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「議論の呼び水になれば」と言うと聞こえはいいが結局はコストを強いている

おしゃべりが好きな人っていると思うんですけどおしゃべりとは要するに情報伝達のごっこ遊びであり、おしゃべり好きも度が過ぎるとどのような情報を共有するかはあんまり興味がなくなってきて如何に共有するかとか共有の精度とかそういう部分を面白がるめんどくさい生き物に成長します。俺です。共有したい考え方とか気分とかそのものは割とどうでもよくて、いかに共有しにくいものを共有するかとか「まぁわかるよ」とかぬるいやつじゃなくて「めっちゃわかる!」を目指したいとかそういうところに興味がある。ただしこのごっこ遊びをやるうえでは何かしら共有できる地点を探すテーマが必要になってくるので何かしら用意するんだけどもこんな性分なものでやたら難易度の高いものを好んで調達する傾向にある。実際のところ別にふざけてるわけでもないんだけどちゃんと真面目に考えてはいるんだけども、それすらも「真面目に考えないと面白くないから」みたいな、そういう身も蓋もない言い方をしてしまうのが一番しっくりくるレイヤーって誰に限らず大なり小なり持ってるんじゃねぇかなと思う。

もちろんこのようなごっこ遊びはやるのが非常にめんどくさいので、人も選べば場合も選ぶ。他人に迷惑かけちゃいかんよな、とそれなりに自覚して無理のない範囲で遊ぶよう心がけている。というか、人と場合をうまく選ばないと難易度が上がりすぎてこれもうある程度の着地点まで持ってける気がしねぇし俺自身がめんどくさいわ、となって非常にアレになるからなんだけど。

そう考えると「議論の呼び水になれば」「考えるキッカケになれば」という言い回しがあるけれどもアレってめちゃめちゃ危なっかしいよな、みたいなことをふと思った。当たり前すぎて忘れがちだけど議論をするにも考えるにも時間的だったり精神的だったりのコストがかかるし、まぁ絶望的にどうしようもない領域とかはあるものの(あるもののと言ったもののめちゃめちゃあるけども)ゴールまで辿り着けない時ってだいたいコストがかかりすぎてどちらかか或いは両方が息切れしちゃうみたいなパターンがほとんどだ。時間的コストを惜しんで迂回すべきところをすっ飛ばした結果すれ違ったりとか、慎ましやかな生活をおびやかす程度の精神的コストを察知して匙を投げちゃったりとか、まぁ情報伝達の失敗って大体そんなところだと思う。そして人間はめんどくさいことに経験から学ぶとっても利口な生き物であるので、自分で思ってる以上に失敗を覚えている。苦手意識を持つ。失敗を重ねれば重ねるほどそこにコストを支払うのを億劫がるようになるし、そうすればそうするほどに成功確率は下がっていく。と考えるとまずは考えることから始めよう的なとりあえず問題提起するっていうやり方は内容によってはなかなか後々まで人様に迷惑をかけてしまう深刻な大きなお世話になりかねない。少なくとも今回こそは大量にコストを支払ってでも成功してやるぞという覚悟が双方にある場合じゃないとデメリットの方が多そうだ。

まぁ、これがある特定の個人を想定した話であるのならば基本的には勝ち筋がある程度見えてるか負けてもまるで差し支えないところでたくさん遊んでうまく共有できた気持ちいい経験を二人の間で増やしてくことで難しい問題も意外とローコストで解決できるようになっていい感じかもしれない。いや、勝ちを積み重ねるだけでもやっぱりコストは結局たくさんかかるんだけどね。

なんか最初は議論とか社会問題とか考え方とかそういうのを想定して書いてたはずなんだけど途中から恋愛とか家族とか人間関係とかコミュニケーション全般についてのイメージが混ざってきてよくわからんなったけど、まぁ通じるだろ。最悪通じなくてもいいや(最悪)。以上です。