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2022夏ドラマメモ

初恋の悪魔

坂元裕二なので信頼して見るけど全体的に不安。題材的に野田亜紀子とかと比べてしまうのでハードル上がってしまう分が悪い題材に突っ込んでいったなって感じ。6話くらいで切るか切らないか判断するのだろう。

 

競争の番人

ベタだけどそれでいい。縦軸見せつつ1話完結のお仕事ものだと思ってたらガッツリ何話もかけて敵と戦う半沢パターンだったのでむしろこっちの方が見やすい題材だと思うので安心して見れる。杏がかわいい。

 

魔法のリノベ

リノベって題材が割と面白いのでよっぽど脚本ひどくなければたぶん最後まで観れる。典型的な1話完結お仕事ものになる。波瑠はバラエティの振る舞いを見るに完全に性格悪い元ヤンだろうと思ってるのでこういう明らかに性格悪い役をやってるのを見るとニコニコしてしまう。加齢で役の幅が広がるのは良いことだ。

 

家庭教師のトラコ

信頼している脚本家ではあるのだが、大丈夫か!?て出だしの1話だった。そういえば家政婦のミタは見てないんだよな俺。過保護のカホコ、同期のサクラ、となりのチカラしか見てない。説教くさい主人公の周りにバラバラな悩みを持つキャラを配置してーっていうワンパターンではあるんだけどシチュエーションと主人公の「正しいけど弱い」っていう味付けがうまくて、ここをうまくやってしまえばキャラに共感するんじゃなくてこんなドラマが生まれる現代社会だよなって部分に共感させるのがうまいってイメージなんだけど、家庭教師のトラコはそこのバランス感覚ミスってて普通にキショい説教くさいドラマになる可能性もあるんじゃないかと心配になる。うまくやってくれるのかもしれんがとりあえず最後まで見る。

 

純愛ディソナンス

割り切れるので意外と見れる。「はいはい、令和の高校教師ねー」みたいな。と思ったら3話でいきなり5年後に舞台が移るらしくてやっぱ17歳の女子高生と高校教師が恋愛するのはポリコレ的にダメなんだなーと思った。5年後なら問題ないのでどれくらいイチャイチャするのか気になる。

 

石子と羽男

20代前半の若い女優がずっとつまんなくて、やっぱ30前後で脂が乗ってくる(若い時はただの飾りみたいなヒロインやらされてしまう構造の問題)。コントが始まるで初めて有村架純の演技に「ええやん」となってこいつもそろそろ役者として成熟してきたぜ!!となったので、ドラマとしては全然面白くなかったけど有村架純を見るために最後まで見ると思う。

 

雪女と蟹を食う

これは実写化無理でしょ〜と思ってたら意外とやりおる。原作の作画のお耽美で幻想的な雰囲気をほぼ全部捨てたのは英断。汗臭さと生々しさ庶民臭さを全面に押し出した演出(そういう演出意図じゃなかったらごめんな)。北海道入りからラストまでを絶妙に肉肉しく貧乏臭く人間らしく我々の生活と地続きな感じで描き切ってくれたらブラボーな換骨奪胎と絶賛しまくるかもしれない。

 

他なんか面白いのあったら教えて。

 

以上です。

フェイクニュース(デマ)が起こりにくい報道を望む

安倍晋三銃殺事件の流れを見て思ったこと。

まず、当日の事件発生後まもなくして、犯人が元海上自衛隊所属であったことが報道されて、凶器は手弁当で犯人が自ら作った銃であるらしいという報道が流れた。ネットでは、たかだか数年の自衛隊経験で発砲訓練を受けれるか受けれないかとか、凶器を作れるか作れないかなどが話題になっていた。

その翌日土曜日には「犯人は特定の団体への恨みがあったらしい」という報道があり、ネットではなんらかのカルト宗教が関与してるのではないかと侃侃諤諤だった。

参議院選を明けた今日月曜日には統一教会という名前がマスメディアからも名指しで出てくるようになり、この先どうなるかは明日以降の話なのでよくわからない。

 

