←ズイショ→

ズイショさんのブログはズイショさんの人生のズイショで更新されます!

オタクは推しを「産んでる」のかもしれん

某お笑い芸人に一目惚れして推しになった人が色々やりすぎて推しに嫌われてしまったみたいな話が話題になってたので読んだ。

被害者側(の相方)の対応も含めてすべてが感情がゴリゴリに前のめりに先走ってる話なのでここの部分がおかしいとかここの部分は同情できるとかここでこうしてたらもう少し違ったんじゃないのかみたいな話をしたって仕方ないのでまるっと割愛するが、これだけは思ったこと書き残しておこうと筆を取ったのが掲題の感覚だった。

 

こういうファンばっかりだとは思わないが、まあこれに近い感覚で推しを推すファンって一定数いるんだろうとは認識している。俺にはそういう感覚がビタイチわからないので「そういう人もいるんだな」くらいに考えていたのだが、今回のnoteで言語化されてる当人の思考を見て、この人たちもしかして「産んでる」んじゃないのかなと思ったのである。これはもちろん比喩で「産んだ気になってる」とかの方が割と正確なのだが、あえて「産んでる」と呼ぶ。

ここまでどっぷりいってるファンの話はしばしば見かけるが、だいたい一目ぼれの瞬間はその当人が人生の中でものすごく苦しい時期にやってくる。自分がものすごく苦しい時にその推しに出会って、パァッと自分の人生から見える景色が色彩を帯びて多幸感に包まれてる。それってなんかもう、自分の人生の苦しみを産みの苦しみと誤認して、推しを産んだ気になっていないか?

我が子はかわいい、大変な思いをして授かった我が子、そりゃかわいいだろう。幸せになってほしいだろう。そして推しが幸せになるために売れるために有名になるためにもっと多くの人に好きになってもらえるために足りないものがあったらそりゃあ気になるだろう。推しの幸せや大成を願えばこそ一言忠告せずにはいられないだろう。心情としてはわかる、俺にはビタイチ持ち合わせていない考え方だが心情としてはわかる。なぜなら、そういう風に愛してるからこそ子どもをコントロールしようとする親を過去に見かけた経験を数えれば枚挙にいとまがないからだ。

つまり彼らは人生の苦しい瞬間に推しと出会った一目惚れを通して、ほとんど「産んでる」のだ。

子は選ばれて親の元にやってくるわけではない。しかし、それでも唯一無二の我が子だ。愛おしくて愛おしくて仕方がない。幸せになってほしい。幸せになってもらうためには幸せになって然るべきルートを歩んでもらわなくてはならない。成功する見込みがあるからと吟味したわけではなくほとんど産んだみたいな一目惚れであればこそ、推しの大成を願ってあーだこーだ言いたくなるのかもしれない。

そういう親、めっちゃおる。

その推しが才能を見込んで見染めた生身の人間であれば本人の置かれている環境たとえば事務所や芸能界のありかたに文句を言えるだろう、その推しがソシャゲのキャラであればそのキャラを冷遇して解釈違いの使い方をする運営に文句を言えるだろう、その推しが漫画のキャラであれば作者に文句を言えるであろう、しかしその推しが特に才能にほだされたでもないほとんど産んだみたいな一目惚れであれば文句を言う先はどこに向かうであろうか、そりゃ本人に行くのだろう。だってもう感覚的には親なのだから。我が子が幸せになることを誰よりも願い、そのためになら誰よりも厳しく律する、世界の誰もが見放しても自分だけは見放すことなく、その子が世界に受け入れられるように徹底的に心配して指導して面倒を見て、何より推しの行動のひとつひとつに誰よりも深く一喜一憂する。そういう親、なんぼでもおる。

 

なので、そういうふうに考えて解釈してみたら「なるほどそういうことなのか」と思った。

 

これを書いている俺も一児の親をやってるんだが、じゃあ親だからその感覚がわかるんかお前の中にあるんかと言われたらまったくわからん、まったくない。推しだろうが我が子だろうが所詮は他人だ、俺にどうこうできることはないし、なるようにしかならん、育つようにしか育たん。だからどのみちわからんのだが俺にとってのそういう当たり前が全く通用しない、愛ゆえに我が子をなんとかしてあげたくて仕方ない親、我が子のあるべき姿を調停してあげなくてはならんと考える親、そういうやつは割と普遍的に見かける機会があって、ネットでたまに見かける推しを推しすぎてしまうやつよりは見かける機会があって、でも本質は同じなんかなと思ったら俺の中で腑に落ちた。腑に落ちただけでそれ以上は何もない。

 

他人は思い通りにならない、孤独を愛して、隣の孤独を何も言わずに愛したい。

 

以上です。

実写ドラマ『十角館の殺人』俺と島田潔の解釈違い

ネタバレっちゃネタバレだけどほとんど島田潔のキャラクターの話で事件の真相に迫るような言及はたぶんそんなないけどまあ自己責任で。というか面白いから全員観ろ!!

