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家に帰れないおばあちゃんに話しかけられた

日曜日の午前中スーパーに買い出しに行って、もう11月だというのに馬鹿みたいにギラつく太陽の下をぷらぷらと家路に歩いていると発泡酒の缶ビールを一本だけ小脇に抱えた婆さんが「ちょっとすいません」と俺に話しかけて来て「〇〇の〇丁目はどこですかね?」と尋ねた。まさに婆さんが俺に話しかけてきたその場所こそが〇〇の〇丁目であった。ここは既におばあちゃんの言ってる〇丁目だがおばあちゃんはどこに行きたいんだい?と聞いてみると、婆さんは家に帰りたいんだと言うので難易度高いじゃんと俺は思った。俺には5歳の息子がいてちょうど七五三の歳だったのでその前の木曜日から土曜日にかけて遠方から俺の両親も出向いて来ていて、みんなで神社に行って祈祷をしたり母親の還暦祝いの会食をしたりなどしていて、そういう一通りが終わって今日はゆっくりできるなという日曜日の午前中の出来事だった。もうひとつ言うと、半年くらい前から木曜から土曜にかけて七五三や還暦に関するイベントのあれこれはセッティングしていたわけだが、その直前の月曜日に妻の方の身内に不幸があって通夜に参加するなどのイベントが発生していたので本当に慌ただしい一週間だった。通夜で経をあげられていた故人は俺とさして遠くない年齢の男で、俺の息子とさして遠くない年齢の子供を持っていて、両親も俺と同じようにご存命で、つまりは早すぎる死であったし、先立たれて涙を流す人がにわかに溢れかえる悲しい通夜だった。土曜日に行われた母の還暦祝いの席には俺を含む三人の兄弟とその配偶者及び孫などが集まっていて、祝いの席を始めるにあたり俺は父に一言求められたが、自分の子供を一人も喪うことなくこうして還暦を迎えられたことはとてもめでたいことで誰も欠けることなく次も集まれるとなお良いだろう的なことを述べた。そうして宴もたけなわでございますが解散して俺は家に帰り俺の両親や兄弟などもホテルとか家とかに帰って明けた翌日、また家族の奴らは飛行機とかに乗って家路につく日曜に俺は一足お先に日常に帰ってスーパーなんかに買い出しに行っていたわけだが、自分の家がわからない婆さんに話しかけられたのはそんなタイミングだった。どこかの誰かの家にお邪魔しに行く予定がうまくいかないみたいな話なのかなと思って話を聞いてみたものの、自分の家に帰れない婆さんだとわかった時はそこそこに面喰らった。とりあえずその小脇に抱えてる発泡酒はどこで買ったのか訊ねてみるとスーパーで買ったと言うので、そのスーパーはここから近いのか家から近いのかと聞いてみると「そうだ近くなんだ」と言うので俺がさっき行っていたスーパーがそれなのかとりあえず見覚えがあるか一緒に行ってみようと共に少し歩いてスーパーの前まで行って、すると婆さんは「たぶんここだと思う」というので、じゃあどっちだ、ここからおばあちゃんの家はどっちだと訊ねて見るもののあっちを見てもこっちを見ても「見覚えがある」しか言わない。何か住所がわかるものを財布に持ってはいないかと訊ねてみるものの、婆さんの財布には小銭が入っているだけでノーヒントで、あとは発泡酒を小脇に抱えているだけの婆さんだった。せっかくの暇な日曜だし家まで送り届けるエピソードトークを目指していた俺だったが、これはちょっと厳しいなと思い110番をコールしてお巡りさんに委ねることにした。110番したら、大変丁寧に応対していただき、そのスーパーの前にお巡りさんを一人送りますねと言われて電話は終わった。お巡りさんが来るまでのあいだ、婆さんと世間話などをして時間を潰した。婆さんは一人で家に帰れない自分を恥じて俺に何度も何度も詫びて俺はその都度いいよいいよと言った。婆さんは「大阪は広いからわからなくなる」と何度も言っていて、俺はその都度「大阪の広さは関係ないけどね、〇〇の〇丁目の中の話だからねこれ」と思いつつ、「いいよいいよ、わからなくなることあるもんね」と言っていた。間も無くしてお巡りさんがやってきて、婆さんを引き継ぎする形になって、俺は名前も生年月日も住所も電話番号も求められて答えた先からメモされて、「いいことしただけなのにめっちゃ抑えられますね」と言ったらお巡りさんは「報告に必要なだけなんですけどすいません」とはにかんでいて、俺はそのお巡りさんを良い人だなと思ったし、嫌味が口からついて出てごめんね、と思った。感じ悪い職質かましてくるお巡りさんいっぱい知ってるから、俺の感覚はそれはそれで仕方ないんだけど。それでお婆ちゃんの家に帰るクエストはお巡りさんに委ねることになるから、俺はお婆ちゃんとお別れになるんだけど、最後にお婆ちゃんに俺は「おばあちゃん、俺もここらへんに住んでてしょっちゅうウロウロしているからさ、またなんか困ったらいつでも声かけてね」って言って、婆さんはそれに「本当に迷惑かけて、ごめんねごめんね」と言うので、俺は「なんもなんもだよ、天気がいいから大丈夫だよ」と返した。電話番号まで抑えてきたくせに、警察からは「あのおばあちゃん、ちゃんと家に帰れましたよ」の一報も無い。その点は不服ではあるが、まあそういうもんなんだろう。困っている人がフランクに話しかけられる俺の雰囲気を作っているのは俺ではなく俺の周りの人間だろうし、いつまでもそんな俺でいたいのは俺も解釈一致だから、俺は他人の成長とか他人の死を見ながら、このまま、誰かのためを億劫がらない人間でいたい。

