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俺が令和の現代を舞台にしたジャパニーズホラーで見たいのどんなのか考えた

夜中に一人で古今東西の名作ホラー映画まとめみたいなのを見ていて、昔はホラーや心霊って好きでよく見ていたけど最近は見る機会がなかったのでとんと見てなかったんだけど、最近もホラーはみんな相変わらず頑張ってるなーと思いつつ、ホラーにとっては苦しい時代になってきてるよなーとか思った。警察の捜査の精度はそりゃあ昔から比べたら上がってるし、全人類スマホを持っててつまりカメラを持ち歩いてるし、みんなそれで撮った映像をバンバンSNSに上げるし、つまりは事実関係やなんやがつまびらかにすぐに公にされる世の中なので悪霊や怪異にとっては随分居心地が悪い世の中になってて大変そうだなーて思う。VHSビデオが媒介となる貞子がいて、その後に携帯電話を媒介とする着信アリとかがあって、モキュメンタリー形式で撮られる色々があり、最近はオンラインビデオ通話の映像を起点に展開されるホラーなんかもあり、まあ色々出てきてるんだが、それでもやっぱり見ていてゾクっとはするんだけども「本当にこんなことがあったら怖いな」と本当に思えるかというとそうではなくて「現代のテクノロジーをうまく舞台装置として使ってホラー作ってみました」くらいに収まりがちで、もっと意味わからん現代らしい怖いものが見たいなーと考えると少し物足りない。

どうしても悪霊や怪異よりも「人間が怖いよね」みたいな感じになりがちで、あとは「それYouTubeでやってたらごく一部の人は信じるだろうけどさ」みたいな、現状の怪異に立ち向かえる人間の生み出したテクノロジーを蔑ろにしたものに収まりがち、な気がする。

ここは俺も寡聞にして知らないまま話してるところがあるので「最近はこんなすげえホラーがあるぞ!」てのがあったら教えてほしい。よろしくね。

で、グッとくるものがあまり見当たらないので現代令和日本で怪異が脅威になるとしたらそれはどんな設定だろうかみたいなのを一人で妄想してたので、ちゃんとディテールを練りきって自分で小説に仕上げ切る元気なんてサラサラないので、思いついたやつをそのままブログに垂れ流そうと思ったのだ。なので、それを書くだけなのであった。

 

・始まりはAI

怪異や幽霊の存在なんか本当は何も信じてないAIの科学者が、言語学習のAIに過去の怪異に纏わる文献やら、それっぽいSNSの書き込みやらを読み込ませまくって「人間が怖がる話」を自動で出力し続ける何かを面白半分の実験で作って、出力された何かをSNSで自動で投稿するように設定する。作成者は落合陽一っぽい変な格好をした菅田将暉とかにやらせればいいんじゃないでしょうか。AIを手掛けた本人は怪異が世の中にある可能性なんか全く本当に信じておらず、デマや都市伝説がどのように発生するかを観察する社会実験くらいにしか考えていない。

そこから怪異が生まれる。古来より怪異や都市伝説というものは人間の根源的な恐怖や不安が口承によって物語化された存在であり、その物語が広く伝え広げれることにより現象として顕在化して人に害を及ぼす。古来の怪異や都市伝説はまず先に人の恐怖や不安があり、その後にそれらが現実に発生するという順番であるが、人の恐怖や不安を煽るAIがそこにあれば、順番は逆になりうるのだ。ここらへんの仕組みの解説はなんか豊川悦司とかに和服を着せて民俗学者として語らせたらいいんじゃないだろうか。その豊川悦司は黒い革手袋をしてるかもしれない。

 

・死体は一切あがらない

AIの創作を起点にその存在をまことしやかに語られるようになったその「何か」は実際に人を殺し始めるようになる。しかし、その全ては死体が見つかることはなく、まるで神隠しのように行方不明者だけが増えていく。これは簡単に「死体が発見される」となると警察が具体的に出てきてしまうので、「現代の捜査でこれ犯人わからんもんなの?」となってしまうので個人的には好みではない。ので、死体は一つも上がらず、その怪異に言及した人々がただ物理的に行方不明なってしまう、という体裁を取りたい。クラスメイトが、会社の同僚が、家族が、恋人が、色んなところで色んな人の知り合いが消えていく。豪快な血痕が各所に残されてて「あの行方不明者の血だ」くらいはわかってもいいかもしれないが、死体の痕跡はどこにもない。

 