 

俺の小説版における島田潔のイメージ、なんかこうもっと一見するとなんでもなさそうなやつというか、そういう顔を使い分ける狡いやつみたいなイメージだったんだよなー。「人たらし」というよりは「人懐こい」、「キザったらしい」というよりは「ひょうきん」で、「軽薄」というよりは「自然体」、もちろん本質として一筋縄ではいかない油断ならないやつなのは間違いないしその雰囲気を醸し出す瞬間はあるんだけど基本的には人を警戒させないためにそのオーラは普段は消してて凡庸で無害なやつの擬態をながら人の懐に潜り込むのがうまいやつ、一方でぎくりとさせるような核心への言及をいきなり叩き込んでるみたいな二面生を持ったやつ、そういうキャラクターをイメージしていた。捜査の進め方でいうとそれこそ小学生のふりをして無邪気な好奇心を装ってピースを集める江戸川コナン的なやり方をするやつ。そしてそれを踏まえても青木崇高はそんな島田潔を演じてくれるはずだと期待してたんたけど、観てみたら思ったよりめっちゃ典型的な探偵野郎だった!人たらし、ともすれば露悪的なユーモア、軽薄、かっこつけ!思ってたんとちょっと違う!いや結構違う!そしてかっこいい!青木崇高版島田潔めちゃかっこいい!惚れる!俺もこんなおじさんと一緒に謎解きに立ち向かいたい!けど、俺のイメージの島田潔と比べるとかっこよすぎる!俺の考える島田潔はそんな一度会って二言三言と会話をしてみたら明らかに只者でないとわかるような誰にでも一目置かれるようなわかりやすい男ではない。もっとふつうにちょっと人より距離感が近くてなんだこいつと思われるけどどこか憎めないので受け入れられてしまうみたいな、そういうのをわざとやってるタイプのやつなんだよー。青木崇高版島田潔なんて明らかに油断ならないやつなんだから、こんな島田潔に紅さん心を開いちゃダメだよ。もっとこう、島田潔は紅さんにとって「変わり者の俺を慕ってくれるあまり踏み込んではこないから別にいてくれていいかなと思っちゃう無害な変わり者の後輩」っぽいやつだったんだよ俺の中でのイメージは。もっとどんくさそうなオーラが島田潔にはあってほしかった。こんな喧嘩も強そうな島田潔、島田潔じゃない!こんな二重の極みを使いそうな島田潔、島田潔じゃない!それは仕方がないだろ!!

そしてまあこの俺が考える島田潔像、そこまで俺の勝手なお気持ち表明だとも思っていなくて、というのもこの十角館という作品にはもう1人明らかに探偵然とした振る舞いをするエラリイというキャラクターがいて、そんなやつが作中に2人もいるとうるさくて敵わないので島田潔は意図的にエラリイのような「いかにも探偵らしい自信家のキザ」ではなく「飄々とした食えないやつ」に設定されてたんじゃないかと思っている。けどまあ実写版だと大学生の探偵ごっこエラリイと、ダンディ本格派おっさん探偵島田潔は全然違うキャラクターになるのでああいう島田潔でも全然問題ないみたいな判断なのかなと思っている。でもなー!俺が最初に出会った島田潔はあんなにかっこよくないんだよー!そもそもあんなかっこいい島田潔が、「今日の一本」なんてクソダサい締め方をするはずがないだろ。あれマジでダサすぎるし、そのダサさが島田潔の魅力。探偵としての資質は十二分に備えていながら主人公探偵としてはいまいち締まらない男、それこそが中村青司の建てた館こそが主人公である館シリーズの探偵役にちょうどいい島田潔じゃないのかよー!ちょっとあの島田潔はかっこよすぎるよー!かっこよさが過ぎるよー!

