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何気ない何かに触れた時に感じる郷愁について

奥田民生の『タイミング』カバーが素晴らしすぎて頭から離れない

http://fahrenheitize.hateblo.jp/entry/20130521/1369069372

読んだ。読んで、それで中身について何か言いたいとかでもないんですけど。これを読んだ結果、今書きたくなった、ので書く、というそれだけなんですけど。なんかこういうラジオ深夜便みたいな軽いノリでなんだかやわらかい記事が定期的に上がるようなブログがいくつかあると灯台みたいでいいですよね。なんだか20代折り返すくらいから突如僕の中で愛おしくなったものとして、「みんな生きてる」っていう感覚があるんですけど、ただ「みんな生きてる」にも色々あってたとえば街を行き交う人たちを見かけてもそこに「みんな生きてる」っていうのはあるわけですが、ああいうのはあまり面白くはなくて、どいつもこいつもソーシャルがうんたらとギャーギャー喚きやがって今ではリアルタイムであの人が今どこで何してるのかが結構観測できたりするようになって、それはそれで面白いし「みんな生きてる」ということではあるんだけれども、今俺が話してるグッとくる「みんな生きてる」とは何か違う。たとえば僕は27歳なのでそこには27年間があって、そんな僕の眼前に27歳の貴方が出現した場合、そこには貴方の27年間がある。これは1986年から2013年という期間がありましたって話じゃなくて27年間が二つある。僕のと貴方の。そして60歳の人には60年間がある。そしてそういうものがどうも60億ほどある。そういうことを何かの弾みにコンマ3秒でお察しした瞬間、俺はすげぇなんとも言えない気分になるんですね。なんとも言えないんだけどあえて雑でも何でもいいから言葉にしてみようとするなら郷愁に近いようなものを感じる。もちろん北海道に帰りたいとかいう話ではない。そもそもノリで使ったけど郷愁ってなんだ。辞書を引いてみると「他郷にあって故郷を懐かしく思う気持ち。ノスタルジア。」とある。

別にこれ前から言いたかったこととかじゃなくて今からアドリブでねつ造するやつなんですけど、例えばリンゴがそこにあればリンゴがそこにある理由が必ずあるのと同じように、故郷っていうのは生まれたところなわけでそうなるときっと僕が生まれたその場所には僕が生まれた理由があるはずだ。そっからいくとつまり少なくとも今俺がいるここは故郷ではないなと感じられます。別に死にたいほどでもなく毎日楽しく元気にやっていますがそんなに確固たる生まれた理由はなく、現在僕が持ち合わせてるいくつかの今ここにいる理由というやつはそのどれもが故郷ではないどこか、今日までに僕が歩いてきた道程のどこかで獲得したものばかりだからです。そう考えると、別に寂しくはないけれど、もう僕が故郷に帰れることはないのかもしれないなぁとか思うわけです。いや、日ごろ思うとかじゃなくて、今ねつ造してて今思ったやつなんですけど。そしてそういう故郷と今の距離感ってやつはたぶん僕だけじゃなくてみんなそうなんですけど、人間は、少なくとも自分は、自分のことこそなかなか見えてない生き物で、結果上記のような距離感を発見することは自分よりも他人を見て思う瞬間が多いのではないか、そしてそれを発見した瞬間に僕は郷愁のようなものを感じると同時に「みんな生きてる」という身も蓋もない事実を120%の実感とともに察し当たり前体操を踊り、踊った頃には忘れていて、またその実感を探してウロウロするのでしょうか。

生存確認に近いのかもしれない。「(生まれて、色々あって、)今います」みたいな。そういうの感じた時そういう気分になる。別に主義主張も思想も内容もあってもなくてもなんでもいい「いるよ」みたいな、それだけを感じれたら案外別になんでもよかったりするんだ。そして出来ることなら人は「いるよ」を自分からも呼びかけたいんじゃねぇかなとも思う。ただ、みんな照れ屋だから、「いるよ」だけを言うことが何だかできなくてあーだこーだ言っちゃうし、あるいはこの故郷じゃないどこかに居続けるためにはあーだこーだ言って自分がいる場所を確認しなくちゃならんという事情もあるから「いるよ」だけでいい時にも欲張ってあーだこーだ言っちゃうのかもしれない。だから純粋な「いるよ」はそんなしょっちゅうは見かけられないんだけど、本当はそれだけでいいんだけどね。なんかそういう話のような気がする。気。

で、あの信じてもらえるかわかんないんですけど、こんな話する予定じゃなかったんですよ。本当は俺が奥田民生の「すばらしい日々」がすごい好きなんだけど嫁さんは中学の頃にクラスのあんま好きじゃない男子がカラオケでよく歌っていたからあんまこの歌好きじゃないって感じで、それ俺はどうしたらいいのよ?みたいな話などを書くつもりでメモ帳開いたんですけど、4行目くらいで「ん、俺なんで今灯台つった?どういう意図の比喩なのよ?」って俺の中でなって脱線して、今です。「いるよ」って感じが灯台だったんですね。へー。糞よくある比喩じゃん。何字書いたよ。馬鹿かよ。

でもよくあるだろうが陳腐だろうがこういうのは実感込み込みで手触りまで味わってみないことには僕らの人生の役に立ってくれないだろうからずっとやってくしかないんでしょうけどね。感じて愛でて噛んで触って、そっと置く。そういうのの積み重ねこそが故郷から遠く離れたところでやっていくコツであり、それだけで「いるよ」とも言えて、人にとっての灯台になりうる。有益でロジカルな情報でホッテントリも叩きだしつつ、こういう灯台みたいな柔らかい記事もささっと書いちゃうリンク元の人はやっぱすごいね、って話でした。それに比べて俺のこのザマね、そんな灯台記事に触発されて出来上がったのがこれ?ていう。灯台打ち壊して火をつけて太鼓はどんどこどんどこうるせえしテンション上がりすぎた挙句に全裸になって大地に泣きながら接吻してるみたいなこの有様。なんで泣いてんだよ。そして、タダでさえこの話に参照リンクいる?みたいな散らかり方してるのにもうめんどくせぇからリンク元褒めて切り上げよっかなと思ったら、大地に接吻どうしても言いたくなっちゃって締めるに締められなくなってるこの感じね。こんな感じですが要約すると「いるよ」というだけの文章を書いていきたいなと思いました。引き続きよろしくお願いします。以上です。