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「男も座っておしっこしろ」を子どもにも初めから教え込むべきかどうか

おーい!男の子のみんなー!!立っておしっこしてる〜〜!?

俺は原則、座っておしっこしてるし、それが令和の習わしだよ〜!!!!!

説明するとね、数年前まではね、これはインターネットで定期的に殺伐としていたポピュラーな話題なんだよ。

男の子は立っておしっこをすることもあるよね。公衆の男子便所の小用便器に座れって言われてもみんな困っちゃうもんね、どうやって座ればいいのってなっちゃうもんね?唯一考えられる選択肢は、初めて能力を覚醒した主人公が雑魚敵を倒した後に現れる夜の街灯の一番テッペンに頬杖をついて腰掛ける悪魔側の敵の幹部の登場シーンみたいに男子小便器のテッペンに腰掛けるくらいしか俺には思いつかないんだけど、そのポーズでおしっこをしても絶対おしっこは便器に入らないものね、便器に腰掛けておしっこする自分の目の前にSASUKEのそそり立つ壁みたいなスロープを設置しない限り絶対におしっこは便器に入らないものね。だから、男の子は小用便器の前に仁王立ちしておしっこをするし、男の子はみんな「立っておしっこする」ってことに概ねノークエスチョンなまま年少期を過ごすし、そのまま家の洋式便座でも立っておしっこしようとすることが一般的だったのが20世紀あるいは平成という時代だったのかもしれない。

しかし、一人暮らししてるなら好きにすればいいのだけれど、同居人がいたりするとそうもいかないのが難しいところなんだ。

女の人は基本的におしっこを座ってするらしいんだけど、その方が何もかも合理的であるがゆえに立っておしっこをする男の子への風当たりは年々増す一方だったというのが俺の考える人類の21世紀のこれまでの歩みについての総括だよ!21世紀もまだまだ長いしこれまでにも色々あったけど現時点で総括すると、そうなる。

洋式便器で男の子が立っておしっこをすることは百害あって一利なしであることに異論はない。飛び散るから便器の左右の壁が汚れる床も汚れると言われればそれは事実なので、返す言葉もない。そもそも狙いが外れて便器からこぼれてしまう、便器に引っ掛けてしまうなんてことも全くあり得る。「男も座っておしっこしなさい!」と言われたら僕はそれに反論する言葉を持たない。島崎藤村の破戒くらい謝るしかない。だから俺は家でも外でも男性用小便器でない限りは基本的に座っておしっこするし、これからもそうして生きていく。それがアップデートだ!10万馬力の令和の子!僕はそう思っていたのだけれど、ここに来て再考するに至ったのはトイレを覚えてオムツが外れた5歳の息子が最近トイレの失敗が多いことだ。

もちろん、もとより5歳の息子は座っておしっこはまだ難しいだろうので立っておしっこがデフォルトではあったのだが、最初の頃は親に見守られながら一緒にトイレに行って、ちゃんとできたね偉いね〜って感じだったのが、慣れてくると一人でできるだろと息子がおしっこに行きたい時に勝手に行かせてって感じに運用が切り替わっていくわけだが、そうすると後で別の誰かがトイレに行こうとした時に「あれ、トイレ失敗してるじゃん!」って発覚することがままある。

トイレの床にいっぱいおしっここぼれてるじゃん!て時もあれば、廊下にこぼれている時すらある。それもそのはず、息子はリビングを出た廊下を少し進んだところにある左手のドアを開けたトイレに向かって走るわけだが、リビングを出る時にはすでにちんちんを出している。二段階切り離し式のロケットシャトルで言えば「まだ成層圏!まだ全然成層圏だから!」くらいの時点でパンツを切り離してちんちんを出しているわけだから、目的地に着くより先におしっこをしてしまうのは当たり前といえば当たり前のことなのだ。

廊下におしっこをばら撒かれると掃除も大変だし気付かずに歩いているとあのカメとかカニとかを下から突き上げてひっくり返す一番最初のマリオブラザーズで途中から地面を凍らして床を滑りやすくして操作しにくくなるみたいな感じになって危ない。なので、我々はこの「息子が成層圏でちんちん出してしまう問題」について対処策を考えることとなった。

 

いや、今の下りマリオいる!?ふつうにフローリングが濡れると滑りやすくなるのを知ってる人間の人口はどう考えても一番最初のマリオブラザーズで途中から地面を凍らせる敵が出てくることを知ってる人間の人口より多いでしょ!?

