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3歳児には死の概念がない

息子があんこを好きで、そして時節柄なので柏餅をもりもりと食べている。そんな彼を見守りながら俺は「嚙め噛め」「飲み込んでからもう一口いけ」「そんな大きく一口いくな」「頬張るな」「お茶飲め」と五月蝿い。

心配性の俺にとって餅と交通事故は怖いものオールタイムベストのトップ5に常にランクインしている。

息子は、口喧しい俺に相槌しながら餅を食う。「ほら、もう口の中ない」と舌を出して見せて、もう一口ぱくっといって「一度にそんなにたくさん頬張るな」とまた俺に嗜められ、「もー、たくさん噛んでるでしょ」とぼやきながら柏餅を食べ進める。

二人で公園に遊びに出掛ける際にはマンションを降りるエレベーターの中で「絶対手を離すなよ」と必ず伝え、蝶よ花よに気を取られて手を離した際には「あっ!手が繋げないなら帰るぞ!!」と脅して、彼は「あ、ごめんごめん、ちょうちょがかわいかったんだけど手を離してごめん」と悪びれもせず言いながらまた手を繋ぐ。

彼はまだきっと、死を知らない。

のぶみというカスみたいな絵本作家が『ママがおばけになっちゃった』というタイトルの絵本を発刊していて、子供に「ママが死んじゃったらどうしよう」という不安を植え付けて死なないで欲しい母親への過度な依存を促してしまうのではないかと批判の的になっているが、こういう時に俺は、のぶみを肯定する意味はないのだが、彼がまだ死を知らないということをよくよく考え込んでしまうのだ。

彼は、この、たかだか餅を食うだけの時にやたらと注文の多い父親を、時たま一瞬に手を離した時に大きな声を上げる父親を、きっとめんどくさい奴だなぁと思っていることだろう。

でもなぁ、人は簡単にあっけなく死ぬんだよ。彼はそのことをまだ知らない。俺はそのことをお前よりは知っている。

少し目を離した隙に息子が食卓テーブルによじ登ろうとして、そしてバランスを崩して転げ落ちた。そのまま後頭部を壁にしたたかに打ちつけ、大声で泣き出したのでそれで気づいて駆けつけた。

俺は小学生の時にクラウチングスタートの概念を知って前傾姿勢の顔が下を向いた状態で走ればすごく速くスタートダッシュができるということがわかって、それならずっと下を向いて走っていればものすごく速く走れるのではないかと思い、下校の道の歩道を前傾姿勢で顔は下を向いて走ってものすごく速く走っていたら全速力のまま電柱に頭を激突させたことがあるので、しかし俺は35にもなってまだピンピンしてるので、後頭部を打った息子に対しても「この程度じゃ死にはしねえだろ」と思ったが、さすがに心配になってその時は相談窓口には電話した。救急にかかる目安を聞いて確認して、吐き気も何もなく息子はけろっとしてたのでそのまま事なきを得た。

「テーブルによじ登るのは良くないな、ごっちんして痛いのは嫌だもんな?」と促すと「うん、もうテーブルには登らへんよ」と彼は言う。

彼はまだなお、死のなんたるかを知らない。

俺は、かつても今も、子供サイコーみたいな人たちがものすごく嫌いである。「子供がいない人にはわからないでしょうけどー」みたいなやつには常にいつも辟易していた。子供を持ってるごときでなんか一つ上のステージに上がった気になってるんじゃねぇぞと思ってるし、俺が子供を持って子育てをする理由の半分くらいは「俺も子供を持ってみたけど、お前らの『子供を持ったらきっとわかるよ』、全然わからねえよ、偉そうにすんなよ自尊心の強いカスどもが。ガキをステータスに使うなよ」と胸を張って言うためにやってるところはあるんだが、ひとつだけ、子供を持ったことで明確に変化した部分がある。