・被害者はしかし、SNSに最期の言葉をみな一様に残す。

死体は残らず神隠し同然であるが、みな消息を断ったと思われるその時間にTwitterInstagramを更新していて自分の危機的な状況や、死を目前にした心境をそれぞれに綴っていることが、それこそ都市伝説的にインターネット上の各所で観測され拡散されるようになる。行方不明者の届出数は刻一刻と増加しているが、その公の発表の届出数よりもSNSで観測される最期の言葉を遺したきり更新が途絶えたアカウントの数はずっと多く、SNSを介してその怪異の存在に言及しようとする人の数は爆散的に加速する。

 

・怪異の解釈や名称が一義的ではない。

この怪異にどういう名前を与えてどういう人を殺しにくるかの定義がSNS上に複数存在する形になってしまう。貞子やなんややは一義的で、生前どういう人間で何を目的にどういうルールで人を殺すかについて特定しやすい形になっているが、このAI発の怪異は人の恐怖や不安を読み取って、さまざまな立場のさまざまな恐怖や不安に応えて、同時並列的に多様化していく。その結果、あるA郡においては「この怪異の正体はどこどこに棲む何という女であり、こういう過去があったので、こういう男を好んで殺す」と主張され「あいつに殺された女も実は女の敵なのだ」などという行方不明者に対しての不明瞭な告発や真偽不明の裏話が飛び交う。一方B郡では「この怪異の正体は幼くして死んだ男の子の霊であり、子供を大事にできない親を殺しにくるのだ」と解釈され、同様に行方不明者の過去の悪行が真偽不明のまま拡散される。そういう風に、C郡D郡と、この怪異に関する見解は枝分かれしていき、あらゆる属性の人々が本当のところの理由は何もわからないまま行方不明になっていく。1年半で15,000人くらい行方不明になると面白いんじゃないか。

 

・AIを止めても、怪異は止まらない

当然、こんなパニックを引き起こした契機であるAIとその製作者は槍玉に上がる。謝罪もするし、AIの活動を停止する。しかし、怪異は止まらない。なぜなら、既にAIの力を必要するまでもなく、怪異への恐怖や不安はインターネットやメディアを通して増幅され続けるからだ。落合陽一みたいな格好をした菅田将暉は、後日、渋谷の路上でボロ雑巾のような亡骸で発見され、初めて「死体を伴う形」で見つかった怪異に殺されたそれはまたSNS上で拡散され、「死体を晒される条件はなんなのか」という議論がインターネットで盛り上がる。

 

とりあえず今思いついたのはここまで。うお、面白え〜!見て〜!

 

こういう話がどうすればうまくまとまるのか引き続き明日以降も考えたいと思います。

以上です。おもしれ〜!!

アサヒ生ジョッキ缶のバズ、あれが「人が飲み会に求めてたすべて」説

みんなー、飲酒してるー!!??俺はめちゃめちゃ飲酒してるぞ!!

1月は正月で酒が飲めるぞ酒が飲める飲めるぞ酒が飲めるぞから始まって結局12ヶ月ずっと酒を飲んでるじゃん、てなる歌あるじゃないですか。俺は飲酒が好きすぎて、あの歌を増やしてるから。俺のあの歌は1月第一週は正月で酒が飲めるぞー、から始まるから。細分化することによって、より365日酒を飲み続けていいリアリティを与えている。ラス前は、演奏がギター以外全部止まってスローでメロウなバラード調に転調するなかでボーカルがしっとりと「閏年は1日多く酒が飲めるぞ、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞ」と歌い上げたらドラムがシャンシャンシャンて鳴らして他のパートも怒号のように押し寄せてボーカルが甲高い声で「かんぱ〜い!!」て叫びながら最後の大サビに向かう。だいたいノリとしてはXの紅。

さて、そんな酒飲みのみなさんならきっとご存知であろうのが先日インターネットを巻き込んで怒涛の盛り上がりを見せた、アサヒスーパードライの生ジョッキ缶。

コンビニでこんなん先行発売されてる!!買えたよ!!泡出るよ!!すごいよ!!てSNSが席巻されてる頃には既にどこのコンビニでも完売。いくら何軒コンビニを回っても全然見つからなくて定価だとたぶん300円いかないくらいだったはずの生ジョッキ缶がメルカリなどでは転売ヤーが3缶2000円とかで出品されている。そんな状況の中でアサヒは突如売れすぎによる一旦出荷停止を宣言。おいおいどうなるんだよと思ったらその一週間後には全国の大手チェーンスーパー各社で大量入荷されてるのが目撃されて、また泡がシュワシュワーと増えていく動画がSNSに溢れまくる。泡だけに。

