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悪い芝居vol.29 『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』配信上映感想文

waruishibai.jp

まず、俺が一番最初に言うべきは、そうだな、買え!今すぐ配信上映のチケットを買え!今月末の6月30日いっぱいまでしか見れないらしい。だから今すぐ買え!まぁ、月末で区切りがいいのはわかるけど7月1日2日の土日はなんとかならなかったんかという気持ちはあるが、悪い芝居が6月30日金曜日までと言ってるんだから仕方がない。買え!そして観ろ!明日の日曜に予定があったとしても、平日の仕事終わった後に観ろ!退勤後に急いで劇場に赴かなくても家で見れる幸せを噛みしめろ!

もうこれはズイショさんがブログを書いてアップしたら必ず見るようなズイショさんの感覚を信じてる層にあたるそこのお前に向けてのみ言ってるんだが、俺は基本的に人にものを勧めない。気さくに作品を褒めることはあるが、ちょっとやそっとじゃ勧めない。わかりやすい例でいうと、俺は千と千尋の神隠しは人に勧めるかもしれないが「トトロは観た方がいいよ」と言うことはきっと生涯ない。もういい加減ぼちぼち自分にとってつまらないものを殊更に否定したがるノリは加齢に伴い薄れては来たのだが、「俺は本当に面白いものしか勧めないぞ!」という気概だけは失いたくないよね。

この俺の宣言を信じて、ズイショさんのブログ好きなやつは、この配信チケットを買って、観ろ!

 

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はい、そういうわけで同じリンクを2回貼ったわけなんですけど、なんでこんだけ観ろ観ろと冒頭で煽ったのかというと、いつも悪い芝居の感想文を書く時は「ふーん面白そうじゃね」と少しでも思ってもらえるように熱気のフレーバーの籠もった感じで書くようにしてるんですけど、今回のコレは、たぶんそういうのじゃなくてなんか朴訥としたひとりごちた感想文になる予感がしてたので、宣伝要素を冒頭に固めたんです。

なので、この後は、ただの滔々とした感想になります。

 

とりあえず、僕、この悪い芝居という劇団と、その劇団の公演の脚本・演出をずっとやってる山崎彬という人を足掛け10年くらい見てるんですけど、そのあいだ僕も10年くらい生きてるわけです。で、人間、のんびりぼんやり長生きしてしまうと調子に乗るわけです。こんだけ長いこと生きてたらなんやかんやの人生経験も積んで、昔よりかはいろんなことをわかる人間になってるぞ、俺には物の良し悪しがわかるし、人の良い悪いもわかるぜ、僕みたいなしょーもない人間はそういう風に考えてしまいがちなんですね。今回の悪い芝居はそんな調子こいて生きてる自分が今までちゃんと受け止めてこれなかってそのことに気づいてすらいなかったことに気づいてしまって、頭ぶん殴られたようで衝撃的でした。いや、まあ、悪い芝居にもその他世の中の色んなコンテンツにも、これまで昭和のテレビくらい何度も何度もぶん殴られて来て、そのたび衝撃を受けてそのうちにまたそのことを忘れて調子に乗って自分をブラビアと勘違いする昭和のテレビくらい俺がポンコツってだけの話なんですけど。時間よ止まれ!!

山崎彬という芝居の世界で生きてる人を長らく追っかけてて、好きだから追っかけてるんですけど、好きな人の全部が全部好きかというと別にそんなことはない。それは恋人と同じですよね。一緒に居酒屋で飯食ってめちゃめちゃ話してて楽しいし、どっちかの家のテレビでソファに並んで座ってネトフリの映画をワイワイガヤガヤ突っ込みながら観るのもめちゃめちゃ楽しいし、セックスの相性も最高だし、だけど居酒屋の店員にタメ口なの気になるな、、みたいなのあるじゃないですか。それが好きじゃなくなる理由嫌いになる理由にはならないけど、ちょっと気になる。なんでこの人、居酒屋の店員さんにはタメ口なんだろう、釣り船屋の船を運転してくれるおっちゃんには敬語なのに。。みたいな。そりゃ海の真ん中で命握られてるおっちゃんには敬語だろ!ていうか船を出すタイプの海釣りにデートで一緒に行くとかお前ら仲良いな!!みたいなのあるじゃないですか。