 

で、真っ先に出てきたのが「もう今のうちから座っておしっこするように教える?」という案だった。座っておしっこすることを習慣づければ、成層圏でちんちんを出すのではなく、トイレに入ってからパンツを下ろして便座に座ってそしておしっこをするという一連の流れを覚えやすいのではないだろうか。

ゆくゆくのことを考えれば最適解はそれでいいはずだ。洋式便器は座っておしっこした方が掃除が楽だし、つまりはクリーンでSDGsだ。俺の生きた時代は立っておしっこする男の子に関する価値観の過渡期だったので俺は座っておしっこする文化を受け入れることに一定の努力が必要だったがもう今の時代なら最初から「おしっこは座ってするものなんだよ」と教えてもいいんじゃないか?俺の頭の中にもそういう考えは一瞬過ぎった。

が、果たして本当にそうだろうか。

かの天才科学者アルベルト・アインシュタインが遺したこんな言葉がある。

 

「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションである」

 

俺が息子に授けるべきは「おしっこは男の子でも女の子でも座ってするものなんだよ」という常識であろうか?いや違う、男の子は立っておしっこすることもできるし座っておしっこすることもできる、女の子はもともと座っておしっこするしかない作りの形になっている。峰なゆかもエッセイ漫画でAVの撮影でトイレに座ってないのにおしっこするの身体がそんなの知らないから出なくて大変だったと言っていた(これは厳密には立ちション座りション関係ない、マジで全然関係ないけど思い出したから書いただけ)。そのうえで、掃除の手間とか汚れにくさとかそういうことを考えたら、座ってやる方が同じトイレを共有する人同士のあいだでのマナーとしてはベストだよね、というだけに過ぎない局地的な選択に過ぎない。敢えて局地的という言い方を選んだのは、立っておしっこすることにも一定の有益性があるからだ。例えば定期的に掃除される前提の不特定多数が使用するトイレ。男子小便器を有した男子トイレの回転効率が、座っておしっこをする前提の女子トイレに勝ることはわざわざ数字を以て論立てるまでもなく誰の目にも明らかだろう。宝塚劇場のトイレが男女で全然面積とか便器の数違うことからも、座りションと立ちションの回転効率の差は物理で埋めるより他なく、回転効率だけで言えば立ちションが圧倒的優位であることは間違いない。ちなみにこれもそもそも宝塚だと客層の男女比が違うというのはわかっててふざけて書いている。そして男子トイレの圧倒的回転効率が男子用小便器と立ちション文化により支えられていることもまた自明であり、ヨドバシカメラとか阪急百貨店でうんこしたくなった時に各階のトイレを巡ってみるもののどの階でも大もできる洋式便器の個室が埋まりまくっていて絶望すると同時に「こんなにうんこしたい人間が、同じ場所で同時多発的に発生しているんだ」と谷川俊太郎の『朝のリレー』を読んだ時みたいな感動を覚える。俺たちは一人じゃない。俺がうんこをしたい時に同じようにうんこをしたい人間がこんなにもたくさんいるし、俺が朝起きた時に一日を終えて布団に入る人間が地球の裏側にいる。うんこしたいだけでこんなに混雑して男も大変なんだから、個室しかない女トイレを使う人はきっともっと大変なんだろう。男は立ちションできるぶん、男子用小便器があるのでまだマシである。

つまり、何が言いたいかというと、別に立ちション最高!座っておしっこなんて女みたいなことができるか!とか、そういう話ではない。おしっこは座ってした方が良い。まあ男の場合は座っておしっこしてても油断すると、あのストラックアウトで真ん中の5番を囲んでるフレームに当たって一枚も抜けなくてわざわざそんなところに器用に当てないでも!?みたいな感じで、便器と便座のあいだにおしっこの軌道が入っちゃってめっちゃこぼれてしまう時もある。

二回目!?そそり立つ壁に続いて筋肉番付ネタが二回目!?