で、コンビニ限定販売の時は乗り遅れて買えなかった俺もこのタイミングでは、やっとこ買えて、うお、すっげ、めっちゃ泡出る、うわマジで店で飲むサーバーのアサヒだ、すっげ、と思いながら飲んでた。軍手を嵌めた手で。一番缶ビールうまく飲む方法、結局さいごは軍手だからね。最後の一滴まで味わいたくて、軍手を嵌めた手にビール缶を逆さに振るシーン、まじで大好き。

で、さ、まあ累計で6本くらいは買ったのかな?買って、飲んで、こりゃうめえなぁ、これはもう普通の缶ビールは飲めんぞ?てくらいうまい気がしてさ、でもまあ当然その分割高だからなぁ、どうしたもんかなぁ、て思ってたらまたいつの間にか店頭からすっからかんに無くなっててさ。

あの時なんかちょっと怖くなかった?昨日まであったはずの生ジョッキ缶がまるっとなくなってるあの感じ。そして、それに伴って「買ったぜ〜」て動画アップしてるのがタイムラインにアホほど流れてくる現象もピタッと凪いでさ。かと言って、まあ可視化されてないだけなんだろうけど「買えなくなっちゃったー」みたいなツイートも見かけないからさ、「あれ、本当にあったよね??集団幻覚じゃなかったよね??」みたいに思って怖くてウケてたんですけど。終戦の後にみんなあの戦争は無謀だったおかしかったみたいな批判で溢れかえって「いや、みんなあの時戦争賛成勝つぞ勝つぞって騒いでたけど、あれあったよね?みんな当たり前に戦争はダメだったって息巻いてるけどちょっと前までそんなんじゃなかったよね?あれ?俺だけ?あれぇ!?」みたいな、そういうのにちょっと似てるなと思って怖くてウケてたんですけども。

話は変わりますけど酒好きのみなさん、飲み会って好きです?俺はあんまり好きじゃなくて。2人3人で相手を選んでしっぽり語らいながら飲むみたいなのはまあいいんですけど、いわゆるみんなでワイワイガヤガヤみたいな、親睦を深めましょうみたいなノリのやつは割と苦手なんですよね。あんまり気が合わないやつの話に受動的に相槌を打ち続けるとか全然おもんないし、かと言って別に積極的に主導権を握って俺の話をテーブルのみんなにしたいとも思わないし、まあ空虚というかTwitter見ながら一人で飲んでた方が面白いよなー、てのが正直なところ。

コロナ禍になってすぐの頃はZOOM飲みとか話題になってたけど、アレだってどれだけみんな続けてるんだって話だよね。気心知れる気の置けない仲間内でやってる人たちはそりゃいるんだろうけど、そういう人たちは別にコロナ禍の前からだらだらSkype繋ぎながら酒飲んでダベるとか普通にやってそうだし。いわゆる世の中に蔓延っていた「飲み会」の代替として「ZOOM飲み」が機能しているのかというとたぶん全然そんなことないんだろうねーというのが体感だ。

翻ってアサヒの生ジョッキ缶の話に戻るんだが、アサヒの生ジョッキ缶は一部からの批判というかネガティブな解釈ご意見として「コロナ禍だから売れてるだけ」みたいなものもあるみたいですなぁ。「外で生ビール飲むことができないから生まれた特需で、今後長く売れるような代物ではない」って考え方です。でも俺はむしろ逆じゃねえかなと思ってて、まあコロナ禍以前に当たり前の慣習であった「居酒屋でワイワイ飲む」なんですけど、まあ酒が飲めない飲み会なんて大嫌いなんて人からすると本当に百害あって一利なしってなもんなんでしょうけど、酒飲みの奴らからしたって「一利くらいはあるけどそんなに多人数でワイワイガヤガヤ2時間も3時間も飲むなんてかったりいよ」て考え方の人はたくさんいるわけで、じゃあ、「その一利ってなんなんだろうね?」て考えた時にピッタンコハマるんがあの生ジョッキ缶バズだったんじゃねえかなと思うわけなんですよ。

まあ、大勢の飲み会、かったるいんですよ、毛繕いコミュニケーションは大事だとしても馬鹿が薄い話を偉そうにするし、そいつの話を無理に遮って誰も彼もに話したい話があるわけでもなく、でも一回かんぱーい!てやったら運ばれてくる料理は食べなきゃならないし、料理を食べたら食べたで酒は進むしで、まあ始まったら飲み会は飲み会なのでやるんですけど、まー全体の9割がたはかったるい。じゃあ、飲み会全否定なのかというとそんなわけではなくて、まあ、かんぱーい!ですよね。かんぱーい!つって、実際にグラスを合わせて「やっぱ労働の後のビールは沁みるね」みたいなその瞬間くらいはまあ嫌いじゃないんですよね。