山崎彬という劇作家・演劇人が大好きでずっと尊敬してるんですけど、都度の公演を追っかけるなかで時たま気になった(めっちゃ悪く言うと「鼻についた」)のが、実際の社会のなかで起きてる事件とリンクするときの近さでした。悪い芝居では「あ、明らかにあの事件をモチーフにしてやっとるなー」みたいな公演が時たまそれほど高頻度ではないんだけれども出現する。単に人殺しが出てくるとかホームレスが出てくるとか自死を考えてる人が出てくるとか、今この世の中に現に存在してるしんどいやつが物語に組み込まれて出てくるのは勿論まったく気にならないんですけど、たまに「完全にあの事件じゃん」ということがたまにある。過去公演を振り返ると『なんじ』の怪しい新興宗教は気にならなかったけど『嘘ツキ、号泣』のトラックで人混みに突っ込むやつの描写は気になる。そういう受け取る側のニュアンスかもしれないけど、やっぱし僕はモチーフとの距離感、そしてそのモチーフとの時間的な距離感を気にしてしまって、「よくある殺人事件」ではなくて「明らかにあの殺人事件」が物語のエッセンスとして採用された時に、まだ被害者遺族がバリバリ現役で生きている良くも悪くも全くまだまったく終わってない事件を普通に創作のなかで取り入れてるのって傲慢なんじゃないか?センセーショナルさを取り入れることが優先されている不誠実な態度なのではないかと山崎彬の作品に感じることが過去に何度かありました。それが作品を感じて評価するうえでの減点要素にはならないんですが、作品と現実の事件との節操のない距離感での近さを感じた僕が、作品と僕とのあいだに距離感を作ってしまって、色々と感情が動きにくくなってその結果加点自体しにくくなってしまうみたいなそんな感じ。今回の作品の下敷きの片一方となっている『ラスト・ナイト・エンド・ファースト・モーニング』も僕にとってはまさにそのような作品でした。

で、今回の『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』も上述した話でいうと全くそこに合致する話で「あ、あの事件をモチーフにしてるな」っていうのは、NHKの集金への言い訳じゃなくてマジでテレビ持ってない人以外は全員知ってるような二つの事件が想起されると思います。というか、明らかなので隠さずそのまま言ってしまえば酒鬼薔薇事件とその後にある『絶歌』の出版騒動、そしてもう一つは光市母子殺害事件です。

風化して世の中から忘れ去られることが良いことというわけでは全くありませんが、少なくとも僕くらいの世代にはいずれも未だ生々しく思い出される事件であり、関係者も多く存命していることは間違いなく、それを取り扱った創作というのはやっぱり傲慢ではないか、安易ではないか、配慮に欠けていると世の中から怒られるほどの公演規模ではないからこそできる攻めてるようで攻めてない題材の取り入れ方になってはいないか?やっぱりそんなことを前半見ながら考えてしまった。

が、芝居を観終えたあとは、思いの外そんなことなかったなーとなったし、これまで同じような原因でかぶりつきになれなかった過去に観た公演についても俺は誤解していたのかもしれないなーと思うに至った。

 

悪い芝居・山崎彬の作る演劇は、いつだって挑戦的で挑発的だ。ちゃんと引用してない良い加減なのだが、悪い芝居の掲げる売り文句にあったような舞台と客席との距離を自在に行き来する作風というのは、つまり客席にいる「私」と舞台上に立つ「誰か」とその物語を書いて演出する「山崎彬」との距離感をコントロールすると言い換えることができるのだが、これはありがちな演劇論を踏まえた比喩であり、現実問題として俺は、「私」と「誰か」のあいだの距離はいつだって変わらないと思っている。二者のあいだには大きな川が流れていると思っている。深く、流れも激しく、決して向こう岸には渡れない川がそこにあり、その向こう岸にあなたがいる。決して渡れないが、幸いにも距離はそれほどにない。だからお互いに石を投げ合い受け取り合うことはできる。「ゴミ出しといてー」とか「ゴミ出しといてくれてありがとー」とか、共に同じ世界を生きるための意思疎通くらいはそれなりにできる。しかし、それだけでは人間は通じ合うことはできない。いや、どうしたってそんなことできないのかもしれないが、少なくとも石を投げ合うよりはマシな何かはないか?それが表現であり創作であり芝居だ。表現っていうのは、相手に石を取れるように投げるのではない。川面に向かって豪速球で石をぶん投げる。水飛沫が弾ける。そこに太陽の光が射す。投げた俺には虹が水飛沫に光が屈折して七色の虹が見える。その虹が、向こう岸にいるあなたにも見えるかどうか。表現とは概ねそういうことなのではないかと俺は考えている。俺が今こうして書いている文章も全く同様で、僕はあなたに向けて書いているのでもない。ただ、水面に石を叩きつけているに過ぎないのだ。僕とあなたのあいだに流れる川は、同じ川だが両岸から見える景色はそれぞれ全く違ったもので、それでも同じお天道様の下に生きているから、同じ虹なら見れるはずだと石を水面にぶん投げる。それが俺の考える表現だ。