そういうこともあるけれど基本的には座っておしっこした方がいいけれども、トータルで言えば座っておしっこした方がいいことの方が多いけれども、「おしっこは座ってするんだよ、立っておしっこするのはダメなんだよ」と教えるのはアルベルト・アインシュタインが言うところの偏見のコレクションを増やすことになってしまうからそれはしたくないと思ったってことなんだ。座っておしっこするのが当たり前と言う常識を変に内面化して本当に立っておしっこできないようになったらヨドバシとか阪急百貨店とか行った時にマジで困るしな。ほんと、梅田ヨドバシと梅田阪急百貨店の個室の埋まり具合は、こんなに綺麗なオリオン座初めて見たなくらいの感動があるから。

 

「これが正しい形なんだよ」なんて教えたくない、色んなやり方があって、そのやり方の持ってる数は人それぞれで、だから一番ちょうどいいやり方を都度都度話して探すんだよ。常識とかスタンダードよりもそんなことを覚えていってほしい。だから、今はリバウンド王桜木の感じで立ちションをちゃんとできるように頑張ってもらって、ゆくゆくはシュートの練習は楽しかった感じで座りションを覚えていってほしい。

今日の我が家はといえば、トイレへと続くリビングと廊下をつなぐ扉に息子直筆の「といれのどあをあけてからちんちんをだす」という貼り紙が掲示されている。

以上です。

 

 