いわゆる「ブラック企業」に対する憎悪というか、あいつらをクソと断じることにためらいを持たないて感覚は、一つだけ、子供を持って明らかに変わった。俺もそれなりの社会不適合者で、それなりのブラック企業勤めがキャリアのスタートで、それでなんやかんやなんとかやってそれなりの今に至っているので「自分の道は自分で切り開くしかない」みたいな広義の自己責任論に与していた自覚はある。ブラック企業を肯定するまではしないにしろ、「個々人がやっていかなくてはならない」と思ってるところがどこかにあった。

が、子供を持つと変わるよねー。俺が餅を喉に支えないように、面倒見てるねん。そうしてこいつはでかくなっていくねん。

そんな、人が丹精かけて育てた生き物をな、さくっとすり潰して2,3年で使い潰すなよ。殺すなよ。それは明確に俺の敵だ。人が、バトンを繋ぐように己の人生の時間を捧げて世に送り出した人間を、マンガン電池のように扱う社会には完全にNOだ。そういことは思うようになつわたな。

俺がそんなことを考えている側で、息子は柏餅をを頬張っている。

彼はまだ死を知らない。俺が恐らくお前より早く死ぬことを知らず、周りの人が誰もいつ死ぬかわからないことも知らず、無邪気に柏餅を頬張っている。そして俺は「よく噛め」「飲み込んでからもう一口いけ」と口酸っぱく言う。

自分が死ぬかもと思いながら、無邪気に生きれてない子供もきっと世の中にたくさん居る。

俺には、何もわからない。

 

以上です。

 

雑な人生相談コンテンツって悪質な民間療法にちょっと似てね?

あのー、cakesの「なんで人生相談なんかしてるんだろう?」の人がなんかまた燃えてて「どの顔で人生相談してるんだろう?」と思いながら見物してたんだけど。

で、人生相談に乗って馬鹿な文章書いてる人はもちろん馬鹿なんだけど、cakes編集部も馬鹿だなーと思ったし、馬鹿なだけならいいんだけど、相談窓口をわざわざ開いてるやつが馬鹿なのって、割と民間療法的な害悪なんじゃねーかなーと思ったのだった。

だって今回みたいな相談をさ、あの調子でチャチャっとコンテンツにしてさ「バズるかなー?PVどれくらい出るかなー?褒められるといいかなー?」くらいしか考えてない連中なわけでしょ?てことはさ、今回のやつなんかはうっかり馬鹿なアドバイスと共に公開して怒られてるからいいけどさ、その陰には「うーんこの相談あんまり面白くないからボツ」で片付けられてるものも絶対たくさんあるはずでさ、その中には「いやそれちょっとお医者さん行った方がいいやつだよ」とか「警察に相談するやつだやそれ」みたいなものが紛れてる可能性って全然あるよなーって考えるんだよね。そういうものをさ、コンテンツに採用するしないとは全然別の文脈として適切に処理する、せっかく自分のところに相談してくれた相談者にとって最低限誠実に対応する、みたいなことをやってんのか?て考えたらまあこんな炎上する奴らなんだから、やってないしやろうと思ってもできないのは火を見るより明らかというか火が出てるのが見えてる以上明らかじゃないですか。そんなような奴らが「なかなか人にできないような相談でもこの連載になら相談してもいいかな」とみんなに思ってもらえるように努力して日々コンテンツを作成してるっていう事実それ自体が構造的にどうなのよ、と思ったんよね。