とは言っても、石をぶん投げて水飛沫をぶち上げて虹を見せるのにもコツがいる。ぶん投げる石の形も重さも投げ方自体も様々で、悪い芝居・山崎彬という人はここらへんのコントロールが抜群にうまい。ここまでの比喩を一瞬ぶん投げるけれども、端的に言えば企みが豊かで多彩な人だ。客にどんな虹を見せたいか、そのためにはどうすればいいかを考え抜きながら創作をずっと続けてきて、そうして俺はそこに虹を見てエモーショナルな何かを受け取り続けていた。俺は山崎彬をそういうものを俺に与えてくれる人と信じていたし、だからこそ現実に近すぎる事件を取り扱った時はどうにも舞台と客席のあいだにある川が濁って見えて、それをノイズに感じて虹を見つけにくくなっていく。

だけど、本作は俺にとって全く違った。「最後の祈り」と銘打ったこの芝居は、俺にとっては「最後」かどうかはどうでもよく「祈り」の芝居であることを初めて殊更に強く感じられた芝居だったのかもしれない。

劇団主催で脚本演出出演ってたぶんそこまで珍しくないとは思うのだけど、過去の公演すべてを観れてるわけではないんだけど、山崎彬は割と出る人で、出ない時は本公演ではない番外公演と銘打ったりとか、明らかに新人お披露目を頑張りたい時とか、結構そこらへん露骨に見える人な印象だし、自分に役を与える時はめちゃめちゃ重要な役を普通に自分で引き受けるじゃんみたいなところはもともとあったけど、『愛しのボカン』に続いて今作と二回連続で役者としては出演しなかったのはなんか色々心境の変化はあるんだろなーと思った。

で、山崎彬が出演しなくなるとどうなったかというと、今作に関してで言えば、俺がちょっと微妙に思っていた現実の時間を生々しくモチーフにした物語になぜ山崎彬がこだわって来たかがすーっと入ってきたんだよなぁ。

『ラスト・ナイト・エンド・デイドリーム・モンスター』は、いつものように山崎彬が豪速球を水面に叩きつける芝居ではあるのだが、そこにどんな太陽が照り付けて、どんな虹が他人に見えるのか何も考えちゃいない、むしろ教えてくれ、て感じが強く強く伝わってきて、俺があんまり苦手な身近な生々しい事件を扱う作風を続ける理由は、それだったんだということをまず一番に感じた。演出家が、出演者の良さを引き出せるように選定して、かつ演じるキャラクターの魅力を演じられる人を選定して、とするのは当たり前だが、特に今回の公演の前の二作が演劇に携わる者なら誰でも共感できるのに対して、今回は山崎彬の問題意識とそこから生まれた脚本の中のキャラクターに合致する人(あるいは出来る人)を招いてる感じがこんな感覚を俺に齎しているのかもしれない。過去二作の公演に比べるとキャスティング全体について「こいつの良さを引き出す」より「この人ならこれを出来てくれるはず」という信頼の比重が少しだけ多いように見えた。

センセーショナルな事件を演劇に取り入れるのは安易ではないか、そうして鼻白んでいた自分を恥じるより仕方がない。山崎彬は、ただ自分の生きている世界で起こっている他人の悲惨や理不尽に、同じ時代に生きる一人として想像し続けて、自分の考え抜いた結果を、同じように心を痛めてるかどうかもわからない向こう岸の人たちに虹は見えるかどうかと川面に石を投げつけて飛沫を立て続けていただけなのだ。