家に帰れないおばあちゃんに話しかけられた

日曜日の午前中スーパーに買い出しに行って、もう11月だというのに馬鹿みたいにギラつく太陽の下をぷらぷらと家路に歩いていると発泡酒の缶ビールを一本だけ小脇に抱えた婆さんが「ちょっとすいません」と俺に話しかけて来て「〇〇の〇丁目はどこですかね?」と尋ねた。まさに婆さんが俺に話しかけてきたその場所こそが〇〇の〇丁目であった。ここは既におばあちゃんの言ってる〇丁目だがおばあちゃんはどこに行きたいんだい?と聞いてみると、婆さんは家に帰りたいんだと言うので難易度高いじゃんと俺は思った。俺には5歳の息子がいてちょうど七五三の歳だったのでその前の木曜日から土曜日にかけて遠方から俺の両親も出向いて来ていて、みんなで神社に行って祈祷をしたり母親の還暦祝いの会食をしたりなどしていて、そういう一通りが終わって今日はゆっくりできるなという日曜日の午前中の出来事だった。もうひとつ言うと、半年くらい前から木曜から土曜にかけて七五三や還暦に関するイベントのあれこれはセッティングしていたわけだが、その直前の月曜日に妻の方の身内に不幸があって通夜に参加するなどのイベントが発生していたので本当に慌ただしい一週間だった。通夜で経をあげられていた故人は俺とさして遠くない年齢の男で、俺の息子とさして遠くない年齢の子供を持っていて、両親も俺と同じようにご存命で、つまりは早すぎる死であったし、先立たれて涙を流す人がにわかに溢れかえる悲しい通夜だった。土曜日に行われた母の還暦祝いの席には俺を含む三人の兄弟とその配偶者及び孫などが集まっていて、祝いの席を始めるにあたり俺は父に一言求められたが、自分の子供を一人も喪うことなくこうして還暦を迎えられたことはとてもめでたいことで誰も欠けることなく次も集まれるとなお良いだろう的なことを述べた。そうして宴もたけなわでございますが解散して俺は家に帰り俺の両親や兄弟などもホテルとか家とかに帰って明けた翌日、また家族の奴らは飛行機とかに乗って家路につく日曜に俺は一足お先に日常に帰ってスーパーなんかに買い出しに行っていたわけだが、自分の家がわからない婆さんに話しかけられたのはそんなタイミングだった。どこかの誰かの家にお邪魔しに行く予定がうまくいかないみたいな話なのかなと思って話を聞いてみたものの、自分の家に帰れない婆さんだとわかった時はそこそこに面喰らった。とりあえずその小脇に抱えてる発泡酒はどこで買ったのか訊ねてみるとスーパーで買ったと言うので、そのスーパーはここから近いのか家から近いのかと聞いてみると「そうだ近くなんだ」と言うので俺がさっき行っていたスーパーがそれなのかとりあえず見覚えがあるか一緒に行ってみようと共に少し歩いてスーパーの前まで行って、すると婆さんは「たぶんここだと思う」というので、じゃあどっちだ、ここからおばあちゃんの家はどっちだと訊ねて見るもののあっちを見てもこっちを見ても「見覚えがある」しか言わない。何か住所がわかるものを財布に持ってはいないかと訊ねてみるものの、婆さんの財布には小銭が入っているだけでノーヒントで、あとは発泡酒を小脇に抱えているだけの婆さんだった。せっかくの暇な日曜だし家まで送り届けるエピソードトークを目指していた俺だったが、これはちょっと厳しいなと思い110番をコールしてお巡りさんに委ねることにした。110番したら、大変丁寧に応対していただき、そのスーパーの前にお巡りさんを一人送りますねと言われて電話は終わった。お巡りさんが来るまでのあいだ、婆さんと世間話などをして時間を潰した。婆さんは一人で家に帰れない自分を恥じて俺に何度も何度も詫びて俺はその都度いいよいいよと言った。婆さんは「大阪は広いからわからなくなる」と何度も言っていて、俺はその都度「大阪の広さは関係ないけどね、〇〇の〇丁目の中の話だからねこれ」と思いつつ、「いいよいいよ、わからなくなることあるもんね」と言っていた。間も無くしてお巡りさんがやってきて、婆さんを引き継ぎする形になって、俺は名前も生年月日も住所も電話番号も求められて答えた先からメモされて、「いいことしただけなのにめっちゃ抑えられますね」と言ったらお巡りさんは「報告に必要なだけなんですけどすいません」とはにかんでいて、俺はそのお巡りさんを良い人だなと思ったし、嫌味が口からついて出てごめんね、と思った。感じ悪い職質かましてくるお巡りさんいっぱい知ってるから、俺の感覚はそれはそれで仕方ないんだけど。それでお婆ちゃんの家に帰るクエストはお巡りさんに委ねることになるから、俺はお婆ちゃんとお別れになるんだけど、最後にお婆ちゃんに俺は「おばあちゃん、俺もここらへんに住んでてしょっちゅうウロウロしているからさ、またなんか困ったらいつでも声かけてね」って言って、婆さんはそれに「本当に迷惑かけて、ごめんねごめんね」と言うので、俺は「なんもなんもだよ、天気がいいから大丈夫だよ」と返した。電話番号まで抑えてきたくせに、警察からは「あのおばあちゃん、ちゃんと家に帰れましたよ」の一報も無い。その点は不服ではあるが、まあそういうもんなんだろう。困っている人がフランクに話しかけられる俺の雰囲気を作っているのは俺ではなく俺の周りの人間だろうし、いつまでもそんな俺でいたいのは俺も解釈一致だから、俺は他人の成長とか他人の死を見ながら、このまま、誰かのためを億劫がらない人間でいたい。

以上です。

俺の息子、気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!

かれこれ5年前くらいに息子が生まれて、かれこれ5年くらいの月日が流れたので、かれこれ息子が5歳くらいになっていて、当然自我も芽生えている。で、この息子の自我というのが、全然気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!