で、そう考えた時に生ジョッキ缶って、その百害あるなかの残されたその一利を、リアルを介さず擬似的にSNSやらなんやらを通して再現する最高の商品では?みたいなことを今は考えてて。

なんか、6月から月1くらいで限定出荷を繰り返すらしいんですよ、アサヒ生ジョッキ缶。俺、それがもう今から楽しみで仕方なくて。緊急事態宣言がいつまで続くかはよくわからないですけど、みんなでワイワイ飲み会みたいなことができる日常に戻るのはまだ全然見通しが立ってない中で、月1であの集団幻覚みたいなバズがどれだけ続くんだろうかと思うと本当に楽しみで。

付き合いの飲み会なんかせいぜい月1で結構みたいな人たちはそれなりのボリュームを占めているだろうとは思っていて、その人らが「月1くらいなら欲していたものはなんだったんだろう?」てこの飲みに行けない世界で各自考えた時に「ああ、月1でアサヒ生ジョッキ缶をアップし合うので代替できる程度のやつだったな」となるんじゃないかなと思ってて、アサヒ生ジョッキ缶はコロナ禍特需でたまたま売れた商品ではなくて、コロナ禍が収束して以降の飲み会文化にもダメージを与えるくらいに「俺たちが飲み会に求めていたものはその程度だった」と認識させるアイテムになってくれたら面白いんだけどなーと思いながら、俺は再出荷を楽しみにしているのであった。

居酒屋でなるだけたくさん酒を飲んで欲しいアサヒがそれをやっちゃったみたいな感じになったら超面白いし。飲み会を楽しめる側にいた人間と、1割くらいの生ジョッキ缶で事足りる楽しみしか得てなかった人間のギャップが浮き彫りになるんじゃないかと考えても面白い。

先行きの見えないこの時代の明るいニュースだなと思って生ジョッキ缶の行く末を見守っている。

以上です。

人が人に教えられることは「俺になれ」「俺になるな」の二つだけ

https://blog.tinect.jp/?p=70563

しんざきさんのこの記事を読んで、思い出したのが掲題の言葉。これもしんざきさんの場合と同様で、俺の言葉ではなく人から聞いて感銘を受けた言葉です。

ただ、しんざきさんと大きく違うのは、別に俺が師事した人の言葉というわけではなく、ただの気の合う友人から聞いた言葉なんですが、その友人自体はめちゃめちゃ門下生を引き連れて「教えること」を今は知らないけど少なくとも当時は生業にしていた人で、そのうえでの言葉であることと彼の人となりを俺がそれなりに知っていること、そして俺と彼がそれなりに馬の合う仲だったことも踏まえて、割と俺の胸に刺さり、今も心掛けている言葉になってるんですが、さてもさても、ややこしいのは、この掲題の言葉を発したその人間の生業というのは、めんどくさいことに「ナンパ師(女性とのコミュニケーションにコンプレックスを持って門を叩く人にカネを貰ってナンパのやり方を教える、自身もナンパをしまくる人)」だったのです。

しんざきさんの語る「再現性」って、つまり「非属人性」って言い換えることは完全なイコールじゃないにせよ、ニアリイコールに言い換えることができんのかな?て読んでて思ったんですけど、じゃあその「非属人性」って本当にそんなものこの人間社会において本当の意味で存在するの?みたいなことを思って、で、その時に思い出したのがそのナンパ師の人です。

特に彼が教えてる領域というのは「ナンパ」つまりは、コミュニケーション全般で、その領域については常に「他者」が介在するのが当たり前すぎる大前提の世界なので、変数が馬鹿ほどばら撒かれてるのが大前提な世界なわけですね。

で、ナンパ師界隈やら恋愛工学界隈においても、そういうものを定量的に判断できるようにしようという考え方は当然あります。

一番わかりやすくてアレなケースで言えば「女はこういうもん」と決めつけて動き方を構築して、その動き方がハマる相手を狙っていくみたいなやり方。で、それをもうちょっと細分化しようと思ったら、女をいくつかのタイプに類型化してラベリングして「こういうタイプには、こういう対応」みたいな、そういう100%の成功率にはならないけれどもできるだけヤレる率の高いセオリーを組み立てていく、みたいな形になっていきます。はてなに長くいる方々はもしかするとご存知かもしれない鼻白まずにはいられない臭せえ臭せえ界隈かもしれませんが、そういう界隈が現に存在していて、こういう考え方の筋道で生まれるノウハウを人から学ぶにせよ天然で自学自習で習得するにせよ実際に活用してワンナイトラブを決め込む人種が港区に限らず全国に存在していること自体は肯定否定は別として、皆様も眉を顰めながら認識しているところなのではないかと思います。