以上です。

俺の息子、気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!

かれこれ5年前くらいに息子が生まれて、かれこれ5年くらいの月日が流れたので、かれこれ息子が5歳くらいになっていて、当然自我も芽生えている。で、この息子の自我というのが、全然気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!

幼稚園で友達とどんな話をしてたかとか聴いてもめっちゃしょうもない話しかしない、なんでそんなしょうもない奴とつるんでるねんって思うことめっちゃある。おもんない奴の後ろをひっついて歩くなよ、もうちょっとお前がどうこうするみたいなんできひんのかい、めっちゃ思う。息子のことは素直なやつなんだなと思う。素直なやつだから、自信満々なやつが自信満々に喋ってることを「そうなんだ」と鵜呑みにして信じてしまってついていってしまうところがあるから、俺からすると「なんやそのしょうもない話」みたいな幼稚園の友達から聞き齧っただけの話を「●●くんがこういう風に言ってたんだよ」と嬉しそうに報告してくる。辟易するね、俺はそういうやつ気が合わへんわ~、誰の言った何が有益な情報か唾棄すべき与太話かは自分で考えるのが一番だと俺は思うから、あれもこれもをありがたがる息子の性格は俺は全く納得いかないね、そんなテキトーに色々をホイホイ受け入れる性格のやつとは、俺はちょっと友達になれないな~と日々思っている。

かと言って、そんな俺の思うところは伝えている場合ではないのである。なにせ、俺は彼の友達ではなく父親なもんで、そんなホイホイ人の言う事を真に受ける彼に俺が思いの丈をぶつけたところで、彼はその思いの丈を真に受けて頑張って咀嚼しようとするだろうことは容易に想像できるわけだが、別に俺は彼にそうしてほしいわけではないのだ。俺は彼のその性分を「気が合わへんわ~」って思ってるわけで、その性分を捨てて俺のようになってほしいわけではない。つまりは、俺と彼とは全く違う個別の人格を持った人間で、そんな二人がたまたまなんの因果か同じ家で暮らしているわけにすぎない、それだけの話なのだ。

俺と彼とは友達になる必要もなく、そんなことをせずともそもそもに親子なのだ。それは、ただ血がつながっていて同じ家に棲んでいるというだけでそれ以上の意味はない。せいぜい、俺の方に彼の生活の面倒を見てやらなくてはならなという義務感がある程度だ。こっちが義務を全うしているんだから、そっちの人格もこっちの希望に寄せてもらうぜなんて願望はそもそもない。俺とは違う性格の人間と暮らすことを、俺がやけっぱちで選んでそうしているだけの話だ。配偶者の相手方の親との関係を語る時に「別に好きで一緒になったわけじゃない」なんて言い回しはよく耳にするが、別に子供だって一緒だよなと思うし、会ってから決めるなんて順番が取れないっていう意味では義理の親以上に選べないしなるようにしかならないと思う。そもそも親ガチャなんて言葉もでてきているように、こっちが相手にとってどうであるかくらいしか考える要素がない。

