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フィクションを演じてるのは結局生身の人間なわけだけど

太田「あれも話題になりましたね!芦田、愛菜がいない!」

田中「いたよ!毎週出てただろ主役なんだから!」

という爆笑問題の漫才の下りまで織り込み済みのドラマ、『明日、ママがいない』が話題になってるようです。

ドラマ「明日、ママがいない」に中止要請 - 芸能ニュース : nikkansports.com

日テレ側は「最後までご覧いただきたい」 - 芸能ニュース : nikkansports.com

監修の野島伸司さんは登場人物の死や暴力や虐待や強姦やその手の設定をストーリーに織り込むのが大好きで兎に角どうにかして登場人物たちを絶望のドン底に叩き落として「底に愛はあるのかい?(江口洋介)」と鞭を振るって愛を探させる芸風の人なので、授業中にゲリラが学校占拠してくれたら俺は本気出して立ち向かって知恵と勇気で大活躍してみんなの信頼も勝ち取って人気者になって気になるあの娘もきっと俺のこと好きになってくれるのにみたいなことばっか考えてる中学生の進化系、あるいは絶対穴熊に組みたがる中級者みたいなものだと思ってます。

件のドラマに野島伸司さんが噛んでたことを僕が知ったのは中止要請のニュースをネットで見かけたタイミングだったので、野島伸司さんの話は今回どうでもいいんですけど、僕この一話見逃しちゃったんですよね。こんな話題になるなら折角だし観ときゃよかったなぁとちょっと残念ではあるんですけれども。

正確には一瞬観てたんですけどチャンネル変えちゃって。

そういうドラマがなんか始まるらしいというのは何となく知っていて「よし観よう!」というほどの食いつきはしてなかったんですが、あの芦田愛菜が!子役と犬と愉快な歌でなんとなく大ヒット!日本でも屈指の演技派・阿部サダヲがほとんどグーとパーしか使ってなかったチョキほとんど使わずに演技してたでお馴染み『マルモのオキテ』のあの芦田愛菜が!ハリウッドデビューを果たして凱旋帰国から初めての主演ドラマ!ということでチャンネル回してたらちょうど始まったところだったし観てみよっかなと思ってたんですが横で嫁から「割とほんとに観たくない」というお達しがあったためチャンネル変えました。

僕は割とストレスがかかるものでも平気で面白がって文句言いながら観るのが好きな方の人なんですけど、彼女は割とそういうの苦手で事前に避けたいタイプで、たとえば先日のテレビ放送で話題になってた『おおかみこどもの雨と雪』も「たぶん私は苦手な気がするから見ない」と言われており一人で映画を観るのが苦手な寂しがり屋の僕は未だに録画を見れないでいます(正確には観終わった後に感想をあーだこーだ言える人がいないと気が乗らない)。そして今回『明日、ママがいない』について彼女が観ないことを積極的に選択した理由というのが「子供がすれた演技をしているのを見るのが嫌」というものだったのですが、そこらへんの話をなんか書こうかなと思い筆をとりました次第です。どうぞよろしくお願い致します。

さて、日常ではすっかり当たり前の言葉として使われるようになって「演技力がある」だとか「あれは素ではなく演技だ」とか誰でも普通に口をしているわけですが実際のところ「演技をする」というのはそもそもどういうことなんだよって話です。結論から言うと「こう見てほしい風に見えるように振る舞う」というそのまんまの回答になるんですけど、じゃあどのようにすれば思ったように見てもらえるんだという話になると外面から攻めるか内面から攻めるかのどっちかしかないですよね。だって世の中には外面か内面かのどっちかしかないんだから。

