相互理解や互助が希薄で孤独がはびこる現代社会においてエンパワメントと連帯の精神を誰にも気づかれることなく社会に啓蒙しようとする秘密結社」なのではないだろうか。そこで出てくるのが恐らくミッションの起点となっているちょっとだけ未来予知能力。世界の片隅のランダムな誰かの未来分岐がちょっとだけ見えるだけでは世界をまるっと救うことはできないし、そもそも本当の意味での世界平和を実現するためには何千何万何億何兆以下略の分岐スイッチを操作すればいいのかこの世界の誰にも皆目検討がつかない。それでもせっかくちょっとだけ未来予知の力があるんだから、ちょっとだけでもいいから人を助けよう。そうして人に親切しよう人に優しくあろうって心をちょっとだけでも広めよう、どうせなら一緒にその目的を目指すメンバーは人に親切にしてもらえなかった人に優しくしてもらえなかった人たちにしよう、そういう話になるのではないかと予想している。

 

いわゆるペイフォワードの精神がこの作品のテーマになるのではないか。

 

そしてこのドラマのキャッチコピー、「誰も愛するな、世界のために」。

これは恐らくそのまま「誰も愛するな」ということではなく「特別な人にだけ特別な愛を注ぐな」というメッセージなのではないかと睨んでいる。それはいわゆる「自分にとって特別な人間以外の他人がどうなろうと知ったこっちゃないし一切手を差し伸べない」という傍観者である自分を肯定する自己責任主義と表裏一体なのである。

そしてこのような他人への無関心や冷酷さが今世の中に溢れかえっていてそのせいでどんどん世界が悪くなっているような気がして、自分が世界に置いてけぼりされているような気持ちを抱えて生きてる人がどんどん増えてるような感じがして、世界に否定された気持ちになった人たちが自分はここにいるよと叫ぶけど人に優しい叫び方もわからなくて誰かを傷つけてしまって、そして世界に否定された気持ちになってしまう人がまた増えて。そういう連鎖の繰り返し。みなさん身に覚えがあるんじゃないでしょうか。たとえばSNSでは一人ひとりにとってはちょっとだけの悪意で投げかけたちょっとだけの言葉なのかもしれませんが、それが膨大な数になると人の精神を殺し、命を殺す。

 

『ちょっとだけエスパー』「誰も愛するな、世界のために」から考えられるテーマはたぶんここらへんになってきて、「誰も愛するな」というのは「特別な愛なんかなくてもちょっとだけ善意があれば他人をいくらでもちょっとだけ助けることができる」、そして「世界のために」というのは「そういうちょっとだけをみんなが積み重ねることで世界はちょっとだけ良くなっていってそれが積み重なって世界を救うことになる」みたいな話になるのではないかなとわしは睨んどるね。

 

ちょっとだけ勇気を出せば、ちょっとだけ人を信じてみたら、ちょっとだけ優しくなれたら、誰でもちょっとだけヒーローになれるし、ちょっとだけ世界を救える。諦めないで、みんなでちょっとだけ世界を救おうよ。

 

以上です。