これは全て俺の妄想で、まるで出鱈目かもしれないけれど、俺の妄想はそんな形に落ち着いた。

自分がどうなったらどうしよう、俺の大切な人たちは俺がどうなったらどうなってしまうだろう、俺さえどうなればどうにかなるだろう、俺がどうなることを俺を大切に思ってくれる人たちは望むだろうか。

いつもなら考える「よくあるモチーフだな」ではなくて、俺が考えることはそれだった。

 

以上です。

恋愛市場、水槽と見るか、大海原と見るか。

なんか恋愛論とか非モテ論とか男女論とかを全部混ぜた闇鍋みたいな話題がインターネットでにわかに盛り上がってるようで、まあ盛り上がってるのはいつものことなんだろうけど俺の視界に最近よく入ってきてたのでなんか思いついたことを書く。

あのー、ハリガネムシって知ってます?ハリガネムシ。カマキリに寄生する寄生虫なんですけど、ハリガネムシに寄生されたカマキリは仕組みよくわからんのですけどハリガネムシに行動を操られてしまうんですよ。カマキリは本来陸でやっていく生き物であるはずなのに、ハリガネムシに操られてなぜか水辺に近づいていって入水自殺をしてしまうんですよ。で、カマキリが溺れ死んだあとにハリガネムシはカマキリから脱出していつものように水辺で産卵をして子孫を残す。なにそれ怖っ。

で、このハリガネムシハコフグバージョンっていうのが存在してですね、人間の頭部に寄生してその人間の行動を操るっていうすごい怖いハコフグがいるんですけど、そのハコフグがいつだったかこんな話をしていました。

メジナという小さなお魚さんは広い海では集団で仲良く生活をしているのですが、狭い水槽に閉じ込めてしまうと1匹を仲間はずれにしていじめを始めてしまう。その1匹を水槽から取り出してもまた別の1匹がいじめのターゲットになってしまう。結局、窮屈な環境では誰しもがそういう意地悪をしてしまうものだけど、そこから解き放たれてしまえば、気の合う奴と気の合う話をすればいいだけだし、誰かをいじめる必要なんか誰にもないし、意外と良いもんだから水槽の中でどうすればいいか考えるのではなく、広い海に出てみよう。

めちゃめちゃ意訳というか単なるうろ覚えなんですけど、なんかそんなようなことを寄生型のハコフグが言っててですね、まーそうだね、いいこと言ってるねーと思ったことを覚えています。

で、掲題に戻ってくるわけですが、今回は恋愛の話題なので、まあとりあえず「恋愛市場」と書きましたが、それに限らず、何にも限らず何であれ、我々の今立っている場所、今の人生の地点、それを水槽の中と見るか大海原と見るか、これは究極的には主観的な問題に過ぎず、本人の気の持ちようだよな、という話をしたいなーと思っています。

小学校、中学校、高校、ここらへんはかなり水槽だったなーてのは自身の人生を振り返ってもそういう実感を伴う。そういえばスクールカーストって言葉最近見なくなりましたね。今はなんか別の言葉に置き換わってるんでしょうか?インドのカースト制をスラング的に用いることがポリコレ的にアレみたいな話なんでしょうか?僕にはわかりません。が、まあ振り返るにそれは確実にそこにあった。そんなことなかったって感じる人たちはきっとラッキーな水槽に入っていたんだろう。星の巡りと前世で徳を積んだ自分に感謝しよう。まあしかし、実際として、たまたま同じような時期に今生に産まれ落ちてたまたま同じ学区内に住んでるだけの連中をロット番号ごとにダンボールに詰めるノリでひとつの学校ないし教室に押し込むなんてのは水槽以外の何者でもないし、そんななかで諍いが起こったりヒエラルキーが出来上がったり時にはイジメが起こったりなんてのはそりゃあ当たり前だ。当たり前というのは「そうあるべきだ」という話ではなくて、現状どうしてもそうなっちゃってて改善の余地が今後もあるねって話だ。

その先はどうだろう?専門学校、大学、そして会社、ここらへんは水槽だろうか、大海原だろうか。ここらへんから気の持ちようになってくる気はする。自分がなんらかに所属したところでそれはあくまで自分の人生の一部であって、何も自分のアイデンティティをそこにまるまる預ける必要はない。預けるメリットがない。もちろん小学校中学校高校のなかの閉ざされた人間関係についてもそのように割り切っている人間というのも少なくないだろう。