実際さ、俺も色んなことを考えながら修行のように精力的にブログを更新しまくってた20代後半とかの頃にさ、ちょっとした実験冒険みたいなノリで「このインターネットの時代にわざわざ一人のためにしか書かない文章をたくさん書いてみたいのでメル友募集します」ってのをやってた時があってさ、6年前か7年前くらいかな。結局全部で30人くらいとメールのやりとりしてたんかな?で、そんなもんにわざわざ「ズイショさんとメールでお話したいです」って連絡寄越してくる人たちってさ、やっぱ少なくない割合でなかなか人には話せないけど本当は誰かに話したい何か悩みやトラブルを抱えてるケースだったりするわけですよ。で、その時だけでも「それ一回警察に相談した方がええんちゃいますか?」て思ってそういう話の流れに持ってった人、ゼロではなかったからね。その後もしばらく「警察の方はどんな感じの対応でしたか?」みたいな話をしながら最終的に「どうですか、落ち着きましたか、そうですかそれは何よりでございました」に落ち着くまで3ヶ月くらいかかりました、みたいなの普通にやってたからね俺。警察でしょ案件じゃないにしたって、それこそ「そんなヘビーな話を俺みたいなもんに話すんかい」みたいなケースはいっぱいあってさ、それらを懇切丁寧にヒアリングして対話を繰り返して少しずつ本人にとって納得できて楽になれる方向に進むようにみたいなのめちゃめちゃやってたから。メル友募集するとは言ったけど安楽椅子探偵承りますとは言ってねえんだけどなみたいな感じになってたから。まあそれでも俺はわざわざ自分で好き好んで百人組手のノリでメル友募集してたから大変だったなーと振り返りつつも好きでやってたから全然いいんだけど。こっちはこっちで芸の肥やしの経験値上げのつもりでやってたから全然いいんだけど。「人の相談を聞く」って、本来それくらい大変な営為のはずなんだよね。当時ちょっと定期的にはてブホッテントリに上がって賑やかしてる程度のズイショさんでそんな感じだったんだからcakesなんか、数で言っても質で言ってももっともっと大変な分母になってるはずだろと思うんよねー。

で、それに対してお前らちゃんとやってるんか?てすげー思うのな。人にとって、誰かに相談を持ちかけることって往々にして誰か以外には打ち明けないとイコールだったりするわけじゃん。その誰かに選ばれることにちゃんと矜持を持って誠実にその役目を担えるんか?てすげー思うんですわ。やっぱ俺がやってみた時でも「ズイショさんなら頭ごなしに否定するとか杓子定規なアドバイスをして頑張ってねで終わるとかそういうのじゃなしに、なんかもうちょっと手触りを大事に自分の気持ちと人格と気分を踏まえての何かを言ってくれるんじゃないか」みたいな期待をされてるのは感じたし、やっぱてめえから募集しまーすとか言った以上はその期待には応えにゃにゃらんにゃーとメインクーンの顔つきで真面目に考えながら対応してたわけ。で、自分の手に負えないとか、そういうアドバイスどうのの話じゃないな、と思った時は普通に警察に相談するやつな気がしますよそれ、て言ったりさ。そうじゃなきゃやっぱあかんじゃないの。あかんじゃないですか。

民間療法は何が害悪かって、通常医療を遠ざけてしまうところがあるわけじゃないですか。普通に通常医療を受けてたら助かってたりもっと長生きできてたりしたかもしれない人が、民間療法に引っかかって命を落としてしまうことがあったりするわけじゃないですか。

人生相談も同じところは少なからずあるよなぁと思うわけです。「相談送ったけどボツになっちゃったのかな〜?残念〜、は〜引き続き困ったなぁ」と思ってる客観的に見たら「いやいやそれ警察警察!」みたいなトラブルに巻き込まれてる人の「ご相談」が、ただボツになって握りつぶされてることって世の中あったりするんじゃねえかなぁ、と思ってさ。で、そういうのを握りつぶしちゃうような相談窓口が存在してなかったらさ、もしかしたらその「ご相談」は適切に導いてくれるかもしれない別の相談窓口に投げ込まれていたのかもしれないってあくまで可能性の話として考えるだけでもさ、それってどうなのよと思うわけ。わざわざてめえの勝手で世の中に対してアテンション振り撒いて、個々人の信頼を獲得しようとして、お悩み相談を募るんであればさ、人間100%正解を連発できるわけではないのは当然としてもさ、幾ばくかの誠意と矜持も持たねえでそんなことやってるくらいなら害悪だからやめちまえやめちまえ馬鹿野郎が、と思ったのだった。cakesに限らずあらゆる人生相談コンテンツに思うことだけどね。ほんと、そういうことやってるあらゆるメディア、どれくらいのガイドラインを以って運営してるんだろうか。