この数日のあいだでよく見かけたのは、元海上自衛隊所属であるということは真っ先に取り上げられて喧伝されたのに対して、「特定の団体」が何なのか濁されたままに報道されていたその非対称性はなんなんだろうみたいな意見だ。「特定の団体」を明記しないところに情報統制を邪推しているような意見も散見された。

 

市井の人の一人である俺にはもちろん何も真相はわからんのだが、報道する側の裏にある言い分を汲めば「ファクトは報道する、ファクトかわからないものは報道しない」ってことなんだろうなというのは分かる。元海上自衛隊所属であることは調べたら分かったファクトで、警察発表が「とある団体」に留まるのであればそれを現時点のファクトとして流す。別にそこに嘘偽りはないんだろう。

つまり、それは断片的なファクトを無作為にファクトと確定できたものから順に垂れ流すという態度に他ならず、それがファクトであるということが確かでさえあれば、どれだけその先に憶測の余地があろうとも速報性に価値を見出して号外を垂れ流しても全く問題がないという、そういう態度に見受けられる。

 

昔はそれで良かったのかもしれない、とも簡単には言い難いが、少なくともSNSでみんながピーチクパーチク簡単に騒げる現代においてはいい加減やめた方がいいんじゃないかなーと一連の流れを見て思った。

他の競合する報道機関が裏取りまで終わらせて報道している速報を同じタイミングで報道できていなかった場合にそれがものすごい失点になるというマスコミの文化はなんとなく知っている。昭和から続くそういう文化のまま今の報道機関が存在しているんだろうなってのは別に想像するに容易い。

 

でも、今はもう、SNSでみんながピーチクパーチク言える現代ではらそういうの本当害悪でしかないんだよなーってのを今回改めて痛感した。

 

少なくとも俺が知りたいのは全体だし、少なくとも断片的なファクトから憶測をばら撒き合うゲームを望んではいない。ましてや断片的なファクトを投げるのが報道機関の役割で、その先の憶測は市井の人が勝手にやってるだけで知ったこっちゃないなんて態度は、変な言い方だが主従が逆転していると思う(マスコミが主従の主であるべきだ、と言うことは勿論できないので言い方が難しいぜ)。

 

俺は、速報性は要らない、考える材料だけが欲しい。速報性の価値を盾にして、市井の人の考えを混乱させることを仕方ないとするのは時代にそぐわないよ。何とかしてくれ。

 

何とかならないんだろうけど、思うのはそんなところ。

 

以上です。

悪い芝居vol.29 『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』配信上映感想文

waruishibai.jp

まず、俺が一番最初に言うべきは、そうだな、買え!今すぐ配信上映のチケットを買え!今月末の6月30日いっぱいまでしか見れないらしい。だから今すぐ買え!まぁ、月末で区切りがいいのはわかるけど7月1日2日の土日はなんとかならなかったんかという気持ちはあるが、悪い芝居が6月30日金曜日までと言ってるんだから仕方がない。買え!そして観ろ!明日の日曜に予定があったとしても、平日の仕事終わった後に観ろ!退勤後に急いで劇場に赴かなくても家で見れる幸せを噛みしめろ!

もうこれはズイショさんがブログを書いてアップしたら必ず見るようなズイショさんの感覚を信じてる層にあたるそこのお前に向けてのみ言ってるんだが、俺は基本的に人にものを勧めない。気さくに作品を褒めることはあるが、ちょっとやそっとじゃ勧めない。わかりやすい例でいうと、俺は千と千尋の神隠しは人に勧めるかもしれないが「トトロは観た方がいいよ」と言うことはきっと生涯ない。もういい加減ぼちぼち自分にとってつまらないものを殊更に否定したがるノリは加齢に伴い薄れては来たのだが、「俺は本当に面白いものしか勧めないぞ!」という気概だけは失いたくないよね。

この俺の宣言を信じて、ズイショさんのブログ好きなやつは、この配信チケットを買って、観ろ!

