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「ビッグ・フィッシュ」という僕の大好き映画をうろ覚えでオススメします

見たの昔すぎてそんな覚えてないけど僕の思い出サバンナで真っ赤に燃えている、手負いの母親ライオンを真っ黒に浮かび上がらせながら地平線に沈んでいくそんなでっかな大好き作品をうろ覚えのままオススメしたら面白いんじゃないか、そして書いた後実際に観直してみたらなお面白いんじゃないか。俺が。と思って書いてみることにしました。取り上げるのは実際はもうちょっとちゃんとした格好してるはずなのに顔を想像するとなぜか穴だらけの糞ださいプリントTシャツを着ていることでお馴染みのティム・バートン監督作品「ビッグ・フィッシュ」です。

どうでもいいんですけど、動画配信のアフィリエイトってなんかあったっけ。ブログのレビュー読んでいきなり「じゃあちょっくらDVD買ってみよっかな」ってなる人類いないだろ。

さて、この映画ですがtwilogで遡るに恐らく最後に観たのは2010年よりもっと前、2003年に発表された作品でたぶんですけど少なくとも3回は観ています。で、とりあえず観たら毎回泣いていたような気がすることをご報告致します。サラッサラの鼻水が出るガチの泣き方であった旨を熨斗にしたためてご報告させて頂きます。

えーと、レビューっぽく書くやつを書く時に毎回思うんですけどネタバレしないレビューって読んでもつまんなくないですか?ネタバレあるんで、観たい人は回れ右でお願いします。スクロールしないとネタバレが見えないようにテキトーに文字数を埋めにかかりますけれども、ネタバレせずに面白く書けよと言われればそれまでですがネタバレしない限りにどこまで思いのたけを書き綴ろうとそれって煽ってるだけじゃんって感じで僕はあんまり面白く読めないんですけれどもそりゃそうだって話で、「観たらこの俺の興奮や感動わかるよ!」って内容しか書けない以上そんなもん煽り以外の何でもないじゃねぇかよと思ってしまいます。金もらってる文章だったら煽るのも仕事なんで仕方ないですけど、趣味で書いてる文章でネタバレ牽制しながらオススメするのってよくわからねぇよなと思ってしまう。悪いな、のび太このホームシアターは3人用なんだってなもんです。ただ、こういうこと言ってる時点で「この映画に出会った感動を一人でも多くの人に味わって欲しい!」みたいなピュアな白い羽が生えてるようなハートが俺にはないんだな、とも思うわけでなかなか泣けてきます。映画はあんまやらないですけど、話題のアニメ程度だったら余裕で本作見てないのにwikipedia読みますからね俺は。読んだうえで面白そうだったら本編見るみたいなん余裕でやる糞野郎ですから。この前うっかり間違えて綾辻行人館シリーズ最新刊「奇面館の殺人」のネタバレ読みそうになってたからね。推理小説でそれやっちゃったらさすがに駄目だろ、ていう。

じゃー、ぼちぼちネタバレ容赦しないうろ覚えレビューを始めるんですけど、まずはザクッとあらすじと感想を一緒くたに書いてみましょう(どう考えてもお前の技量不足じゃん)。

すげぇ平たく言うとこれは「父と子の物語」です。二人の主人公の片一方は夢想家の父です。彼の趣味は人に自分の人生の過去の出来事を人に語ることでして、その内容というのが俄かには信じがたい夢物語ばかりなんですね。例えば友達に巨人がいるんだよとか狼男に会ったことがあるんだよとかシャムの姉妹にあったことがあるんだよ、とかちょっと喋らせたらそんなことばっか言う困ったおっちゃんです。もう一人の主人公はそんなおっちゃんの息子なんですけれども、こいつがまぁ堅物でそんな夢見心地な絵空事なんてくだらねぇと思ってます。父親がすんげー嫌いです。決定的だったのは、俺は親父みたいにはならねぇぞって調子で堅め堅めで生きていった彼の結婚式、彼の父親は彼の父親であるために彼の晴れの舞台でスピーチの仕事なんぞが与えられるのですが、そこでも父はいつもの調子で荒唐無稽な自分の笑い話を客人たちに楽しく披露してしまいます。息子からするとやってられません。お前はいつも自分の話しだな、てなります。そうして二人は半ば必然的に仲違い人生を歩み始めるわけですけれども、やがて時を経て父の身体は病に蝕まれ始め息子は久方ぶりに父の元を訪れます。たぶんここまでで冒頭15~30分くらい。あれ?ネタバレしてなくない?ここまでだったら全然観てない人も読んでOKの正統派あらすじじゃない?でも今更翻って「ここまでは読んでも大丈夫ですよ感」をアピールしに戻るのめんどくさいんでこのまま続けますけど。