なお、ズイショさんは積極的に募集はしていませんが、なんかわからんけど相談をいただければ相談をとりあえず聞く、くらいなら今もクローズドで変わらずやってます。スタミナ因子9のスーパークリークも持ってます。何かありましたらいつでもご連絡ください。皆さま引き続きよろしくお願いします。

以上です。

借り物の言葉でありのままの自分にはなれない

「まあ、良い時代になってるんだなと思いますよ。バナナの皮を剥きながら滔々と語り出す。このバナナの皮のように古い価値観が捲り剥がされ、このバナナの果肉が今あなたの目の前に顕れたように人間の本質が今まさに剥き出しに肯定される実に好ましい時代が到来している。人間の本質、それは人間の多様性です。目覚ましい技術革新によって現代では多くの日本人にスマホが行き渡り、手のひらの中で価値観のアップデートを図ることが可能となり、個人の価値観を、社会の価値観を変容する可能性をポケットに入れて持ち歩きながら日々の生活の24時間を過ごしている。私が生まれた頃には到底考えられなかった世界が、今、私たちが生きている世界なのです。

多くの人々が自由に個人として内心に秘めた思想を、価値観を、リアルの世界ではなかなか表明しにくいアレコレを、己の言葉で、インターネットやSNSを介して人々に訴えかける機会を得ました。そして、その言葉たちは届くべき人たちや、届ける必要のなかった人々のもとへと届き、更なる唸りを生み出すのです。その言葉たちに救われ、目を開いた気持ちに至る人もいます。また、その言葉たちに絶望し、自分の生を苦しめる敵の正体を喝破した気持ちになる人もいます。そしてまた、そんな言葉たちに突き動かされた彼らも、自らを突き動かすその言葉が真に価値と意味のある言葉であることを証明するために、己の言葉を発さなくてはという衝動を発露するのです。

己を肯定してくれた言葉たちを肯定するために、それらの言葉を肯定する言葉を紡ぐ者たち。己を否定した言葉を否定するために、それらの言葉を否定する言葉を紡ぐ者たち。どのように言葉を紡ごうとも、投げかけられた言葉たちに呼応するように声をあげる人々はそのいずれかに分類されてしまうのかもしれません。

ある者は言います、ここにある言葉たちは自分そのものだったと。

ある者は言います、ここにある言葉たちは自分を苦しめてきた人間どもの姿そのものだったと。

インターネットを奔放に飛び交う言葉たちと、それに奔放に心を動かす人間たちがそこにあり、そしてまた言葉に突き動かされるように人間たちが己の言葉を吐き出し、その言葉たちがまたインターネットを飛び交う。マトリョーシカのように合わせ鏡のように、誰かをなにかをとある言葉を肯定する言葉と、誰かをなにかをとある言葉を否定する言葉とが、くんずほぐれつに交錯し続けたその先には一体何が待っていたのか?

これは、先程、皮を剥いたバナナの果肉です。……なんだか、先ほどより黒ずんで見える。当然です、皮を剥いたきりそのまま、今の今まで放置されていたんですから。本当ならそのまま、すぐにでも口から腹に入れてしまい、うんこにするべきものだったんです、この、バナナは。でも僕はそうはしなかった。皮を剥いたバナナを目の前にしながら、それをどうしようともせず、皮が捲れるということとは、言葉によって己の価値観が変わるということとは、それを今この瞬間まで滔々と語り続けてきました。その間に、このバナナはこんなにも傷み黒ずんでしまいました。僕は泣いています。このバナナが、せっかく不要な皮を剥かれ、一番食べやすい形に、私が腹落ちしやすい形になったというのに、私はそのバナナを私の胃袋に収めることもなく、滔々とあなたに語り続けたのです。私がここまでに語ってきた言葉たちは、果たして本当に私の言葉だったのでしょうか。私にはもうそれがわかりません。