 

と、まぁ、ここまで露悪的に書いてはいるが、別になんの不仲もなく、それなりに日々を楽しくやっている。俺が考えたいのは、たとえば親は無謬に子供を承認して愛さなくてはならないとか、そういうことはないはずだろうみたいなそういうことだ。俺は何も悩んでなくてそういうスタンスで、別に子供のことをことさらに可愛いとも思わないし優れてるとも思わないし愛しているかいないかは自分でもよくわからないけど面倒はみてやらなくてはなと思っていてそれくらいで十分だろうと思っているし、子供のことを愛さなくてはならないと必死に思っている人に対して、そこまで思い詰めなくては子供との関係を築けないと思っているのはそれはそれでどうなんだろうと思うこともある、別に面と向かっては言わないけど。

 

俺は一年浪人をしてから大学に入ったんだけど、そこで生まれ年でいうと同学年の、大学の年次でいうと一つ上の先輩なのか同い年なのか揺蕩う人と出会って、その人が言ってて印象深かったのが「たぶん俺たち、先輩後輩じゃなかったら、もうちょっと仲悪かったな」と言っていて、俺は後輩としてものすごくかわいがられていたし、俺はその人を先輩としてすごく尊敬していてその人の欠点まで含めて大好きだったし、だからそのことはそのとおりだなぁと思っていた。親と子供もたぶんそんなもんなんだろうと思う。俺は息子に対して気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!と思うし、息子も俺に対して気が合わへんわ~、友達なれへんわ~!!と思うだろう。それは自然なことで、血がつながってるからって気が合うし友達になれるってもんじゃないし、それならそなんもんならんでいい。ただ、お互いの立場があって、関係性があって、そのうえで友達でもなんでもない、フランクに話せる関係になれるのならそれが一番いいと思っていて、まぁ、今でも仲がいい連中ってだいたいそんな感じだな、お互いに舐め腐りあってるぜ、みたいな、なんかそういう感じ。

 

以上です。

俺の居場所なんざどこにもない、

inujin.hatenablog.com

 

録画したまま溜まってたダーウィンが来た!を暇な時にとりあえずひとつ見てみたらスッポンの特集回がやっていて面白かった。スッポンと言えばうそかまことか精力増強といえばスッポンエキスと言われるくらいチンポとゆかりの深い亀っぽい生き物であるが、その生態に関する俺の知識はというとスッポンは一度噛み付いたら雷が鳴っても離さないくらいしか知らなくて、どこに棲んでるのかも知らないし、何を食べてるのかも知らないし、つまり俺はスッポンのことを何も知らなかったのでめちゃめちゃ面白かった。

まず一番面白かったのは、スッポンの噛む力が強いのは本当らしくて、カミツキガメよりワニガメより噛む力が強いらしい。噛む力が強いことをそのまま名が体を表しているカミツキガメワニガメよりもスッポンの方が噛む力が強いということがまず面白くて爆笑してしまった。じゃあなんでスッポンはカミツキガメよりワニガメより噛む力が強い癖にスッポンなんて名前なんだよという話になるわけだが、番組内でギャグっぽく言ってただけなので本当にそうなのかはよくわからないのだが、スッポンは亀のなかでいうとスッポンポンと言ってもいいくらい甲羅があってないようなもんらしい。甲羅自体がめちゃめちゃ柔らかいし、甲羅で守れる身体の部位は他の亀に比べて少ないし、そもそも身体全体を甲羅の中に引っ込める完全防御体勢はできないらしく、とにかく亀の癖に隙だらけらしい。なんかでかい鳥に嘴で甲羅を一突きに貫かれて捕食されてる映像には腹を抱えて笑ってしまった。それならもう亀やめたらええですやん、と思った。

それでもスッポンは生きている。スッポンは亀そのもののストロングポイントとも言える圧倒的防御力を捨てて、攻撃力と機動力に全振りしてるらしい。柔らかい甲羅は手足の運動を難なくこなせるようになっていて、全力で手ビレ足ビレを動かして水中ではわけわからんくらいの高速移動をするし、とんでもない噛む力で蟹も貝もバリバリ殻ごといくらしい。じゃあもう甲羅要らなくない!?お前そんな亀っぽいフォルムで生まれてくる必要ないじゃん!?なんでチーターに生まれなかったの!?なんでおまえチーターに生まれなかったのさ!?