 

waruishibai.jp

 

はい、そういうわけで同じリンクを2回貼ったわけなんですけど、なんでこんだけ観ろ観ろと冒頭で煽ったのかというと、いつも悪い芝居の感想文を書く時は「ふーん面白そうじゃね」と少しでも思ってもらえるように熱気のフレーバーの籠もった感じで書くようにしてるんですけど、今回のコレは、たぶんそういうのじゃなくてなんか朴訥としたひとりごちた感想文になる予感がしてたので、宣伝要素を冒頭に固めたんです。

なので、この後は、ただの滔々とした感想になります。

 

とりあえず、僕、この悪い芝居という劇団と、その劇団の公演の脚本・演出をずっとやってる山崎彬という人を足掛け10年くらい見てるんですけど、そのあいだ僕も10年くらい生きてるわけです。で、人間、のんびりぼんやり長生きしてしまうと調子に乗るわけです。こんだけ長いこと生きてたらなんやかんやの人生経験も積んで、昔よりかはいろんなことをわかる人間になってるぞ、俺には物の良し悪しがわかるし、人の良い悪いもわかるぜ、僕みたいなしょーもない人間はそういう風に考えてしまいがちなんですね。今回の悪い芝居はそんな調子こいて生きてる自分が今までちゃんと受け止めてこれなかってそのことに気づいてすらいなかったことに気づいてしまって、頭ぶん殴られたようで衝撃的でした。いや、まあ、悪い芝居にもその他世の中の色んなコンテンツにも、これまで昭和のテレビくらい何度も何度もぶん殴られて来て、そのたび衝撃を受けてそのうちにまたそのことを忘れて調子に乗って自分をブラビアと勘違いする昭和のテレビくらい俺がポンコツってだけの話なんですけど。時間よ止まれ!!

山崎彬という芝居の世界で生きてる人を長らく追っかけてて、好きだから追っかけてるんですけど、好きな人の全部が全部好きかというと別にそんなことはない。それは恋人と同じですよね。一緒に居酒屋で飯食ってめちゃめちゃ話してて楽しいし、どっちかの家のテレビでソファに並んで座ってネトフリの映画をワイワイガヤガヤ突っ込みながら観るのもめちゃめちゃ楽しいし、セックスの相性も最高だし、だけど居酒屋の店員にタメ口なの気になるな、、みたいなのあるじゃないですか。それが好きじゃなくなる理由嫌いになる理由にはならないけど、ちょっと気になる。なんでこの人、居酒屋の店員さんにはタメ口なんだろう、釣り船屋の船を運転してくれるおっちゃんには敬語なのに。。みたいな。そりゃ海の真ん中で命握られてるおっちゃんには敬語だろ!ていうか船を出すタイプの海釣りにデートで一緒に行くとかお前ら仲良いな!!みたいなのあるじゃないですか。

山崎彬という劇作家・演劇人が大好きでずっと尊敬してるんですけど、都度の公演を追っかけるなかで時たま気になった(めっちゃ悪く言うと「鼻についた」)のが、実際の社会のなかで起きてる事件とリンクするときの近さでした。悪い芝居では「あ、明らかにあの事件をモチーフにしてやっとるなー」みたいな公演が時たまそれほど高頻度ではないんだけれども出現する。単に人殺しが出てくるとかホームレスが出てくるとか自死を考えてる人が出てくるとか、今この世の中に現に存在してるしんどいやつが物語に組み込まれて出てくるのは勿論まったく気にならないんですけど、たまに「完全にあの事件じゃん」ということがたまにある。過去公演を振り返ると『なんじ』の怪しい新興宗教は気にならなかったけど『嘘ツキ、号泣』のトラックで人混みに突っ込むやつの描写は気になる。そういう受け取る側のニュアンスかもしれないけど、やっぱし僕はモチーフとの距離感、そしてそのモチーフとの時間的な距離感を気にしてしまって、「よくある殺人事件」ではなくて「明らかにあの殺人事件」が物語のエッセンスとして採用された時に、まだ被害者遺族がバリバリ現役で生きている良くも悪くも全くまだまったく終わってない事件を普通に創作のなかで取り入れてるのって傲慢なんじゃないか?センセーショナルさを取り入れることが優先されている不誠実な態度なのではないかと山崎彬の作品に感じることが過去に何度かありました。それが作品を感じて評価するうえでの減点要素にはならないんですが、作品と現実の事件との節操のない距離感での近さを感じた僕が、作品と僕とのあいだに距離感を作ってしまって、色々と感情が動きにくくなってその結果加点自体しにくくなってしまうみたいなそんな感じ。今回の作品の下敷きの片一方となっている『ラスト・ナイト・エンド・ファースト・モーニング』も僕にとってはまさにそのような作品でした。