いわゆる身体操作という技術の側面から演技を組み立てるってのが昔からの主流ではあります。例えば「演劇」という単語を聞いた時に、今は逆にもっと多様な解釈があるのかなぁ、僕が子供の頃なんかのイメージだと宝塚とか、ああいうのはモロに身体操作の側面を大事にしてますよね。女性役はこういう歩き方、男性役はこういう歩き方、悲しんでるシーンではこういう風に動いて、みたいな。もちろん根っこは「こう動くと人にはこう映る。映るよね?」みたいな感性との対話とか経験則を踏まえて作り上げられたものなんだろうけど結局そういうノウハウが蓄積されてくるとそれは様式となって演じている役柄の今の心情を表すのに適した記号はどれか、そしてその記号をいかに綺麗な所作で身体で表現するかとかそういう話になってくるわけです。歌舞伎なんかでは、男と女が寄り添う演技だけでも、その距離感とか足の向きとか色々によってその男と女が恋愛関係にあるのかないのかを表現したりしてるらしいですね。で、これが口で言うのは簡単なんですけど実際やってみろとなるとなかなか難儀なもんで、僕も昔素人ながら人の演技を指導してたこととかもあったんですけどお前がいくら悦に入って演じてようとこっちから絶世の美女に見えなかったら何の意味がねぇんだよ糞が!とクラスの全女子20人の白雪姫に怒鳴り散らしたりしたもんです(これはただのボケなんですけどついでにマジレスするとそういう教育現場のお芝居がどんな感じなのか最近話題として見かけなくなったけど、そんな大変なんやったらもう私小人でいい、ってなって一人しか白雪姫演らないのが自然な状態だろうとは思います。余談でした)。

ただ、そういう身体操作の方ばかりを大事にしているとぶっちゃけつまんねぇわけですよね。俺から見てつまんなく見える典型なんかだと古臭いイギリス人とかがやるシェイクスピアね、発声ももちろん身体操作の一つに含まれるわけですけど、あいつらはさすが世界一美しい英語遣いを自負してるだけあって(もちろん今は色々変わって面白いこといっぱいやってるはずだけど)その声の部分をむちゃくちゃ大事にしていて禄に動きもしないで朗読劇みたいなノリでちんたらちんたら大言壮語を吐き散らしてでそんなん見ててもこっちゃ眠くなるっちゅう話です。あともう一つ大きな問題が学のない奴にはわかんない、って問題で。結局こういう風に動いてる時はこういう表現なわけですよみたいなもんが様式化してしまうと、それを知らないやつにはよくわかんなくなってきて退屈に見えちゃうわけですね。身体操作に重きを置いた演技の間口の狭さというのが弊害として目立ち始めたのが映画という文化が出てきたくらいのタイミングで、演技を映像として保存できることになってそこかしこでなんぼでも再現できるようになった結果「人が演技している何かしら」という娯楽に触れられる人がガバッと増えて市場が拡大したあたりで、そういう古臭い由緒正しい演技じゃなくてもっと分かりやすくて客が盛り上がるような演技っていうのはないもんかねという流れで出てきたのがメソッド演技と呼ばれる手法です。

このメソッド演技、簡単に言ってしまうとそういう身体操作とか外面はいいから内面的な役作りさえしっかりやっておけばそりゃあ人の心を動かす演技になるだろう、という考え方です。要するに本当に怒ってる人は怒ってるように見えるし、本当に悲しんでる人は悲しんでるように見えるに決まってるだろう、というめちゃめちゃ乱暴な考え方です。確かに言ってることはごもっともで「鬼気迫る」なんて言葉もありますが、自分が関係ない第三者であれば例えばメンヘラの感情表現ってすげぇ見ごたえがあるし説得力もあるし見世物として面白いよねとかそういう話です。じゃあ実際にどうやって役作りを進めていきましょうかというと、たぶん僕の勉強不足もあって色んな方法があるんでしょうけど一番ポピュラーなところで言うと演じる役柄の置かれた境遇に近いような演者自身のエピソードを掘り起こして紐づけて、対話や反芻を繰り返すことでその時の演者自身の感情をどんどん大きくしていくとかそういうやり方です。これに成功すればいわゆる役者はその演じる役柄そのものになれるわけで、そのものになったのであれば小手先の身体操作なんかに頼らなくてもリアリティがあって説得力のある演技ができるだろうという寸法です。ここまで書いてるだけでも相当に乱暴でだいじょぶか的なムードが漂うメソッド演技ですが、やっぱりこれに伴う弊害というものは起こるわけで過去の自分のネガティブな体験に過剰に寄り添うことが原因で心の調子を崩してしまい薬物依存になったりアルコール依存になったりまぁ何かしら実生活に影響を及ぼしてしまうというデメリットが多発してて確か有名どころでいうとマリリン・モンローとかもそんな感じでやばかったみたいな話だったと思います。「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」なんてことわざを地でいってるようなイメージです。