すべては気の持ちようだ。

勿論、どこまで歳を取っても水槽の中こそが自分にとって居心地がいいからという理由で、自分と自分の周辺の他人とをまるでひとつの水槽のなかにいるかのように振る舞う人間というのも多く存在する。そういうやつは出来る限り相手にしないのが一番だ。つまらない奴と付き合うのは短い人生の無駄遣いだ。閉ざされた関係性のなかで自分の優位を確認して、自分の生の充実を片目を瞑って肯定する、そんな程度の知れた輩の自慰に付き合ってやる筋合いはない。職場はどうしても生活の中で付き合わされる時間が長いもんだから、水槽のような息苦しさを感じるし、その水槽のなかでイキイキしてる連中を疎ましく感じることもあるだろうが、向こうさんに都合の良い水槽の中のルールをわざわざこっちが内面化してやる道理なんざない。明日も今日と同じように寝て起きて飯を食うために水槽の中にいる時間がどうしても必要であったとしても、俺が今いるのは大海原のど真ん中。生活の糧のために已む無く寝て起きたら水槽に向かっていたとしても、それは結局だだっ広い大海原のどこで寝て起きるかという話に過ぎないと俺は考えている。

大人になっても「ここは水槽だ」と思って生きようとする人間は、まぁやっぱそれなりに多い。教室の中でお互いを攻撃し合う学生の下品なノリの延長のまま人生を全うしたい奴らってのがいて、それはそいつらにとってそれが一番居心地がいいからだから、それがこっちにとってはいい迷惑なのはさておいたとしても彼らの合理性を考えるとそういうやつが出てくるのは仕方ない。しかし、世の中全部をそんな狭い狭い水槽のように捉えて生きるのは俺の主観に反するしつまらないし何より俺に得がない。端的に言うと付き合ってられないわけです。

自分がいる、今・ここは水槽ではない。大海原である。この確信を持って生きることが何より大事というのが自分の信条ではあるのですが、あ、今、ここから信条と新庄をかけてビッグボスの話に繋げるの思いついたんですが、始めたら1000字くらいやっちゃうのでやめときますが、勿論その信条を持ち続けることは言うはやすし、相方の嫁はカレンとはよく言ったもので、容易なものではありません。かつての僕は、その自分に必要な確信的な感覚を維持するために若い頃はずいぶんインターネットに助けられたものです。生活を続けていくうえで居座るより仕方ない水槽に身を置きながら、それでも俺は何のルールもなければお約束も存在しない大海原に身を置いているんだという実感を持つ。インターネットはそんな心待ちをナップサックに引っ掛けて歩きたい俺の背中を随分と押してくれたものです。世の中いろんな奴がいて、各々に色々なことを考えていて、各々にてめえなりの折り合いをつけながら生きている。インターネットで触れるテキストのひとつひとつはどこかの誰かの真に迫ったコンチキショーメで、そのたくさんのコンチキショーメを浴びることで俺がいる今・ここは大海原のど真ん中だと確信できて、今日もコンチキショーメと言える俺があったわけです。

昔話になってしまいましたが、それに比べて今のインターネットどう?あんま良くないよ今のインターネット。全然つまんない。俺なるべくインターネット見ないようにしてるもん。もう、海老蔵アメブロしか見てないもん。今日も水しか飲んでないのかなーつって。今回、水がテーマなので海老蔵ゲスト出演です。

かつての僕が触れて憧れたインターネットは、たとえ生活は水槽の中に身を置く時間が生活のなかの多くを占めていたとしても、自分はあくまで大海原にいる、そんな実感を教えてくれる存在でした。しかし今のインターネットはどうでしょう、殊更に水槽を意識させる、そのための言論をぶん回すそんなインターネットになってしまってるような、そんな機運をずっと感じています。

ここらへんから唐突に恋愛市場の話にシフトしていきますが、興味深いのは水槽の中で虐げられる側、いわゆる非モテ属性の方々ですら、それらの言説を積極的に摂取して同調して、水槽の中に自らを閉じ込めているところです。自らと周辺の環境を水槽と定義して、その中で甘い汁を啜ろうとする浅ましい馬鹿どもがそのように振る舞うのは一定の合理性があるのですが、水槽の中では息苦しい割りを食わされる人たちが、そのような論調を受け入れて嘆き節をかますというのはもったいないなぁというのが詰まるところの所感です。