で、今回の『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』も上述した話でいうと全くそこに合致する話で「あ、あの事件をモチーフにしてるな」っていうのは、NHKの集金への言い訳じゃなくてマジでテレビ持ってない人以外は全員知ってるような二つの事件が想起されると思います。というか、明らかなので隠さずそのまま言ってしまえば酒鬼薔薇事件とその後にある『絶歌』の出版騒動、そしてもう一つは光市母子殺害事件です。

風化して世の中から忘れ去られることが良いことというわけでは全くありませんが、少なくとも僕くらいの世代にはいずれも未だ生々しく思い出される事件であり、関係者も多く存命していることは間違いなく、それを取り扱った創作というのはやっぱり傲慢ではないか、安易ではないか、配慮に欠けていると世の中から怒られるほどの公演規模ではないからこそできる攻めてるようで攻めてない題材の取り入れ方になってはいないか?やっぱりそんなことを前半見ながら考えてしまった。

が、芝居を観終えたあとは、思いの外そんなことなかったなーとなったし、これまで同じような原因でかぶりつきになれなかった過去に観た公演についても俺は誤解していたのかもしれないなーと思うに至った。

 

悪い芝居・山崎彬の作る演劇は、いつだって挑戦的で挑発的だ。ちゃんと引用してない良い加減なのだが、悪い芝居の掲げる売り文句にあったような舞台と客席との距離を自在に行き来する作風というのは、つまり客席にいる「私」と舞台上に立つ「誰か」とその物語を書いて演出する「山崎彬」との距離感をコントロールすると言い換えることができるのだが、これはありがちな演劇論を踏まえた比喩であり、現実問題として俺は、「私」と「誰か」のあいだの距離はいつだって変わらないと思っている。二者のあいだには大きな川が流れていると思っている。深く、流れも激しく、決して向こう岸には渡れない川がそこにあり、その向こう岸にあなたがいる。決して渡れないが、幸いにも距離はそれほどにない。だからお互いに石を投げ合い受け取り合うことはできる。「ゴミ出しといてー」とか「ゴミ出しといてくれてありがとー」とか、共に同じ世界を生きるための意思疎通くらいはそれなりにできる。しかし、それだけでは人間は通じ合うことはできない。いや、どうしたってそんなことできないのかもしれないが、少なくとも石を投げ合うよりはマシな何かはないか?それが表現であり創作であり芝居だ。表現っていうのは、相手に石を取れるように投げるのではない。川面に向かって豪速球で石をぶん投げる。水飛沫が弾ける。そこに太陽の光が射す。投げた俺には虹が水飛沫に光が屈折して七色の虹が見える。その虹が、向こう岸にいるあなたにも見えるかどうか。表現とは概ねそういうことなのではないかと俺は考えている。俺が今こうして書いている文章も全く同様で、僕はあなたに向けて書いているのでもない。ただ、水面に石を叩きつけているに過ぎないのだ。僕とあなたのあいだに流れる川は、同じ川だが両岸から見える景色はそれぞれ全く違ったもので、それでも同じお天道様の下に生きているから、同じ虹なら見れるはずだと石を水面にぶん投げる。それが俺の考える表現だ。