しかしそんな問いには何の意味もないのである。スッポンがなぜそんな風に生きているのかというと、スッポンに生まれてしまったからである。スッポンのオスとメスがお互いに噛み付き合う求愛行動を取った後に(全部噛みつきでやるじゃん)やがてメスのスッポンは陸に上がって土をほじって産卵して、やがて次の世代のなんでチーターじゃなくてスッポンに生まれてしまったスッポンが生まれてくる。そいつらは必死に水辺を目指してよちよち歩き、川の浅瀬に飛び込み、今はまだザリガニとかにも食われる弱い立場なのを重々承知してるからちっちぇえ虫とか食べながら英気を養い、ザリガニを逆に食ってやれるデカさと顎の強さを備えるべく虎視眈々と川底に身を潜めるのである。

動物のこういうドキュメンタリーみたいなやつを見るのがいつも好きなんだが、見ているといつも「まーやっていくしかねえな」という気持ちになる。好きで生まれたわけでもないし生まれた限りは生まれた環境でやっていくしかねえしうまくいく保証は誰も約束してくれないし神様も仏様もいないし渡されてる武器も限られていて理不尽も飛行機も蛙もいつ空から降ってきてもおかしくない。そんな世の中にポンと俺を産み落とした親の動機が思いつきなのか使命感なのか成り行きなのかもどうでもいいし、親が俺を愛していようが愛しているまいがどうせ俺は俺で親は俺じゃない他人なので俺のことなんかわかりゃしねえんだから大した問題じゃねえし、つまり世界という大きな入れ物に放り投げられた俺という存在はハッキリと世界にとっての異物だ。俺が生まれたその瞬間の世界は、俺をかわいがるために用意された世界ではなかったし、俺が生まれてからしばらく経っても世界の方が「お、あいつ生まれてきたじゃん」と俺のことに気づいて俺が生きやすいように自身をチューニングするような素振りはいっさい見せない世界だったし、それはこれからもずっとそうなのだ。

ロックンローラー甲本ヒロトの書く詞に助けられることもあれば単に「そうそう!」と膝を打つことが僕の生活の日常茶飯事で、今思い出したのはこんな一節だ。

 

世界は誰のものでもないし誰も世界のものではない

 

つまりはそういうことなのだ。世界のほんの一部でも自分の居場所にしようとしたその瞬間、自分自身もその居場所に隷属する存在になってしまう。そもそもが世界の異物として産まれ落ちてしまった分際で、一丁前に居場所なんかを拵えようと欲を出してしまったら、異物としての俺を失ってしまい、世界という背景の一部になってしまう。

俺は貴方と出会いたい。このわけのわからん世界に産まれ落ちた異物と異物として、ピストルから闇雲に撃ち出された弾丸と弾丸として、正面衝突したい。俺を勝手に世界の背景として目配せされることもなくすれ違うだなんてまっぴらごめんなのだ。そうなってしまっては、この世にわざわざ生まれた甲斐がない。だから俺は、居場所なんざいらないかな。ちょっと違うな、「俺は今自分の居場所にいるんだ」って感覚が欲しくない遠ざけたい。どこにいたって、毎日同じところで立って座って寝て起きていたって、別にそこは俺の居場所じゃない。俺は常にこの世界の取るに足らない異物で、俺は常に世界に忍び込んでいる存在で、忍び込んでいるやつは気づかれてはいけない存在だからこそいつだって誰かとうっかり見つかって鉢合わせてしまい喧嘩をしたり仲良くなったりしたり感動を共有できたりする。逆説的ではあるが、誰にも気づかれないように忍び込むように世界を生きることこそが、誰かと出会う唯一の手段なのである。

我々は誰しもが世界の一部ではなく、世界の異物で、居場所がなくって、世界の背景にもなれないから、だからなんか面白いことが起こる。俺はそれでいいと思う。

 

あと、そうだな、本編が思いのほか簡潔にまとまったのでスッポンの感想文の方が割合多いっぽい仕上がりになったのが自分でもびっくりなのと、チーターはチーターでいろいろ大変。チーター、スタミナないからガゼルに逃げ切られる動画とかめっちゃ面白い。

 

以上です。