僕の、友人知人を見てると、恋愛をしたい奴は恋愛してますよ。したくない奴はもちろんしなくていいししてないけど、したい奴は勝手にしてますよ。何かしらの事情やコンプレックスを抱えていようとも、そんなものは水槽の中で植え付けられたものに過ぎないと割り切って、大海原に出てますよ。マッチングアプリは結局ステータス勝負ってインターネットで嘆いてる人を見かけても、実際にリアルでカネもないし見目も大して加点にならないようなやつらがマッチングアプリで気の合う誰かと出会ってパートナーになってるの、よく見かけます。パートナーを作れて一人前とか全く思わないし、大海原を進む人はそれが一人で進もうがパートナーと進もうがいずれにせよ同じ大海原を行く人としてリスペクトすることに変わりはない。ただしそれでも、インターネットの極端な言説に触れることなく大海原を誰かと共に人生を歩みたいと思った人たちが、マッチングアプリで出会って「はじめましてよろしくおねがいします」からパートナーシップを築いた結果を見聞きしていると、インターネットで「どうせ年収や見た目で判断される」みたいなこと言ってる人たちがいるのはあんまり良くないよな〜と思ったりする。

誤解されたくないので、「あなたがそうしたいのであれば」というエクスキューズは挟みたい。結婚できて一人前、セックスする相手ができて一人前とか、そんなことは思わない。そんな価値観クソ喰らえとしか思わんのだが、あなたの主観がパートナーを希求していて、そしてそれが叶わない現状があったとして、それが叶わない理由を他所に探して求めるのはやめようよって感じ。

今、あなたがいる場所が、水槽なのか大海原なのか、それを決めるのはあなたに他ならないし、あなたが自分の意思でそれを決めたなら、それにケチをつける奴はハリガネムシに他ならない。そんな奴らに踊らされて、まんまと溺れてはいけない。大海原のうえで、じゃぶじゃぶと地に足をつけて生きるより仕方ない。目の前に立っているのは人間で、社会なんかどこにもない。

 

以上です。

 

子は親に関白宣言を謳ってくれない

間もなく5歳になる息子がいる。

生まれた時は3000gあるかないかだったのが今では15kgとか16kgとかだかで、目に入れても痛くないか試そうとしてももうまるで全然入らない。入るわけがない。目に入れるとしたらまず足からかなと息子の足を俺の目に近づけてみたところで、踵を俺のまつげでくすぐられた息子がけたけたと笑うばかりだ。つまり、目に入らないからと言っても、まるで可愛くないわけでもない。息子が笑うと嬉しい。

生まれてからこっちまでのあいだ、ほとんど運動神経が犬にも到底及ばないしょぼい犬くらいのもんだと思っていた息子も、さすがに5歳が近づいてくるとようよう立派な社会的動物に成長しているように感じる。つまりは猿には到底運動神経が及ばない猿程度には色々考えるようになっている。それはかつての俺であり、彼はこの先、かつての俺と同じように社会の中でえっちらおっちらどうにかどさどさ回ってどうにか生き長らえようとするホモ・サピエンスへと成長していくのだろう。

この春から幼稚園の年中組になった息子が、先日初めて、人間関係に関するネガティブな話題を口にした。別にそれほど深刻な話題でもなく「同じクラスの誰々君が好きじゃない」と口にしただとか、そのレベルの話だ。しかしそれは、この前まで犬ころと変わらずに見えた彼と、ちょっとした猿にしか見えなかった彼とは違う、社会的動物の第一歩を踏み出したその発露であり、親にとっては一大事である。また同時に、それが息子本人にとっての一大事であることも、かつて犬ころ同然であり猿同然に過ぎなかった時代があって今ここにいる俺も、親としてではなく俺個人として知っている。