なので、たぶん現段階としてはめちゃめちゃ当たり前の結論だとは思うんですけど、メソッド演技に頼りすぎるのもあれだから基礎的な身体操作の部分と脚本の読み込みをうまいことバランスとって、言い感じにやりましょうみたいな考え方が恐らく主流になってるんじゃねぇかなと思うんですけど。ぶっちゃけメソッド演技的なやり方って付け焼刃としてはめちゃめちゃ切れ味よくて演者自身の基礎能力とかあんまり関係なくそれなりに観られるようになっちゃったりとかもあってすげぇ便利だと思うんですよね。こういった時代的な経緯を知ってか知らずかなんとかメソッド演技で押し通そうとしてる人たちって実はたくさんいるんじゃねぇかなとか心配になってしまう。誰にやれって指示されなくてもこれを導入すりゃあもっと自分が良く見えるんじゃねぇかなと自主的に選択してる人だって役者云々を問わずたくさんいそうな現代だよね。最近話題の居酒屋甲子園だとかAKB総選挙とかもそういう側面って絶対あるわけじゃないですか。自分でコントロールできないくらいその感情に酔っちゃえば外からは絶対に「そういう感情の人」に見えるわけだから。俺の好みでいうとAKBの裏側に注目したドキュメンタリー映画、あれが全部作り物っていう設定のドキュメンタリーを見たいよね。舞台直前を控えて緊張した面持ちで震えてるメンバーが映ってると思ったら「はい、カットー!」つって演技指導の人とかが「お前ら全然駄目じゃねぇか!そんなんで真に迫ってるつもりか!」つって怒鳴り散らして、みんな泣きながらそれを聞いてはい!はい!って返事してて「いいか、泣くくらいやってみろってんだ!プロってのはな、悲しくなくても泣くんだよ!」「はい!」「声が小せえよできんのか!?」「はい!」「できんのかって聞いてんだよ!!(灰皿を投げる)」「できます!!」つって号泣しながら若い女の子が叫んで、じゃあカメラ回すからなー泣けよー、はい!とか言って震えながら泣く演技をする女の子なんだけどお前さっき本気で泣いてたからもうそれ演技じゃないだろみたいな。それではいカットー、よくできた、よかったよ。やればできるんだから、とか声をかけたら本気で涙して喜んだりしててもうそれは演技なのかマジなのかわからないしむしろお前はもう演じる演じないのオンオフ壊れちゃってるよたぶん、みたいな。もしそういうの観れたら俺ぞくぞくしちゃうと思うけどね。人間にそんなことやっちゃダメだけどね。

例えば件の『明日、ママがいない』の話題でもフィクション如きにマジになってもしかたないじゃんみたいな立場は一定層いるんだろうけど、人間そんなフィクションと現実を綺麗に分断して受け取れるほど器用な生き物じゃないし、受け取る側が馬鹿だってのはそれでそれはいいんだけど、子役はああいうお芝居をどういう手順でこなしてるのかなーとかちょっと心配になったりとか。まあ、子役に演技させるのは虐待だ!なんて極論を言うつもりは毛頭ないんだけど、それ言い出すと何もできなくなるし。

まぁ、何より役割を演じて素が分からなくなる可能性ってみんな生活してて普通にありえる話だしね。警鐘ならすでもないけど、そういうのあるみたいですよ、みたいな話を、思いついたので書きました。以上です。