確かに、確かに誰かの言葉は時に人の視界を拓きます。それまでに見えていた世界が一変し、自分が愛すべきものと憎むべきものがクリアに理解され、ありのままの自分の形が見えてくる。そんな体験をもたらす誰かの言葉というものがこの現代に溢れかえっています。それは良いことなんでしょう、素晴らしいことなんでしょう。このバナナの皮を誰も剥くことができなければ、このバナナはきっと誰の口に入るともなかったのだから。

このバナナ。このバナナ、今、私の手の中で、私の手の温かみによって刻一刻とより黒ずんでいくこのバナナ、私の口に入ることなく黒ずんでいくこのバナナ。このバナナをここまで黒ずませてしまったのは、誰か?

それはもちろん、他でもない私です。誰かの言葉に出来ることは、私のバナナの皮を剥くところまで。それを口にして、腹に入れ、血肉にして、うんこにして、そして食べたバナナをうまかったと己の言葉にして吐き出し、皮を剥きたての真っ白いバナナはこんなにおいしかったと語るその役目は、他でもない私の役目だったはずなのです。しかし私は、私の前に遂に顕れたそのバナナを口にすることもなく、ただ私のバナナの皮を剥いてくれた言葉たちをただ繰り返してそのままに口にするばかりに終始した。だから、私のバナナは黒く、傷み続け、やっと巡り会えた望むべく望んだ形を失っていく。せっかく見つけた本当のありのままの私が、せっかくありのままの私の形を見つけたのに、他人の借り物の言葉に頼ってしまったせいで失われてしまう。私はそのことが堪らなくて、こうしてあなたの前にやってきた。私はもう間に合わない。この、私の手の中ですっかりどす黒くなってしまったバナナのように。あなたは私のようにはならないで。あなたには見つけてほしい、私の言葉でなくてもいい、きっと誰かの言葉が、あなたのありのままのあなたを思い出させてくれる。アプリオリなあなたの形をあなたはきっと思い出す。その時、あなたはそんなあなたを手放さないで。それは大事に大事に抱きしめることではない。このバナナをすぐにそうするべきだったように、食べることだけがアプリオリなあなたを手放さないということ。あなたのバナナの皮を剥いてくれた誰かの言葉に感謝してもいい、ただそんな借り物の言葉であなたのバナナを抱きしめてはいけない。食べるんだ。食べてうんこにして、うまかったとあなたの言葉で叫ぶんだ。それをあなたに伝えたくて、私はここにやってきた。」

 

さっき俺が家に帰ってきたら鉢合わせした、俺んちのベランダのガラスぶち破って侵入して勝手に俺ん家のリビングでくつろいでいたゴリラは俺にそんなことを滔々と語り終えると涙を流しながら握りしめてぐちゃぐちゃになった黒ずんだバナナを己の口の中に放り込んだ。俺はすぐさまズボンとパンツをずり降ろし肛門からひり出したうんこを後ろ手に構えた右手で受け取ると、受け取るやいなやサイドスローでそれをゴリラにぶつけ、そのまま戸惑ったゴリラを家から追い払い、ゴリラの帰る森の最寄駅までの切符代を玄関先で渡して帰れと言った。

それは俺にとっては「目には目を、歯には歯を」のゴリラ版だった。うんこにはうんこしかなかったのだ。追い払った後、ふとリビングのテレビに目を見やると、俺が帰るまでのあいだゴリラはアマプラのドキュメンタルを見ていたらしかった。ソファの上でけたけたと笑う松本人志の一時停止状態を見ながら俺は、ゴリラはバナナくらい皮ごといくんじゃないかな、と思った。あと、最後のアプリオリの発音がめちゃめちゃRだったのであのゴリラはバイリンガルだったのかもしれないなとも思った。二度とあのゴリラと会うことはないのだろうので、詮なき推察だった。

以上です。