で、前段でお話したこれらのノウハウなんですけど、「再現性をどう担保するか」「属人性を排除して、誰でも同じようにやったら同じような確率で成功できますよ、を考える」という体において、しんざきさんのしている「成功体験の棚卸し」という話とあまり変わらないように僕には感じられます。

ナンパ師のそういう数を稼ぐムーヴについて、まぁ世の中の大半の人は「それってどうなの?」「悪いことじゃないの?」「そんなことをしても人を傷つけるだけだし自分も本当の意味で幸せにはなれないのではないの?」と感じるところだと思います。僕もそう思います。イエス、アイアグリー。名古屋の署名の件は、本当に申し訳ありませんでした!!いや、今、「イエス」って言った手前、勢いで謝ってしまったけど、あの件は俺、なんの関係もねえわ。

で、なんだっけ、そうだ、そんな感じでナンパ師指南だとか恋愛工学の理論が方々で構築されていってる中で、そのナンパ師の人が言ってたのがそれなんですよ。

 

人が人に教えられることは二つだけ、「俺になれ」と「俺になるな」。

 

まあ、つまり、しんざきさんの文脈を都合よく拝借して解釈するのであれば、本当に相手のことを大事に思うのであれば都合良く自分の成功体験を棚卸しできるなんて自惚れることなく、その二つのどちらを教えるかだけでやり繰りしろ、それが誠実だ、て話なのかなと当時も今も俺はそう解釈しています。

難しいのは、これだけ聞くと「お前は俺にはなれない、俺になれるお前を目指せ」「お前なら俺になれる、死ぬほど努力して俺になれ」みたいなことなの?みたいな誤解を生みやすそうなところだと思うんですけど。

僕も、ヤリチンナンパ師から受け取った言葉を真に受けて何も考えず運用するほどアホじゃないのでよくよく考えながら自分の人生において運用するよう考えてはいるんですが、「俺になるな!」とアドバイスを求めてくる他人に言う時は、だいたい自分の成功体験とワンセットです。「俺はこういう風な流れでいい感じに収めた、でもそれは俺が俺だからできたことで、お前にできるとは到底思えない。お前にできるとは思えない。お前は別のやり方を探す必要があると思う、とりあえず俺の成功体験はそんな感じ」くらいの感じ。「俺になれ!」とアドバイスを求めてきた他人に言う時はだいたい自分の失敗体験とワンセットかもしれない。「状況的にかなり悪いからどうしてもうまい成功体験は得られないだろう、しかし、その後の糧になって今の俺があるので、ここでどうせ成功体験は得られないだろうしと消極的に撤退するよりかはしんどいかもしれないけど突っ込んでみるのも一つアリかもしれない、そこでお前が得られるものは俺が得たものとは勿論違うだろうけど」みたいな調子だろうか。どちらも、雑で極端な一例には過ぎないのかもしれないが。

あ、ちなみに全部、主には仕事の話ですよ。俺はナンパ師ではないんで。

 

つまり、非属人化とか再現性とかを観点にしんざきさんの組み立てる論理はそれはそれでわかるのだが、「棚卸し」ってそんなに簡単に人間にできるのかなぁ?という疑問に立ち戻った時に、下の人間に確実にそのまま継承できる何かがありえる機会って、それこそゼロじゃない?と思うところがあって。ゼロとは言わないけど、再現性はないんじゃないの?と思って。

「自分がなんらかの経験からポジティブなりネガティヴなりの何かを得た」を語って、そのうえで「俺になれ」「俺になるな」のどちらかを言うのが他人にできるせいぜいなんじゃないかなー、みたいな。自分の頭で考えようみたいな言葉もなんか寒い言葉の扱いになってますけど、他人は思い通りにならないし、その中で他人とやっていくしかないよねーて考える時に、俺はこの「俺になれ」「俺になるな」の2つで悩む態度こそが誠実だと思うし、そうじゃなくて「棚卸し」を考える態度は「俺になれ」一辺倒な感じもしてなんか嫌で、まー人は育たなくて俺が良ければそれでいいんだけどさと思いつつ、悩ましく思うのであった。

これたぶんあんまうまく書けてねえな、これが今日の俺の調子だから仕方ないか。えーと、俺になるな。

以上です。