で、まーそんな感じの導入でこの映画は始まるわけなんですけども、その後の展開は二段構えというか、お父さんの若い頃の物語とそのお父さんが死にそうな現在の息子の物語とが交互に流れます。お父さんの物語は、たぶん面白変わり者おじさんティム・バートンおじさんのお家芸的な奇妙だったり珍妙だったりな幻想的な描写の連続です。何せこのお父さんは馬鹿なことばっか言ってますので、それを映像で再現すると実に馬鹿で夢見心地なシーンが延々続きます。一方で息子さんのシーンはそんなお花畑性は皆無でまぁなんか普通の陰ぼったい現実世界な描写が延々続きます。で、そんなんをさんざっぱら繰り返した先のオチなんですけど、いやオチですけども、僕ネタバレしませんなんて一言も言ってませんけど?オチですけど?終盤、余命いくばくもない父親と二人きりになった息子は、父親の物語を引き継ぎ、荒唐無稽な夢物語のような人生を生きた男(父親)がどのような最期を迎えるのかを父の前で思い編み語りトーークを2時間スペシャルでするのです。

そんなわけで「父と子の物語」なわけなんですけれども、んーじゃあ直感的に俺は俺が父なり子としてこれを観て泣いてたんかなと思うんですが、必ずしもそうとは言えんなと思うわけです。あの感覚なんなんだろう、今こうして書いてても涙腺が緩む感じはなんだろうと思うに、結局「物語るということについての物語」と俺は捉えてんのかなーなどとテキトーに思います。ある程度の、定石というほど人の心に刺さってる実感はありませんけれども、僕は良かれと思って同じ言い方を多様する癖がありますが、その中の一つに「なんで本当のことを言わなければならないの?」ということを僕はそれこそ酔っ払ってスイッチが入った日には秒間20回申し上げます。日常生活の中でも隙あらば世間一般の皆様を支配している物理法則に反することをさも事実かのように口を突き突きしたい僕ですが、なぜそんな僕なのかは僕自身存じ上げません。不正解でも構わないのであれば一つ言えることは、僕の口から発せられる言葉が事実である事実でないに関わらず、それを発する僕こと俺は恐らく事実であるのであろうという思いが常日頃僕の耳の奥でボソボソと生活音を疎外します。例えば、僕が「僕はキツネである」と年間6億回申し上げたところで僕は決してキツネになりえませんが、少なくとも「僕はキツネであると年間6億回のたまう人」にはなりうるでしょう。これが、暫定的な今・僕の言葉や物語と僕との適切な距離感であると僕は考えています。そして、そのような距離感で発せられた言葉が到達する最果てで、僕と貴方は出会うのであろうと僕は考えている節があります。

僕や貴方は最果てに届く言葉を探しているのかなと僕はある時に思いました。もちろん、貴方がいる最果てにぶん投げるべき言葉は、特に事実に反する必要は必須ではありません。そういった意味でこの「ビッグ・フィッシュ」という物語は過剰に大袈裟なのかもしれません。それでも事実とは異なる「私」を語り連ねる父親と、そんな父の「私」の向こうに「父親の人生」を見つける息子という構図を見かけた僕は、なんだか生きて死ぬ個人の一つのゴールを見かけたような気分になります。僕らは分かって欲しくて喋り続けますが、ぶっちゃけたところ分かってもらえる言葉を吐く必要は別になく、ただ分かって欲しいから出る言葉を吐き続ける僕らこそが、僕を僕たらしめてくれる誰かの瞳に映る僕なのではないかとか、そんなことを僕は考えています。言葉は嘘でも真実でも説得力があってもなくても関係なくて、ただ物語る主体こそが誰かとつながるのであるのだなぁ、と当時この映画を観た僕は露とも思いませんでした。あんま何も考えずに観ていたと思うので、また今度ちゃんと観ます。以上です。