とは言っても、石をぶん投げて水飛沫をぶち上げて虹を見せるのにもコツがいる。ぶん投げる石の形も重さも投げ方自体も様々で、悪い芝居・山崎彬という人はここらへんのコントロールが抜群にうまい。ここまでの比喩を一瞬ぶん投げるけれども、端的に言えば企みが豊かで多彩な人だ。客にどんな虹を見せたいか、そのためにはどうすればいいかを考え抜きながら創作をずっと続けてきて、そうして俺はそこに虹を見てエモーショナルな何かを受け取り続けていた。俺は山崎彬をそういうものを俺に与えてくれる人と信じていたし、だからこそ現実に近すぎる事件を取り扱った時はどうにも舞台と客席のあいだにある川が濁って見えて、それをノイズに感じて虹を見つけにくくなっていく。

だけど、本作は俺にとって全く違った。「最後の祈り」と銘打ったこの芝居は、俺にとっては「最後」かどうかはどうでもよく「祈り」の芝居であることを初めて殊更に強く感じられた芝居だったのかもしれない。

劇団主催で脚本演出出演ってたぶんそこまで珍しくないとは思うのだけど、過去の公演すべてを観れてるわけではないんだけど、山崎彬は割と出る人で、出ない時は本公演ではない番外公演と銘打ったりとか、明らかに新人お披露目を頑張りたい時とか、結構そこらへん露骨に見える人な印象だし、自分に役を与える時はめちゃめちゃ重要な役を普通に自分で引き受けるじゃんみたいなところはもともとあったけど、『愛しのボカン』に続いて今作と二回連続で役者としては出演しなかったのはなんか色々心境の変化はあるんだろなーと思った。

で、山崎彬が出演しなくなるとどうなったかというと、今作に関してで言えば、俺がちょっと微妙に思っていた現実の時間を生々しくモチーフにした物語になぜ山崎彬がこだわって来たかがすーっと入ってきたんだよなぁ。

『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』は、いつものように山崎彬が豪速球を水面に叩きつける芝居ではあるのだが、そこにどんな太陽が照り付けて、どんな虹が他人に見えるのか何も考えちゃいない、むしろ教えてくれ、て感じが強く強く伝わってきて、俺があんまり苦手な身近な生々しい事件を扱う作風を続ける理由は、それだったんだということをまず一番に感じた。演出家が、出演者の良さを引き出せるように選定して、かつ演じるキャラクターの魅力を演じられる人を選定して、とするのは当たり前だが、特に今回の公演の前の二作が演劇に携わる者なら誰でも共感できるのに対して、今回は山崎彬の問題意識とそこから生まれた脚本の中のキャラクターに合致する人(あるいは出来る人)を招いてる感じがこんな感覚を俺に齎しているのかもしれない。過去二作の公演に比べるとキャスティング全体について「こいつの良さを引き出す」より「この人ならこれを出来てくれるはず」という信頼の比重が少しだけ多いように見えた。

センセーショナルな事件を演劇に取り入れるのは安易ではないか、そうして鼻白んでいた自分を恥じるより仕方がない。山崎彬は、ただ自分の生きている世界で起こっている他人の悲惨や理不尽に、同じ時代に生きる一人として想像し続けて、自分の考え抜いた結果を、同じように心を痛めてるかどうかもわからない向こう岸の人たちに虹は見えるかどうかと川面に石を投げつけて飛沫を立て続けていただけなのだ。

これは全て俺の妄想で、まるで出鱈目かもしれないけれど、俺の妄想はそんな形に落ち着いた。

自分がどうなったらどうしよう、俺の大切な人たちは俺がどうなったらどうなってしまうだろう、俺さえどうなればどうにかなるだろう、俺がどうなることを俺を大切に思ってくれる人たちは望むだろうか。

いつもなら考える「よくあるモチーフだな」ではなくて、俺が考えることはそれだった。

 

以上です。