幼稚園で友達とどんな話をしてたかとか聴いてもめっちゃしょうもない話しかしない、なんでそんなしょうもない奴とつるんでるねんって思うことめっちゃある。おもんない奴の後ろをひっついて歩くなよ、もうちょっとお前がどうこうするみたいなんできひんのかい、めっちゃ思う。息子のことは素直なやつなんだなと思う。素直なやつだから、自信満々なやつが自信満々に喋ってることを「そうなんだ」と鵜呑みにして信じてしまってついていってしまうところがあるから、俺からすると「なんやそのしょうもない話」みたいな幼稚園の友達から聞き齧っただけの話を「●●くんがこういう風に言ってたんだよ」と嬉しそうに報告してくる。辟易するね、俺はそういうやつ気が合わへんわ~、誰の言った何が有益な情報か唾棄すべき与太話かは自分で考えるのが一番だと俺は思うから、あれもこれもをありがたがる息子の性格は俺は全く納得いかないね、そんなテキトーに色々をホイホイ受け入れる性格のやつとは、俺はちょっと友達になれないな~と日々思っている。

かと言って、そんな俺の思うところは伝えている場合ではないのである。なにせ、俺は彼の友達ではなく父親なもんで、そんなホイホイ人の言う事を真に受ける彼に俺が思いの丈をぶつけたところで、彼はその思いの丈を真に受けて頑張って咀嚼しようとするだろうことは容易に想像できるわけだが、別に俺は彼にそうしてほしいわけではないのだ。俺は彼のその性分を「気が合わへんわ~」って思ってるわけで、その性分を捨てて俺のようになってほしいわけではない。つまりは、俺と彼とは全く違う個別の人格を持った人間で、そんな二人がたまたまなんの因果か同じ家で暮らしているわけにすぎない、それだけの話なのだ。

俺と彼とは友達になる必要もなく、そんなことをせずともそもそもに親子なのだ。それは、ただ血がつながっていて同じ家に棲んでいるというだけでそれ以上の意味はない。せいぜい、俺の方に彼の生活の面倒を見てやらなくてはならなという義務感がある程度だ。こっちが義務を全うしているんだから、そっちの人格もこっちの希望に寄せてもらうぜなんて願望はそもそもない。俺とは違う性格の人間と暮らすことを、俺がやけっぱちで選んでそうしているだけの話だ。配偶者の相手方の親との関係を語る時に「別に好きで一緒になったわけじゃない」なんて言い回しはよく耳にするが、別に子供だって一緒だよなと思うし、会ってから決めるなんて順番が取れないっていう意味では義理の親以上に選べないしなるようにしかならないと思う。そもそも親ガチャなんて言葉もでてきているように、こっちが相手にとってどうであるかくらいしか考える要素がない。

 

と、まぁ、ここまで露悪的に書いてはいるが、別になんの不仲もなく、それなりに日々を楽しくやっている。俺が考えたいのは、たとえば親は無謬に子供を承認して愛さなくてはならないとか、そういうことはないはずだろうみたいなそういうことだ。俺は何も悩んでなくてそういうスタンスで、別に子供のことをことさらに可愛いとも思わないし優れてるとも思わないし愛しているかいないかは自分でもよくわからないけど面倒はみてやらなくてはなと思っていてそれくらいで十分だろうと思っているし、子供のことを愛さなくてはならないと必死に思っている人に対して、そこまで思い詰めなくては子供との関係を築けないと思っているのはそれはそれでどうなんだろうと思うこともある、別に面と向かっては言わないけど。

 

俺は一年浪人をしてから大学に入ったんだけど、そこで生まれ年でいうと同学年の、大学の年次でいうと一つ上の先輩なのか同い年なのか揺蕩う人と出会って、その人が言ってて印象深かったのが「たぶん俺たち、先輩後輩じゃなかったら、もうちょっと仲悪かったな」と言っていて、俺は後輩としてものすごくかわいがられていたし、俺はその人を先輩としてすごく尊敬していてその人の欠点まで含めて大好きだったし、だからそのことはそのとおりだなぁと思っていた。親と子供もたぶんそんなもんなんだろうと思う。俺は息子に対して気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!と思うし、息子も俺に対して気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!と思うだろう。それは自然なことで、血がつながってるからって気が合うし友達になれるってもんじゃないし、それならそなんもんならんでいい。ただ、お互いの立場があって、関係性があって、そのうえで友達でもなんでもない、フランクに話せる関係になれるのならそれが一番いいと思っていて、まぁ、今でも仲がいい連中ってだいたいそんな感じだな、お互いに舐め腐りあってるぜ、みたいな、なんかそういう感じ。

 

以上です。