俺は幼稚園も含む広い意味での学校教育(集団教育?)のなかで繰り出される「みんな友達なんだから仲良くしましょうね」という謎の妄言と、馬鹿ほど喧嘩をしていた性質である。甲本ヒロトがどこかのインタビューか何かで言っていた話で、なんとなくの要約にはなってしまうのだが「山手線で同じ車両に乗り合わせた人たちと仲良く友達になりましょうね、そんなん無理じゃん。でも喧嘩もしないじゃん。学校ってのはそういうことを練習ところじゃない?」みたいな、そんな話を小耳に挟んだのも随分大人になってからだ。この甲本ヒロトの話はなかなか耳が痛く、幼稚園から中学くらいまでの僕は「みんな友達なんだから仲良くしましょうね」みたいな大人から押し付けられる言葉を真に受けてそしてそれに反発しすぎて、随分損をした。無駄な諍いを同じクラスメイトとも教師ともしたし、いわゆるスクールカーストのマウントの取り合いにも「腐心した」と恥じる気持ちと共に告白してもそこに嘘がない。殴って殴られて突っかけてすっ転んで誤解されて疎まれて、誰かを悪者にしたり、誰かに悪者にされたり、人気者になったり爪弾きにされたり、まあ高校まではそういうことをずーっと繰り返していたなと自身を振り返るしかない。それから、もちろん相手は選ぶけれども自分の未熟を省みて人に頭を下げて、人に好意というか「お前と仲良くやりたい、お前という人間を尊敬している」を素直に伝えるようになったりとか、そういうふうにして教室とか山手線の車両みたいな同じ箱に閉じ込められていなくても時たまに連絡を取り合って楽しく話せる時間を作れるような友人ができるようになるのは、大学生になって社会人になってというそれなりに先の話だ。

 

なので、「同じクラスの誰々君が好きじゃない」みたいなことを言う息子に俺から言えることは思いの外見つからなかった。

 

歯を磨かねば虫歯になるし、食べ物の好き嫌いはできることならしない方がいい。風呂には毎日入った方がいいし、机に向かって読み書きを練習する習慣はないよりもあった方が良い。100%間違いないことはあるし、そういうことを教えて躾けることは容易い。しかし、そこに留まらない社会的な生き物に俺の息子はいよいよなっていくのだな、ということを感じるばかりであった。

不仲のそいつと何があったのか、ふんわり聞いてみたもののふんわりだけあって多くは聞けなかったが、まあなんか仲違いになるエピソードがあったのだろう。できるだけふんわり話しやすいトーンで聞いてみたが、彼もあまり話したくなさそうだったので、まあいいかと思った。何より俺もそんな5歳児同士がどういう喧嘩をしたとかマジでどうでもいいし。彼にとってそれが一大事であることはわかるけど、傍から見たらどうでもいいどこにでもある些細な出来事であるんだろうと思うし。

なので俺は、よくわからんけど、「一回喧嘩したら二度と仲直りしちゃいけないわけではないから、向こうが遊ぼーって言ってた時に嫌じゃなかったら遊んでもいいし、もし自分から言いたかったら遊ぼーって言ってもいいんだよ。嫌なら遊ぼーを断ってもいいし、遊ぼーって言わなくてもいいと思うよ」と言った。

キリストが生まれただか死んだかが西暦の区切りらしいけど、それより前も後もずっと「みんな仲良く」とか「みんな誠実に」と喚き続けてそれをやり尽くしてのこの2022年、俺もお前らも、この悲惨な有様だ。人間関係について俺が人に教えられることはとてもとても少ない。俺が子供の頃から教えられてきたことも何もかも嘘ばっかりだ。自分の都合や立場を避けて考えれば、自分の子供に限らず自分より下の年齢の奴らに俺が胸を張って教えてやれることなんて一握の砂からこぼれ落ちるほんの一粒くらいなんだろう。だから教えられることはほとんどないことを恥じながら、手前の見栄のために間違ったことを偉そうに大人ぶって教えることもいけないと思う。

ここまで心掛けたところで笑えるほど答えはない。いっそ答えがあれば良いのにな、とも思う。その答えを誰かが教えてくれればどんなにラクだろうか。

お前を親にもらう前に言っておきたいことがある。

そんな風に言ってくれれば、どんなにラクだろうか。

だけどそんなことは子供は言ってくれないから子供に何を言うべきかはわからないし、まあもっと言えば恋人も配偶者も友人も会社の同僚も部下も上司も、誰もそんな宣言してくれないし、だから自分で考えるしかないんだなーと思う。

愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶと言うけれど、ならば自分を賢者と思わない愚者にできることは、愚直に目の前の人間の今に自分の今で寄り添うことで明日を考えて、相手の今を邪魔しないことしかないんじゃないかなと思う。

 

以上です。