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記憶と押しピン

このエントリはせっかくちょっといい話をしたと思ったらそこから食べ物の愚痴で台無しになります。

好きな劇団の作家さんがブログを更新していたので読んでみたら過去公演でどんな話を書いたかはあんまり覚えてないけど作品タイトルを見るとそのお芝居を作ってる間のちょっとしたエピソード、ラーメン食ったな、とかみんなで車で行ったな、とかそういうことが思い出されるという話をしていて、付け加えて観る側にもそういう芝居でありたいなとも言っていて、僕はなんだかじんと来た。記憶ってなんだか確かにそういうもので、おのおの独立して存在することなんて出来ないくせにそのうえ記憶と記憶は決して理路整然と結びついてきちんと置かれているわけでもなくてそれはきっと単純に僕らの毎日は理路整然としていないからなんだろうけど、押しピンとして機能する記憶とその押しピンで押さえられる記憶とかがあるのかもしれないな、例えば僕は中学生の頃に流行ったとあるドラマのタイトルが想起されると「あ、あいつとあんなことで喧嘩したんだけどあれは俺がどう考えても悪かったよな」とかそんなことを思い出したりする。もちろんその喧嘩の原因はそのドラマとは何の関係もないのだけれど、記憶はそんな理路整然としてなさを僕に申し訳なく感じている素振りもなく、そのドラマに出演していた俳優を見かけたりだとかそのドラマのワンシーンと似た構図の風景だったりを目にした時に唐突に僕にそんな思い出を突き付けて苦々しい気持ちにさせられたりする。例えばカラオケにいけば毎回歌ういつもの歌をいつものように歌っていたとある瞬間に、これまでに何十回と歌ってきたうちのたった一回、いつかどこかで歌ったその前の日にあいつとこんな話をしたな、とか思い出したりする。これももちろん前の日にした話題が歌のテーマとマッチしていてその日の俺のハスキーボイスはいつも以上に熱を帯びていたとか別にそういうことではない。人間様の皮一枚被ってよたよた歩く僕だけどその下にはどろどろに溶けた記憶が混然となって巡っているだけで、それを大事に出し入れできない僕はせめてこの今もできる限り飲み込んでやってそのどろどろに取り込んでやろうと思うばかりだ。例えば一組の男女がいて愛しあっていて、やがてその二人が別れてしまったとしても二人が交わした愛の言葉はきっとその瞬間間違いなく本当だったんだろうと思いたいところが僕にはあって、普段から実はそう言いたいんだけれども過ぎ去ってしまった愛の言葉について易々とそう言い切れるほど過去と今とは近しいものではなくちょっと潜ってその言葉を探してこれるほど人の記憶のどろどろは浅いものではないのだろう。今だ今だと喚きながら今言いたいことをとりあえず言う意味があろうとなかろうと言う、というのが取り急ぎ僕が今大事にしていたいことの一つでこのブログもそういうところはあるんだろうけど、たぶん本当に大事な記憶をそのままに留めておく押しピンを探してるんだなと思った。

ところで人は食べたいものを食べて食べたくないものは極力食べないことにするのがお互いにとってハッピーなことなんじゃないかと思うんだけれど僕はもっぱら牛丼はなか卯派でその他の牛丼チェーンはあまり口に合わない。端的に言ってまずく感じる。今日も腹減ったしなか卯にでも行こうかなと外をブラブラ歩いていたのだが僕は何をとち狂ったのか「松屋とかたまに食ったらうまいんじゃないかな」と思い立ち松屋に足を運んでしまった。2013年一度も行ってなかったくらいの勢いで久しく行ってない松屋なのであるが、喉元過ぎれば何とやらはニュアンスが絶対微妙に違う、あの感覚は、長らく松屋を食べていなかったせいで僕の中にある松屋まずいという記憶が他の食事の記憶と擦れて摩耗してしまいすっかりなくなってしまっていたに違いない。結論から言うとまずかったんで絶対もう行かないぞと決めたんですけどハッキリとは覚えてないけど今こう思ってるってことは2012年に一回行った時も誓ったはずだしこのままでは俺は阿呆なのでいつかこの気持ちを忘れまたいずれ松屋に足を運んでしまうんじゃないかと思うと自分で自分の信用ならなさに眩暈がしてくる。幸いにも2013年一度も行ってなかったという実績及び事実及び記憶が今の僕の頭の中にはあるので僕はこの言葉を叫び脳に刻むことで少なくとも2020年までは誤って松屋に足を運ぶことではないのかと淡い祈りを込めて叫ぶ。オ・モ・テ・ナ・シ・オモテナシッ!以上です。