でもまあ、あの青木崇高演じる島田潔が水車館や迷路館に乗り込んでいくのは絶対に面白くてかっこよくて観たいので全部OKです!

以上です。

『不適切にもほどがある!』5話時点雑感

5話を観終えて、「なるほど、そうか、そうか・・・」となった。

言わずと知れたというほど知れてるのかよくわからない宮藤官九郎だが、ポリコレに喧嘩を売る豪速球をぶん投げますと高らかに宣言しているこのドラマの第一報はそりゃ面白くなるぜ!とテンションが上がった。が、うまくいくという期待はしてなくて、というのもクドカンの評価が高いやつってIWGPとかタイガー&ドラゴンとかあとピンポンとか?脚本はやるけど監督はお任せしますみたいなやつが多くて、自分が監督までやりますみたいな映画作品とかは仕上がりも興行成績も微妙だし「好き勝手やってんなー」って感じになりがちで、そういう時にやってるっぽいことをやりそうな予感が『不適切にもほどがある!』には感じられてこれは大変だぞみたいなことは思っていた。

 

案の定、序盤はそんなに面白くないというか、ちょっと厳しいなみたいな展開が多かった。僕はポリコレ連中のスカッとジャパン的なノリは好きではないのだが、別に逆スカッとジャパンみたいな「昭和のアレにもいいところがあった」みたいな話を肯定したいとも思わないので、ちょっとこれ大丈夫か?みたいなところはあった。しかし、クドカンに一定の信頼はあったので、ただ単純に今のポリコレ基準を揶揄したいだけじゃなくて、もっと大きな何かがあるんだろうなと思っていて。

僕が感じていたのはまぁ作中でも言ってるけど「もっと話し合いましょう」みたいな話がたぶん今回のドラマの根っこなんだろうなと思って見ていて、今時点での時代的な正しさを盾にしてそれに適応できてないアップデートできてないやつらには聞く耳を持つ必要がないみたいな態度を取るのは違うんじゃないだろうか?みたいなことをやりたいのかなと感じていた。

もちろん、かつて昭和平成で実際に虐げられてきた人たちからするとそんなこと言ってられないし、嫌だったことをギャグとして披露されるアレや、そういうものと闘った結果として生まれたインティマシー・コーディネーターとかを茶化す描写でハラワタ煮えくり返るのも仕方ないなーとは思う。

描いている内容としては令和のポリコレにはついていけない昭和の人間の阿部サダヲがいて、またポリコレに過剰適応しようとして意味わからんくなってる山本耕史なんかもいたりして、で、そういうの全然おかしいからって思ってる視聴者の声が盛り上がったりして。

俺個人の視聴の感想としては「みんな正解に合わせようとしていて全然対話できてない、もっと対話したほうがいいのに」っていう話なのかなと思っていて、その対話が奇跡的に実現するのがミュージカルパートってことなのかなと思って見ていた。「娘にやらないことはやっちゃだめ」って論理は浅いよって怒られてたけど、そんなん浅いのわかっててやってるだろと思うし、浅いやつは議論に参加するなみたいなやり方じゃうまくいくわけないよ、だって、人類の半分は偏差値50以下らしいぜ?と思うし、声をあげる人のおかげで世の中はアップデートしてよくなってるんだろうとは思うけど、その声をあげる過程に排他性が必須になってしまっててそれを当たり前だと思っているなら、また同じことを我々人類は繰り返すんだろうなみたいなことを考えている。あの阿部サダヲはほとんど原始人で、ヒーローでは全くなく、ただなんもわかってない原始人としてデザインされていると思う。旧時代的な彼の言動で令和の人々の考え方が変わることを良しとしない人というのは、対話を求めず、自分と違った価値観を否定することに躍起になっているように思う(もちろん、そうなってしまった理由があるから仕方ないとも思う)。

 

「対話しようよ」がテーマだと思って見てたら、今週になって神戸の震災の話がぶっこまれて「対話したくても、もうそれはできない過去に亡くなった人たちがたくさんいる」にグッと今週でテーマがシフトした。話せられるうちに話そうよ。どんだけ分かり合えなくても話そうよ。「あの時もっと話しておけばよかった」なんて経験は、だってみんないくらでもあるじゃないか、じゃあ今もっとちゃんと話そうよ。前提も違うし、常識も違うかもしれないけど、話せるのは今しかないんだよ。そんな話になるのかなーと思いながら最終回まで見守る予定だ。

 

以上です。